加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)〈延喜式内社 加和良神社(かわらの かみのやしろ)〉

加和良神社(かわらじんじゃ)は 創祀は不詳で大安寺資料帳天平年間729~749年)〉』には「高良社」と見え 既にこの頃には祀られていたと思われ 『延喜式神名帳927年に成立)』には伊勢國 奄藝郡 加和良神社(かわらの かみのやしろ)と所載される古社です 大正111922)花の木の宮〈古社地より現在地に遷座しました

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

加和良神社(Kawara shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県鈴鹿市稲生塩屋 2-22-22

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》木花之咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)

《配》武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)
   高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)

《合》品陀和(ほんだわけのみこと)
   須佐之男命(すさのをのみこと)
   八衢比古命(やちまたひこのみこと)
   八衢比(やちまたひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

安産長寿の守り神

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

延喜式内(えんぎしきない)加和良神社(かわらしんじゃ)由緒

当社は往古より、花の木の宮と尊称し 安産長寿の守り神として崇められ、次の祭神を奉斎する。

一、木花之咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)
一、武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)
一、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
一、品陀和(ほんだわけのみこと)
一、須佐之男命(すさのをのみこと)
一、八衢比古命(やちまたひこのみこと)
一、八衢比(やちまたひめのみこと)

抑(そもそも)当社の御祭神は創生の懐妊(こはらみ)の諸事を慈しみ愛でまもらせ給うにより 子安の守り神として、深く敬われ、遠近より多勢詣ぜられる

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

 創祀は不詳であるが、奈良時代の天平年間に成る「大安寺資料帳」には「高良社」と見え、既にこの頃には祀られていたと思われる。
 平安時代中期に成立した「延喜式神名帳」にも登載されており、所謂延喜式内社である。
 明治39年12月神饌幣帛料供進社に指定された。
 明治41年11月に須賀神社を、また大正3年2月には八幡社を、更に大正5年2月には伊達神社を合祀した。
 大正11年7月21日河原の南方より現在地に遷座し今に至っている。

三重県神社庁・皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=2999

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・加和良神社旧跡(鈴鹿市稲生塩屋)加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)の旧鎮座地〉

 現在は小丘の上に゛式内加和良神舊跡゛と刻字されている石碑が建ちます
この地では゛義木花宮or花の木の宮゛と呼ばれていた
大正111922721日耕地整理によって 境内が狭くなったので この地〈河原の南方より現在地に遷座しました

『河芸郡史』大正7年(1918)に記される゛加和良神社゛について

大正111922721日 耕地整理によって 現在地に遷座する前の゛加和良神社゛様子が記されています

【抜粋意訳】

第二項 神祠

三十、村社 加和良神社

稻生村字稻生字川原にあり、延喜式内社なり、木花開耶姫命外六神祭る、
神社明細帳曰、當社の義木花宮、或は美量壽の森とも稱移して 諸記錄は舊別當 福樂寺に可有之哉相調候へ共神記等不出明昨八年迄 式内社の類社と相成居有之に付 段々當社の義 御調べの節 由緖考證等相添へ 見在の如く海邊に座す神社なり、其地名字川腹の眞中に座す、本社境内に續く耕地は 白子寺家村の地所にして 高良と同村よりも稱す、當社 又 往昔大和國大安寺の資材帳に伊勢國
奄藝郡城上原の田地四十町 西は限田地、東限濱、北限濱小道、南限高良社と記載しありて、高良、川原、加和良同音にて同寺の資材帳に方四十町の田地北濱を限るとあるを以て 河原本社なる事 昨八年十二月御確定の御達有之候自然神位相增し 從來安産の守護神と申傳有之處方 今は猶以庶人の信仰日に盛にして 其御霊德 人民の崇知するは略之、とあり、

 然るに古來の諸書は何れも 此加和良神社を三宅 或は長法寺、川北等にあると記せり、
延経神名帳考證曰、加和良神社月讀命乎、按神宮乃例 高川原社 川原社 皆月讀神御魂也、山城國 樺井月神社 樺井河合語通、丹波國 小川之月神社 又同以載干 伊奈富下見之月讀命乎川北村、とあり、
正身神名帳再考證 社地未考、とす、勢陽雜記は 長法寺にありと云ひ 五鈴遺響は三宅字西之谷にありと云ふ、式社案内記又三宅村とす、

 考ふるに 其祭神は延經神名帳考證の云ふ如くなるも 其社地は 川原即ち海邊 又は河流の附近にあること明なれば 此社を式内社として誤りならんことを思ふ、而して祭神木花開耶姫命とせるは 木花宮 又は美量の森と稱したるよりかく 推測したるなるべし、
大正三年二月無格社八雲神社を合祀し 同五年二月伊達神社を合祀せり

【原文参照】

中林楓水 著『河芸郡史』,河芸郡史編纂会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959169

中林楓水 著『河芸郡史』,河芸郡史編纂会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959169

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)奄藝郡 13座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 加和良神社
[ふ り が な ]かわら かみのやしろ
[Old Shrine name]Kawara no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

伊勢國 奄藝郡 加和良神社(かわらの かみのやしろ)の論社

・加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)

〈参考論社〉大鹿三宅神社(鈴鹿市三宅町)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄名古屋線 鼓ヶ浦駅から北西へ約1.6km 車5分程度

加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)に参着

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社号標には゛式内 加和良神社゛と刻字されています

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一礼をしてから 鳥居をくぐり参道を進みます 参道には多くの石燈籠が建てられています

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灯籠に刻まれているのは たまに見かけるのですが 何の柄だろう

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 御透塀に囲まれて本殿が鎮座されています 境内には゛マムシ注意゛の立札があります 参拝日は10月18日でしたが 下草が綺麗に刈り取られていましたので よく下を見て進みます

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御本殿です

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 加和良神社について 所在は゛三宅村に在す、今千力大明神と称す゛〈現 三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と記しています

【抜粋意訳】

加和良神社

加和良は假字也

〇祭神 手力雄命

〇三宅村に在す、今千力大明神と称す、

勢陽俚諺に、雑記云、千力大明神 三宅村にあり云々、按るに天手力雄命にてましますならん、千力は手力の誤なるべし、上古は大社由なるが、今は社壇拝殿いと纔(ワズカ)の有様也と云り、

社領
同俚諺、三宅の何某領主たりし時、御供田二十石ありと、云々、織田上野介信長の守りたりしより没収せられたり、

類社
丹波国 氷上郡 加和良神社

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 加和良神社について 所在は゛今 塩屋村 高良の地にあり、高良社といふ゛〈現 加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)〉と記しています

【抜粋意訳】

加和良神社

今 塩屋村 高良の地にあり、高良社といふ、〔大安寺資財帳、式内社検録〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 加和良神社について 所在は゛稲生村゛〈現 加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)〉と記し
又 長法寺村の千力大明神〈現 三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉については 論社としての説はあるが 『大和國大安寺資財帳』には符合しないので採用できない とも記しています

【抜粋意訳】

加和良神社 稱 花木大明神

祭神
祭日 八月十一日
社格 村社

所在 稲生村〔河郡稲生村大字稲生

 今按 本社 鎮座の左右後ともに田畑の字を加和良沖と称し 同村検地帳名寄帳にも 此地名を加和良と云ひ古き石燈籠に高良と刻字あり
 大和國大安寺資財帳云 奄藝郡城上原田地四十二町四至 東濱南加和良社 並百姓田西同田北濱道之限とあり 其地は今 寺家村と唱ふ 寺家の領なりし故なり 本社  其南方に存せしは 以て稱とすべし
 然るに一説長法寺村の千力大明神 並に稻荷明神を加和良神社なりと云へれど 資財帳に符はす更に證とすべきものなければ取がたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋) (hai)」(90度のお辞儀)

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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