明神社(あきらじんじゃ)は 旧鎮座地は現在の愛宕山の西方に広がる丘の上でしたが 天正年中(1573~1591)荒廃著しく現在地へ奉遷しています 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 志婆加支神社(しはかきの かみのやしろ)の論社とされ 又 御巫 清直〈江戸時代末期の国学者〉の説では 延喜式内社 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちのかみのやしろ)と推察しています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
明神社(Akira shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県津市芸濃町楠原 303
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊邪奈伎命(いざなきのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
《配》饒速日命,市杵島比売命,迦具土命,倉稲魂命,木花佐久夜比売命,金山彦命,品陀別命,大山祇命
《合》大己貴命,建速須佐之男命,五男三女神,菅原道真,国之狭槌命,熊野久須毘命,八衢比古神,恵那津彦命,多伎津比売命,八衢比売命,活津彦根命,久那戸神,天忍穂耳命,天津彦根命,天穂日命,多紀理比売命,
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当社は、もと延喜式内志婆加支神社であったとする説があり、異説のあって定かではないが、旧御社地は現在の愛宕山の西方に広がる丘の上にあり、岩坂に出る道が参道であったようである。
御手洗という小字名は、参道途中の手水舎の古跡でそのあたりを無里(無郷)をいう由である。現在の「底田」は古く舟底田御薗と言い上古、内宮の御神領で毎年籾六斗を内宮の倉庫へ上納していたことが「神鳳抄」に見えている。
天正年中(1573-1591)社頭の荒廃著しく現在地へ奉遷したということである。
明治四〇年の頃には林地区を除く旧明村各地に村社、無格社が三八社を数えたが、明治四一年各地区一社計六社に合祀し、同四五年一月四日現在の鎮座地にすべての社を合祀して明神社と単称し今に至ったものである。皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会・三重県神社庁HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63308
【由 緒 (History)】
おさよの池
昔、大雨のたびに池の堤が破れるので人柱を立てることになり、参宮の途中で親とはぐれて迷子になっていた才(又はさよ)という少女を生き埋めにしたところ雨も降らないのに大水が出たり、病人が出たりとわざわいがおこったため、手厚く供養したという伝説が残る。明神社の中にある。
三重県環境生活部文化振興課HPより
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/map/detail?b_id=454072
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
明神社(津市芸濃町楠原)は 二つの式内社〈①奄藝郡 比佐豆知神社②鈴鹿郡 志婆加支神社〉の論社となっています
①奄藝郡 比佐豆知神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)奄藝郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 比佐豆知神社
[ふ り が な ](ひさつちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hisatsuchi no kaminoyashiro)
②鈴鹿郡 志婆加支神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 志婆加支神社
[ふ り が な ](しはかきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shihakaki no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『大神宮叢書』第3 後篇に記される゛式内社 志婆加支神社の論社゛について
『伊勢式内神社檢錄』鈴鹿郡の条〈江戸時代末期の国学者 御巫 清直(みかなぎ きよなお)1812年~1894年(明治27年)の著書〉には 能褒野神社に〈明治41年(1908)〉合祀される前の 式内社志婆加支神社の論社について記しています
【抜粋意訳】
伊勢式内神社檢錄 鈴鹿郡 志婆加支(シバカキノ)神社
此社號も地名なるらし。神名帳傍注に、楠原村の天神乎、とあり。考證、雜記、拾遺、俚諺、名所圖會、徵古錄等これに雷同すれども、楠原は奄藝郡にして本郡に隷せず、無稽の牽強論するに及ばす。
案内記、宮地記には、川崎村ノ内、上芝崎村ノ乾、宮屋鋪と云字あり、方一町に半丁許芝生高埜なり、里よりは二町許も上る、と云ひ、鈴鹿郡賦にも、しはかきは しは崎にして、川崎の宮屋しきてふ地名こそ廃社の跡か、といへり。
遺響にも、河崎邑ノ内柴崎に古昔神社あり、今廃してなし、村老に探尋するに、峯ノ城舊址の北に宮やしきと云處あり、土人柴垣さまと稱せり、然れども社宇なしと答ふ、愚案するに本郡川崎村に柴崎と云地あり、志波加伎に音邇し、加伎は後世に佐伎に轉訛する處にして、志波加伎は舊名なるへし、然れども今は廃社にして其地定り難し、本邑ノ内柴崎と云處と峯城舊墟ノ北と二處に舊名存すといへとも、社宇はなし、と詳細に記せり。
仍て これを檢査するに、川崎村ノ西田畝を隔て山際に芝崎世古と云ふ出屋鋪あり。其南ノ山峯氏の城跡なり。其西ノ山腹に、寬政九年八月廿日再興と稱して建築せる志波加支社ありて、艮に面せる小祠なり。
又諸誌に謂ふ所の宮屋鋪は此芝崎の乾位に當りて、小山の上に八幡、愛宕を祀る祠あり。土人は宮垣樣と稱す。諸書此二ヶ處を紛混して廃社とするは妄なり。併両社ともに眞の本社たるへき確証なし。地勢も式社の形狀にあらず。猶他村を探索すへきにや。
然るに實曆九年八月上進せる伊勢國龜山領内神社記に云く、片岡大明神〔延喜式内、〕志婆加支神社、祭所武甕槌神、〔神主〕大久保和泉、とあるに據て龜山藩上申書に、本社を龜山西町南三丁俗に角森と云、社地の邊を片岡とも角落とも云、又西に績て芝原と云村有しか、中古野村に移ると載す。其片岡角ノ森の小社を檢するに、狭少ノ叢祠にて、本社たるへき證ある事なし。芝原といふ地は小祠より三四丁許西にありて、社地には迂遠なる名稱なり。論するに及ばぬ浮妄にこそ。
然して志婆加支の稱は姓氏錄に、柴垣ノ連は饒速日命十二世ノ孫懷大連之後也。舊事紀にも、物部布都久留大連之子 小事ノ連ノ公柴垣ノ連等ノ祖、とある柴垣の氏人村邑を建置して地名に負せ、祖神を祀て志婆加支神社と稱するにこそ。其意を以て考索をなすへき事なりかし。
【原文参照】
延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 志婆加支神社(しはかきの かみのやしろ)
・明神社(津市芸濃町楠原)
・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 志婆加支神社(亀山市田村町 鎮座)〉
・亀山神社(亀山市西丸町)
〈亀山神社に合祀 志婆加支神社〈江戸時代には片岡明神(亀山市西町角森 鎮座)〉
延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちの かみのやしろ)の論社について
・比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)
・明神社(津市芸濃町楠原)
伊勢國 安濃郡にある 同名の式内社 比佐豆知神社(ひさつちの かみのやしろ)の論社について
・比佐豆知菅原神社〈草生天神〉(津市安濃町草生)
・比佐豆知神社〈雨土御前〉(津市鳥居町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR関西本線 関駅から鈴鹿川を渡って伊勢別街道を東南へ約2.8km 車で7分程度
伊勢別街道沿いに゛楠原常夜燈゛があり そこを左折〈北側へ曲がる〉すると参道になっています
南を向いて参道はあり こんもりとした鎮守の杜に鳥居が建ちます
明神社(津市芸濃町楠原)に参着
社頭には 駐車場があります
駐車場の立て看板の後ろの金網柵は 山から獣害が下りてこないように対策の為に設置されている電気柵です
鳥居の前まで来て きけんと書かれた立札があるので 電気柵であると確認できます
いつもならば 電気柵の取っ手を取り外して入り 戻しておけば良いのですが しかし 御覧の通り 雨がかなり降っていて 取っ手の部位も びしゃびしゃに濡れていて 感電を想像してしまい 鳥居の前から遥拝することにしました
ですから 鳥居の前で一礼をします
お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
参道の先には 石段があり その上に社殿が見えています
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 比佐豆知神社について 所在は゛寺家村に在す゛〈現 比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〉と記しています
【抜粋意訳】
比佐豆知神社
比佐豆知は假字也
○祭神詳ならず、〔俚諺云、木花開耶姫〕
〇寺家村に在す、〔俚諺〕
類社
当国 安濃郡 比佐豆知神社の條見合すべし
【原文参照】
式内社 志婆加支神社について 所在は゛柴崎村に在す゛〈現 能褒野神社(亀山市田村町)に合祀の(柴崎村に鎮座した)志婆加支神社〉と記しています
その他に゛在に楠原村、称に天神此乎゛〈現 明神社(津市芸濃町楠原)〉の説も紹介しています
【抜粋意訳】
志婆加支神社
志婆加支は假字也
〇祭神詳ならず
○柴崎村に在す、〔俚諺〕
考証云、大八洲霊、勢陽俚諺是に從ふ、據を志らず、又考証に、在に楠原村、称に天神此乎、俚諺に、未詳、今考柴崎村と云り、今是に從ふ、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 比佐豆知神社について 社号のみが記されています
【抜粋意訳】
比佐豆知(ヒサヅチノ)神社
【原文参照】
式内社 志婆加支神社について 社号のみが記されています
【抜粋意訳】
志婆加支(シメカキノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 比佐豆知神社について 祭神 所在など未記入です
ただし 考証が指している三つの論社を挙げているが いずれも確証がないので 他に求めるべきである と記しています
①寺家村観音寺内の木立明神〈現 比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〉
②寺内の富士祠〈現 比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〉
③町屋村千王神社〈現 千王神社(津市栗真町屋町)〉
【抜粋意訳】
比佐豆知神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに考證は 平野村産神案内記には寺家村観音寺内の木立明神 徴古錄には同寺内の富士祠 津藩明細帳には町屋村千王神社と謂ふ 各社を檢索するに何れにも確証とすべきものなし 猶他に覓(もと)むべきなり
【原文参照】
式内社 志婆加支神社について 所在の考証のみが記され 三ヶ所の論社を示しています
゛奄藝郡楠原村 天神社に配せれ゛〈現 明神社(津市芸濃町楠原)〉
゛川崎村芝崎組の乾に宮屋舗と稱する地゛〈現 能褒野神社(亀山市田村町)に合祀の(柴崎村に鎮座した)志婆加支神社〉
゛龜山西町南三町角落の森なる小祠に配す゛〈現 亀山神社(こ合祀片岡神社(亀山神社の境内鎮座)〉の説も紹介しています
【抜粋意訳】
志婆加支神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに傍注以下の諸書に奄藝郡楠原村 天神社に配せれと郡差へり 案内記 郡賦等には川崎村芝崎組の乾に宮屋舗と稱する地あるに填たるに 寛政九年八月坤の山に再興す
又 龜山藩上申書に龜山西町南三町角落の森なる小祠に配す右三所何れも確証なくして決しがたし
【原文参照】