氷鉋神社(長野市稲里町中央)〈式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉の分祀〉

氷鉋神社(ひがのじんじゃは  中氷鉋に鎮座した諏訪社です 鎮座地の氷鉋村は かつて一つでしたが 上中下の三村に分れ各々氏神を祀ったとあり 上中の両村は 共に諏方社と称し 下氷鉋村は 斗賣神社と称したとあります 式内社 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉(ひかなとめの かみのやしろ)の分祀と考えられます

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

氷鉋神社(Higano shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

長野県長野市稲里町中央1丁目17-28
(長野市稲里町大字中氷鉋字下荒沢508-1)

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》建御名方命(たけみなかたのみこと)

《配》事代主命(ことしろぬしのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

長野市/長野市デジタルミュージアム ながの好奇心の森

第19章 稲里 / 第一節 地区のあらまし / 三 村名「稲里」の由来
氷鉋

773 ~ 774

『和名抄(わみょうしょう)』に信濃六三郷の一つとして、氷鉋(ひかな)郷がみえる。「比加奈」の訓がついているので、「ヒガノ」は古代「ヒカナ」といっていたと考えられる。『町村誌』によると、上氷鉋、中氷鉋、青木島、綱島などが氷鉋郷に属していたとある。長享(ちょうきょう)二年(一四八八)諏訪下社の『春秋之宮造宮之次第』に「御瑞籬(みずがき)四十三間の内二間、氷鉋」とある。また、永禄(えいろく)十年(一五六七)の武田信玄宛行(あてがい)状に「比賀野郷内、三百貫文」とある。また、元亀(げんき)三年(一五七二)の「唯念寺門徒誓詞案」には「信州川中嶋氷鉋村唯念寺門徒」(「唯念寺文書」)とあって、川中島町の上氷鉋も「氷鉋」となっていることから、中世のころまで「氷鉋」は一郷であったと考えられる。文禄(ぶんろく)四年(一五九五)豊臣秀吉は、増田長盛(ましたながもり)に命じて川中島地方の検地を実施させた。このときの検地帳に『信濃国更級郡川中嶋内中氷鉋村・下氷鉋村御検地帳』(青木家文書)と表書きされているので、氷鉋郷は太閤検地がおこなわれる少し前のころに三等分され、上流から上氷鉋、中氷鉋、下氷鉋の三ヵ村に分かれたものと思われる。元和(げんな)八年(一六二二)以後、上氷鉋村・中氷鉋村は上田領、下氷鉋村は松代領に分かれた。

 「ヒガノ」の地名は、下氷鉋の氷鉋斗売(とめ)神社の祭神、宇津志日金柝命(うつしひがなさくのみこと)の御名「ヒカナ」に由来するという説が一般的である。『古代地名語源辞典』には「ヒ」は「樋」で、川のこと。あるいは「ひどろ」の「ヒ」で、湿地のこと。「カナ」は「かなどろ」の「カナ」で湿地、または「力」は「川」の約。「ナ」は土地につく接尾語とある。語源から推測すると「ヒカナ」は「川の流れている湿地帯」という地形に由来したものだろうか。

長野市/長野市デジタルミュージアム ながの好奇心の森HPより抜粋
https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100090/ht010470

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿

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・拝殿

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・鬼瓦〈拝殿の屋根〉

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〈社殿向かって左奥 境内社 石祠三宇〉

・〈境内社〉養蚕社《主》保食命

・〈境内社〉金刀比羅社《主》大己貴命

・〈境内社〉天神社《主》菅原道眞公

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ

記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃國 48座(大7座・小41座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)更級郡 11座(大1座・小10座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社〉
[ふ り が な ]ひかなとめの かみのやしろ
[Old Shrine name]Hikanatome no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

信濃國と阿曇族について

酒井春人氏の研究に詳しいので ご紹介します

酒井春人 1949年 長野市生まれ 早稲田大学第一文学部卒 1993 年龍鳳書房を設立現在代表取締役2015年7月

知られざる日本古代史②『海人族安曇族と古代日本列島』安曇族研究会会員  酒井春人 より抜粋

【抜粋意訳】

安曇族の祖神は綿津見神

前号で福岡県の志賀海神社の祭神が、綿津見三神 (表津•仲津・底津 )の海神であることをご紹介した。安曇族はこの綿津見神を祖神とすると言われている。
・・・
・・・

全国に刻された安曇族の足跡

 安曇族の痕跡は、日本全国に三十数か所あると言われている。今のところ、地名あるいは綿津見系の神社の鎮座地、苗字、地域の伝説などからその関係地を割り出す作業が行われている。
・・・
・・・
その成果を紹介すると、安曇族の本拠地は福岡県の玄界灘を望む志賀島。前号で紹介したように、中国春秋時代の呉国の人々が、紀元前五世紀後半に越との戦争に負けて、海に逃亡し、北部九州、あるいは対馬、毫岐、さらには朝鮮半島の南部にたどり着いたと考えられる。

 この時、大海を渡る操船の技術を持つ海人族である呉の人々 (安曇族)は、呉の農民や各種技術者を古代日本列島に入植させ、生活の面倒をみたと前述した。

安曇族は、巧みな操船の技術を駆使して、日本海側を北上、日本各地にその痕跡をとどめる。前記米子市の上下安曇、石川県羽咋郡志賀町安津見、滋賀県高島市安曇川町、新潟県岩船郡関川村安角、山形県鶴岡市温海などがその関係地ではないかと考えられる。いずれもこれら関係地には、近くに大きな河川があり、日本海に注いでいる。

長野県の安曇族

 こうした全国の安曇族関係地の中でも長野県は、本拠地福岡を凌ぐ第二の安曇族の故郷ではないかと言われているほど、その痕跡が色濃いところである。
まず、穂高神社のある安曇野市は多くの人が知るところだが、以外と知られていないのが、川中島平と佐久平。

・・・
すると、安曇族はどのルートを使って、信州に入ってきたのだろうか。考えられるのは信濃川ルー卜である。信濃川から千曲川を経由して入り込むことは、そうむずかしいことではない。

・・・
・・・

【原文参照】詳しくは原文をお読みください

『千曲川地域の人と文化 2015年7月』より抜粋
https://ueda.zuku.jp/journal/2015.7.pdf

『小学国史教授用郷土史年表並解説』昭和12年(1937)〉に記される「阿曇氏の祖 早くより信濃に入る」より

信濃國に入った阿曇氏が 祀つた神社について記されています

【抜粋意訳】

阿曇氏の祖早くより信濃に入る。

阿曇氏は元來海部の頭梁であるから海岸にばかり榮えたやうに思はれるにも拘はらず、この信濃のやうな山國にも住したことが部名以外、地方神社名に依って想像することが出來る。
卽ちこの氏又は此の氏の率ゐし海部 若しくは其部曲である阿曇部の住したことは、安曇郡の明神大社、穂高神社が安曇氏の祖神として仰がれる穂高見神を祀つてゐること、同じく式内社である川會神社が亦海神を祀ってゐることに依っても明である。

本郡内の式内社 氷鉋斗賣神社は阿曇氏の祖 宇都志日金拆命を祀ってゐる。これ又 阿曇氏の住したことを證するものであらう。又地名にも氷飽、斗賣二郷がある。これは二郷に住した阿曇族が其の奉齋神の名稱を二分して地名としたのであらう。本郡の隣 埴科都には阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命を祀ってゐる處の玉依比賣神社が東條村にある。小縣郡には海部郷がある。兎に角 阿曇氏の族は早くから阿曇・更級・埴科・小縣に分布したのであろう。(更科郡誌、)

【原文参照】

更級郡教育会 編『小学国史教授用郷土史年表並解説』,更級郡教育会,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1028478

延喜式内社 信濃國 安曇郡 穗髙神社(名神大)(ほたかの かみのやしろ)

安曇氏の祖神として仰がれる穗高見命ほたかみのみこと(別名 宇都志日金 うつしひかなさくのみこと)が 祀られます

・穗髙神社(安曇野市穂高)

・穗髙神社 奥宮(松本市安曇上高地)

延喜式内社 信濃國 安曇郡 川會神社(かはあひの かみのやしろ)

海神として 海の底の神〈底津綿津見命〉を祀られています

・川会神社(北安曇郡池田町)

延喜式内社 信濃國 更級郡 氷鉋斗賣神社〈氷銫斗賣神社(ひかなとめの かみのやしろ)

安曇氏の祖神として仰がれる 宇都志日金命(うつしひかなさくのみこと)が 祀られます

・氷鉇斗賣神社(長野市稲里町下氷鉋)

・更級斗女神社(長野市川中島町御厨)

〈参考論社〉・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)

〈参考論社〉・川中島斗賣神社(長野市川中島町上氷鉋)

〈参考論社〉・氷鉋神社(長野市稲里町中央)

延喜式内社 信濃國 埴科郡 玉依比賣命神社(たまよりひめのみこと かみのやしろ)

阿曇氏の女・神武天皇の御母である玉依比賣命が 祀られています

・玉依比賣命神社(長野市松代町東条)

 

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR信越本線 川中島駅から東へ約2.6km 車8分程度

社頭の北西の位置に゛幕張の杉゛があります

写真の右奥が 氷鉋神社(長野市稲里町中央)です

「幕張の杉」由来

 永禄四(1561)年九月、大激戦といわれた川中島合戦を前に、この地の用水管理支配をしていた青木家当主次左衛門は、川中島西部六ヶ村(中氷鉋・上氷鉋・戸部・今井・今里・岡田)の代表を伴い信玄・謙信両将に、耕地・人家に戦禍の及ばぬようにと決死の覚悟で申し入れました。

 農民達の切なる願いに両将も心を動かされこれを諒承したといいます。この時次左衛門は、自邸(通称「堀之内」)東側の二本の杉に幕を張り戦場との境界の標としました。

 激戦となった九月十日、約束は固く守られこれより西方へは一兵の侵入もなかったと伝えられています。以降幕を張ったことからこの杉を「幕張の杉」と呼ぶようになりました。合戦当時の杉は老木となり終戦間もなく伐採されました。

 合戦より四百二十年を経た昭和五十六年、屋敷内の杉を二代目と定め、青木家同族により「幕張の杉記念碑」が建立されました。その後二代目「幕張の杉」も平成十年九月の七号台風の被害で倒れてしまい、残念ながら現在その姿はありません。

 しかし必死に田畑を守ろうとした先人の努力と勇気ある行動は永く後世に語り継いでいきたいものです。

平成十五年九月 十七代当主 青木十郎

現地案内板より

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社頭に鳥居などはなく 石燈籠が建ちます

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氷鉋神社(長野市稲里町中央)に参着

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拝殿にすすみます

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拝殿内には 玉串拝礼の作法が張り出されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 少し離れて 石垣で造られた壇に本殿の覆い屋が建ちます

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廻り込むと 本殿が祀られていました

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 氷鉇斗賣神社について 所在は゛下氷鉇村に在す゛〈現 氷鉋斗賣神社長野市稲里町大字下氷鉋・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)〉と記しています

【抜粋意訳】

氷鉇斗賣神社

氷鉇は 比加奈と訓べし、」斗賣は假字也、
和名鈔、〔郷名部〕氷鉇、〔假字の如し〕

〇祭神

〇下氷鉇村に在す

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 氷鉇斗賣神社について 所在は゛今 氷鉇村にあり、゛〈現 氷鉋斗賣神社長野市稲里町大字下氷鉋・氷鉋諏訪神社(長野市稲里町下氷鉋)〉と記しています

【抜粋意訳】

氷鉇斗賣(ヒカナトメノ)神社

今 氷鉇村にあり、〔神社覈録、長野縣神社調、〕
〔〇按 信濃國圖、信濃地名考、氷鉇戸部二村 並に相隣れり、又按 近世まで十七箇村の民本社を敬祭る、其七村を氷鉇郷と云ひ、十村を女郷と云とあるも、又由縁あり、〕

盖 安曇連の祖 綿津見神の子 宇都志日金析命 及 健御名方命 八坂賣命を合祀る、〔参酌古事記、新撰姓氏録、延喜式、本社傳説、〕〔〇按 隣郡安曇郡に穂高神社あり、綿津見神の子に 宇都志日金析命あるを思ふに、氷鉇斗賣神、疑らくは此神の妹 或は妃神にやあらむ、姑く附て考に備ふ、〕

凡 毎年四月九月二十五日祭を行ふ、〔長野縣神社調、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 斗賣(ヒカナトメノ)神社について 所在は゛村に氷神社 郡 上氷銫村に諏訪社ありて 何れも式社なりと云り゛〈現 氷鉋斗賣神社長野市稲里町大字下氷鉋と川中島斗賣神社(長野市川中島町上氷鉋)〉があり 両社ともに式内社と伝えている

さらに 氷銫村は 上中下の三村に分れて それぞれに氏神として祀られているとして ゛中氷銫村の諏訪社゛〈現 氷鉋神社(長野市稲里町中央)〉についても記し

゛上下両村の内 何れとも決定し難し・・・なほ實地に就て熟く訂正すべし゛とあり 尚 実地検証をして 熟慮する必要があると記しています

【抜粋意訳】

斗賣(ヒカナトメノ)神社

祭神 宇都志日金拆(ウツシヒカナサクノ)命

祭神 四月九月二十五日
社格 郷社

所在

 今 式社考 按に當郡 村に氷神社 郡 上氷銫村に諏訪社ありて 何れも式社なりと云り
 両社由緒上申の趣によるに 元來 氷銫村は上中下の三村に分れ各氏神あり上中の両村は 俱に諏方社と稱し 下氷銫村は獨り斗賣神社と
此三社の内に就て は近隣に於ても 村の本杜なる由を傳へ 他の二社は單に諏訪社の號を襲號するを以て 確証とするに足らすと思へりしを
諏訪社の上申によるに 下氷銫村も諏訪社と稱し もとは上氷銫村より移し祭れるものと云ひ 又 國人菅春風の考證にも上下両村の内 何れとも決定し難しと云れば 縣の注進少しく違へり なほ實地に就て熟く訂正すべし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

氷鉋斗賣神社長野市稲里町大字下氷鉋ついて 式内社 氷鉋斗賣神社であると記しています

【抜粋意訳】

〇長野縣 信濃國 更級郡稻里村大字下氷鉋字田中島

郷社 氷鉋斗賣(ヒカナトメノ)神社

祭神  宇都志日金拆(ウツシヒカナサクノ)
   健御名方(タケミナカタノ)
   八坂刀賣(ヤサカトメノ)

創立の年代を詳にせず、今稻里村の内 舊下氷村北組の産延喜式更級郡 氷鉋斗賣神社とある是なり、

神名帳考証、「氷鉋斗賣(ヒカナトメノ)神社大氣都姫乎、天日影姫命、倭名抄・氷鉋〔比加奈〕能登國 天日陰比咩神社、阿羅斯等、配神 豊宇気姫、

神社覈録氷鉇斗賣神社 氷鉇は 比加奈と訓べし、」斗賣は假字也、〔中略〕下氷鉇村に在す

神祇志料氷鉇斗賣(ヒカナトメノ)神社 今 氷鉇村にあり、〔神社覈録、長野縣神社調、〕〔〇按 信濃國圖、信濃地名考、氷鉇戸部二村 並に相隣れり、又按 近世まで十七箇村の民本社を敬祭る、其七村を氷鉇郷と云ひ、十村を女郷と云とあるも、又由縁あり、〕盖 安曇連の祖 綿津見神の子 宇都志日金析命 及 健御名方命 八坂賣命を合祀る、〔参酌古事記、新撰姓氏録、延喜式、本社傳説、〕〔〇按 隣郡安曇郡に穂高神社あり、綿津見神の子に 宇都志日金析命あるを思ふに、氷鉇斗賣神、疑らくは此神の妹 或は妃神にやあらむ、姑く附て考に備ふ、〕凡 毎年四月九月二十五日祭を行ふ、」と、

大日本史〔神祇史〕載する所 亦 大要斯の如し、而して地名 氷鉋の稱 亦 神名に起るか、

信濃地名考、「氷鉋郷比加奈の義未考、或人云、古事記に安曇連等者 其(ソレ)綿津見(ワタツミノ)神之子 宇都志日金拆(ウツシヒカナサクノ)之子孫(ウミノコ)也、

姓氏錄 安曇連 于都斯奈賀(ウツシナカノ)命之後也云云、氷鉋斗女神 號 爰に出る欺」と、尚考ふべし

永祿年間 甲越戰爭の時 兵火に罹り、降て又 寛保二年犀千曲二川の洪水を蒙りしかば、傳來の書類 神實等亦之が為めに 失われ、創立以來の事實を知るに由なきに至れり、
寛延三年神社改めの時 社名を書出す、明治六年四月郷社に列す。

社殿は本殿•拜殿•祝詞殿•神庫、鳥居等を具備し、境内地五百三十一坪 (官有地第一種 )あり。

境内神社
稻荷社 大神社 天神社 津島社 秋葉社 八幡社 猿田彦社 三峯社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

氷鉋神社(長野市稲里町中央) (hai)」(90度のお辞儀)

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信濃国 48座(大7座・小41座) に戻る

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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