矢田坐久志玉比古神社(やたにいます くしたまひこ じんじゃ)は 物部氏の祖神 櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひのみこと)が 天神御祖の詔により天孫降臨をされた時 天磐舩(あまのいわふね)に乗り 天乃羽羽矢(あめのははや)三本を射放たれ この地〈矢田〉に落ちたので゛矢落社(やおちしゃ)゛とも称される〈先代舊事本紀〉故事由来の延喜式内社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
矢田坐久志玉比古神社(Yataniimasu kushitamahiko shrine)
【通称名(Common name)】
・矢落大明神(やおちだいみょうじん)
・矢田の大宮さん(やたのおおみやさん)
・矢落神社(やおちじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県大和郡山市矢田町965
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひのみこと)
御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・皇室の御繁栄・御鎮護 国民の安泰
・航空祖神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
旧縣社 矢田坐久志玉比古(ヤタニイマス クシタマヒコ)神社
御祭神 櫛玉饒速日命 御炊屋姫命 二座
延喜式内大社で、古くは矢落大明神 又は 矢田の大宮と稱し、神裔は雄族 物部氏である。
創建年代は不詳であるが、六世紀前半期の頃までは、畿内随一の名社として栄えたと伝えられ、当地方最大の古社である。
古典に「天磐船ニ乗リテ大空ヲ翔行リ」の故事により 航空神として斯界関係者の崇敬を聚め恩恵を蒙っている本殿二棟は 重要文化財
例 祭 十月第四土・日
綱掛祭 一月八日
航空祭 九月二十日
筒粥占祭 二月一日現地案内板より
【由 緒 (History)】
矢田坐久志玉比古神社(やたにいます くしたまひこ じんじゃ)
御祭神(ごさいしん)
櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひのみこと)
御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)
大和国(やまとのくに)添下郡(そふのしもごおり)筆頭(ひっとう)
二座共(にざとも)案上幣帛(あんじょうへいはく)の大社(たいしゃ)
(旧 県社)櫛饒速日命は、「天照坐皇大神(あまてらします すめおおかみ)の」詔(みことのり)により弟神「邇邇芸命(ににぎのみこと)」の天孫降臨(てんそんこうりん)に先立ち、豊葦原中津国(とよあしはらなかつくに)仮平定のため直径神族の御印である「天乃羽羽矢(あめのははや)」と、心身を守護する「天璽(あまつしるし)十種神寶(とくさのかむだから)」を授(さず)かり、天磐船(あめのいわふね)で天降(あのくだ)られました。
初めに河内国(かわちのくに)の河上の哮峰(いかるがのみね)(又はタケルガノミネ)に天降られ、祭祀(さいし)を営(いとな)まれましたがお住まい(宮居 みやい)とされず、再び天磐船にお乗りになり大和の天空(てんくう)を駆(か)け巡(めぐ)られながら、「吾(われ)を宮居の地に導(みちび)き給え」の御祈願(ごきがん)をされ、天乃羽羽矢(あめのははや)三本を射放(いはな)たれました。
この時の大和の天空を駆け巡られた状(さま)が「やまと」の最古の枕詞(まくらことば)の「そらみつ」のおこりで、この地に三本とも落ちましたので「矢田(やた)」と呼ばれ「矢落社(やおちしゃ)・矢田大宮(やたおおみや)」と称されています。
二の矢の落ちた所(境内)に、三十二従神(とものかみ)と古代雄族 物部(もののべ)氏を率(ひき)いられ天降られます。
この地を治(おさ)めていた大豪族 登美長髄彦(とみのながすねひこ)の妹、御炊屋姫を娶(めと)り宇麻志麻治命(うましまじみこと)がお産まれになります。
当地方最大の古社として創建(そうけん)より六世紀前半まで機内随一の名社として栄え社殿は宏壮美麗(こうそうびれい)を極(きわ)めますが、仏法興隆(ぶっぽうこうりゅう)とともに物部氏は四散(しさん)し社運(しゃうん)は衰退(すいたい)したと伝えられています。(中略)昭和の初めに内務省(ないむしょう)神社局(じんじゃきょく)が、天空を司(つかさど)る神(航空祖神 こうくうそしん)は、当社であると考証(こうしょう)したことから、空への信仰が加わり二宮忠八(にのみやちゅうはち)氏がたびたび参拝されました。
楼門(ろうもん)の、プロペラは昭和十八年に大日本飛行協会大阪支部から奉納の、満州事変(まんしゅうじへん)で使われた陸軍九一式戦闘機Ⅰ型から取り外された実物です。航空祖神(こうくうそしん)の額は、航空自衛隊初代 幕僚長(ばくりょうちょう)を務めた後、参議院議員になられ源田実(げんだみのる)氏の奉納です。御神徳
皇室の御繁栄・御鎮護 国民の安泰天璽十種神寶 医薬祖神
天磐船 航空祖神
九月二十日「航空祭」大空の発展・安全と航空関係者の慰霊
天乃羽羽矢 対岸成就・開運・必勝・合格
網掛祭 一月八日 五穀豊穣・家内安全・夫婦円満・子孫繁栄
筒粥占祭 二月一日直近の日曜日 五穀豊穣・生業繁栄摂社 舟人神 防衛の神・災厄消除・泥棒除け
現地案内紙より
由緒
当社は、奈良県大和郡山市矢田町矢田965番地に鎮座しており、櫛玉饒速日命(にぎはやひのみこと)、御炊屋姫命をお祀りしている。
延喜式内社で古くは矢落大明神又は矢田の太宮と称し、神裔(しんえい)は雄族物部氏である。創建年代は不祥であるが六世紀前半期の頃までは畿内随一の名社として栄えたと伝えられ当地方最大の古社である。
古典に「天磐船に乗りて大空を翔行(とびゆけ)り」の古事に基づき航空祖神としてぎ斯界(しかい)関係者の崇敬を聚(あつ)め恩恵を蒙っている。
本殿2棟は重要文化財で国宝である。
主な祭日 例祭10月10日、航空祭9月22日、特殊神事、網掛祭1月8日、筒粥占祭2月1日。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
・秋の例祭
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・本殿の向かって左側〈北西側〉(八幡神社《主》誉田別大神)
・本殿の向かって右側〈南東側〉(春日若宮神社《主》少毘古那命、天照大神,天津彦根神,天忍雲根神)
・拝殿
・二の鳥居
・青銅の神馬像
・二之矢塚
・北左右座假屋
・楼門
〈楼門の二階には゛航空祖神゛と揮毫の扁額と゛陸軍九一戦闘機のプロペラ゛が掲げられています〉
・神事の庫〈詰所〉
・手水舎
・社務所
・社頭〈勧請縄・社号標・一の鳥居〉
・〈綱掛祭〉勧請縄(かんじょうなわ)
〈区域の内・外の境に呪物を付した注連縄を張る〉
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・一之矢塚
・二之矢塚〈矢田坐久志玉比古神社の境内〉
・三之矢塚
伝承 邪馬台国想定地(三の矢塚)
旧事本記によると古代豪族物部氏の祖神 饒速日命が「天神の詔(みことの)りを受け天磐船(あまのいわふね)に乗りて大虚空(そら)をかけめぐり、この郷を巡りて天降ります。即ち虚空(そら)見つ日本国(やまとのくに)というは是か」とあります。
この時天神より「天の羽々矢(はばや)」「天の羽々弓」を賜り祝(ことほぎ)て三本の矢を射放ちて其の落ちた所に宮居せんとのたまいしと伝えられている。この三の矢塚は三番目の矢の落ちた所で土地の人々も昔からこの地を「みやどこ」(宮所)と呼んでいる。二の矢は五00米南の矢田坐久志玉比古神社の境内に磐船(いわふね)の破片といわれる磐座のあるところ、更に五00米余り南方には今も小字「一の矢」と呼ばれている土地がある。
物部氏の祖神 饒速日命を祭神とする矢田明神社を中心に南方はるか三輪山、大和三山などを一望できるこの要害の地こそ、物部王朝 邪馬台国説による、女王卑弥呼の宮居した伝承地にふさわしいと考えられる。
現地案内板より
・一之矢塚・二之矢塚・三之矢塚の地図
〈御旅所〉・主人神社(ぬしとじんじゃ)
《主》櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひのみこと)
御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
諸国の神々と共に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
○廿七日甲申
京畿七道諸神に 進 階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉備都彦命 二品
・・・
・・・
大和國
從一位 大己貴神 正一位
正二位 葛木御歳神 從二位勳八等 高鴨阿治須岐宅比古尼神 從二位 高市御縣鴨八重事代主神 從二位勳二等 大神大物主神 從二位勳三等 大和大國魂神 正三位勳六等 石上神 正三位 高鴨神 並從一位
正三位勳二等 葛木一言主神 高天彦神 葛木火雷神 並從二位
從三位 廣瀬神 龍田神 從三位勳八等 多坐彌志理都比古神 金峰神 並正三位
正四位下 丹生川上雨師神 從三位
從五位下 賀夜奈流美神 正四位下
從五位下勳八等 穴師兵主神 片岡神 夜岐布山口神 並正五位上
從五位下 都祁水分神 都祁山口神 石寸山口神 耳成山口神 飛鳥山口神 畝火山口神 長谷山口神 忍坂山口神 宇陀水分神 吉野水分神 吉野山口神 巨勢山口神 葛木水分神 鴨山口神 當麻山口神 大坂山口神 伊古麻山口神 並正五位下
從五位下 和爾赤坂彦神 山邊御縣神 村屋禰富都比賣神 池坐朝霧黄幡比賣神 鏡作天照御魂神 十市御縣神 目原高御魂神 畝尾建土安神 子部神 天香山大麻等野知神 宗我都比古神 甘樫神 稔代神 牟佐坐神 高市御縣神 輕樹村神 天高市神 太玉命神 櫛玉命神 川俣神 波多みか井神 坐日向神 巻向若御魂神 他田天 照御魂神 志貴御懸神 忍坂生根神 葛木倭文天羽雷命神 長尾神 石園多久豆玉神 調田一事尼古神 金村神葛木御縣神 火幡神 往馬伊古麻都比古神 平群石床神 矢田久志玉比古神 添御縣神 伊射奈岐神 葛木二上神 並 從五位上
无位 水越神 從五位下
・・・・
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にひなへのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添下郡 10座(大4座・小6座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)
[ふ り が な ](やたのまします くしたまひこの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Yatanomashimasu kushitamahiko no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される゛矢田部氏゛の伝承
次の矢田部氏の関連氏族が登載されています
左京神別゛矢田部連゛〈伊香我色乎命の後〉
山城国神別゛矢田部゛〈鴨建津身命の後〉
大和国神別゛矢田部゛〈饒速日命の七世孫 大新河命の後〉
摂津国神別゛矢田部造゛〈伊香我色雄命の後〉
河内国神別゛矢田部首゛〈神饒速日命の六世孫 伊香我色雄命の後〉
【抜粋意訳】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十一巻 左京神別上 矢田部連(ヤタベノムラジ)
伊香我色雄乎(イカガシコヲノ)命 男。
大水口宿祢(オホミナクチノスクネ)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)【原文参照】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十六巻 山城國神別 矢田部(ヤタベ)
鴨縣主(カモノアガタヌシ)同祖。
鴨建津身命(カモタケツミノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)【原文参照】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十七巻 大和國神別 矢田部(ヤタベ)
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)七世(ナナヨツギノ)孫(ヒコ)。
大新河命(オホニヒカハノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)【原文参照】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十八巻 攝津國神別 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)
伊香我色雄命(イカガシコヲノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)
【原文参照】
〇新撰姓氏録 第二帙 第十九巻 河内國神別 矢田部首(ヤタベノヲビト)
同神(オナジカミ)〈神饒速日命〉六世(ムツギノ)孫(ヒコ)。
伊香我色雄命(イカガシコヲノミコト)之(ノ)後(スエ)也(ナリ)【原文参照】
『先代舊事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される゛矢田部連公゛の伝承
仁徳天皇の時代に 皇后 矢田皇女(やたのひめみこ)に因んで 饒速日命の8世の孫 物部武諸隅の孫の大別連公が 氏を氏造と 姓を矢田部連公と賜ったという伝が記されています
【抜粋意訳】
先代舊事本紀 巻第八 神皇本紀 仁徳天皇
二十二年 春正月〈一月〉
天皇は語って 皇后に仰せになった「矢田皇女(やたのひめみこ)を妃と為したい」
しかし 皇后は不聴(ゆるしたまわらず)〈許されなかった〉三十一年春正月癸丑朔丁卯〈一月十五日〉
去来穂別尊(いさほわけのみこと)を皇太子と立て爲された
三十五年夏六月
皇后 磐之媛命(いはのひめのみこと)が 筒城宮(つづきのみや)に薨(みまかり)〈亡くなられた〉
三十七年冬十一月甲戌朔乙酉〈十二日〉
皇后を那楽山(ならやま)に葬られた
三十八年春 正月癸酉朔戊寅〈一月六日〉
矢田皇女(やたのひめみこ)を立て 皇后と爲された
八十二年春二月乙巳朔
詔(みことのり)侍臣の物部大別連公(もののべのおおわけのむらじきみ)に仰せられた
「皇后には 久しく経ても数年(あなたとし)〈長い間〉皇子が生まれなかった 以て お前を皇子の代(しろ)〈代理〉に定めよう
皇后の號〈名〉を氏と爲し 氏造(ウジノミヤツコ)
矢田部連公(やたべのむらじのきみ)姓(かばね)を 改めて賜った
【原文参照】
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の内゛矢田゛と号する式内社について
いずれも物部系氏族の「矢田部氏」に関連する神社とされています それぞれの論社について
大和國 添下郡 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)(やたのます くしたまひこの かみのやしろ ふたくら)の論社
・矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)
丹後國 與謝郡 矢田部神社(やたへの かみのやしろ)の論社
・矢田部神社(与謝野町石川)
丹後國 丹波郡 矢田神社(やたの かみのやしろ)の論社
・矢田神社(京丹後市峰山町矢田)
丹後國 熊野郡 矢田神社(やたの かみのやしろ)の論社
・矢田神社(京丹後市久美浜町海士)
・矢田八幡神社(京丹後市久美浜町佐野)
式内社 矢田坐久志玉比古神社の分霊と伝わる式内社
大和國 高市郡 櫛玉命神社 四座(並 大 月次 新嘗)(くしたまのみことの かみのやしろ)
・櫛玉命神社(高市郡明日香村真弓)
゛櫛玉命(くしたまのみこと)゛゛櫛玉比女命(くしたまひめのみこと)゛を祀る 大和國の式内社について
゛櫛玉命(くしたまのみこと)゛は 饒速日命〈物部氏の祖神〉と同神とする説あり
゛櫛玉比女命(くしたまひめのみこと)゛は 御炊屋姫〈饒速日命の妻〉とする説あり
大和國 廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加乃売命神社(名神大 月次 新嘗)(ひろせにます わかうかめのみことの かみのやしろ)
廣瀬大社(河合町川合)の社家 樋口氏〈曾禰氏〉は 物部氏の子孫と伝えらます
相殿に祀られる神 ゛櫛玉命゛ は 饒速日命〈物部氏の祖神〉と同神であると伝
・廣瀬大社(河合町川合)
大和國 廣瀬郡 櫛玉比女命神社(貞)(くしたまひめの かみのやしろ)
・櫛玉比女命神社(広陵町弁財天)
・〈相殿に合祀 櫛玉比女命神社〉廣瀬大社(河合町川合)
櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひのみこと)が 天下った 河内国゛河上の哮峯(いかるがみね)゛について
祭神である櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひのみこと)が 天神御祖(あまつかみのみおや)の詔により 天磐舩(あまのいわふね)に乗り天降られた 河内国゛河上の哮峯(いかるがみね)゛
河内国河上哮ヶ峰(いかるがみね)に降臨された その゛天磐舩゛がご神体として祀られている゛磐船神社゛
・磐船神社(交野市私市)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄橿原線 近鉄郡山駅から 西へ約4.3km 車15分程度
県道159号を走り 矢田寺方面ではなく左折〈北〉に進みます
田畑の広がる山麓となっている地に鎮座しています
境内は〈綱掛祭〉〈区域の内・外の境に呪物を付した注連縄を張る〉勧請縄(かんじょうなわ)が張られ その内側に 社号標 鳥居が建ちます
矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 境内へと進みます
参道の先には゛楼門゛が建ち 楼門の二階には゛航空祖神゛と揮毫の扁額と゛陸軍九一戦闘機のプロペラ゛が掲げられています
楼門を抜けると 参道が少し右へ折れていて 其所に゛神馬像゛と゛二の鳥居゛が建ちます
一礼をして 二の鳥居をくぐり
拝殿にすすみます
拝殿の扁額は ゛矢落大明神゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
この境内に
祭神 櫛玉饒速日命(くしたま にぎはやひのみこと)が 天神御祖の詔により天孫降臨をされた時 天磐舩(あまのいわふね)に乗り 天乃羽羽矢(あめのははや)三本を射放たれた時
二の矢の落ちた所(境内)に 三十二従神(とものかみ)と古代雄族 物部(もののべ)氏を率(ひき)いられ天降られます
この地を治(おさ)めていた大豪族 登美長髄彦(とみのながすねひこ)の妹 御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)を娶(めと)り 物部氏の祖神 宇麻志麻治命(うましまじみこと)がお産まれになります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『先代舊事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される伝承
饒速日尊(にぎはやひのみこと)が 天神御祖(あまつかみのみおや)の詔により 天磐舩(あまのいわふね)に乗り 河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降り さらに 大倭国(おおやまとのくに)の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわのやま)に遷り
天磐舩(あまのいわふね)に乗り 大虚空(おおぞら)を翔(かけ)行き この郷(さと)を巡(めぐり)見て 天降り坐しまた 所謂(いわゆる)“虚空見日本国(そらみつやまとのくに)”とは このことである
饒速日尊(にぎはやひのみこと)は 長髓彦(ながすねひこ)の妹 御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃とされ妊胎(はらみ)〈妊娠〉された 未だ産むに及ばない時に 既に饒速日尊は 神去られ坐しました〈お亡くなりになられた〉
との経緯を詳しく記しています
【抜粋意訳】
先代舊事本紀 巻第三 天神本紀
正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかつのはやひあまのをしほにのみこと)の段
天照太神(あまてらすおおみかみ)詔(みことのり)して 曰(いわく)
「豊葦原之 千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)之 瑞穂国(みずほのくに)は わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊の知(しらす)〈治めるべき〉国である」
と仰せになり 命じられて 天からお降しになった時
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の兒〈御子〉思兼神(おもいかねのかみ)の妹 万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃と為した 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになられたこの時 正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が 天照太神に奏して申しあげた
「私がまさに天降ろうと思い 準備をする間に 子が生まれました これを天降すべきです」そこで 天照太神は これを許された
天神御祖(あまつかみのみおや)は 詔して 天璽(あまつしるし)である
瑞寶十種(みづのたからとくさ)を授けられた謂(いわゆる)
瀛都鏡(おきつかがみ)一つ
邊都鏡(へつかがみ)一つ
八握劔(やつかのつるぎ)一つ
生玉(なるたま)一つ
死反玉(まかるかえしのたま)一つ
足玉(たるたま)一つ
道反玉(ちがえしのたま)一つ
蛇比禮(おろちのひれ)一つ
蜂比禮(はちのひれ)一つ
品物比礼(しなぐのもののひれ)一つ
是也〈というのがこれである〉天神御祖(あまつかみのみおや)は 教えられ詔(のりとごと)して 曰く
もし痛むところが有らば この十種寶(とくさのたから)を 一つ 二つ 三つ 四つ 五つ 六つ 七つ 八つ 九つ 十と しかして布留部(ふるへ)〈ふるわせなさい〉由良由良布留部(ゆらゆらとふるへ)かくすれば 死人も反生(かえりいかん)〈生き返る〉これ即ち所謂(いわゆる)“布留之言本(ふるのことのもと)”である
高皇産霊尊が勅して曰く
もし 葦原中国(あしはらのなかつくに)の敵 神人を拒み 待ち防ぎ戦う者がいたなら 方便を誘い 欺いて防ぎ拒み よって命令を収め平定せよ三十二人を並び命じて 防ぎ御(まもり)とし 天降し奉り供えた
天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連等祖(おはりのむらじらのおや)
天鈿賣命(あまのうすめのみこと) 猿女君等祖(さるめのきみらのおや)
天太玉命(あまのふとたまのみこと) 忌部首等祖(いむべのをふどらのおや)
天兒屋命(あまのこやねのみこと) 中臣連等祖(なかとみむらじらのおや)
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと) 鴨縣主等祖(かものあがたぬしらのおや)
天道根命(あまのみちねのみこと) 川瀬造等祖(かはせのみやつこらのおや)
天神玉命(あまのかんたまのみこと) 三嶋縣主等祖(みしまのあがたぬしらのおや)
天椹野命(あまのくれののみこと) 中跡直等祖(なかとのあたいらのおや)
天糠戸命(あまのぬかどのみこと) 鏡作連等祖(かがみつくりのむらじらのおや)
天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連等祖(たまつくりのむらじらのおや)
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度會神主等祖(わたらへのかふぬしらのおや)
天神立命(あまのかむだちのみこと) 山背久我直等祖(やましろのくがのあたいらのおや)
天御陰命(あまのみかけのみこと) 凡河内直等祖(おふしかふちのあたいらのおや)
天造日女命(あまのみやつこひめのみこと)阿曇連等祖(あつみのむらじらのおや)
天世平命(あまのよてのみこと) 久我直等祖(くがのあたいらのおや)
天斗麻彌命(あまのとまみのみこと) 額田部湯坐連等祖(ぬかたべのゆさのむらじらのおや)
天背男命(あまのせをのみこと) 尾張中嶋海部直等祖(おはりのなかじまあまべのあたいらのおや)
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連等祖(はじふひとのむらじらのおや)
天湯津彦命(あまのゆづひこのみこと)安藝國造等祖(あきのくにづこらのおや)
天神魂命(あまのかんだまのみこと) 葛野鴨縣主等祖(かどののかものあがたぬしらのおや)
天三降命(あまのみくたりのみこと) 豊國宇佐國造等祖(とよくにうさのくにのみやつこらのおや)
天日神命(あまのひのみたまのみこと)對馬縣主等祖(つしまのあがたぬしらのおや)
天乳速日命(あまのちはやひのみこと)廣湍神麻續連等祖(ひろせのかんをみのむらじらのおや)
天八坂彦命(あまのやさかひこのみこと)伊勢神麻續連等祖(いせのかんをみのむらじらのおや)
天伊佐布魂命(あまのいさふたまのみこと)倭文連等祖(しどりのむらじらのおや)
天伊岐志迩保命(あまのいきしにほのみこと)山代國造等祖(やましろのくにづこらのおや)
天活玉命(あまのいくたまのみこと) 新田部直等祖(にいたべのあたいのおや)
天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)鳥取連等祖(ととりのむらじらのおや)
天事湯彦命(あまのことゆひこのみこと)取尾連等祖(とりおのむらじらのおや)
天表春命(あまのうははるのみこと) 八意思兼神兒(やつごころのおもひかねのかみの子)信乃阿智祝部等祖(しなののあぢのほふりべらのおや)
天下春命(あまのしたはるのみこと) 武蔵秩父國造等祖(むさしのちちぶのづこらのおや)
天月神命(あまのつきのみたまのみこと)壱岐縣主等祖(いきのあがたぬしらのおや)副(そえ)五部(いつとも)の人を従えて 天降り 供え奉る
物部造等祖(もののべのみやつこらのおや)天津麻良(あまつまら)
笠縫部等祖(かさぬいべらのおや) 天曽蘇(あまのそそ)
為奈部等祖(いなべらのおや) 天津赤占(あまつあかうら)
十市部首等祖(とをちべのをふとらのおや)富々侶(おほろ)
筑紫弦田物部等祖(つくしのつるだのもののべらのお)天津赤星(あまつあかぼし)五部造(いつとものみやつこ)が伴領となり
天物部(あまのもののへ)を率いて 天降り 供え奉る二田造(ふたつだのみやつこ)
大庭造(おほはのみやつこ)
舎人造(とねりのみやつこ)
勇蘇造(ゆそのみやつこ)
坂戸造(さかとのみやつこ)天物部(あまのもののへ)等 二十五部(はたあまりいつとも)の人が 同じく兵杖を帯びて 天降り 供え奉る
二田物部(ふたつだのもののべ)當麻物部(たへまのもののべ)
芹田物部(せりだのもののべ) 鳥見物部(とみのもののべ)
横田物部(よこたのもののべ) 鳥戸物部(とりべのもののべ)
浮田物部(うきたのもののべ) 巷宜物部(あんきのもののべ)
足田物部(たるだのもののべ) 酒人物部(さかふどのもののべ)
田尻物部(たしりのもののべ) 赤間物部(あかまのもののべ)
久米物部(くめのもののべ) 狭竹物部(さたけのもののべ)
大豆物部(おおまめのもののべ)肩野物部(かたののもののべ)
羽束物部(はづかしのもののべ)尋津物部(しきつのもののべ)
布都留物部(ふつるのもののべ)住跡物部(すむちのもののべ)
讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)相槻物部(あいつきのもののべ)
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ) 播磨物部(はりまのもののべ)
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)舩長(ふなをさ)同じく 梶取(かじとり)等を率いて 天降り 供え奉る
舩長(ふなをさ)跡部首等祖(あとべのをふどらのおや)天津羽原(あまつははら)
梶取(かじとり)阿刀造等祖(あとのつこらのおや) 天津麻良(あまつまら)
舩子(ふなこ)倭鍛師等祖(やまとかぢらのおや) 天津真浦(あまつまうら)
笠縫等祖(かさぬひらのおや) 天津麻占(あまつまうら)
曽曽笠縫等祖(そそかさぬひらのおや) 天都赤麻良(あまつあかまら)
為奈部等祖(いなべらのおや) 天津赤星(あまつあかぼし)饒速日尊(にぎはやひのみこと)は 天神御祖神(あまつかみのみおや)の詔(みことのり)で 天磐舩(あまのいわふね)に乗り 河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降り さらに 大倭国(おおやまとのくに)の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわのやま)に遷り坐ました
天磐舩(あまのいわふね)に乗り 大虚空(おおぞら)を翔(かけ)行き この郷(さと)を巡(めぐり)見て 天降り坐しまた 所謂(いわゆる)“虚空見日本国(そらみつやまとのくに)”とは このことである
饒速日尊(にぎはやひのみこと)は 長髓彦(ながすねひこ)の妹 御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃とされ妊胎(はらみ)〈妊娠〉された 未だ産むに及ばない時に 既に饒速日尊は 神去られ坐しました〈お亡くなりになられた〉
いまだ天上にその報告がない時
高皇産霊尊は 勅して 速飄神(はやちのかみ)に曰く吾(わが)神の御子 饒速日尊(にぎはやひのみこと)を 葦原中国(あしはらのなかつくに)の所に使したるに 疑わしく思うことが有る 故に お前が天降り 復命せよ
この時 速飄神(はやちのかみ)に命じた
速飄神は 勅を受け 天降り 天に帰り上り来ると 復命して 饒速日尊が神去られ坐しました〈お亡くなりになられた〉と申しあげた高皇産霊尊(たかむすびのみこと)は 哀泣(あわれ)とおぼしになり 速飄神(はやちのかみ)に銘じて 其の神〈饒速日尊〉の屍骸(みかばち)〈亡骸〉を天上に上げ於いて 七日七夜葬儀の遊楽をし泣き悲しまれ そして天上で葬られた
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)について 所在は矢田村〈現 矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)〉とし
祭神を゛櫛明玉命 子神 天明玉命゛とも考証しています
【抜粋意訳】
矢田(ヤタノ)坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)
〇兼俱書入本 又神 櫛明玉命 子神 天明玉命
「三代実録」貞観元年正月二十七日 矢田坐久志玉比古神 従五位上
「姓氏録」 大和皇別 矢田部 饒速日命七世孫 大新川命之後也
「天孫本紀」天照國照彦天火明櫛玉饒速日等〇矢田村 松尾社是乎
「大和志」今称ニ 矢田村 矢落明神
「和抄」 矢田
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)について 所在は矢田村〈現 矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)〉とし
祭神を゛櫛明玉命 子神 天明玉命゛とも考証し 櫛玉命 同名異神を挙げています
【抜粋意訳】
矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)
矢田は 也田と訓べし、和名鈔、郡名部、矢田、
久志は 假字也、
玉 は 多麻と訓へし、
比古は 假字也、〇祭神 明か也
〇矢田村に在す、今 矢落明神と称す、大和志〇舊事紀、天孫本紀 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊、」又云、饒速日尊 便娶ニ長髄彦 妹 御炊屋姫 爲后」
姓氏録、大和國神別 矢田部、饒速日命七世孫 大新川命之後也
頭注云、父神 櫛明玉命、子神 天明玉命、」
考証云、按 櫛玉命 同名異神 多矣、高市郡 櫛玉命神社、
姓氏録、高御魂命子 櫛玉命是也、
舊事紀云、天櫛玉命、鴨縣主等祖也、是二也、
倭姫世紀云、伊勢都彦神、一名櫛玉命、是三也、
並非ニ 矢田坐神社、今此云 久志玉比古命、矢田部祖 櫛玉饒速日命也と云るは尤然るべし、神位
三代実録、貞観元年正月二十七日甲申 奉授ニ 大和國 従五位下 矢田坐久志玉比古神 従五位上、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)について 所在は矢田村〈現 矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)〉
祭神について 久志玉姫(クシタマヒメノ)命とする説も挙げています
【抜粋意訳】
矢田坐久志玉比古(ヤタニマスクシタマヒコノ)神社 二座、
今 矢田村にあり、矢落明神と云ふ、神名帳考証、大和志、
久志玉姫(クシタマヒメノ)命を祀る、延喜式、参取本社傳説、
蓋、矢田部氏の祖神 櫛玉饒速日(クシタマニギハヤヒノ)命 及 妃御炊屋媛也、平城天皇 大同元年、大和地二戸を矢田神に寄し、
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申、従五位下 矢田坐久志玉比古神に従五位上を授け、三代実録
醍醐天皇 延喜の制、並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る、延喜式
凡 毎年三月八月午日、祭を行ふ、奈良縣神社取調書
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)について 所在は矢田村〈現 矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)〉とし
祭神を゛久志玉比古(クシタマヒコノ)命 久志玉姫(クシタマヒメノ)命゛とし 櫛玉命 同名異神を挙げています
【抜粋意訳】
矢田坐久志玉比古(ヤタニマスクシタマヒコノ)神社(並大 月次 新嘗)
祭神
久志玉比古(クシタマヒコノ)命
久志玉姫(クシタマヒメノ)命今按〈今考えるに〉
新撰姓氏録 高御魂(タカムスビノ)命ノ子(ミコ)櫛玉(クシタマノ)命また舊事記に天櫛玉命は 鴨縣主等祖也 また倭姫世紀に伊勢都彦神一名は櫛玉命など同名にはあれど異神にして 共に矢田に由なし
然るに姓氏録 矢田部速(ヤタベノムツ)矢田部造(ヤタベノミヤツコ)は伊香我色雄命之後也 また矢田部首(ヤタベノオビト)神饒速日命六世孫 伊香我色雄命之後也とみえ
櫛玉と名に冠したる甚よしありて聞こゆれば祭神 櫛玉饒速日命なるべく思はるなれど 今姑く社伝に従へり神位
清和天皇、貞観元年正月二十七日甲申 奉授ニ 大和國 従五位下 矢田坐久志玉比古神 従五位上、祭日 三月八月並午日
社格 郷社
所在 矢田村(生駒郡矢田村大字矢田)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)について 式内社 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)であるとしています
【抜粋意訳】
奈良縣 大和國生駒郡矢田村大字矢田
郷社 矢田坐久志玉毘古(ヤタニイマス クシタマヒコノ)神社
祭神
櫛玉饒速日(クシタマニギハヤヒノ)命 御炊屋姫(ミカシキヤヒメノ)命本社創立の年代明かならず、然れども延喜式内の社にして、矢落明神とも云ひ大和志 矢田郎氏の祖神なりと 神祇志料 、
舊事紀によれば、饒速日命薨じ給ひし時、高御産霊神、其屍を召しとらんとし給ひけるを、妃長髄彦の妹なる御炊屋姫命夢にさとりて、登美の白庭邑に葬り歛むといふ、蓋し白庭邑は矢田の地にして、萬葉集に「八田の野に淺茅いろつく有乳山みねのあは雪さむくふるらし」と見えたれば、此地往古より人々の間に知られしこと明かなり。
平城天皇 大同元年矢田神に大和地二戸を寄進し 新抄格勅符
清和天皇 貞観元年正月二十七日、甲申 大和國 矢田久志玉比古神に從五位下を授け 三代実録、貞観元年正月正五位上を授け奉る由見えたり 大和志、
醍醐天皇 延喜の制 並大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上幣帛に預り 延喜式、
毎年三月八月 午日祭を行ひ 奈良県神社取調書、
明治に至り郷社に列せらる、祭神に就きて神社覈録に云く、
「考証云、按櫛玉命同名異神多矣、高市郡櫛玉命神社、姓氏録、高御魂命子櫛玉命是也、旧事紀云、天櫛玉命、
鴨県主等組也、是二也、倭姫世記云、伊勢都彦神、一名櫛玉命、是三也、並非矢田坐神社、今此云久志玉比古命、矢田部祖櫛玉饒速日命といへるはげに然るべし」社殿は本殿、拝殿、神饌所、社務所等を備へ、境内2772坪(官有地第一種)あり、前は鳥見小川の河畔に面し、後は生駒山の麓矢田山に連り、頗る風致に富めり。
境内神社
八幡神社 春日若宮神社 大神社 雨宮神社
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)について 式内社 矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)であるとしています
祭神について゛櫛玉彦命 又曰 天明玉命 櫛玉姫命 又曰 天太玉命の二座゛は 天太玉命のみを称すると考証しています
【抜粋意訳】
大和志料 上巻 添下郡 神社
矢田坐久志玉毘古(ヤタニイマス クシタマヒコノ)神社
矢田村にありて大宮と称す、
新抄格勅符抄に「矢田神二戸 大和國」
延喜式神名帳に「矢田坐久志玉比古神社 二座(並大 月次 新嘗)」と即ち是。今 郷社たり。
祭神は 櫛玉彦命 又曰 天明玉命 櫛玉姫命 又曰 天太玉命の二座にして、蓋し古 此の地に玉作氏の住するありて 其の祖神を祭りたるものなり。
然るに今は 祭神を天太玉命のみを称し、其の由緒詳ならずとするは精しからず、
高市郡に櫛玉命神社 四座と称するあり、其の内 二座は矢田間神といひ櫛玉彦・櫛玉姫の二神を祭り、仲哀天皇の御時 玉作の大荒木なるもの当社より彼の地に勧請せしものなること、五郡神社記に載する 彼の社の神職 玉作氏が大同年中官家に注進せし文書に詳なり、曰く
玉造神社 帳云 高市郡 櫛玉命神社四座、在巨勢郷矢田 〇今 八田に作る 羽田両村 社家者 玉作速 説に云 舊記載〇舊記は下文注進状を指す 矢田間神社二座、櫛玉彦神 亦云 天明玉神 櫛玉姫神 亦云 天太玉神 也、伊弉諾尊之子也 元社は在に當國 曾布矢田郷に奉り迂座于此の地 號曰に 矢田間神社〇羽田間神社二座は、羽明玉命 亦曰に 櫛明玉命、高皇産霊尊之子也、・・・・
右 豊玉命 亦曰 玉屋命、即 羽明玉命之子、玉造連遺祖也・・・・
【原文参照】