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下多賀神社(熱海市下多賀)〈『延喜式』白浪之彌奈阿和命神社〉

下多賀神社(しもたがじんじゃ)は 『豆州志稿』に「多賀両村の總鎮守にして大祠也 末社四十ありしを 皆 近村に移す」とあり 近隣の崇敬を集めた由緒深い神社で もともとは多賀大社と云うと里人は伝え 延喜式内社 伊豆國 田方郡 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことの かみのやしろ)の論社となっています

多賀神社(熱海市上多賀)〈『延喜式』白浪之彌奈阿和命神社〉

多賀神社(たがじんじゃ)は 創建年代は不明ですが 境内には 古代の祭祀遺跡「上多賀宮脇遺跡」があり 1958年(昭和33年)に発掘調査が実施されて 発掘品から古墳時代から飛鳥・奈良時代の祭祀跡と推定されています 延喜式内社 伊豆國 田方郡 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことの かみのやしろ)の論社です

松尾神社(甲斐市中下条)〈『延喜式』松尾神社の論社〉

松尾神社(まつおじんじゃ)は 創立については明確な記録は残されておらず 社記には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 松尾神社(まつのをの かみのやしろ)であると伝えています 近郷の最古社で松尾大明神と仰がれ 祭神は 大山咋神 大己貴命 若山咋神 少名彦命 中津島姫命の五神で 酒造りの神として多くの酒造家から崇敬されてきました

松尾神社(甲州市塩山小屋敷)〈『延喜式』松尾神社〉

松尾神社(まつおじんじゃ)は 社記によると 遠く景行天皇四十二年 山城国松尾大社より勧請し 現在地の東方四丁余りの地に創祀したと伝えられ 日本武尊(やまとたけるのみこと)が 武蔵へ向かう途中にここで休んだという褥塚(しとねつか)があります 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 松尾神社(まつのをの かみのやしろ)とされます

中尾神社(笛吹市八代町米倉)〈『延喜式』中尾神社の論社〉

中尾神社(なかおじんじゃ)は 平成十三年(2001)の失火により社殿は全焼 現在は石の祠と祭壇のみが奉斎されます 『甲斐國志』には「飯田氏の聞書に曰く 昔は大社にて毎年西郡三輪ノ社へ神幸ありしが何れの頃からか廃して小祠となり・・・」とあり 延喜式内社 甲斐國 八代郡 中尾神社(なかをの かみのやしろ)の論社とされます

中尾神社(笛吹市一宮町中尾)〈『延喜式』中尾神社〉

中尾神社(なかおじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇7年〈BC23〉正月の勧請と伝わる 延喜式内社 甲斐國 八代郡 中尾神社(なかをの かみのやしろ)で 天慶年中(938~947)には 藤原忠文が平将門征討の時 幣帛を奉ったと云う 旧号は゛飛永明神゛と呼ばれ 新羅三郎義光以来 武田氏代々に崇敬厚く社領が寄せられました

穴切大神社(甲府市宝)〈『延喜式』黒戸奈神社の論社〉

穴切大神社(あなぎりだいじんじゃ)は 社伝に 和銅年間(708~715)当國が未だ湖水であった時 國司が朝廷に奏上し 大己貴命に祈願して鰍沢口を切開き 水を南海に注ぎ盆地一帯を良田とした 御神助に讃仰し神祠を此所に建て 当初は黒戸奈神社と称したが 崇号を朝に奏請して 穴切大明神を賜ったと伝わります

細草神社(甲府市平瀬町)〈『延喜式』黒戸奈神社の論社〉

細草神社(ほそくさじんじゃ)は 由緒は不祥ですが 社伝には゛この地は 皇師〈日本武尊〉の駐屯せし所なり゛と云い伝え 『甲斐国志』には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)としています 『甲斐国社記・寺記』に 大永三癸未年(1523)地頭駒井越後守本願 窪寺豊前守御崇敬し社殿を建立とあります

黒戸奈神社(甲府市黒平町)〈『延喜式』黒戸奈神社〉

黒戸奈神社(くろとなじんじゃ)は 創建年代は不詳です 社記には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)であるとしています 金桜神社の末社百二十社の内であり 本殿内幣束に大山祇命 手置帆負命 彦狭知命 八耳皇子と共に鎮風神鎮火神と記し 文化二年(1805)とある と伝えています

黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)〈『延喜式』黒戸奈神社〉

黒戸奈神社(くろとなじんじゃ)は 景行天皇の御宇創立〈天皇皇子 日本武尊 東夷平定の後 当国鎮護 萬民幸福を祈る爲め 素戔鳴尊の神璽を出雲國より奉迎し奉り 唐土明神と称へ奉る〉文武天皇 大宝二年(702)勅を奉じて社号を黒戸奈神社としたと云う 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)とされます

山梨岡神社(山梨市下石森)〈『延喜式』山梨岡神社〉

山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が東夷征伐の折 勧請したと云う 尊が腰を掛けたという御腰掛石があります 神護景雲2年(768)坂上苅田丸が社殿を造営し 貞観元年(859)甲斐守紀貞守 幣を奉る 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の論社です

山梨岡神社(笛吹市春日居町鎭目)〈『延喜式』山梨岡神社〉

山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は 背後の御室山(みむろやま)を御神体とする古代信仰であったとされ 第十代 崇神天皇の御代 国内に疫病の流行や災害が多発し これを憂い勅命により御室山中腹に創祀され 第十三代 成務天皇の御代 麓の梨樹を伐り拓いて神戸を遷し「甲斐ヶ根・山梨岡神社」と号したと伝えています

吾妻屋宮(笛吹市春日居町鎮目)〈『延喜式』甲斐奈神社・山梨岡神社〉

吾妻屋宮(あずまやぐう)は 社記に「日本武尊が東征の折に当地の山路〈虫切坂〉で休息したことに因み 旧跡を「四阿山権現(あづまやさん ごんげん)」として尊を祀り創祀」と云う 延喜式内社 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の旧鎮座地とする説 甲斐奈神社(かひなの かみのやしろ)であるとする説があります

甲斐奈神社〈神祖宮〉(笛吹市一宮町橋立)〈『延喜式』甲斐奈神社〉

甲斐奈神社〈神祖宮〉(かいなじんじや)は 神祖明神 又は 林部宮 橋立明神とも呼ばれ 創建は古く延喜式内社 甲斐國 山梨郡 甲斐奈神社(かひなの かみのやしろ)で総社であった 江戸前期までは祭礼の日に笛吹川東の神主が全て当社に参集して神楽を奏し、五穀豊穣の祈禱をしたと伝わる大社でした

甲斐奈神社〈守ノ宮〉(笛吹市春日居町国府)〈『延喜式』甲斐奈神社〉

甲斐奈神社〈守ノ宮〉(かいなじんじゃ)は 奈良時代に甲斐国の国府の置かれた場所とされ 神亀三年(726)聖武天皇 天平年中(747)国司 田邊史広足が峡之神社と名付け創建した 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 甲斐奈神社(かひなの かみのやしろ)と伝わります 守ノ宮明神ともいい 四ノ宮(国守ノ宮)が転訛したとも云う

甲斐奈神社 元宮(甲府市愛宕町)〈『延喜式』甲斐奈神社〉

甲斐奈神社 元宮(かいなじんじゃ もとみや)は 第2代 綏靖天皇の御代 皇子 土本毘古王が 甲府盆地一面の湖水を切り開き給い 甲斐奈山(現・愛宕山)の頂きに白山大神を祀り創建されたと伝わる 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 甲斐奈神社(かひなの かみのやしろ)の古社地です

甲斐奈神社(甲府市中央)〈『延喜式』甲斐奈神社〉

甲斐奈神社(かいなじんじゃ)は 第2代 綏靖天皇の御代 皇子 土本毘古王が甲斐奈山(現・愛宕山)の頂きに白山大神を祀り創建されたと云う 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 甲斐奈神社(かひなの かみのやしろ)とされます 永正年間(1504~1520)武田信虎〈武田信玄の父〉の築城に際し 現社地に遷座されました

八幡神社(南アルプス市上宮地)〈『延喜式』神部神社の山宮〉

八幡神社(はちまんじんじゃ)は 嘉永年間(1848~1854年)三輪神社〈今の・神部神社(南アルプス市下宮地)〉の山宮であった 大神山伝嗣院より この八幡神社に遷座し゛三輪山宮社゛と称したと伝わり 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)の山宮と考えられています

神部神社(北杜市須玉町小尾)〈『延喜式』神部神社〉

神部神社(かんべじんじゃ)は 崇神天皇の御代 当社前の御門 神戸は神地とされたと云う 又 日本武尊が東征の折り 東小尾で湯治し当社前を通り猛獣 毒蛇 叛賊を退治して東征に向かったと伝わり 文武天皇の大宝元年(701) 四柱を祀ったのが創立と云う 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)の論社です

南宮大神社(韮崎市大草町上条東割)〈『延喜式』神部神社〉

南宮大神社(なんぐうだいじんしゃ)は 社記によれば 平安時代の名将 源義光〈新羅三郎義光〉が 甲斐任国の時 崇敬して社壇を造営したと云う 武田一条氏が 当社を産土神として崇敬し その支族の武川衆諸氏も協力して当社に奉仕した記録も伝へている 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)の論社です

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