延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)

豊比咩神社〈豊姫神社〉(久留米市北野町大城)&宮地嶽神社 玉垂御子神社

豊比咩神社〈豊姫神社〉(とよひめじんじゃ)は 由緖は不詳ですが 社説には天平年中(729~749年)の鎭座と云う古社です  江戸時代は゛宝満宮゛と称していたようで 明治六年(1873)には村社に定められた 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社です

中氷川神社(所沢市三ケ島)

中氷川神社(なかひかわじんじゃ)は 社伝によれば 崇神天皇の御時 神託によって素戔鳴尊と奇稲田姫命の二柱を祀る社として勧請され 其後 景行天皇の御時 日本武尊が東征に際してこの地を通り掛かった時に霊意を感じ 天下泰平 国乱鎮護の為 大己貴命 少彦名命の二柱を併せ祀ったと伝えられる式内社 武蔵國 入間郡 中氷川神社(なかひかはの かみのやしろ)の論社です

中氷川神社(所沢市山口)

中氷川神社(なかひかわじんじゃ)は 社名の由来について 社説では゛上 (かみ)氷川゛〈足立郡大宮〉武蔵國一の宮 氷川神社(さいたま市)と゛奥(おく)氷川゛〈西多摩郡氷川〉氷川神社(奥多摩町) との中間に鎮座するので゛中(なか)氷川゛とされたとします 延喜式内社 武蔵國 入間郡 中氷川神社(なかひかはの かみのやしろ)の論社です

元森神社〈金鑚神社の旧鎮座地〉・八坂神社(神川町二ノ宮)

元森神社(もとのもりじんじゃ)は 本殿をもたず御室山(御室ヶ嶽)を遥拝した上古に於ける信仰形態と伝わる金鑚神社の社殿跡地です 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とする 延喜式内社 武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)の旧跡となります

金鑽神社(神川町二ノ宮)〈武藏國二之宮〉

金鑽神社(かなさなじんじゃ)は 背後の山全体〈禁足地 御室ケ獄〉を御神体として とくに本殿はなく 自然の山を祀る太古の信仰形態を残しています 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とし 延喜式神名帳には武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)と所載の古社です

佐美長神社・佐美長御前神社(磯部町恵利原)〈伊雑宮所管社〉

佐美長神社(さみながじんじゃ) ・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)は ともに『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に記される伊雑宮の所管社です 『延喜式神名帳(927)』志摩国 答志郡 同島坐神乎多乃御子神社(おなしきしまにます かむをたのみこの かみのやしろ)の論社でもあります

官舎神社(伊勢市小俣町本町)

官舎神社(かんしゃじんじゃ)は 大神宮司(だいじんぐうじ) (今の神宮司廳(じんぐうしちゃう)の如き役所)役所が設けられ 沢山の官舎(廳院(ちゃういん)と云い御厨(みくりや)調御倉(つきのみくら)宮司宿館(ぐうじのしゅくかん)等の建物)が立ち並んでいたので それらの官舎の守護の神を祀った神社であるため この名が起つたものとされます

大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

上社(伊勢市辻久留)

上社(かみのやしろ)は むかし この社地には 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています

月讀神社(京田辺市大住池平)

月讀神社(つきよみじんじゃ)は 大隅國(おほすみのくに)〈鹿児島〉から当地へ来住した隼人らが祀ったともいわれ 大同四年(809)大住山に霊光を拝して神殿が造営され創建 貞観元年(859)八月に月讀宮と称え 延喜式(927)に月讀神社(大月次新嘗)(つきよみの かみのやしろ)とあり 承暦元年(1077)には天下疱瘡に悩むにつき勅使奉幣ありと伝わる古社です

棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

棒原神社(すぎはらじんじゃ) は 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載される皇大神宮(内宮)の摂社で 奈良朝廷の時〈奈良時代(710~784年)〉に創建と伝わる古社です 「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』には 棒原神社(をいはらの かみのやしろ)とも読むことがあります

御船神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 牟彌乃神社(内宮末社)〉

御船神社(みふねじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 牟弥乃神社(むみのじんじゃ) (内宮末社)〉は 2社ともに゛倭姫命が祝ひ定め給ふ所゛と伝わります ともに中世に廃絶してしまいますが 御船神社は寛文三年(1663)の再興 牟弥乃神社は 御船神社の附近にあったとされますが確定されず明治四年(1871)に 御船神社に御同座奉祀されました

川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

川原神社(かわらじんじゃ)は 『倭姫命世紀』によると倭姫命が宮川の上流から此の邊りを御通過の時 澤道(さはち)の野原を「澤道の小野(さはちのをの)」と名付け祝ひ定められた神社と云う 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛川原神社(カハラノヤシロ)一處(ヒトトコロ)゛と記される古社で 皇大神宮(内宮)の摂社です

神前神社(長浜市木之本町石道)

神前神社(かみさきじんじゃ)は 白鳳三年(663)役小角が神前大神を崇敬し 神亀元年(724)行基が ゛高尾寺゛を一宇建立するも焼失 延暦15年(796)最澄が行基の聖蹟をたどり 祠(神前神社の旧跡)の御前で゛杉の枝゛を玉串として地面に挿した この゛神前杉゛は「逆さの杉」と呼ばれる大木に成長し 現在も毎年4月29日 神前神社の氏子は参拝し 神前杉に御幣を捧げます

松下社(伊勢市二見町松下)

松下社(まつしたやしろ)は 倭姫命御一行が二見を訪れ 船を泊められたことから 御船社とも云うとの伝承を持つ古社 現在の神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉の旧地とも伝わる為 延喜式内社 伊勢國 度會郡 神前神社(かむさきの かみのやしろ)の旧鎮座地とされます

神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 許母利神社・荒前神社〈内宮末社〉)

神前神社(こうざきじんじゃ)〈御同座 許母利神社(こもりじんじゃ)・荒前神社(あらさきじんじゃ)〉は 3社ともに『皇太神宮儀式帳(804年)』に所載の古社 中世頽廃し廃絶の後 寬文三年(1663)松下村の北方海岸の山麓「カリヤノ森」再興〈儀式帳所載の舊地ではない〉其の後 高浪により山上に移転 さらに明治40年(1907)に現在地に移轉され2社が御同座したものです

久具都比賣神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)摂社として『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛久具神社一處゛(クグノヤシロ ヒトトコロ)と記載される古社 かつては正殿が三區あったとされ゛一區は久々都比女命の御形(ミカタ)を齋(イハ)ひ ー區は久々都比古命を齋ひ 又一區は前社にて 右の神 の御蔭(ミカゲ)を祭奉る゛とあります

山末神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

山末神社(やまずえじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』には゛山末社(やまずえのやしろ)゛とあり 『延喜式神名帳〈927 AD.〉』には 伊勢國 度會郡 山末神社(やますえの かみのやしろ)と記載されます 中世に廃絶し 廃亡した為 寬文三年(1663)に旧地が判明せず 現在地に再興されたものです

度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度會大國玉比賣神社(わたらいおほくにたまひめじんじゃ)は 神武天皇の御代 伊勢国造の祖・天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢の國覓(くにまぎ)〈平定〉の時 地主神に梓弓を以て橋と為して出迎えられ 歓んで゛刀自に度り會ひぬ゛と云い度會の名を為したという故事を持つ古社で 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わる 豊受大神宮(外宮)摂社です

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