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火雷神社(佐波郡玉村町大字下之宮)〈上野國八之宮〉
火雷神社(からいじんじゃ)は 延喜式内社 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)です 社伝によると 崇神天皇元年の鎮座 火雷宮と号したと伝え 桓武天皇 延暦十五年(796)には官社に預り 上野国八之宮とされ 利根川南岸に鎮座し 北岸に鎮座する倭文神社(上野国九之宮 上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称されます
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熊野神社 & 出雲社〈熊野神社境内〉(防府市上右田)
熊野神社(くまのじんじゃ) は 明徳三年(1392)大内義弘公は 将軍 足利義満から和泉(いずみ)・紀伊(きい)の両国を与えられた時 野上修理亮に命じて 紀伊の国の熊野権現宮より御分霊を移し この地に熊野権現を創建したと伝わり 境内社 出雲社(いずもしゃ)は 延喜式内社との伝承もあります
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出雲神社(山口市徳地堀)
出雲神社(いづもじんじゃ)は 第44代 元正天皇 霊亀元年(715)鎮座と伝えら 周防国二之宮です その起源はさらに古く 大古 出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い その祖神を鎮祭したものと考えられています 式内社 周防國 佐波郡 出雲神社二座(イツモノカミノヤシロ フタクラ)とされています
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御田八幡神社(港区三田)
御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています
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薭田神社(大田区蒲田)
薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています
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生根神社(大阪市住吉区住吉)
生根神社(いくねじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝では「住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り 古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であり 神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられた」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 摂津國 住吉郡 生根神社(大月次新嘗)(いくねの かみのやしろ)とされています
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丹生官省符神社(九度山町慈尊院)〈弘仁七年(816) 弘法大師(空海)創建の社〉
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は 一宮~四宮は 北の方宮の橋といふ地にあったが 天文年中(1532~)の洪水により 慈尊院に遷座した 此の時 三社宮も遷座して神通寺七社明神となる 近代には丹生七社大明神 丹生神社と呼ばれ 昭和21年(1946)現在の社号となっています 或説に 式内社 小田神社とも云われます
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小田神社(橋本市高野口町小田)〈延喜式内社〉
小田神社(おだじんじゃ)は 1400年前の建立 神領も多く朝野ともに尊敬深かった 延喜式内社 紀伊国 伊都郡 小田神社(をたの かみのやしろ)と伝えます 数々の兵乱で社地も衰廃 祠は焼失したが 紀伊藩主 徳川頼宣公が元和年間(1615~24)旧本殿跡に石の宝殿を建て「小田神社」と刻し ご神体として後世に伝えたものです
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忍坂坐生根神社(桜井市忍阪)
忍坂坐生根神社(おっさかにいますいくねじんじゃ)は 忍坂山(外鎌山)を神体山として遥拝する古い祭祀様式で 本殿を持ちません 天平二年(730)正倉院文書『大倭國正税帳(やまとのくにしょうぜいちょう)』の記録には「生根神」として載る古社で 式内社 大和國 城上郡 忍坂坐生根神社(大月次新嘗)(をしさかにゐます いくねの かみのやしろ)に比定されています
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船玉神社〈住吉大社境内摂社〉(大阪市住吉区)
船玉神社(ふなたまじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 船に祀った守護神とされ 由緒には「船玉(船魂)とは 船舶そのものの神霊で 住吉大神とは表裏一体の関係として尊崇され 時には住吉大神の荒魂とされる」とあり 住吉大社の境内摂社ですが 元々は第四本宮〈神功皇后〉の前 海に向かって 4つの本宮の先頭に鎮座していたと伝わっています
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大歳神社〈住吉大社 境外摂社〉(大阪市住吉区住吉)
大歳神社(おおとしじんしゃ)は 住吉大社の「はったつさん」と呼ばれる゛初辰まいり゛〈商売や家庭の発達繁栄を祈るお参り〉の四社の締めくくりに参拝する習わしのある境外摂社です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 草津大歳神社(鍬靫)(くさつをほとしの かみのやしろ)の論社ともされています
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式内社 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)
式内社 努能太比賣命神社 社跡(しきないしゃ ぬのたひめのみことじんじゃ やしろあと)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 努能太比賣命神社(ぬのたひめのみことの かみのやしろ)の社跡とされます 明治40年(1907)大依羅神社に合祀されました
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式内 草津大歳神社趾(大阪市住吉区苅田)
式内 草津大歳神社趾(しきない くさつおおとしじんじゃあと)は 明治40年(1907)大依羅神社に合祀された 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 摂津国 住吉郡 草津大歳神社(鍬靫)(くさつをほとしの かみのやしろ)の旧鎮座地です 創建・由緒など不明ですが 跡地に残る大楠が御神木であったことを彷彿させます
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大依羅神社(大阪市住吉区庭井)
大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は 神功皇后が新羅征討の際 住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが『日本書紀』に記載されるのが起源とされている 式内社 大依羅神社 四座(おほよさみの かみのやしろ しくら)(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)に比定される古社です
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神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)
神須牟地神社(かみすむちじんじゃ)は 式内社 摂津国 住吉郡 神須牟地神社(鍬靫)(かむすむちの かみのやしろ)とされます 慶長年間〈1596~1615〉兵火に罹り 元和四年(1618)八月二十一日再建されました その後 衰頽し廃絶に瀕していたが 元文元年(1736)九月 徳川幕府の命により神須牟地社と多米社の鎮座地に社号を刻した石碑が建てられ 復興して現在に至ります
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延喜式内 多米神社之址(大阪市住吉区長居)
多米神社之址(ためじんじゃ のあと)は 延喜式内社 摂津国 住吉郡 多米神社(貞)(ための かみのやしろ)の旧鎮座地の跡です 多米連(ためのむらじ)〈朝廷に供する米作りに関わり 成務天皇の御代「大炊寮御飯を作りて香美なりし」と賞されて多米連の姓を賜わった〉が 創建した神社とされます 多米連の氏人は 住吉大社の神饌に深く関わっていたと伝わります
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種貸社〈住吉大社 境内末社〉(大阪市住吉区)
種貸社(たねかししゃ)は 「はったつさん」と呼ばれる゛初辰まいり゛の一社です 元々は多禰加志宮(たねかしのみや)と呼ばれて 住吉大社から東へ2キロ離れた場所にありましたが 16世紀に火災に遭い 現在地に移されたと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 摂津国 住吉郡 多米神社(貞)(ための かみのやしろ)の論社です
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大海神社&志賀神社〈住吉大社 境内摂社〉(大阪市住吉区)
大海神社(たいかいじんじゃ)&志賀神社(しがじんじゃ)は 住吉大社の境内摂社です 大海神社は かつては別宮で『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社 摂津国 住吉郡 大海神社二座(元名 津守安人神)(たいかいの かみのやしろ ふたくら)とされます 社前の井戸は「玉の井」と呼ばれ 山幸彦が海神より授かった潮満玉を沈めたところと伝えられます 志賀神社は大海神社の境内摂社であったと伝わります
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住吉神社(加東市下久米)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『播磨鑑』に白雉2年(651)の創立と記されているが 甚だ疑わしく猶それ以前に勧請せられたものと推測されています 續左丞抄住吉神領年紀によると 久米庄(当地方)が神功皇后(201~220)の御代 既に摂津 住吉大社の神領地であったとあり 式内社 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社でもあります
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八雲社(三木市久留美)〈延喜式内社の論社・旧 郷社〉
八雲社(やくものやしろ)は 創立年月は詳らかではありませんが 今から約千五百年前 億計王(後の仁賢天皇)弘計王(後の顕宗天皇)が この地にお忍びの際 久留美皇子ヶ谷の当神社に祈られたと伝えられています 境内社の垣田大神(住吉社)は 式内社 播磨国 賀茂郡 垣田神社(かきたの かみのやしろ)の論社です