藤社神社(ふじこそじんじゃ)は 延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社です 崇神天皇の御代 比治山に降臨された豊受大神を祀ったのが始まりとされ 古老によると 丹波道主命(たんばみちのぬしのみこと)の創始とも伝えられます 雄略天皇二十二年に伊勢に奉遷された後も この地に祀られ続ける゛伊勢外宮の元宮゛とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
藤社神社(Fujikoso shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京丹後市峰山町鱒留〔ますどめ〕540
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》保食神(うけもちのかみ)〈豊受大神〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
藤社神社(ふじこそじんじゃ)
当社は「止由気宮儀式帳(とゆけのみやぎしきちょう)」などの記録によると、崇神天皇(すじんてんのう)の時代、比治山に降臨された豊受大神(とようけのおおかみ)を祀ったのが始まりとされ、古老によると、丹波道主命(たんばみちのぬしのみこと)の創始とも伝えられています。雄略天皇二十二年に伊勢に奉遷された後も、引き続きその地に祀ったと伝えられ、五穀豊穣(ごこくほうじょう)養蚕守護神(ようさんじゅごしん)として篤く信仰されています。
内陣(ないじん)は、正徳四年に再建され、明治四十年本殿を改築しましたが、昭和二年当地方を襲った丹後大震災(たんごだいしんさい)により大半が破損しました。復興に際し、その由緒によって、昭和五年 伊勢神宮の式年遷宮造営(しきねんせんぐうぞうえい)に関わる社殿の扉、柱等の古材を下賜いただくこととなり、昭和十一年九月神明造(しんめいづく)りの本殿並びに、回廊(かいろう)、水屋(みずや)、弁天池の真名井祠(まないほこら)、和奈佐祠(わなさほこら)を建造、現在に至っています。
祭神
保食神(うけもちのかみ)(豊受大神)境内社
和奈佐夫婦祠(わなさふうふほこら)
大山祇社(おおやまずみしゃ) 武大神社(たけでいじんじゃ)
天目一社(てんもくいっしゃ) 天満神社(てんまんじんじゃ)平成十一年三月 京丹後市教育委員会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
藤社神社由緒
當社は 往古 崇神天皇の御代 比治山に降臨されたと傳える 豊受大神を祀り その御神徳は 稲作をはじめ 五穀豊穣 養蚕守護神として尊崇篤く 古老相伝によると 丹波道主命の創始とも伝え 社号の藤は 比治 又は泥(ひじ)の転語であると言われている。
御内陣は 正徳四年に再建され 明治四十年に本殿を改造 拝殿を新築されたが 昭和二年三月七日 當地方を襲った丹後大震災により 大半が倒壊した 復興に際し その由緒の故を以て 昭和五年八月 伊勢皇太神宮の式年御造営に関る御殿の扉 柱等の古材下賜の栄に浴し 昭和十一年九月に神明造の本殿並びに回廊 水屋 弁天池真名井祠 和奈佐祠を建造し 現在に至る
手水舎に掲げられた案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿覆い屋
・本殿覆い屋の扉〈昭和五年八月 伊勢皇太神宮の式年御造営に関る御殿の扉〉
・社殿
・拝殿
・〈本殿の奥に祀られる境内社〉和奈佐夫婦祠(わなさふうふほこら)
・〈本殿の向かって左側に祀られる境内社〉社日社・石碑
・〈拝殿の前〉狛犬
・〈参道向かって左側の奥に祀られる〉石・石碑
・〈参道向かって左側の奥に祀られる境内社〉武大神社(たけでいじんじゃ)
・手水舎
・〈手水舎の奥に祀られる境内社〉弁天池の真名井祠(まないほこら)
・〈参道向かって左側に祀られる境内社二宇〉
大山祇社(おおやまずみしゃ)・天満神社(てんまんじんじゃ)右側の一宇は弁天池の真名井祠
・〈参道向かって左側手前に祀られる境内社〉 天目一社(てんもくいっしゃ)
・社頭・石灯籠・社号標・鳥居・参道
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)丹波郡 9座(大2座・小7座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 比沼麻奈為神社
[ふ り が な ](ひぬまなゐの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hinumanai no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社
現在 式内社 比沼麻奈為神社の論社は 三つあります
・比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)
・藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)
・豊受大神社(福知山市大江町天田内)
豊受大神宮(伝承地)について
元伊勢(もといせ)とは 伊勢神宮〈皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉が 現在地へ御遷座される以前に 遷座の伝承を持つ神社・場所を云います
その内の 豊受大神宮(伝承地)について 遷幸順に
国名 | 伝承地(地名) | 伝承地の論社 | |
『止由気宮儀式帳』 | 『倭姫命世記』 | 現在の論社 | |
丹波国 | 比治真奈井 | 与佐之小見比治之魚井原 | 比沼麻奈為神社 (京丹後市峰山町久次字宮ノ谷) |
(与謝郡比冶山頂麻奈井原) | 奈具神社 (京丹後市弥栄町船木) |
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真名井神社〈籠神社摂社〉 (宮津市字中野) |
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豊受大神社 (福知山市大江町天田内) |
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藤社神社 (京丹後市峰山町鱒留) |
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摂津国 | 大神木神社〈假宮・姫宮〉(吹田市山田市場) (旧:摂津国三島郷大神木) |
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伊勢国 | 度会宮 | 山田原宮 | 豊受大神宮 (伊勢市豊川町) |
・比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
・眞名井神社〈籠神社奥宮〉
・豊受大神社(福知山市大江町天田内)
・藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)
・豊受⼤神宮(外宮)
詳しくは
元伊勢(もといせ)伝承地をたずねて
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮豊線 京丹後大宮駅から府道659号・R482号経由で西へ約10.1km 車で20分程度
鱒留川の橋の上から見える鎮守の杜 参道
社頭には 大きめの石灯籠・社号標には「藤社神社」と刻字・鳥居が二連・参道が続いています
藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)に参着
参道を進むと左手に境内社の祠が4宇あります
手前から〈・天目一社・天満神社・大山祇社・弁天池の真名井祠〉
この先に弁天池から流れる小さな水路があり 小さな御神橋を渡ると手水舎かあり 綺麗な水が絶え間なく流れていますので 清めます
境内を進むと 社殿は一段高い壇に祀られています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
〈本殿の奥に祀られる境内社〉和奈佐夫婦祠(わなさふうふほこら)があります
和奈佐夫婦祠とは〈和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命〉のことでしょうか?
だとすれば
延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曾神社(わなさいふその かみのやしろ)の論社で 2神を祭神とする・羽浦神社(阿南市羽ノ浦町)に合祀された〈式内社 論社 和奈佐意富曾神社(宮倉村字羽ノ浦居内)〉は関係あるのだろうか?
・羽浦神社(阿南市羽ノ浦町)
〈式内社 論社 和奈佐意富曾神社(宮倉村字羽ノ浦居内)を合祀〉
いや おそらくは
『丹後國府風土記逸文』の「奈具社」の条にある
゛丹後國風土記に云く。丹後國、丹波郡、郡家の西北の隅の方に、比治の里あり。この里の比治山の頂に井あり。その名を眞井(まなゐ)と云ふ。今既に沼となれり。この井に、天女八人降り來て水に浴す。時に老夫婦あり。その名を和奈佐老夫(わなさおきな)、和奈佐老婦(わなさおふな)と曰ふ。゛
とある天女の一人の衣を騙し隠したと伝わる「和奈佐夫婦」でしょう
詳しくは
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
などと想いながら 藤社神社の社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 比沼麻奈為神社について 所在は゛久次村に在す゛〈現 比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)〉と記しています
【抜粋意訳】
比沼麻奈為神社
比沼麻奈為は假字なり
〇祭神 豊宇賀能賣神
〇久次村に在す〔舊事記〕
〇神名秘書云、酒殿神者、伊弉冉尊子、和久産巢日神子、豊宇賀能賣神、〔中略〕丹波國與謝郡比沼山頂有井、其名號ニ麻井、此處居神也、同竹野郡奈具社亦同神也、
〇倭姫世紀云•雄略天皇廿一年丁巳十月、倭姫命夢数覚給久、皇太神吾一所耳不坐、御饌安不ニ聞食、丹波國與佐之小見比沼之魚井原坐、道主子八乎止女乃齋奉、御僕都神止由氣太神乎、我坐國欲止調覚給支、爾時大若子命乎差使、朝廷仁令ニ参上、御夢狀令レ申給支、即天皇勅、汝大若子使罷往天、布理奉宣支、故率ニ手置帆負彦狹知二神之齋、以ニ齋斧齋鋤等、始採ニ山材、擢ニ立實殿、而明年七月七日、以ニ大佐々命天、從ニ丹波國余佐郡眞井原〔志天〕奉レ迎ニ止由氣皇太神、‘度會山田原乃下津磐根爾、大宮柱廣敷立、高天原爾千木高知、鎭定坐止、稱解竟奉利、奉饗利神賀告詞白賜
〇鎮坐傳記云、御問城入彦五十瓊殖天皇三十九歳壬戌、天照太神乎遷ニ幸但波乃與佐宮、積ニ四年奉斎、・・・・・・
・・・・
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 比沼麻奈為神社について 所在は゛此治山の麓 鱒留村にあり、藤社大明神といふ゛〈現 藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)〉と記しています
【抜粋意訳】
比沼麻奈為(ヒヌマナヰノ)神社
此治山の麓 鱒留村にあり、藤社大明神といふ、〔神社遺志流倍、考案記、久美縣神社調、〕
盖 豊宇可乃賣神を祀る、〔摂津國風土記、〕
〇按 摂津國風土記、比沼を比遅に作り、古事記裏書引丹波風土記、共に比治に作る、今猶 比治山あり、之に據に比沼疑は、比治の訛りなり、姑附て考に備ふ、
上古皇孫の命 天降坐時、天村雲命天上に参上りて、食國の水は熟(ニゴカ)らす、荒水に在けりと奏せば、神御祖命 天忍石(アマノオシハ)の長井の水を取り八盛(ヤモリ)て、誨給て、此水持下て、皇太神の御饌に八盛献て遺水は食國の水上に灌和て、朝夕御饌に献れと詔ひき、其時 日向高千穂宮の御井定め崇居奉り、又 但波眞井石井に鎭移し居ゑ、其後止由氣宮の御井に遷居て、二所皇太神の朝ダ大御饌に仕奉る、所謂但波眞井即是也、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 比沼麻奈為神社について 祭神と所在について考証にしています
所在は゛鱒留村 字大光田゛〈現 藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)〉と記しています
゛久次村なる眞名井明神を專ら比沼麻奈爲と云來れども゛〈現 比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)〉とあり 論社とみずからとなえているが 確証がないと記しています
【抜粋意訳】
比治麻奈為(ヒヂマナヰノ)神社
祭神 豊宇加能賣(トヨウカノメノ)命
今按等由氣大神宮儀式帳に天照シ坐皇大神云々 大長谷(オホハセツ)天皇ノ御夢・・・・・
祭日 九月二十八日
社格 村社所在 鱒留村 字大光田(中郡五箇村大字久次)
今按 道志流倍に池臣考るに伊勢五部書類 其外の書又本居氏平田氏の著書等を始 其外の書に至迄 悉比沼に作れり 皆誤なり堵養抄に比治山とあり云々 其證は攝津風土記に稻倉山昔シ上與吁可乃賣神居ニ山中以盛飯因以爲 名又昔宇可乃賣神常居ニ稲掠山而爲ニ膳厨之處後有ニ事故不可得止遂還ニ 於丹波ノ國 比遅乃麻奈韋とあり
扨今 比治山とて高き山あり 其麓に藤社大明神とて養蠶の守神なりと云が 卽麻奈奈爲神社なり 衰ては坐ども 社地廣く清らかにて 前に川流れて 式社の備紛れなし
又 久次村なる眞名井明神を專ら比沼麻奈爲と云來れども 其社は久比志ケ嶽の續にて峰山の奧なり 社地も藤社よりは狹く 其備も式社の形に非ず 安産の神なりと云も不都合なり 比治山は但馬出石郡の界にて 此遅神社も此山の南面藤ケ森村に山姥稲荷とて前に河ありて清らかなる社地なり 社は衰へて坐此神社も池臣出石郡巡村せし時に考出しなり
そは藤森とは 比治が森なり 藤社は比治社なり 共に藤と唱へ換たるなり云々とみえたる據ありて聞ゆるが 上に式社考にも鱒留村とし豊岡縣神社取調記にも同所とせり故今之に從ふ
【原文参照】