名神大社〈延喜式内〉
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沖津宮遥拝所(宗像市大島 字伊東)& 御嶽山祭祀遺跡
宗像大社(むなかたたいしゃ)沖津宮遙拝所(おきつぐうようはいしょ)は 遥か沖に浮かぶ゛神宿る島 沖ノ島゛〈島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉この遥拝所として 少なくとも江戸時代〈境内の石碑には寛永3年(1750)と刻字〉には ここに造られていたと推測されています
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宗像大社 辺津宮(宗像市田島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
宗像大社(むなかたたいしゃ)は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛が三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉に坐ます ゛辺津宮(へつぐう)の起源゛は 背後の宗像山〈辺津宮古代祭祀の場〉゛高宮祭場゛の麓に本土の信仰の場として社殿が造営されたものです 古から受け継がれる宗像信仰の中心地となっています
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美奈宜神社(朝倉市荷原)〈延喜式内社 名神大社 美奈宜神社〉
美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は 創始について 神功皇后の 熊襲゛羽白熊鷲(はしろくまわし)の平定゛に由来します 『六国史』には 貞觀元年(八五九)美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記され 延喜式内社 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)とされます
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美奈宜神社(朝倉市林田)〈延喜式内社 名神大社 美奈宜神社〉
美奈宜神社 (みなぎじんじゃ)は 社説に゛今から千八百年前 神功皇后が三韓征伐の御時 冥助あり 此所に祭り給い゛と云え 『六国史』にも貞觀元年(859)美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記される由緒ある古社です 延喜式内社 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)の論社です
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筑紫神社(筑紫野市原田)〈延喜式内社 名神大社 筑紫神社〉
筑紫神社(ちくしじんじゃ)は 延喜式内社 筑前國 御笠郡 筑紫神社(名神大)(ちくしの かみのやしろ)です 筑紫の国号の起源説話が伝わる由緒ある古社で 奈良時代に書かれた『御笠郡筑紫神社縁起』には「筑前国と筑後国の境に荒ぶる神がいて 往来のものの命を奪うので困り果て 筑紫神として祀り これを鎮めた」とあります
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大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉
大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります
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梅宮大社(梅津フケノ川町)〈延喜式内社 梅宮坐神四社(並名神大月次新嘗)の論社〉
梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は 〔奈良時代前期〕縣犬養三千代の創建と云い その子 橘諸兄により橘氏の氏神となり〔桓武天皇の母〕橘嘉智子により現在地に遷座しました 延喜式内社「山城國 葛野郡 梅宮坐神四社(むめのみやにますかみ よやしろ)並名神大月次新嘗」で 祭神は四座〈酒解神・大若子神・小若子神・酒解子神〉です
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高積神社(和歌山市祢宜)
高積神社(たかつみじんじゃ)は 高積山〈和佐山 わさやま〉の山頂に゛上の宮゛麓に゛下の宮゛が鎮座します 上の宮は゛髙宮・髙三所明神゛下の宮は゛氣鎭社゛とも呼ばれ 式内社の都麻都比賣(つまつひめの)神社(名神大 月次 新嘗)とも 同じく式内社の髙積比古(たかつみひこの)神社 髙積比賣(たかつみひめの)神社ともされています
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都麻津姫神社(和歌山市平尾若林)
都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉日前・國懸の両神宮に和歌山市秋月の社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座 大宝2年(702)に分遷した三社〔伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売〕の一つです 亥の森から遷座後は 三社は各々 式内社の名神大社となりましたが 都麻津姫神社の所在地は不明となり 論社は現在三ヶ所です
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都麻津姫神社(和歌山市吉礼)
都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は 当初は三社〔伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売〕で一つの神社でした 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉日前・國懸の両神宮に和歌山市秋月の社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座します 大宝2年(702年)三社は分遷 亥の森から遷座 各々が 式内社の名神大社となりました 都麻津姫神社の論社は 現在三ヶ所あります
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大屋都姫神社(和歌山市宇田森)
大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)は 当初の鎮座地は 日前・國懸両神宮(和歌山市秋月)の地 その後 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉両神宮に社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へ遷座します 大宝2年(702年)伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社の分遷により 亥の森から現社地の北方 古宮に遷座した後 現在地に遷座と伝えています
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水門吹上神社(和歌山市小野町)
水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)は 『古事記』に云う゛男之水門゛であると伝えられる地〈神武天皇が御東征のみぎり 御兄の彦五瀬命が 和泉で長髄彦の流失に当り 出血甚だしく 崩御されたと言われる旧跡地〉に鎮座します 延喜式内社 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)の論社でもあります
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伊達神社(和歌山市園部)
伊達神社(いたてじんじゃ)は 『六国史』に゛伊達神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)と載る名神大社です 神名「伊達」は伊太氏により山東庄に鎮まる伊太祁曾神と同神とされます 志磨神社 静火神社と共に紀州三所神とされ その一之宮として里人は゛一宮大明神゛とも゛園部一の宮゛とも称え奉ると云う
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志磨神社(和歌山市中之島)
志磨神社(しまじんじゃ)は 神功皇后の創建との伝承があり 正史の『六国史』に゛志摩神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 志磨神社(名神大)(しまの かみのやしろ)と載り 伊達神社 静火神社と共に紀州三所神と呼ばれた名社です 中世に廃絶 所在不明となり 元和年間(1615~24年)中之島の小祠゛九頭明神゛を志磨神社と定め 紀州徳川家により再興されました
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静火神社(和歌山市和田)〈延喜式内社 名神大社〉
静火神社(しずひじんじゃ)は 『六国史』に゛靜火神゛『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)と載る名社ですが 永仁以前(~1293年)には既に廃絶して社伝・創建年代等は不詳 『国造家記』の記録には「日前神宮・國懸神宮」境内「草ノ宮」で「静火祭」の神事祭祀が 暦応~應永年間(1338~1428年)も継続していたと記されます
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豊姫神社〈天満宮境内〉&本山天満宮(久留米市上津町)
豊姫神社(ゆたひめじんじゃ)は 元々は東上村に鎮座していた社殿を大正十四年(1925)五月三日 本山天満宮(ほんざんてんまんぐう)に合祀して後日石祠を建立し 本山天満宮の境内に遷座したものです 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社となっています
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赤司八幡神社(久留米市北野町赤司)
赤司八幡神社(あかじはちまんじんじゃ)は 延長二年(924)十一月鎭座と云い 神社に伝わる『止誉咩(とよひめ)神社本跡縁起』には はじめ゛筑紫中津宮゛と呼ばれ 後に 延喜式内社として゛ 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)゛になったとあります 止誉比咩は゛豊姫゛とも表記し神功皇后の妹ともされます 戦国時代に社号を八幡宮となり現在に至ります
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豊比咩神社〈豊姫神社〉(久留米市北野町大城)&宮地嶽神社 玉垂御子神社
豊比咩神社〈豊姫神社〉(とよひめじんじゃ)は 由緖は不詳ですが 社説には天平年中(729~749年)の鎭座と云う古社です 江戸時代は゛宝満宮゛と称していたようで 明治六年(1873)には村社に定められた 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社です
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元森神社〈金鑚神社の旧鎮座地〉・八坂神社(神川町二ノ宮)
元森神社(もとのもりじんじゃ)は 本殿をもたず御室山(御室ヶ嶽)を遥拝した上古に於ける信仰形態と伝わる金鑚神社の社殿跡地です 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とする 延喜式内社 武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)の旧跡となります
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金鑽神社(神川町二ノ宮)〈武藏國二之宮〉
金鑽神社(かなさなじんじゃ)は 背後の山全体〈禁足地 御室ケ獄〉を御神体として とくに本殿はなく 自然の山を祀る太古の信仰形態を残しています 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とし 延喜式神名帳には武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)と所載の古社です