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六柱神社(大分市佐賀関)
六柱神社(むはしらじんじゃ)は 早吸咩女神社の社伝には 神武天皇の東遷の時 地主神の二神〈黒砂(いさご)真砂(まさご)〉が神劔〈御神体〉を献じ 天皇みずから建国の請願を立てたと云う 創建の地゛古宮゛と伝わります 早吸咩女神社が遷座(701年)後も 里人が祠を建てて祀ってきました
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早吸日女神社(大分市佐賀関)
早吸日女神社(はやすひめじんしゃ)は 社伝には 神武天皇の東遷の時 地主神の二神〈黒砂(いさご)真砂(まさご)〉が神劔〈御神体〉を献じ 天皇みずから建国の請願を立てたと云う 創建の地は 西方1.8kmの古宮〈当社と同じ祭神を祀る 現在の六柱神社の場所〉と伝わり その後 現在地へと遷座 式内社 早吸日女神社(はやすひめの かみのやしろ)の論社です
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阿曽隈社(香春町採銅所)〈阿曽隈遺跡〉
阿曽隈社(あそくましゃ)は 香春岳(かわらだけ)の三つの峯(第一岳・第二岳・第三岳)の山頂に奉祀した゛香春の三神゛〈辛国息長大姫大目神・忍骨神・豊比咩神〉内の三ノ岳の東麓 阿曽隈に豊比咩神を祀った旧跡とされ 和銅二年(709)には この地に古宮八幡宮の元宮が祀られ 一ノ岳の南麓には゛新宮〈香春神社〉゛が創建されました これらの旧跡とされています
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古宮八幡宮(香春町採銅所)
古宮八幡宮(こみやはちまんぐう)は 和銅二年(709)創祀 旧鎮座地は香春三ノ岳の麓 阿曽隈という所から慶長四年(1599)現在地に遷座 養老四年(720)宇佐八幡宮の託宣で神鏡〈三ノ岳の銅を掘り鋳造〉を宇佐八幡宮放生会に奉納した この縁で貞観元年(859)応神天皇 神功皇后を勧請して八幡宮を号する 式内社 豊前國 田川郡 豊比咩神社(とよひめの かみのやしろ)の古宮です
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香春神社(香春町香春)
香春神社(かわらじんじゃ)は 元々は香春岳(かわらだけ)の三つの峯(第一峰・第二峰・第三峰)の山頂に〈・辛国息長大姫大目神・忍骨神・豊比咩神〉の三神を奉祀したのが創始 三座は三つの山頂から遷座されて 和銅2年(709)゛新宮゛と称し『延喜式神名帳〈927年〉』所載の豊前國 田川郡の三座〈・辛国息長大姫大目神社・忍骨神社・豊比咩神社〉となり現在に至ります
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御勢大靈石神社(小郡市大保)
御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)は 伝承では 第14代仲哀天皇が熊襲征伐にあたり前戦を廻られて流矢に当られて崩御されたが 深く秘して仮に御殯葬申上げた行宮跡で 神功皇后が三韓征伐にあたり天皇の御魂代の石を軍船に乗せ戦勝 凱旋の時 この地に甲冑御衣を納め三韓鎭撫神として この石を祀ったものが 御勢大靈石(みせのおほみたまいし)と伝えられます
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豊姫神社〈天満宮境内〉&本山天満宮(久留米市上津町)
豊姫神社(ゆたひめじんじゃ)は 元々は東上村に鎮座していた社殿を大正十四年(1925)五月三日 本山天満宮(ほんざんてんまんぐう)に合祀して後日石祠を建立し 本山天満宮の境内に遷座したものです 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社となっています
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赤司八幡神社(久留米市北野町赤司)
赤司八幡神社(あかじはちまんじんじゃ)は 延長二年(924)十一月鎭座と云い 神社に伝わる『止誉咩(とよひめ)神社本跡縁起』には はじめ゛筑紫中津宮゛と呼ばれ 後に 延喜式内社として゛ 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)゛になったとあります 止誉比咩は゛豊姫゛とも表記し神功皇后の妹ともされます 戦国時代に社号を八幡宮となり現在に至ります
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豊比咩神社〈豊姫神社〉(久留米市北野町大城)&宮地嶽神社 玉垂御子神社
豊比咩神社〈豊姫神社〉(とよひめじんじゃ)は 由緖は不詳ですが 社説には天平年中(729~749年)の鎭座と云う古社です 江戸時代は゛宝満宮゛と称していたようで 明治六年(1873)には村社に定められた 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社です
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中氷川神社(所沢市三ケ島)
中氷川神社(なかひかわじんじゃ)は 社伝によれば 崇神天皇の御時 神託によって素戔鳴尊と奇稲田姫命の二柱を祀る社として勧請され 其後 景行天皇の御時 日本武尊が東征に際してこの地を通り掛かった時に霊意を感じ 天下泰平 国乱鎮護の為 大己貴命 少彦名命の二柱を併せ祀ったと伝えられる式内社 武蔵國 入間郡 中氷川神社(なかひかはの かみのやしろ)の論社です
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中氷川神社(所沢市山口)
中氷川神社(なかひかわじんじゃ)は 社名の由来について 社説では゛上 (かみ)氷川゛〈足立郡大宮〉武蔵國一の宮 氷川神社(さいたま市)と゛奥(おく)氷川゛〈西多摩郡氷川〉氷川神社(奥多摩町) との中間に鎮座するので゛中(なか)氷川゛とされたとします 延喜式内社 武蔵國 入間郡 中氷川神社(なかひかはの かみのやしろ)の論社です
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元森神社〈金鑚神社の旧鎮座地〉・八坂神社(神川町二ノ宮)
元森神社(もとのもりじんじゃ)は 本殿をもたず御室山(御室ヶ嶽)を遥拝した上古に於ける信仰形態と伝わる金鑚神社の社殿跡地です 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とする 延喜式内社 武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)の旧跡となります
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金鑽神社(神川町二ノ宮)〈武藏國二之宮〉
金鑽神社(かなさなじんじゃ)は 背後の山全体〈禁足地 御室ケ獄〉を御神体として とくに本殿はなく 自然の山を祀る太古の信仰形態を残しています 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とし 延喜式神名帳には武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)と所載の古社です
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佐美長神社・佐美長御前神社(磯部町恵利原)〈伊雑宮所管社〉
佐美長神社(さみながじんじゃ) ・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)は ともに『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に記される伊雑宮の所管社です 『延喜式神名帳(927)』志摩国 答志郡 同島坐神乎多乃御子神社(おなしきしまにます かむをたのみこの かみのやしろ)の論社でもあります
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官舎神社(伊勢市小俣町本町)
官舎神社(かんしゃじんじゃ)は 大神宮司(だいじんぐうじ) (今の神宮司廳(じんぐうしちゃう)の如き役所)役所が設けられ 沢山の官舎(廳院(ちゃういん)と云い御厨(みくりや)調御倉(つきのみくら)宮司宿館(ぐうじのしゅくかん)等の建物)が立ち並んでいたので それらの官舎の守護の神を祀った神社であるため この名が起つたものとされます
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大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷
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志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷
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上社(伊勢市辻久留)
上社(かみのやしろ)は むかし この社地には 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています
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月讀神社(京田辺市大住池平)
月讀神社(つきよみじんじゃ)は 大隅國(おほすみのくに)〈鹿児島〉から当地へ来住した隼人らが祀ったともいわれ 大同四年(809)大住山に霊光を拝して神殿が造営され創建 貞観元年(859)八月に月讀宮と称え 延喜式(927)に月讀神社(大月次新嘗)(つきよみの かみのやしろ)とあり 承暦元年(1077)には天下疱瘡に悩むにつき勅使奉幣ありと伝わる古社です
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棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
棒原神社(すぎはらじんじゃ) は 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載される皇大神宮(内宮)の摂社で 奈良朝廷の時〈奈良時代(710~784年)〉に創建と伝わる古社です 「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』には 棒原神社(をいはらの かみのやしろ)とも読むことがあります