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綾戸國中神社(京都市南区久世上久世町)〈『延喜式』大井神社・國中神社・茨田神社〉

綾戸國中神社(あやとくなかじんじゃ)は 元は綾戸宮と國中宮の二社でしたが 現在は合祀され 左が綾戸宮 右が國中宮となっています 3つの式内社〈延喜式内社 山城國乙訓郡 大井神社(おほゐの かみのやしろ)・國中神社(くになかの かみのやしろ)・茨田神社(まむたの かみのやしろ)〉の論社となっています

大井神社(右京区嵯峨天龍寺造路町)〈『三代実録』山代大堰神『延喜式』大井神社〉

大井神社(おおいじんじゃ)は 渡月橋の北の詰にあり 大堰神社とも称し 大堰川の守り神として『三代実録』貞観十八年(867)山代大堰神と記載があります 又『延喜式』山城國 乙訓郡 大井神社(おほゐの かみのやしろ)の式内論社ともされています

與杼神社御旅所〔旧鎮座地〕(淀大下津町)〈『三代實録』與度神『延喜式』與杼神社〉

與杼神社御旅所(よどじんじゃ おたびしょ)は 桂川の右岸にあり 古来「大荒木の森」と云われた 延喜式内社 山城國 乙訓郡 與杼神社(よひの かみのやしろ)の旧鎮座地で 淀姫社・水垂社・大荒木神社とも称したと伝わる 現在 與杼神社は明治33年(1900)桂川河川敷改修により淀城内(桂川の左岸)に遷座しています

與杼神社(京都市伏見区淀本町)〈『三代實録』與度神『延喜式』與杼神社〉

與杼神社(よどじんじゃ)は 旧鎮座地は淀村大荒木ノ森 俗に西淀といわれた所で この地に古くから居住した大与等何々などの住民の祖神を祀ったものと推測される 延喜式内社 山城國 乙訓郡 與杼神社(よひの かみのやしろ)です 明治33年(1900)淀川の改修工事のため現在地に遷座しました

旦椋神社(宇治市大久保町北ノ山)〈『延喜式』且椋神社〉

旦椋神社(あさくらじんじゃ)は 元々は『日本書紀』仁徳天皇 十二年秋七月に載る「栗隈縣の大溝(おおうなで)」この東側〔地名 旦椋(アサクラ〕に鎮座していた古社 延喜式内社 山城國 久世郡 且椋神社(あさくらの かみのやしろ)です 天文十九年(1550)に焼失し 永禄九年(1566)現在地に移転再興されたと伝わります

朝椋神社(和歌山市鷺ノ森明神)〈『延喜式』朝椋神社〉

朝椋神社(あさくらじんじゃ)は 社傳には「神代 大國主命が伯耆國より難をさけ 紀伊國の大屋毘古神(伊太祁曽神)を訪れた時 此地に來くると「天つ空なほ明けやらで物の色さへ わからなかったので其地をさして朝暗(あさくら)と名付けた」と云う 延喜式内社 紀伊國 名草郡 朝椋神社(あさくらの かみのやしろ)です

須佐神社(有田市千田)〈『三代實録』湏佐神『延喜式』湏佐神社〔名神大月次新嘗〕〉

須佐神社(すさじんじゃ)は 和銅6年(713)大和国吉野郡 西川の峯より遷座〈伊太祁曽神社が現在地へ遷座と同日〉中雄山の山頂に海を向いて祀られた 海上を通る船舶が帆を下ろし敬意を表さないと転覆するなど御神威があり 海の見えない中腹〈現在地〉に遷ったと伝わります 延喜式内社 紀伊國在田郡 湏佐神社〔名神大 月次新嘗〕です

石土神社(南国市十市字石土)〈『続日本後紀』石土神『延喜式』石土神社〉

石土神社(いしつちじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 『続日本後紀』承和八年(841)官社に列した記事があり 『延喜式(927)』土佐國 長岡郡 石土神社(いはつちの かみのやしろ)とされる由緒ある古社です 又 伊豫國の石鎚神社の元社と云われ 石鎚山頂の社は奥ノ院 当 石土神社は前ノ宮と呼ばれています

加茂八幡宮(黒潮町入野)〈『延喜式』賀茂神社〉

加茂神社(かもじんじゃ)は 延喜式内社 土佐國 幡多郡 賀茂神社(かもの かみのやしろ)とされ 俗称は 加茂八幡宮 と云う 元々は南は賀茂社 北は八幡社の2社が何時の頃か ここに遷座合祭したと云う 又 宝永の大地震の時 津波により社殿が浸水し浮く被害に遭ったが 津波が引くと寸分たがわず元の場所に戻ったと言い伝えがある

朝倉神社(高知市朝倉)〈『延喜式』朝倉神社〉

朝倉神社(あさくらじんじゃ)は 神社後方の赤鬼山を神体山として朝日さす南東の麓より拝むべく現在の所に社殿を建てられたと伝わります 天津羽羽神を祀り 後の世の遷座もなく 古代より此処に鎮座まします延喜式内社 土佐國 土佐郡 朝倉神社(あさくらの かみのやしろ)で 土佐国中でも稀な古社です

天石門別安國玉主天神社(越知町黒瀬)〈『延喜式』天石門別安國玉主天神社〉

天石門別安國玉主天神社(あめのいわとわけやすくにたまぬしてんじんじゃ)は 古老の口碑に 往古洪水ありて社地崩壊し 神寶神器流失し 棟札流下して神谷村に漂着したといふことで 元々はこちらが延喜式内社 土佐國 吾川郡 天石門別安國玉主天神社(あまのいはとわけの やすくにたまぬし あまつかみのやしろ)であると伝えています

天石門別安國玉主天神社〈貴船神社〉(いの町神谷)〈『延喜式内社』〉

天石門別安國玉主天神社(あめのいわとわけやすくにたまぬしてんじんしゃ)は 棟札「天野岩戸分安國玉之天神社 天文九年・・・」が元禄5年(1692)巌穴より発見され 藩は式内社 土佐國 吾川郡 天石門別安國玉主天神社と正式認定したが 黒瀬村の社の棟札が「流れ着いた」新宮の扱となり 郷社 貴船神社を合祀 現在に至ります

天忍穂別神社〈石舟神社〉(香我美町山川)〈『延喜式』天忍穂別神社〉

天忍穂別神社(あめのおしほわけじんじゃ)は 土佐に来た物部氏が代々傳領の地〈山川の里〉に氏祖神を祀つたと云う 又 饒速日尊が天磐船に乗って父神の天忍穂耳尊を慕って 土佐の国へ天降った伝説があり 石舟神社とも呼ばれます 延喜式内社 土佐國 香美郡 天忍穂別神社(あめをしほわけの かみのやしろ)です

王子宮(安芸郡芸西村馬ノ上)〈『延喜式』坂本神社〉

王子宮(おうじぐう)は 創建年代など不祥ですが 安政三年(一八五六) 權現社を改築する際 社殿の横梁に「奉造立 坂本權現 慶長十三歲(一六〇八)孟夏吉日大工小助」の墨書銘が発見されたことから 延喜式内社 土佐國 安藝郡 坂本神社(さかもとの かみのやしろ)の論社とされています

宇佐八幡宮(安芸郡芸西村和食)&〈境内社〉坂本神社〈『延喜式』坂本神社〉

宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)は 建久年間(1190~99)宇佐八幡宮を勧請したと云う もともとは「正八幡宮(せいはちまんぐう)」と呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に宇佐八幡宮と改名されました 〈境内社〉坂本神社は 延喜式内社 土佐國 安藝郡 坂本神社(さかもとの かみのやしろ)の論社です

多氣神社・坂本神社(安芸郡奈半利町)〈『延喜式』多氣神社・坂本神社〉

多氣神社・坂本神社(たけじんじゃ さかもとじんじゃ)は 二つの延喜式内社 土佐國 安藝郡 多氣神社(たけの かみのやしろ)・坂本神社(さかもとの かみのやしろ)の合殿です 合祀の経緯については「昔時 坂本神社は多氣神社の東南數町の地に鎮座ありしを 何時の頃にか多氣神社の合殿となれり」と伝わっています

八木ヶ鼻(三条市北五百川)〈八木神社 旧鎮座地〉

八木ヶ鼻(やぎがはな)は 約600万年前の海底火山活動で形成された海底溶岩ドームの中心部が 約200万年前以降に陸化 その後の浸食・解析の結果 中心部が露出し絶壁が形作られたものと考えられています 古くから神靈地とされ 八木神社も元來はこの山頂に鎭座していたと云い 八木神社の旧鎮座地とされています

八木神社(三条市北五百川)〈『延喜式』伊加良志神社〉

八木神社(やぎじんじゃ)は 大同二年(807)八木大明神〈倉稲魂命〉と守門大明神〈盤間戸命〉の二神を八木ケ鼻に勧請 近郷の守護神として祀ったのが創立と伝え その後 現在地に遷宮したと云う 江戸時代に五十嵐神社とも稱されたと謂われ 延喜式内社 越後國 蒲原郡 伊加良志神社(いからしの かみのやしろ)の論社となつています

五十嵐館跡(三条市飯田)〈五十嵐神社 旧鎮座地〉〈『延喜式』伊加良志神社〉

五十嵐館跡(いからしやかたあと)は 古代から五十嵐川の辺に住居した五十嵐氏の遺蹟です 五十嵐神社は 中世には「五十嵐小文治の館跡」の鬼門の位置(現在地の南200m)に鎮座〈旧鎮座地〉と云い 江戸時代初期に館が排され丘陵地〈五十嵐要害跡〉に遷座 明治3年(1870)要害本丸の場所に社殿を建立し遷座〈現在地〉しました

五十嵐神社(三条市飯田)〈『延喜式』伊加良志神社〉

五十嵐神社(いがらしじんじゃ)は 口碑に「垂仁天皇の第8皇子 五十日帶日子命は 景行帝の御時 越後に來り 普く國内を巡り 民に開墾漁獵の業を教へたまへて 此地に薨去し給ふ 其陵に神祠を建てて 五十嵐明神と崇め奉れり」と云う 延喜式内社 越後國 蒲原郡 伊加良志神社(いからしのかみのやしろ)です

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