村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
村屋坐彌冨都比賣神社(Murayanimasu Mifutsuhime shrine)
[通称名(Common name)]
森屋の宮(もりやのみや)
森屋社(もりやのやしろ)
森屋明神(もりやみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県磯城郡田原本町大字蔵堂423
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》彌冨都比賣神(みふつひめのかみ)〈三穂津姫命〉
《配》大物主命(おほものぬしのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・縁結びの神、家内安全の神、商売繁盛の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 大和一之宮 大神神社の別宮
【創 建 (Beginning of history)】
村屋坐彌冨都比賣神社
由緒・御祭神
奈良県磯城郡田原本町蔵堂426番地鎮座
主 神:三穂津姫命
配祀神:大物主命延喜式内大社で、旧県社、大神神社(オオミワジンジャ)の別宮。
日本書記によると、
主神 三穂津姫命(ミホツヒメ)は、高皇産霊命(タカミムスビノミコト)の姫神で大物主命(オオモノヌシノミコト)が国譲りをされた時その功に報いるためと大物主命の二心のないようにという願いから、自分の娘を贈られたという神話に出てくる神です。またその時に高天原から3本の稲穂を持って降りられ、稲作を中津国に広め国を豊かにした『内助の功』にあたる神でもあります。これらの故事等から縁結びの神、家内安全の神、商売繁盛の神として信仰され、大物主命は大神神社の祭神で、その妃神(キサキカミ)を祭っていることから、大神神社の別宮とも称せられています。
かつて、この地では正月の大とんどで大神神社と村屋神社の火種子をもらって帰り、めおと(夫婦)火とし、それで雑煮を炊いて1年の家内安全を家族で祈願していたという習慣が残っていました。また大神神社(夫神)と村屋神社(妻神)を両方お参りすることでいっそう利益が得られると謂われています。「延喜式」神名帳 式下郡に村屋坐弥冨都比賣神社・村屋神社・久須須美神社・服部神社が記載されており、天武天皇元年(673)壬申の乱のときに「村屋神」が22代当主 室屋喜久麿にのりうつって「わが杜の中を敵が来る。社の中つ道を防げ」と大海人皇子方の大伴連吹負将軍に軍備に対する助言をし見事勝利に導いた。この功績によって神社として初めて位階を皇室(天武天皇)から賜ったと日本書紀に記されています。
その後も何度か位を賜り現在正一位森屋大明神の呼称が残っています。
壬申の乱の功を後世に伝えるためにこのとき功のあった三神を回る御渡が秋の例祭に行われていました。三神とは村屋神を祭る村屋神社(境内摂社)、事代主命を祀る久須須美神社(境内摂社)、生雷神を祀る森市神社(境外摂社)です。天正の頃(1580年頃)松永久秀と十市氏の戦に巻き込まれ、戦火に遇い社地を奪われ財源がなくなり、一時神事祭祀は中絶していたが、慶長4年(1599年)52代神主大神 守屋政重によって、現在の規模に縮小して再興を果たしたとされています。
村屋坐弥冨都比売神社公式HPより
村屋座(むらやにいます) 彌冨都比賣(みふつひめ)神社
田原本町 大字蔵堂字大宮
旧県社 祭神 三穂津姫命・大物主命・村屋神社 彌冨都比賣延喜式神名帳 城下郡の項に「村屋座彌冨都比賣神社 大、月次相嘗新嘗」
文献初出 日本書紀 天武天皇 元年の条「村屋神、祝に着りて曰く、、、」壬申乱 以下
天平二年(720) 大倭国主税帳(正倉院文書)神戸の租稲五十四束
大同元年(806) 大和国で三戸、美作国で三戸神戸「新抄格勅符抄」
貞観元年(859) 従五位下より従五位上に昇位「三代実録」
平安時代 伊保戸庄に三反の社田が有り「興福寺雑役免帳」
文禄四年(1594) 大彌宜田六畝、神子田三畝六歩「蔵堂村文禄検地帳」
慶長四年(1599)「天正頃神領八十反没収断絶衰退するも、神主 森屋重政が神社修復、祭祀復興」この頃に現存の
慶長十二年(1607)森講の「村屋大明神守講中箱」を製作。
寛永十五年(1638)「森屋大明神」社蔵の梵鐘銘。天王とも「大和史料」祭礼行事
一月 一日 元旦祭 「三宝飾り」「ぞうがい」
二月 三日 節分祭
二月十一日 祈年祭 牛使いによる御田植祭 御供撒(午後三時)
六月三十日 大祓(夏越祓)芽の輪くぐり(午後四時)
七月 七日 夏祭
十月 九日 宵宮祭 神子祓い 午後六時より八時
十月 十日 例祭 代々神楽 午後二時より三時
十一月中 七五三詣り(予約制)
十二月二十三日 新嘗祭平成14年12月15日 田原本町観光協会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
村屋坐弥冨都比売神社
(別名 森屋の宮)
祭神
三穂津姫命(弥冨都比売命)、
大物主命由緒
主神 三穂津姫命は、高皇産霊神の姫神で 大物主命が国譲りをされたとき、その功に報いるためと、大物主命に二心がないようにという願いから自分の娘を贈られたという神話に出てくる神である。この故事から、縁結びの神、家内安全の神として信仰される。大物主命は大神神社の主神であることから、その妃神である当社にも大物主命を合祀して三輪の別宮とも称せられた。
天武天皇 元年(六七三)壬申の乱のとき、村屋神が神主にのりうつり軍の備えに対する助言があったという。この功績によって、神社として初めて天皇から位を賜ったと日本書紀に記されている程の名神である。現在 正一位 森屋大明神の呼称が残っている。
境内には、「町の木」であるイチイガシの巨樹が林立し、この樹そうは奈良県指定天然記念物となっている。 田原本町
現地案内板より
由緒
主神 三穂津姫命は 高皇産霊命の姫神で 大物主命が国譲りをされたとき その功に報いるためと 大物主命の二心のないようにという願いから 自分の娘を贈られたという神話に出てくる神である。この故事から縁結びの神,家内安全の神として信仰される。
大物主命は 大神神社の祭神であることから その妃神である当社にも大物主命を合祀し三輪の別宮とも称せられる。
天武天皇元年(673)壬申の乱のとき 村屋神が神主にのりうつって軍の備えに対する助言があったという。この功績によって神社として初めて位を天皇から賜ったと日本書紀に記されている。
壬申の乱の功を後世に伝えるためにこのとき功のあった三神を回る渡御が例祭に行われていた。
三神とは事代主命を祀る久須須美神社,生雷神を祀る森市神社である天正の頃(1580年頃)戦火に遇い社地を奪われ財源がなくなり中絶し社地も縮小されて現在に至っている。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
摂社・村屋神社(むらやじんじゃ)《式内社》
本殿の向かって右には
・村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社境内摂社〉
摂社・服部神社(はとりじんじゃ)《式内社》
本殿の向かって左には
・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
摂社・久須々美神社(くすずみじんじゃ)《式内社》
拝殿の向かって左には
・久須須美神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
摂社・物部神社(もののべじんじゃ)
《主》炊屋姫命 宇麻志摩遅命《配》物部守屋連
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
摂社・岐多志太神社(きたしたじんじゃ)《式内社》
・岐多志太神社(田原本町伊与戸)
摂社・森市神社・千代神社(ちしろじんじゃ)《式内社》
・森市神社・千代神社(田原本町大安寺)
・ 大和一之宮 大神神社の別宮とされています
・大神神社(桜井市三輪)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
村屋社(むらやのやしろ)一座
絹(キヌ)1疋 絲(イト)1絇3分2銖 調布3端4尺 唐布1段1丈3尺 木綿1斤10両 鮑10両 堅魚2斤 腊(きたい)〈干し肉〉1斤
海藻1斤10両 塩1升 筥1合 瓼(サラケ)缶(モタイ) 水瓫(ホトギ)山都婆波 小都婆波 筥瓶 高盤片盤 短女杯筥杯小杯陶曰各2口 酒稲50束 神統
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 村屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](むらやにます みふつひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Murayanimasu Mifutsuhime no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壬申(じんしん)の乱(673年)について
大海人皇子(おおあまのみこ)
『日本書紀』によるプロフィール
・ のちの天武天皇
・ 生まれながらに容姿端麗(ようしたんれい)、武術に優れていた
・ 『日本書紀』と『古事記』の編纂(へんさん)を命じた
・ 律令制の礎(いしずえ)を築いた「白村江(はくすきのえ)の戦い」の後、都は近江(おうみ)へ。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は天智天皇として即位し絶大な権力を持ちました。しかし、その後、病に倒れてしまい皇位継承者として有力だった弟・大海人皇子と子・大友皇子の間で跡継ぎ争いが起こりました。これが古代最大の内乱と言われる「壬申の乱」です。
大海人皇子は容姿端麗で、武術にも優れていたため、天智天皇も大海人皇子に自分の跡を継ぐように伝えていました。しかし、大友皇子を次の天皇にしようという動きがあることを知った大海人皇子は、天智天皇の言葉を疑い、病気を理由に辞退します。そして、皇位を引き継ぐ意志がないことを示すため、出家して吉野へと向かいました。天智天皇の崩御後、政権を手にした大友皇子は天智天皇の陵(みささぎ)(お墓)を造ると言いながら、農民に武器を持たせ、吉野への道のあちこちに監視を置きました。
この動きを知った大海人皇子は立ち向かうことを決意します。吉野を出て地方の豪族を味方につけながら兵力を強化し、各地で大友皇子との戦いを繰り広げました。戦いは現在の岐阜県にまで及びましたが、近江の瀬田川(せたがわ)での決戦を制して大海人皇子が勝利し、飛鳥の都(飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや))で天武天皇として即位します。
奈良県庁広報広聴課公式HP https://www.pref.nara.jp/49040.htm
{県民だより奈良 平成30年1月号「歴史体感日本書紀」}より
天武天皇 元年(673)壬申の乱の時 三神の神託について
『日本書紀〈養老4年(720)編纂〉』に記される
天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託は
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
➂村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
“三神の神託”の現在の論社について
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
《式内社》大和國高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
論社 河俣神社(かわまたじんじゃ)
・河俣神社(橿原市雲梯町)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)
《式内社》大和國高市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)
論社 牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
論社 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
・牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
・生國魂神社(橿原市大久保町)
➂村屋神(むらやのかみ)
《式内社》大和國城下郡 村屋坐弥富都比賣神社(大月次相嘗新嘗)
論社 村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
奈良盆地の東側を南北に走るJR桜井線の巻向駅 と 奈良盆地の中央を南北に走る近鉄橿原線の田原本駅との 中間地点辺り大和川の西岸
大和三道の一つ「中つ道」(橘街道)に面して鎮座します
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)に参着
鳥居をくぐると すぐに車止め
幟旗には 大神神社別宮 村屋坐弥冨都比売神社 とあり 参道が伸びています
参道を進むと 広い境内の先に 石燈籠が玉垣のように立ち並び神域を区切っています その正面に社殿が建ちます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 透塀に囲まれて本殿が鎮座します
本殿の向かって右には
摂社・村屋神社(むらやじんじゃ)《式内社》
・村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社境内摂社〉
本殿の向かって左には
摂社・服部神社(はとりじんじゃ)《式内社》
・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
拝殿の向かって左には
摂社・久須々美神社(くすずみじんじゃ)《式内社》
・久須須美神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
お詣りをします
拝殿の向かって右〈東側〉には 社務所があります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
国譲りの後 国津神の首長として 大物主神(おほものぬしのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)が 八十萬神を率いて 天津神に帰順した時 高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)は 自分の娘神 三穗津姫(みほつひめ)を大物主神を妻神とした と記しています
【抜粋意訳】
神代 下巻(かみよのしものまき)第九段 一書(二)3
経津主神(ふつぬしのかみ)は 岐神(ふなとのかみ)を先導役として 郷(さと)を周(めぐ)り歩き 平定した
逆らう者があれば 斬り殺した
帰順(まつろ)う〈従う〉ものには 褒美を与えた
このときに 帰順(まつろ)う〈従う〉首渠(ひとごのかみ)〈首長〉は 大物主神(おほものぬしのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)だった
八十萬神(やおよろずのかみ)を 天高市(あめのたけち)に集め この神々を率いて天に上り その誠の心を披歴されに至った時に
高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)は 大物主神(おほものぬしのかみ)に勅された
「もしも 汝(なんじ)が 国神(くにつかみ)を妻とするなら 吾(われ)は 汝(なんじ)に 疏心〈おろそかに扱う反旗を翻す心〉があると思うであろう
故に 今 吾女(わがむすめ)の三穗津姫(みほつひめ)を 汝(なんじ)に配(あわせ)て妻となさん 八十萬神(やおよろずのかみ)を領(ひきい)て永く皇孫(すめみま)を奉り護ってつかえよ」
そして 地上に〈大物主神を〉還り降ろした
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託が記されます
高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)と身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
【抜粋意訳】
第二十八巻 天武天皇 上 元年(673)七月 神の神託 の段
事代主神(ことしろぬしのかみ)生霊神(いくたまのかみ)村屋神(むらやのかみ)これより先に 金綱井(かなづなのい)に軍を集結した時 高市郡大領(たけちのこおりのこおのみやつこ)の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)は にわかに ロをつぐんで 言うことが出来なくなった。
三日の後 神著(かみがかり)になって言うには
「吾は高市社(たけちのやしろ)〈河俣神社〉に居る 名は事代主神(ことしろぬしのかみ)
又 身狭社(むさのやしろ)〈牟佐坐神社〉〈生國魂神社〉に居る 名は生霊神(いくみたまのかみ)なり」と言うと 顕(あらこと)〈神意を明らかとする〉をいう
「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)〈神武天皇〉の陵(みささぎ)〈陵墓〉に 馬と種々の兵器を奉れ」と言ったまた言われるには
「吾は 皇御孫命(すめみまのみこと)〈天皇〉の前後(みさきしり)に立ち 不破(ふわ)に送り奉り帰った 今もまた 官軍の中に立って 守護している」
また
「西道(にしのみち)から軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 慎重にせよ」
言い終わると 目が醒めたそこで すぐに許梅(こめ)を遣わし 御陵(みささぎ)〈陵墓〉を祭り拝ませ 馬と兵器を奉った
また幣(みてぐら)を捧げ 高市(たけち)身狭(むさ)の二社(ふたやしろ)の神に礼祭(れいさい)をした
そうして後 壱岐史韓国(いきのふびとからくに)が 大坂(おほさか)から来襲した
時の人々は言う
「二社(ふたやしろ)の神が 教えたる所の辞(ことば) 適(まこと)に これのことなり」又 村屋神(むらやのかみ)〈村屋坐弥冨都比売神社〉も 祝(はふり)〈神官〉に神憑(かみがか)り
「今 吾社(わがやしろ)の中道(なかのみち)より 軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 社(やしろ)の中道(なかのみち)を塞げ」と言われた何日かで 廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)の軍が 中道(なかのみち)から襲来した
時の人々は言う
「すなわち 神の教えられた言葉は これであった」
軍(ぐん)の政(まつりごと)が 既に終わったのち 将軍たちは この三神の教えられたことを天皇に奏上したところ すぐに三神の品〈神階〉を登進(あげて)勅(みことのり)されて 祠を祀られた
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神 267社とともに 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
貞観元年(859)正月27日(甲申)の条
京畿七道の諸神に進む階(くらいを)及び 新たに叙(のべる)惣(すべ)て267社なり
奉り授くに
・・・・
・・・・大和国(やまとのくに)
従一位 大己貴神(おほあなむちのかみ)に 正一位正二位 葛木御歳神(かつらきのみとしのかみ)
従二位勲八等 鴨阿治須岐宅比古尼神(かもあじすきたかひこねのかみ)
従二位 高市御縣鴨八重事代主神(たかいちみあがたのやえことしろぬしのかみ)
従二位勲二等 大神大物主神(おおみわのおおものぬしのかみ)
従二位勲三等 大和大国魂神(おほやまとおほくにたまのかみ)
正三位勲六等 石上神(いそのかみのかみ)
正三位 高鴨神(たかかものかみ)に並びに 従一位
・・・
・・・従五位下
和邇赤坂彦神 山邊御縣神 村屋祢富都比賣神 池坐朝霧黄幡比賣神
鏡作天照御魂神 十市御縣神 目原髙御魂神 畝尾建土安神 子部神
天香山大麻等野知神 宗我都比古神 甘樫神 稔代神
牟佐坐神 高市御縣神 軽樹村神 天高市神 太玉命神 櫛玉命神
川俣神 波多井神 坐日向神 巻向若御魂神 他田天照御魂神 志貴御縣神
忍坂生根神 葛木倭文天羽雷命神 長尾神 石園多久虫玉神 調田一事比古神
金村神 葛木御縣神 火幡神 往馬伊古麻都比古神 平群石床神
矢田久志玉比古神 添御縣神 伊射奈岐神 葛木二上神並びに 従五位上
无位 綱越神 に 従五位下
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
祭神の三穗津姫が 大物主神の妻神となった『日本書紀』の下りを引用しています
【抜粋意訳】
村屋坐彌富都比売(ムラヤニマス ミフツヒメノ)神社 大月次相嘗新嘗
三実 貞観元年(859)正月27日 従五位下 ⇒従五位上
書記 神代下巻 高皇産靈尊 勅大物主神「汝若以国神爲妻 吾猶謂汝有疏心 故今以吾女三穗津姫 配汝爲妻
〇今 俗に曰う 森屋社(もりやのやしろ)
〇一説に 蔵堂村 今称す天王
〇信友云う 筑前宗像神社の条可考合せ
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
所在は 蔵堂村と記しています
【抜粋意訳】
村屋坐彌富都比賣神社 大月次相嘗新嘗
村屋は牟良夜と訓べし、彌富都比売は假字也、
○祭神明か也
○蔵堂村に在す、大和志 今 森屋大明神と称す、考証 大和名所図会
〇式二、四時祭下 相嘗祭神七十一座、村屋社一座、
〇日本紀神代巻下、一書曰、時高皇産霊尊勅大物主神、汝若以国神爲妻、吾猶謂汝有疏心、故今以吾女三穗都姫配汝為妻云々、』
同紀、天武天皇元年7月庚寅朔壬子、先是、軍金綱井之時、村屋神著祝曰、今自吾社中道軍衆将至、故宜塞社中道故未経幾日、盧井造鯨軍自中道至時人曰、即神所数之辞是也、軍政厩訖、将軍等挙是三神 三神は高市、身挟、村屋をいふ也、教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉、
神位
三代実録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授大和國從五位下村屋彌富都比売神從五位上、
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
本社は 三輪大神社〈大神神社〉の別宮 と記しています
【抜粋意訳】
奈良縣 大和國 磯城郡 川東村大字蔵堂
郷社 村屋坐彌富都比売神社(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)
祭神 大物主(おほものぬしの)命 三穗津姫(みほつひめの)命創立年代詳ならず、本社は三輪大神社〈大神神社〉の別宮にして、俗に森屋の神社と云ひ、又 天王と称す 大三輪神社、鎮座次第大和志、国花万葉記
初 大物主神 天神の命に帰順し奉る時、事代主神と共に八十萬神等を天高市に集合し天に上り給ふ、高皇産霊尊 勅給はく、汝若し國神を妻とせば吾猶汝を疏る心有りと思はむ、故に今吾女 三穂津姫を配せて汝が妻とせむ、今より後八十萬神を領て永へに皇孫命を護り奉れと、詔りて還し降らしめ給へりとぞ、
天武天皇 壬申の乱 将軍 大伴吹負金綱井に軍する時、村屋神祝に託して陰に軍威を佑け給へり、依つて其品位を進めて之を祠らしむ 日本書紀
式二、四時祭下 相嘗祭神七十一座、中略 村屋社一座、
日本紀、天武天皇 元年7月庚寅朔壬子、先是、軍金綱井之時、村屋神著祝曰、今自吾社中道軍将至、故宜塞社中道故未経幾日盧井造鯨軍自中道至、時人曰、即神所教之辞是也、軍政既訖、将軍等挙是三神 三神は高市、身狭村屋をいふ也、 教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉 神社覈録
聖武天皇 天平二年 神戸稲祖五十四束を以て祭神及神嘗酒料に充てしめ 東大寺正倉院文書清和天皇 貞観元年 正月甲申從五位下より從五位上を授けらる 三代実録
醍醐天皇 廷喜の制大社に列り、祈年、月次、相嘗、新嘗の案上幣帛に預る 延喜式
近郊十四ケ村の氏神たり 大和名所図絵
明治六年村社に列し、同十四年六月郷社に列せらる、
毎年正月十日、六月七日、九月九日十日、十一月二十三日祭を行ふ。
社殿は本殿、拝殿等の建物を具へ、境内3124坪(官有地第一種)にして、初瀬川の上流に位し、甚だ景勝の地たり。
境内神社
村屋(むらやの)神社
服部(はとりの)神社
久須々美(くすすみの)神社
道祖(どうその)神社
市杵島(いちきしまの)神社例祭日 十月二十五日
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【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
所在は 川東村大字蔵堂の大宮と記しています
【抜粋意訳】
村屋坐彌富都比売神社(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)
延喜式神名帳に「村屋坐彌富都比賣神社 大月次相嘗新嘗」と見ゆ。
川東村大字蔵堂の大宮にあり 俗に森屋明神と称す。今 郷社たり。註 昭和二年九月五日 郷社に列せらる。
祭神
三穂津姫命を祭る。姫は大物主命の配なり。
日本書記 神代巻に「高皇産霊尊勅大物主神、汝若以国神爲妻、吾猶謂汝有疏心、故今以吾女三穗都姫配汝為妻」と即ちこれ。但し創祀の由来詳ならず。
註 神社明細帳に、三穂津姫命・大物主命を祭るとあり。神戸
・・・・・雑事
天武天皇記 元年之條 曰・・・
案ずるに大井寺の事は他の記録に所見なし。旧跡幽考に「鳥居の内に中津道あり 又 五丁許さりて大井の井手といふ所なり」と。大井の井手は文禄地帳に所謂「おおいと」と字する所にして即ち大井寺の在りし地ならん。續日本紀に「寶亀三年三月甲申。・・・・」・・・・・・
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三神は 村屋・高市・牟狭の三座なり。神祇に品階を奉授するの史に見ゆる之を以って始めとす。
【原文参照】
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
村屋坐彌冨都比賣神社は 大和一之宮 大神神社の別宮とされています
・大神神社(桜井市三輪)