火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉

火地神社 古社地(ひちじんじゃ こしゃち) 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 火地神社(ひちの かみのやしろ)の古社地 光安寺の裏 城山の山腹火地神社跡があり 12代 景行天皇の御代に創建と云う 寛文二年(1662)再興された光安寺境内に火地神社が移転し 明治40年(1907)斎宮村の竹神社に合祀されました

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

火地神社 古社地(Hichi Shrine Old Shrine Site.Precincts of Kouanji Temple)

〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県多気郡明和町岩内 光安寺境内

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》火産霊神(ほむすびのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の古社地

【創  (Beginning of history)】

『伴信友全集』第1に記される内容

火地神社は もとは光安寺の裏 城山にあったが 天文年間に北畠倶教が観音寺 (光安寺の前の名)を建立 寛文二年 光安寺として再興され 境内に火地神社が移転したと云う

【抜粋意訳】

火地(ヒチ)神社

〇在に岩内村 社是乎〔検錄〕飯高郡〔再興〕火地は保豆知なるべし火突智ノ義なるべし

〇岩内村の山腹にあり 石観音と云ふ 此處より出る石佛像に似たり 字爾神社の傍にありとも云 檢綠

〇伊賀國伊賀郡 比地神社あり〔齋多〕云々 

【原文参照】

『伴信友全集』第1,国書刊行会,明治40. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991312

【由  (History)】

『斎宮村郷土読本』に記される内容

【抜粋意訳】

寺社舊蹟篇 神社

火地神社(大字岩内

 大字岩内の光安寺の境內に在つた社で、祭神は火產靈神(軻遇突地命 かぐつちのみこと )です。

 景行天皇の御代 (ー八〇五~ 一八六四年前 )に創建せられましたので、延喜式神明帳にも、多氣郡四十五社の中に『火地社』と載つてゐます。

 昔は社地が廣くて、とても立派な御宮であったのですが、後年 観音寺といふ御寺 (光安寺の前の名 )を傍らに建立したために、漸次境域が狹くなったといふ古老の傅説がその社記に載ってゐます。
天正年中 (三四四~三六三年前 )に、八柱神を、又其後
 高ノ宮八幡社等を遷して此處に祀りました。

 近年まで光安寺の門前に立ってゐた老杉の下から、直ちに社頭に至ったものであらうことは、地勢の上から明かに知ることが出來ませう。

【原文参照】

斎宮商工会 編纂『斎宮村郷土読本』,斎宮商工会,昭和10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/105441

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・光安寺

竹神社に合祀された火地神社 古社地(明和町岩内)は 光安寺境内にあります

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

火地神社

光安寺の裏 城山の山腹の畑の中に 火地神社跡があり 銘板がたてられています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 火地神社
[ふ り が な ]ひち かみのやしろ
[Old Shrine name]Hichi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 多氣郡 火地神社(ひちの かみのやしろ)の論社

・天香山神社(松阪市保津町)
〈火地神社を合祀〉

・麻續神社(明和町中海)
〈麻續神社に合祀された 馬之上の宇気比神社(火地神社)〉

〈二十五柱神社に合祀された宇気比神社の舊地〉極楽寺境内(松阪市乙部町)

〈二十五柱神社に合祀された宇気比神社〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)

・八柱神社跡地(多気町油夫)
〈佐那神社に合祀された八柱神社の旧鎮座地〉

・佐那神社(多気町仁田)
〈佐那神社に合祀された八柱神社(多気町油夫)〉

・火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)
〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉

・竹神社(明和町斎宮)
〈竹神社に合祀された火地神社(明和町岩内 光安寺境内)〉

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR紀勢本線 多気駅から東へ約2.3km 車での所要時間は4~5分程度

光安寺境内の入口 鐘楼の横に鳥居が建てられて 小祠が祀られています

火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉に参着

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鳥居の向って左前に「禁殺生」「火地神社」「享保甲辰」と刻まれた石標があります

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石標と鳥居の間には手水鉢に雨水が溜まっていました

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一礼をしてから鳥居をくぐり抜けて

にすすみます

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小さな祠の割には 大きな石灯籠が奉納されています
竹神社に合祀される前のものです

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 火地神社について 所在は゛岩内村に在す、゛〈現 火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉〉と記しています

【抜粋意訳】

火地(ヒチノ)神社

火地は假字也

〇祭神詳ならず

○岩内村に在す、俚諺

類社
 伊賀國伊賀郡 比地神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 火地神社について 所在は゛今 乙部村の東南にあり、゛〈現 〈二十五柱神社に合祀された宇気比神社の舊地〉極楽寺境内(松阪市乙部町)〉と記しています

【抜粋意訳】

火地(ヒチノ)神社

今 乙部村の東南にあり、〔式内社検録〇按 本書に、貞治七年紛失日記云、飯野郡長田郷三條四里火所里とある火所火地共にホトと訓へし、条里を推考ふるに、乙部村に當れり、乙部は神宮雑例集に、外部御薗ともある地なりと云り〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 火地神社について 所在は決めかねています

゛明細帳飯野郡に乙部村゛〈現 〈二十五柱神社に合祀された宇気比神社の舊地〉極楽寺境内(松阪市乙部町)〉

゛多氣郡岩内村に火地神社ありて式社と稱す゛〈現 火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉〉

【抜粋意訳】

火地神社

祭神
祭日
社格
(明細帳飯野郡に乙部村なるものなし 區別牒に依るも火地神社と云村社なし 多氣郡岩内村に火地神社ありて式社と稱す區別牒になし 明細帳に村社とし十四年訓正無格なり)

所在

 今按 檢錄に貞治七年紛失日記云 飯野郡長田郷三條四里火所里とあり 火所火地共に ほと と訓すへし 條里の制を以て推すに三條四里は多氣と犬牙して 今 乙部村に當れリ 乙部は雑倒集には外部御園にも作れり おともそとも並にほとの通音にて 當社所在の地名なり 村の東南に産神社あり是ならむと云へり 又 享保中 紀伊家より岩内村の産神社に火地神社の標石を建たるは神名帳考證の臆断によれりとあるが如くなるべし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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