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妙見社・妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉

妙見社(みょうけんしゃ)・妙見寺(みょうけんじ)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この花園里に祀られた妙見神が〈息災寺小祝明神〉です

小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)

小祝様の旧跡(おぼりさまのきゅうせき)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)秋 管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この小祝池の辺に祀られる石祠が 冷水 小祝神社です

野本神社〈大神宮〉(松崎町峰輪)

野本神社〈大神宮〉(のもとじんじゃ)は 元和二年(1616)の棟札に「大神宮大六天魔王野本村鎮守也」と記され 享保の初め(1716年~)の火災で小祠となったと伝わります 延喜式内社 伊豆国 那賀郡 箕勾神社(みのわの かみのやしろ)の論社でもあります

箕勾神社(松崎町峰輪)

箕勾神社(みのわじんじゃ)は 創建年代など不詳ですが 頗る古社で 天神の杜(もり)に鎮座する天神社と呼ばれたと伝わっています 延喜式内社 伊豆国 那賀郡 箕勾神社(みのわの かみのやしろ)の論社ともされています

小祝神社(高崎市石原町)

小祝神社(おぼりじんじゃ)は 創建は不詳ですが 大和朝廷の六国史『日本三代實録』元慶四年(880)の条に゛小祝神 正五位上゛と見え 『延喜式神名帳927 AD.』所載 上野國 片岡郡 小祝神社(をはふりの かみのやしろ)〈 上野國の式内社 上野十二社の第七社〉に比定さる古社です ご祭神は 医薬及び穀霊神 少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ります

宇通遺跡(前橋市粕川町中之沢)〈三夜沢赤城神社の元宮地〉

宇通遺跡(うつういせき)は 昭和40年の山火事によって偶然発見され 群馬大学史学研究室が発掘調査を担当「この寺院遺跡は火災〈『吾妻鑑』建長3年(1251)「上野国赤木嶽焼」〉によって終焉した 三夜沢赤城神社に伝承として残る゛西宮の元宮地゛」と推定した しかし 200mほど下った湯之口地区にも礎石建物の存在があり そこは元三夜沢と通称されており こちらが西宮の故地であるとも云われます

大洞赤城神社 元宮跡地(前橋市富士見町赤城山)

大洞赤城神社 元宮跡地(おおほらあかぎじんじゃ もとみやあとち)は 社伝には 当初は神庫山(ほくらやま)〈現 地蔵岳〉に鎮座 大同元年(806)〈大沼の南畔〉この地に遷座 約1200年間鎮座した〈神社周辺は 遷座の年号に合わせ「大洞」と呼ばれ 当社も大洞赤城神社と称されたと云う〉 昭和45年(1970)現在の小鳥ヶ島(ことりがしま)に遷座 跡地となりました

大洞 赤城神社(前橋市富士見町赤城山)

大洞 赤城神社(だいどう あかぎじんじゃ)は 昭和45年(1970)社殿荒廃につき 大洞から現在地に遷座しました 小沼端の豊受神社 小鳥ヶ島の厳島神社 黒檜山山頂の高於神神社をはじめ 赤城山内の各峰神社を合祀して 現在に至っています 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の奥宮であろうとされています

二宮赤城神社(前橋市二之宮町)

二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)は 第十一代垂仁天皇 第十二代景行天皇の御代に創建と伝へられる古社 貫前神社に一宮を譲った伝承を持つ 二宮の地名を冠する鎮座地は 赤城山の真南に位置し 古代 豊城入彦命を祖とする上毛野氏の本拠地゛古代上毛野゛と推定され 赤城本宮とされる三夜沢赤城神社の元宮であったとも 里宮でもあったともされ 今でも御神幸があります

赤城神社(前橋市富士見町横室)

赤城神社(あかぎじんじゃ)は 標高三百メートルの十二山(じゅうにやま)の頂上に鎮座します 南面には三百三十三段の石段を登る表参道があります 社伝によれば゛当社は延喜式内 名神大社なり゛とあり 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の論社とされます

赤城神社〈三夜沢赤城神社〉(前橋市三夜沢町)

三夜沢赤城神社(みよさわ あかぎじんじゃ)は 関東平野を見渡す赤城山の南面の中腹に鎮座します 古代の毛野国を支配し 東國経営にあたった上毛野君の創祀とされ 本来は上野國の一之宮であったとする伝承があり 古くから朝廷から祭祀を受けていました 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の論社です

国渭地祇神社(坂戸市森戸)

国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)は 社記には 延暦年中(782~806年) 坂上田村麻呂が東征の帰途 報賽のため社殿を再営し 下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている 社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していること等から 延喜式内社 入間郡 國渭地祇社(くにゐちきの かみのやしろ)の論社にもなっています

北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉

北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました

川越氷川神社(川越市宮下町)

川越氷川神社(かわごえ ひかわじんじゃ)は 創建について 元禄九年棟札・正徳縁起に 欽明天皇 即位二年(521)辛酉九月十五日 武蔵国 足立郡 氷川神社を分祀奉斎したと伝える古社です 一説に゛氷川の神゛〈出雲神〉を祀る 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)とも伝わります

出雲祝神社(入間市宮寺)

出雲祝神社(いずもいわいじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の論社とされ 現存する棟札〈大宝二年(702)〉にも゛伊都毛伊波比再造゛と記されていています 社伝には 景行天皇の御代 日本武尊が 東夷征伐の時 小手指ヶ原で・天穂日命・天夷鳥命を祭祀創建された と伝わります

出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)

出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は 社伝「臥龍山宮伝記」に景行天皇53年 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際 凱旋し 天皇から賜った゛ヒイラギの鉾゛をおさめ神宝とし 出雲の大己貴命を祀った また 成務天皇の御代 武蔵国造 兄多毛比命(エタモヒノミコト)が 出雲の天穂日命を祀り 二柱を出雲伊波比神としたと伝わっています

伊波比神社(吉見町黒岩)

伊波比神社(いわいじんじゃ)は 和銅年間(708~715)の創建と伝え『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)とされます 元々は 出雲系の神を祀っていましたが その後 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られ「岩井八幡宮」と呼ばれていました

高負彦根神社(吉見町田甲)

高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は 吉見丘陵の東北端 ポンポン山〈玉鉾石〉に鎮座します 創建は和銅三年(710)と伝えられ 宝亀三年(772)の太政官符には 武蔵国の班幣対象社四社の内として「横見郡 高負比古乃社」と記される古社 延喜式内社 武蔵國 横見郡 高負比古神社(たけふひこの かみのやしろ)とされています

野芽神社(吉見町和名)

野芽神社(のげじんじゃ)は イネ科植物の穂先を芒(のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります 横見郷を見渡す吉見丘陵の上に鎮座し 郷土史研究家の説に 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)との推論もあります

横見神社(吉見町久保田)

横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と捉え 愛宕社の社地〈当地〉にお祀りしたものと伝えます 故に延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています

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