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蛭子神社&奥宮〈末社〉丸田神社(京丹後市久美浜町関家ノ上)〈『延喜式』丸田神社〉
蛭子神社(ひるこじんじゃ)は 関地区の氏神で 奥宮〈末社〉丸田神社(まるたじんじゃ)〔境内に合併とも〕は 創立年代等不詳ですが 往古 七ケ村の氏神であったと伝わります「丸田神社は奥宮」「蛭子神社は里宮」の関係にあり 奥宮〈末社〉丸田神社は 延喜式内社 丹後國 熊野郡 丸田神社(まろたの かみのやしろ)の論社とされます
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丸田神社(京丹後市久美浜町甲山亀石)〈『延喜式』丸田神社〉
丸田神社(まるたじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の時代 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)によって建立されたと伝わります 神体山 甲山(カブトヤマ)山上の〈式内社〉熊野神社を奥宮とし 里宮として大膳職(食物)の神を祀られた 延喜式内社 丹後國熊野郡 丸田神社(まろたの かみのやしろ)です
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三嶋田神社(京丹後市久美浜町金谷今ゴ田)〈『延喜式』三嶋田神社〉
三嶋田神社(みしまだじんじゃ)は 七代孝靈天皇の御宇 武諸隅命(海部直の祖)が 往古 川上谷にあった三ヶ所の嶋に神々を祀り 生嶋(金谷)に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀り三嶋神社と称した 又 別説には 垂仁天皇の朝 川上摩須の勸請なりとも云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡 三嶋田神社(みしまたのかみのやしろ)です
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布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)〈『延喜式』賣布神社〉
布森神社〈布杜神社〉(ふもりじんじゃ)は 由緒など不祥ですが 賣布神社の神幸時の御旅所で 元宮であるとも云います 里での呼称も 賣布神社を大宮 布杜神社を小宮と呼んでいます 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の参考論社とも考えられています
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賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〈『延喜式』賣布神社〉
賣布神社(ひめふじんじゃ)は 『丹後一覧記』等によると第11代 垂仁天皇の御代 川上麻須の勧請に係れりと云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です 当初の鎮座地は「久美浜町谷の足洗井戸があり 祭神が始めて留りし地であり 野中 安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸された」と伝わります
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衆良神社(京丹後市久美浜町須田天王谷)〈『延喜式』衆良神社〉
衆良神社(すらじんじゃ)は 延喜式内社 丹後國 熊野郡 衆良神社(もろよしの かみのやしろ)とされます 創建は 第11代 垂仁天皇の朝の勸請と伝わり 祭神は川上麻須(かわかみます)〈娘の川上麻須郎女は 丹波道主命の妃となり 孫の日葉酢媛は 垂仁天皇の皇后となり 第12代 景行天皇の外祖父〉とされます
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聴部神社(京丹後市久美浜町友重 式ノ谷)〈『延喜式』聞部神社〉
聴部神社(きくべじんじゃ)は 社伝によると第10代 崇神天皇の御宇 丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)による勧請と伝わる 延喜式内社 丹後國 熊野郡 聞部神社(ききへの かみのやしろ)です 別説には 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)一族が当地に移住 その祖神を奉斎したとする説があります
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國原神社(京丹後市弥栄町国久)〈『延喜式』久尓原神社〉
國原神社(くにはらじんじや)は 延喜式内社 丹後國 竹野郡 久尓原神社(くにはらの かみのやしろ)です 旧鎮座地「高田の森」〈国久集落から南へ約500mの水田の中にある丘 今は樹木はなく地膚をのぞかせている 大杉のあった頃は その日影が国久まで届いたと云う〉明治43年(1910)杉森神社に合併し更に 国原神社と改称した
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白山神社(春日井市外之原字前田)〈『延喜式』訓原神社〉
白山神社(はくさんじんじゃ)は 社伝は失われ明らかではありませんが 里老の口伝には「延長元癸未年(923年)の創建」と伝えられます 『張州府志』には鎮座地の「外原と訓原と字様も相近く 鎭座も古く」と云った理由から 延喜式内社 尾張國 春日部郡 訓原神社(くにはらの かみのやしろ)の論社とされています
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訓原神社〈栗原天神社〉(北名古屋市井瀬木東五反地)
訓原神社(くにはらじんじゃ)は 創始年代不詳ですが 延喜式内社 尾張國 春日部郡 訓原神社(くにはらの かみのやしろ)とされます 祭神については 社説には少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ると云い 一說には 火明命十七世の孫 尾治佐迷連の子 尾張栗原連とし この栗原連を祀るのではないかとする説もあります
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伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)〈『延喜式』物部神社〉
伊奈波神社(いなばじんじゃ)は 社伝に 景行天皇14年 五十瓊敷入彦命の偉徳を偲び武内宿禰により 椿原の地(丸山〈伊奈波神社 旧蹟〉)に鎮斎したのが始まりと云う 天文8年(1539)斎藤道三による稲葉山城の築城により 丸山から現在地へ遷座 合殿には『延喜式』美濃国厚見郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)が祀られます
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丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉(岐阜市赤ケ洞)〈『延喜式』物部神社〉
丸山神社(まるやまじんじゃ〈伊奈波神社 旧蹟〉)は 稲葉山の一角にある丸山の山頂に鎮座する伊奈波神社の旧鎮座地です 天文8年(1539年)斎藤道三による稲葉山城の築城により 丸山から現在の場所へ遷されたと伝わります 現在も石基と六尺周囲一丈余りの烏帽子岩が存在し「伊奈波神社旧蹟」の標号もあります
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岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈『延喜式』物部神社の〈参考論社〉〉
岩戸神社(いわどじんじゃ)は 岐阜市長森岩戸(ながもりいわど)字西山に鎮座する 猿田彦大神を祀る神社で 創建年代 由緒など不祥です 元々この岩戸字西山の辺り〈岩戸観音の地とも岩戸八幡社の社地とも云う〉は 式内社 物部神社の旧社地であったと伝わっていますので 延喜式内社の〈参考論社〉として掲載します
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岩戸八幡社(岐阜市長森岩戸)〈『延喜式』物部神社の跡地〉
岩戸八幡社(いわどはちまんしゃ)は 揖斐川改修の為 八幡社が高須町大字日下丸から現地へ明治43年(1910)遷座したもの 里人の口伝には「元々この地は 延喜式内社 美濃國 厚見郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)が鎮座していたが 斎藤道三の時代(天文8年・1539)丸山へ遷座し 後に伊奈波神社に合祀された」と云う
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辰水神社(津市美里町家所)〈『延喜式』舩山神社を合祀〉
辰水神社(たつみずじんじゃ)は 前身は 辰之口神社と称えていました 明治41年(1908)大字穴倉村社 八柱神社・大字高座原村社 伊豆神社・大字日南田村社 神明社・大字船山村社 船山神社を合祀して辰水神社と改称 この時に合祀の船山神社は 延喜式内社 伊勢國 安濃郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)です
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船山神社 古社地(津市美里町船山)〈『延喜式』舩山神社の旧鎮座地〉
船山神社 古社地(ふなやまじんじゃ こしゃち)は 延喜式内社 伊勢國 安濃郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)の旧鎮座地です 明治四十一年(1908)字内各社を船山社に合祀して 村社に列しましたが 明治四十一年(1909)九月十八日 辰水神社(津市美里町家所)へ合祀されて 現在に至ります
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船山神社(平群町三里)〈『延喜式』舩山神社〉
船山神社(ふなやまじんじゃ)は 大正4年(1915)現在の東光寺(平群町三里)の東側にあった延喜式内社 大和國 平群郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)が 春日神社(安明寺の氏神)の境内地に遷座したものです 又 合祀している船上神社(ふなかみじんじゃ)の御神体とされる「三つの船石〈巨石〉」が矢田丘陵八合目にあります
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石床神社 旧社地〈『三代實録』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉
石床神社 旧社地(いわとこじんじゃきゅうしゃち)は 当初から本殿や拝殿はなく 崖面に露頭した高さ約6m 幅10数mの巨大な「陰石(いんせき)」を 御神体とする『三代實録』平群石床神・『延喜式』大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 大正13年(1924)現在地に遷座しました
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石床神社(平群町越木塚)〈『三代實録〉』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉
石床神社(いわとこじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 「舒明天皇三年(631)肇国創業の御功神 饒速日命を祀らせ給いしに創る」と石碑文にあり 古来 御神体の巨岩(陰石)を祀る旧鎮座地〈現在地の南方〉より大正13年(1924)現在地に遷座しました
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平群坐紀氏神社(平群町上庄)〈『延喜式』平郡坐紀氏神社〔名神大 月次新嘗〕〉
平群坐紀氏神社(へぐりにますきしじんじゃ)は 平群に居住した紀氏の名をとって名付けられたことは『類聚國史』天長元年(824)紀百継・末成らの奏上から明白で 創建はそれ以前とされます 延喜式内社 大和國 平群郡 平郡坐紀氏神社〔名神大 月次新嘗〕(へくりにます きのうじの かみのやしろ)です




















