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桙衝神社(須賀川市桙衝亀居山)〈『延喜式』桙衝神社〉

桙衝神社(ほこつきじんじゃ)は 社伝によれば 日本武尊が御東征の折り この神居山(亀居山)に柊の八尋の矛をつきたて 武甕槌神を祀ったのが神社草創の始めとされています 一説には日本武尊ではなく 武甕槌命の事績に由来するとも云う 延喜式内社 陸奥國 磐瀬郡 桙衝神社(ほこつきの かみのやしろ)です

杵衝神社 (笛吹市御坂町)〈二之宮 美和神社の古社地〉

杵衝神社 (きつきじんじゃ)は 二之宮の美和神社の古廟と云われ 景行天皇の御宇 國造 鹽海足尼(しほみのすくね)が 日本武尊(やまとたけるのみこと)の命を奉し勧請する所で 雄略天皇十二年九月に 現在の美和神社の地に遷し祀ると伝わります 『三代実録』゛美和ノ神゛であり 『延喜式』゛桙衝神社゛との説もあります

美和神社(笛吹市御坂町二之宮)〈『三代實録』美和ノ神〉

美和神社(みわじんじゃ)は 景行天皇の御代 日本武尊の命にて甲斐國造 塩足尼が大和國 大三輪神社から勧請し奉ったと伝わる ゛美和ノ神゛として六国史『三代実録』に記されている国史見在社です 一条天皇の御宇 第二之宮の号を賜り その後も鎌倉家・足利家・武田家・徳川家の崇敬厚く 社殿造営の保護がありました

阿伎留神社(あきる野市五日市)〈『日本三代實録』畔切神『延喜式』阿伎留神社〉

阿伎留神社(あきるじんじゃ)は 『日本三代實録』畔切神(あきるのかみ)『延喜式』には 武蔵國 多磨郡 阿伎留神社(あきる の かみのやしろ)と記された古社です 天慶3年(940)鎮守府将軍 藤原秀郷が平将門征討に際し戦勝を祈願 山城国の大原野明神(京春日)を勧請したと伝わり 鎌倉以降も武将の信仰が篤かった神社です

将門神社(奥多摩町棚澤)&〈境内 式内論社〉穴澤天神社

将門神社(まさかどじんじゃ)は 日本武尊が東征の時 素戔嗚尊・大己貴命を祀った穴沢天神を創祀とし 延喜年中に鎮守府将軍 藤原利仁が八千戈命を祀り多名沢神社を起こし その後 平良門が亡父 平将門公の霊像を彫作して奉納 平将門が祀られて 平親王社と呼ばれた 穴沢天神社は 多名沢神社〈平親王社〉の奥の院となったと云う

鉾衝神社(笛吹市八代町米倉)〈『延喜式』鉾衝神社〉

鉾衝神社(ほこつきじんじゃ)は 社伝には 仁徳天皇 四年(424年頃)の創立と云う 御祭神 天鈿女命を祀る 延喜式内社 甲斐國 八代郡 桙衝神社(ほこつきの かみのやしろ)と伝わります 中世 矛立明神と称し 甲斐名勝志に載って以来 鉾衝明神と改め 明治元年 現社名の延喜式 鉾衝神社に復称して 明治六年郷社に列しました

柴宮神社(甲府市善光寺)〈御室山の山頂 石祠(玉諸社)の合祀先〉

柴宮神社(しばみやじんじゃ)は 本神社の東北にある御室山〈月見山の別名〉の山頂 石祠(玉諸社)を相殿に合祀してあります この御室山の山頂の祠は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の当初の鎮座地とされ いつの頃か柴宮神社の第一攝社となり 現在は合祀されています

玉諸神社 拝殿跡(甲府市善光寺)〈゛御室山゛山頂 石祠(玉諸社)の遥拝所〉

玉諸神社(たまもろじんじゃ)拝殿跡(はいでんあと)は 御室山の遥拝所とされます この御室山は゛國に大なる変が有る時 此山大きに鳴といふ 輕き時には少しなるといふ゛と伝わる御神体の゛御室山゛〈月見山の別名〉です 山頂の祠は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の当初の鎮座地とも云われています

玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮『延喜式』玉諸神社〉

玉諸神社(たまもろじんじゃ)は 社記に 甲斐国の上代 酒折宮の北方 三室山の山上に祀られ 日本武尊が東征の帰路 酒折の宮に滞り国中の反乱を鎮め 景勝の地に国玉神を祀られたのが創始と云う 又 一つの珠を埋め 上に杉一株を植ゑられた これを玉室杉と称し玉諸の名起ると云う 式内論社 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)です

玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〈『延喜式』玉諸神社〉

玉諸神社 奥宮(たまもろじんじゃ おくみや)は 社伝によれば かつて高さ7尺 周囲6尺8寸の水晶の玉が神体として祀られおり この神体が神社名の由来と云う 玉諸神社(甲州市塩山竹森)の北東約600m竹森山(水晶山)中腹に奥宮として鎮座する 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社です

玉諸神社(甲州市塩山竹森)〈『延喜式』玉諸神社〉

玉諸神社(たまもろじんじゃ)は 創建勧請の年代は不祥ですが 祭神は 天羽明玉命〈八坂瓊五百箇御統玉(やさかにのいほつみまるのたま)を造った神〉を祀り 高さ七尺余(約212cm)周囲六尺八寸(約206cm)許りの水晶を御神体としていると伝わる 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社です 

老尾神社(匝瑳市生尾)〈匝瑳郡の総鎮守『延喜式』老尾神社〉

老尾神社(おいおじんじゃ)は 式内社 老尾神社(をいをの かみのやしろ)です 社伝には 経津主神の御子 阿佐比古命を祭神として 崇神天皇の御宇 神田を附し恆例の祭祀はこの時より初まると云う 又『續日本後紀』に物部小事(おごと)大連が坂東を征した功勳により 鎮座地 匝瑳郡は建郡されたと記され 祭神は小事とする説があります

蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)〈『延喜式』 蘇賀比咩神社〉

蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は 日本武尊が東征の際 走水海で暴風雨に遭い 后の弟橘姫が同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じ それを鎮めました 社伝には その一人 蘇我大臣の娘 蘇我比咩は浜に打上げられ 里人により蘇生し都に帰った これを知り応神天皇が国造に任命した蘇我氏により 春日神・比咩神を祀り創建と云う

橘樹神社(茂原市本納)〈『三代實録』橘樹ノ神『延喜式』橘樹神社〉

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は 『古事記』に「日本武尊の后・弟橘比賣命が走水の海に身を投じて 七日の後 后の櫛が海辺に依りき その櫛を取りて御陵を作り治置きき」と記され 社伝では 尊が后の櫛を納めた御陵を作り 橘の木を植えたのが創祀と伝える 延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)です

姉埼神社(市原市姉崎)〈『三代實録』姉前ノ神『延喜式』姉﨑神社〉

姉埼神社(あねさきじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が御東征の際 走水の海で暴風雨に遭い お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ この地 宮山台でお妃を偲び 風神 志那斗弁命を祀ったのが創建と云う その後 景行天皇が日本武尊を祀った 延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)です

島穴社原地碑(市原市島野)〈式内社 島穴神社の旧鎮座地〉

島穴社原地碑(しまあなしゃげんちひ)は 社伝には日本武尊が東征の時 風神 志那津比古命を祀り創建 景行天皇が日本武尊・倭比賣命を合祀 昔 この地〈この丘〉にある深坎(しんかん)から常に清風が起り 島穴の社名の由来となった 延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)の旧鎮座地で天正3年に現在地に遷座

島穴神社(市原市島野)〈『三代實録』嶋穴ノ神『延喜式』嶋穴神社〉

島穴神社(しまあなじんじゃ)は 第12代 景行天皇の御代 日本武尊が東征の時 走水の海で暴風に遭われ 弟橘姫命が大和国の風鎮神 龍田の神を拝み 海中に身を投じ暴風が止んだ 無事に上陸ができた尊は 妃のご祈誓に従い ここに風鎮の神 志那都比古尊を祀られたと云う『延喜式』嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)です

飽富神社(袖ケ浦市飯富)〈『三代實録』飯富ノ神『延喜式』飫富神社〉

飽富神社(あきとみじんじゃ)は 第二代 綏靖天皇元年創建と云う 古代の中央豪族 飫富(おふ)氏にちなんだ社名「飫富神社」であったが文字の誤伝から「飯富(いいとみ)神社」「飽富(あきとみ)神社」と代わったと云う 『三代實録』には 飯富ノ神と記され 『延喜式』には 上緫國 望陀郡 飫富神社(おふのかみのやしろ)と記されます

遠賀神社(鶴岡市外内島字明神川原)〈『延喜式』遠賀神社〉

遠賀神社(おがじんじゃ)は 中世に赤川が乱流していた所「外内島(とのじま)」に鎮座します この地名の語源は 赤川の旧称である外川と内川の間にできた島という説 名請人 戸内大夫(とのうちだゆう)(神主)と関連するとの説もあります 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)の論社です

遠賀神社(鶴岡市遠賀原字高間々)〈『延喜式』遠賀神社〉

遠賀神社(おがじんじゃ)は 遠賀神社と云ふ額面が殘っていたとあり これを説として 稻荷は「タウガ」と読み 遠賀も亦「タウガ」と訓む 故に中世には 遠賀神社を稻荷神社とし 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)であるとされていました

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