横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と捉え 愛宕社の社地〈当地〉にお祀りしたものと伝えます 故に延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
横見神社(Yokomi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県比企郡吉見町久保田117
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
《合》伊弉冊尊,速玉之男命,泉津事解之男命,大己貴命,豊城入彦命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
社伝によれば 建長年間(1249~56)に起きた大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と考えて 愛宕社の社地にお祀りしたものと伝えます
横見神社本殿
更新日:2021年04月01日
-町指定 建造物-
新編武蔵風土記稿によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。 境内には稲荷社・八坂社・天神社・八幡社・熊野社があり、覆殿(おおいでん)内にある本殿が、町指定の建造物である。本殿の大きさは表4尺1寸、妻3尺7寸、向拝4尺5寸で、彫刻や飾り金具を多用して建立されている。
吉見町役場生涯学習課 文化財係HPより
https://www.town.yoshimi.saitama.jp/soshiki/shogaigakushuk/7/424.html
【由 緒 (History)】
横見神社
吉見町久保田一一七(久保田字赤城)
久保田は 北境を主要地方道である東松山鴻巣線が走り、集落は自然堤防上にほぼ分布している。『郡村誌』に「平坦運輸便利」と記され交通の便が良かったものの「時々水旱に苦しむ」ことがあった。
当社の創建は水害にかかわっている。『風土記稿』には旧社号の飯玉明神社として「当社は元御所村なりしが、水災に逢て漂着せしを、取上て爰に祀とて、此地そのかみ愛宕社地なりしが、今は衰て却て末社となれり、無量寺持」と記されている。
社伝によれば、これは建長年間(一二四九~五六)に起きた大洪水の際の出来事と伝え、窪田村(当時)に流着した神体を貴い神の来臨と考えて祀り、洪水の被害後の村の復興のために豊作が祈られたという。無量寺は新義真言宗の寺で息障院の末寺である。「新井家文書」の寛政十年(一七九八)の記録によれば、祭祀・管理費を通常は別当である同寺に負担してもらっていたが、総鎮守として社殿修復費が多額になる時があり、その際には村持ちの田地を同寺に譲渡して村民が負担している。こうした村掛かりは当然のことであったとしても、別当掛かりのままにしないという心意気が汲み取れるであろう。
当社の社号は旧社号とも、本社である御所の横見神社に倣っており本社が明治初年に改称したことから、当社も明治四年の村社列格を機に同社号に改めている。
『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋
横見神社の建立
横見神社は、安永5年(1776)久保田村の他、上細谷(かみほそや)村・下細谷(したほそや)村・御所(ごしょ)村・中新井(なかあらい)村・谷口(やぐち)村・和名(わな)村・小新井(こあらい)村計8ヶ村の鎮守として建立されていました。元々は、御所村にあった飯玉氷川神明社が水害によって、同地に流れ着いたという由緒があります。この神社の建立には、新井家第7代当主野松(やしよう)(宇左衛門)が関わっており、多くの文書が残されています。鎮守分小作取立帳等によれば、建立された後も神社の小作地に関する管理については、新井家が担っていたようです。
『新井(侊)家文書』より 平成22年5月 埼玉県立文書館
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社頭の社号標 横見神社と刻字
・石鳥居
・社殿
・標柱゛建造物町指定文化財 横見神社本殿゛
覆屋の中に鎮座するご本殿は 江戸時代中期の安永5年(1776)に建立された町指定文化財
建造物町指定文化財 横見神社本殿
文化財の現状
本殿は、表4尺1寸、妻3尺7寸、向拝4尺5分からなる。一間社流造の柿葺建造物であり、豊富な彫刻とともに、柱や構造材にまで地彫を施し、かざり金具を打った典型的彫刻充填式の建築である。安永五年(一七七六年)建立。
社頭の標柱より
・愛宕社〈社殿向かって右手 古墳の上に鎮座〉
元々は この境内地は 愛宕社であった
しかし 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と考えて 愛宕社の社地にお祀りしたもので 現在迄に主客逆転し 愛宕神社は摂社として今に至っている
〈社殿向かって左 境内社6社〉
社殿向かって右より
・熊野社〈本殿周囲透塀の内 本殿の向かって左〉
・天神社・八幡社合社
・稲荷社
・八坂社・赤城大神の石祠
・社殿改築等の記念石碑
・ロープで囲まれている樹木〈立札があるが 文字の判読できず〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)横見郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 横見神社
[ふ り が な ](よこみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yokomi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れ(いわれ)について
この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りです
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます
これは第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛横渟(よこゐ)゛伝承
埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が 武蔵国造の地位をめぐって争った事が 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時の武蔵國が 東国の蝦夷(えみし)への前線として 朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
因みに 武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りで 第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
【抜粋意訳】
第十八巻 安閑天皇 宣化天皇
安閑天皇 元年閏十二月の条
武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)とが 国造(くにのみやつこ)の地位を争い 長年決着しなかった
※使主(おみ)・小杵(おき)はどちらも名前です
小杵(おき)は 性格が激しく逆らうことがあった 心が高慢で順(まつろう)〈従う〉ことがなかった
ひそかに上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に助を求め 使主(おみ)を殺そうと謀りました
使主(おみ)は悟って 逃げ走り 京(みやこ)に詣で到り 実状を言上しました
朝廷は 臨断〈裁断〉を下され 使主(おみ)を国造(くにのみやつこ)とし 小杵(おき)を誅殺しました国造(くにのみやつこ)使主(おみ)は 恐懼感激して黙し得ず〈黙っていられなくなるほど 喜びが心に満ちた〉
国家のために・横淳(よこぬ)〈横渟(よこゐ)〉・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四力所に屯倉(みやけ)を設け奉りました
この年 太歳甲寅(をほとし きのえとら)
【原文参照】
延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社について
・横見神社(吉見町御所)
・横見神社(吉見町久保田)
〈建長年間(1249~56)大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 現在まで祀られている神社〉
・氷川神社(吉見町上細谷)
・吉見神社(熊谷市相上)
・野芽神社(吉見町和名)〈郷土史研究家による推定 参考論社〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東武東上線 東松山駅から県道27号を東へ約5km程 車10分程度
神社の社殿横に広い空き地がありますが 普段は閉鎖されていますので 駐車出来ません 祭事の時などは開放するのだと思います
境内の東側と南側は まるで神社の濠の様に 横見川〈現在はコンクリートで養生された用水路の様相〉が流れていて この流れが直角に曲がっているのでかつて 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着して創建された この社が建てられた由縁の地形となっているのが判ります 社頭を流れる横見川
社頭には 社号標「横見神社」があり 一直線の参道に鳥居 その先に社殿が見えています 社殿と境内は南南東を向いています
横見神社(吉見町久保田)に参着
参道向かって右側の建物は 集会所or社務所だと思いますが 高床式になっていて やはり水が出る場所なのでしょう
参道を進み 鳥居の前で一礼をしますが 注連縄が懸かり 自然と頭をたれながら鳥居をくぐります
参道は 樹木の中を抜けるようなイメージ
その先は広い空間に出ます
拝殿にすすみます
拝殿の古い扁額には 横見神社と記されています
拝殿の柱にも注連縄が懸かり 自然と頭をたれながら
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の向かって左側には 境内社が並んで祀られています
社殿に一礼をすると 向かって右手に古墳があり愛宕社が祀られています
参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
横見神社(吉見町久保田)について 元々は 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉であったが 洪水で神体が漂着し 愛宕社の社地にお祀りしたものである と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之一九八 横見郡 巻之三 下吉見領 久保田村
飯玉明神社
當村 及び 上下細谷 御所 中新井 谷口 和名 小新井 等の八村の鎮守なり 神體は石劔なり
當社は 元御所村なりしが 水災に逢て 漂着せしを取上て 爰に祀とて 此地 そのかみ愛宕社地なりしが 今は衰て却て末社となれし 無量寺持
末社 愛宕社
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 横見神社の所在について (高負比古根神社に由来して 古くは高負村と呼ばれた)田甲村〈現 吉見町田甲〉の゛横見松゛と記していますが 現在どこにあるのかは判りません
その他に 御所村に飯玉氷川社〈現 横見神社(吉見町御所)〉
【抜粋意訳】
横見神社
横見は郡名に同じ
○祭神 素戔鳴尊、倉稻魂命、(地名記)
○田甲村に在す、(同上)
例祭、 月 日、
地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神拝の人是を横見神社と云、然れど村役人に問に証たる事なし、
又 田甲村名主云、三社共に田甲村にありと、此説も亦信用がたし、伊波比神社は黒岩村にあり、高負比古神社は田甲村にあり、尤此所に横見松などあれば、横見神社は田甲村なるべし、
類社
美作國 大庭郡 横見神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 横見神社について 社号のみ 記されています
【抜粋意訳】
横見(ヨコミノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 横見神社の所在について 御所村〈現 横見神社(吉見町御所)〉と記しています
【抜粋意訳】
横見神社
祭神
今按〈今考えるに〉
明細帳 祭神 素戔嗚尊 稲倉魂神 大己貴命とあり
武蔵式社道程命附に大己貴命はなくて 二社を祭る由 云れど主神は何れの神にますや詳かならず 思ふに素戔嗚尊 大己貴命の内 一座なるべし
稲倉魂命は由ありとも聞えざれば也祭日 九月十五日
社格 郷社
所在 御所村(比企郡西吉見村大字御所)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
横見神社(吉見町御所)について 一般に式内社 横見神社としている しかし村役人に聞いても判らないと答え むしろ(古くは高負村と呼ばれた)田甲村〈本文は 田中村と誤写している〉にあるという説を載せています
又「往古は 社内金の幣束を蔵せしが、中古 洪水ありて、社殿 久保田村に流失せし時に失へりと」と神体などが 横見神社(吉見町久保田)に流れて行って失ってしまった と記しています
【抜粋意訳】
〇埼玉縣 武蔵國 比企郡西吉見村 大字御所
郷社 横見(ヨコミノ)神社
祭神
建速須佐男(タケハヤスサノヲノ)命
櫛稻田比賣(クシイナダヒメノ)命創立年代詳ならずと雖も、延喜の制武内の小社に列し。当国四十四座の一に坐ます、
中古 当村 及 上細谷 下細谷 黒岩 御所谷口 中新井 久保田 七ケ村の鎮守にして、飯玉氷川明神社と称せり、新編武蔵風土記に云く、
「社ノ後ニ神木トテ、圍〈囲〉一丈五尺程ノ松アリ、此下ニ石槨アリト云フ、」
と見えたるが、明治五年六月二十八日、暴風雨落雷に当り、土地崩壊して石櫃発らはる、其の石蓋を開くに一物あるなし、
明細帳付記して云く「蓋シ太古国造県主等ノ墳墓ナラン」と、傳云ふ、
往古は 社内金の幣束を蔵せしが、中古 洪水ありて、社殿 久保田村に流失せし時に失へりと、
明治七年郷社に列せらる、社殿一宇、境内千九十六坪(官有地第一種)あり。新編武蔵風土記稿 及 特選神名牒 及 当國式社考 共に当社を以て 式の横見神社とすと雖も、
神社覈録 地名記に依り 田中村に在す と記し「地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神殿の人 是を横見神社と云、然れども 村役人に問に証たる事なし」と付記す、又 武蔵国式内四十四座神社命附にも「御所村ニ、飯玉氷川卜称スル社アレド、信ジカタシ、田中村ナルベシ、ト云アリ」と注す、参考に供す。境内神社 稲荷社 天神社
【原文参照】
横見神社(吉見町久保田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)