岩戸八幡社(岐阜市長森岩戸)〈『延喜式』物部神社の跡地〉

岩戸八幡社(いわどはちまんしゃ)は 揖斐川改修の為 八幡社が高須町大字日下丸から現地へ明治43年(1910)遷座したもの 里人の口伝には「元々この地は 延喜式内社 美濃國 厚見郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)が鎮座していたが 斎藤道三の時代(天文8年・1539)丸山へ遷座し 後に伊奈波神社に合祀された」と云う

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

八幡神社Hachiman shrine

通称名(Common name)

・岩戸八幡社(いわどはちまんしゃ)

【鎮座地 (Location) 

岐阜県 岐阜市 長森岩戸(ながもりいわど)字西山942番地の1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》神天皇(おうじんてんのう)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『岐阜市史』昭和3年に記される内容

岩戸八幡社は 明治四十三年四月にこの地へ遷座したものです

元々は この岩戸字西山の辺り〈岩戸観音の地とも岩戸八幡社の社地とも云う〉は 式内社 物部神社の旧社地であったと伝わっています

【抜粋意訳】

第一編 前編 第二章 古代之沿革 第二節 伊奈波神社の鎮座
物部神社の舊地

 偖て、物部神社が伊奈波神社の合殿にましますことは、伊奈波神社の井之口谷遷座來の事である。

伊奈波神社の舊社地が、丸山である如くに、物部神社の舊社地は、岐阜の東、稲葉郡岩戸の岩屋観音の地であると云ふ事を、古傳として、岩戸村民の間に傳へて居る。里俗に依ると、昔、此氏神 物部神社を、井之口谷へ移したが、後、伊奈波神社も、丸山の地から井之口谷へ遷座、合祀されたと云ふのである。

岩戸村民と伊奈波神社との関係

 此故に、岩戸村民は、古来、伊奈波神社の第一の氏子であつて、神社の元日の松飾を始めとして、神酒、〈神酒を盛った錫器には、岩戸村の銘がある、〉神饌の供進から、例年、神楽料及び初穂の進獻を初めとして、神輿の駕與丁〔白丁著用〕は勿論、神事故障の場合、神官の代理から、賽銭領の取締、神殿の鍵の保管に至るまで、悉く、岩戸村の氏子に於て、之を掌り、其他、本殿の修繕には、村民限りにて足場をかけるなど、神社に昵近(じっきん)して、神事を執行する古例が、頗る多かった。之に對して、岐阜町數町の氏子は、一の故障をも、申出るものがなかったと云ふ。

然るに、明治四年、郡村區劃分れてからは、岩戸村は岐阜町の境城外となり、岩戸村民は、其時から氏子を離れて同郡藏之前村郷社に属したが、今も尚、岩戸村より寄進にかかる古物大釜、並び石燈籠が、伊奈波神社に存し、何れも、岩戸村の銘があって、古来の關係を物語って居る。

 此 口碑は、如何程迄信するに足りるかわからないが、
兎に角、物部神社の舊
肚地である岩戸村民が、伊奈波神社の管理を、全然掌握して居た事を、知る事が出来ると共に、岐阜町の氏子は、是に對し、何等の發言権をも有して居なかったらしい。

物部神社の遷座は文安二年(1445以前

 然らば、物部神社が、井之口谷に移ったのは、何時であらうか。是に就ては、岩戶村 岩戶觀音之緣起に依ると、観音の創立を以て、文安二乙丑年二月として、齋藤越前守利永の勧請とあるし、岩戸村の里傳に、観音の境内は、服穢の者の参入を忌むと云ふところなどから考へて見ると、物部神社が井之口谷に遷されたのは、少くも、既に、文安二年(1445)以前であると見るのが、妥當である様に思はれる。

然しながら、其何故に遷されたるかに就ては、知る由もないが、利永は文安二年に加納に城を築いたから、恐らく郡内の名社を、因幡山の背後から前面の山下に移して、井之口里の鎭護とする為めでもあったのであらう。

 要するに、此兩社の由緒に就て綜合しえられる事は元来、伊奈波神社と物部神社とは、別社であるのみか、其所在に就ても、一は稲葉山の西北麓、丸山にあり、一は同山の東、岩戸村にあつて、各、異なる氏子の崇敬を集めて居たものである。

面して、物部神社が井之口谷に遷されたのは、既に文安二年以前の事であるが、其後 天文八年、齋藤氏の稲葉山築城と共に、丸山にあつた伊奈波神社も、井之口谷に遷されて、茲に、兩社の合祀を見るに至り、宏壮なる社殿が建てられて、岐阜町鎮守の淵源をなすに至つたものである。

然るに、此 兩社の祭神の間に、其 區別 甚だ鮮明を缺いたが爲めに、兩社の關係は、或は二社の如く、又一社の如く、判然しないのみならず、其主神に就ても、混沌として變化あるを免がれなかった。
・・・・〈以下略 必要な場合は原文参照のこと〉

【原文参照】

岐阜市 編『岐阜市史』,岐阜市,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1170918

岐阜市 編『岐阜市史』,岐阜市,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1170918

【由  (History)】

里人の口伝には
この地に物部神社が祀られていた
斎藤道三の時代(天文8年・1539)に丸山へ遷座し 後に伊奈波神社に合祀されたと伝える

明治29年(1896)高須輪中一帯が大水害に遭う(木曽三川洪水) 日下丸集落も壊滅的被害

明治30年(1897)以降 河川改修のため 高須町大字日下丸は「永没」(地形的に消滅)
村社(八幡神社)も移転を余儀なくされる

明治43年(1910)4月 〈現在地〉岐阜市長森岩戸に移転
「岩戸八幡神社」と改称

平成7年(1995)4月 旧日下丸の氏子と岩戸の氏子が合同で記念碑を建立している

八幡神社 由緒由来  

創祀不詳。当社はもと岐阜県美濃國海津郡高須町大字日出丸に鎮座ありしが、揖斐川改修の敷地に当たり、そのまま差し置き難きを以て将来永遠の維持保存を慮り、稲葉郡北長森村大字岩戸字西山なる現在の鎮座の地に移転せんことを請願し、明治四十三年四月許可を得て移転し、以て今日に至る。

岐阜県神社庁HPより
https://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=949

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・岩戸観音寺が(物部神社古社地)とも云われています

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岩戸八幡社(岐阜市長森岩戸)〈旧鎮座地〉

八幡神社は 岐阜県美濃國海津郡高須町大字日出丸に鎮座していましたが 揖斐川改修の為 明治43年に現在地(岐阜市長森岩戸)に遷座しました

※日下丸(ひげまる)のあたりは — 明治〜近代の河川改修(木曽三川の分流・揖斐川改修)で集落の多くが河川敷・改修地になったため 旧村域は現在の「海津市海津町西小島・高須(海津町高須)付近」にあたる とする歴史地名データと地誌の記載があります

それにしても 随分と遠方からの遷座です
この地が 式内社 物部神社の旧鎮座地であったとの伝承があったからでしょうか?

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃國 39座(大1座・小38座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)厚見郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ](もののへの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Mononohe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について

太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります

『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています

東海道

「伊勢國 飯高郡 物部神社」 

・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉

「伊勢國 壹志郡 物部神社」 

・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉

「尾張國 春日部郡 物部神社」 

・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉

・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉 

・諸大明神社(春日井市松本町)

・八所神社(豊山町豊場木戸)

「尾張國 愛智郡 物部神社」 

・物部神社(名古屋市東区筒井)

・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)

「甲斐國 山梨郡 物部神社」 

・物部神社(笛吹市石和町)

・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉

・大石神社(山梨市西)

・大石神社(甲州市塩山赤尾)

・白山建岡神社(山梨市上栗原)

「武蔵國 入間郡 物部天神社」 

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

東山道

「美濃國 厚見郡 物部神社」 

・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)

丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉(岐阜市赤ケ洞)

・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)

・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉

北陸道

「越中國 射水郡 物部神社」 

・物部神社(高岡市東海老坂)

「越後國 頸城郡 物部神社」 

・物部神社(上越市清里区)

「越後國 三嶋郡 物部神社」 

・二田物部神社(柏崎市西山町)

「佐渡國 雑太郡 物部神社」 

・物部神社(佐渡市小倉)

山陰道

「丹波國 船井郡 嶋物部神社」

・荒井神社(南丹市八木町美里字荒井)

「丹後國 與謝郡 物部神社」 

・物部神社(与謝野町石川)

「但馬國 城崎郡 物部神社」 

・韓國神社(豊岡市城崎町)

「石見國 安濃郡 物部神社」 

・物部神社(大田市)石見国一之宮

山陽道

「播磨國 明石郡 物部神社」 

・可美真手命神社(押部谷町細田)

・惣社(神戸市西区伊川谷町)

西海道

「壱岐島 石田郡 物部布都神社」 

・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉

・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉

・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

名鉄岐阜駅から東西通り・R248号・県道92号 経由で北西方向へ約3.7km 車での所要時間は9~12分程度

正面〈北方向〉に金華山 左手に稲葉山 右手に鷹巣山がある 岩戸の谷間にすすんでいきます

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金華山の南の麓にある谷間 岩戸 その岩戸森林公園のすぐ傍です

岩戸八幡社(岐阜市長森岩戸)に参着

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八幡神社の社号標があり 一礼をしてから 鳥居をくぐり抜けて参道を進みます 社殿の背後が 稲葉山 東側の山麓です

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ちなみに 稲葉山の西山麓には 伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)があります

・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)については こちらの記事を参照

八幡神社の参道に戻ると 右手に手水舎があり 清めてから 拝所に向います

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正月九日の参拝でしたが 参道の左手には 小さいながら正月の御飾が どんど焼きを待つばかりとなっています

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拝所の前には 門松があり 拝殿立木に隠れていて

境内の音も 外からの音は一切なく 正月の肌寒い日でしたが 鳥のさえずりがあり なんとも神秘的です

にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿立木の間から 奥を見ると石段があり 本殿へと通じているようでしたが なんとも神秘的な神威を感じてしまい ここより先には進まずに 一礼をして境内を戻りました

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛岐阜稻葉山に在す、古今 因幡明神と゛〈現 伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)の相殿〉としていますが

様々な考証の結果 伊奈波神について 伊奈波神と物部神は別神にて 式外社と想える と推察しています

【抜粋意訳】

物部神杜

物部は毛乃々倍と訓べし

○祭神 五十瓊敷入彦命、淳熨斗姫命、日葉酢姫命、十千根命、社説

○岐阜稻葉山に在す、古今 因幡明神とす、

○日本紀、垂仁天皇十五月壬午朔、立 日葉酢媛命爲 皇后、〔中略〕 三男二女、第一曰 五十瓊敷入彦三十九月、是後  五十瓊敷命 卑主 石上神宮之神寳、八十七月丁亥朔辛夘、五十瓊敷命、謂 妹大中姫 曰、我老也、不能掌 神賓、自 今以後、必汝主焉、遂大中姫命授 物部十千根大 而令治、云云、

神主縣則満云、因幡明神は延喜式 物部神社と記にあり、然れども土岐齋藤の乱に、因幡山に城を築の時、社も今のに遷す、其後 信長公居城し時、井之を岐阜、因幡山を金花山と地名をさへ改められ、猶又 三七郎殿大乱にて、明白ならぬ事多しと云り、
連胤按るに、紀伊國 伊都郡 丹生都比女神社を、古今 天野明神とする例なるべし、

神位
 續日本後紀、承和十二月辛酉、美濃國厚見郡 無位 伊奈波神、奉授 從五位下、依 國司等解状也、
 三代實録、貞観十一十二五日戊子、授 美濃國從五位上 伊奈波神 正五位下、元慶十六日戊申、授 美濃國 正五位下否間神正五位上、同十一日己未、授 美濃国正五位下 伊那波神 從五位下、
 本國神名帳、正一位伊那波大神、

連胤按るに、本國神名帳、從五位下物部明神、同物部財主明神、同物部財公明神とあるは別神にて、式外社と思はれたり、  

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 物部神社について 所在は記していません

祭神について゛三野後國造の同族、物部氏の祖神を祭る゛として 考証しています

【抜粋意訳】

物部(モノノベノ)神社、

 三野後國造の同族、物部氏の祖神を祭る、〔舊事本紀、東大寺古文書、

○按新抄格勅符云 聖武天皇 神龜元年、射園神に美乃地一戸を充て神封とす、又按 績日本紀、物部用善に物部射園連姓を賜ふ、是に據らは、射園連は物部連の同族にして 物部神 或は射園神と同じき歟、未だ明証を得ず、姑く附て考に備ふ、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛因幡神社合殿゛〈現 伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)の相殿〉としていますが

様々な考証の結果 定まっていない と結論付けています

【抜粋意訳】

物部神社 因幡神社合殿

祭神
祭日 三月三日
社格

所在

 今按 岐阜稻葉山因幡神社の傳說に 式内物部神社合殿にますとみえ 美濃名細記にも因幡社の條に物部神社云々 伊奈波神叙位の事を記して疑を存せり

さて同書に正一位因幡社 垂仁天皇之皇子 五十瓊磯城入彥命 日葉酢媛ノ命 渟熨斗媛ノ命 物部ノ十千根大連とあり
神社覈錄に神主 縣則滿云 因幡明神は延喜式物部神社と舊記にあり 然れども織田信長公の時 井之口を岐阜  因幡山を金花山と改められたるを以て 明白ならぬ事となれりと
名細記に土俗傳 此ノ神被封ニ因幡國敕シテ自ニ陸奥 金石を取來て 止ニ此地云々 附會之説歟 伊奈波  金花山者陸奥 金花山を形容て稱とあるともとり 總て考るに先づ 開化天皇の皇子を日子王と云ひ 其御子に丹波比古多々須知宇王あり 神大根ヲ王 亦名 八瓜入日子王あり美知能宇斯ノ王の女を比婆須比賣命と云ふ 垂仁天皇の大となりまして 印色之入日子命を生玉へり 印色之入日子命は書紀 垂仁天皇巻に三十九年十月 五十瓊敷居ニ 芽渟莵砥川上宮作ニ劔一千口、云々 是後 五十瓊敷命、、主石上神宮之神實に一云云々 是時,楯部。倭文。神弓削部。神矢作部。大穴磯部。泊橿部。玉作部。神刑部。日置部。太刀佩部。並十箇ノ部ヲ賜ニ 五十瓊敷皇子云々
 八十七年五十瓊敷 大中姫ノ命に石上神寶を掌らしめ玉ひし時のことを云る條に〕然テ大中姫命授テ 物部十千根ノ大連 治故 物部連于今石上 其縁也とみえたるのみにて 此美濃なきが如くなれども 會父 日子坐王の子 美知能は稲葉ノ國造となり玉ひ  大根王は三野國造 巢ノ國造の組にて 因幡美濃兩國に所祿あり 故に土俗のに被封因幡とは云りしにて ことを誤り傳へたるものとみえたり 斯ればは三野ノ國 巢ノ國造のゆかりによ 御兄にます美宇斯ノ 及御女なる比賣命を祭りて 伊奈波神と稱奉り五十瓊敷  渟熨斗  物部十千根連を祭りて 物部神社と稱へて各社なりけんが 後に故ありて二を一社に合せ祭りしより 或いは伊奈波神は物部ノ神社の如く 物部神は伊奈波神社如くにもゆるばかりになりこしものなるべし さて五十瓊敷命は石上神社の寶をり十筒の品部を掌り玉へるを以て 物部ノ神と云ひ 又 御妹 大中姫の其神寶を十千根をも合せ祭れるあらん

 かかれば因幡神社に 物部神社合殿にますと云るありてど 確証得ざれば 今定めがたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

岩戸八幡社(岐阜市長森岩戸) (hai)」(90度のお辞儀)

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美濃国 式内社 39座(大1座・小38座)について に戻る

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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