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太神社(四日市市大鐘町)〈『延喜式』太神社〉
太神社(おおのじんじゃ)は 東西大鐘2村の産土神として字大坪に鎮座した「諏訪大明神」で 延喜式内社 伊勢國 朝明郡 太神社(おほみわのやしろ)と伝わります 東大鐘の山神社・西大鐘の天一目連神社・山神社を大正2年に合祀の上 大正5年(1916)石部神社に合祀をされた後 昭和22年(1947)現在地に分祀されたものです
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神明宮(浜松市浜名区三ヶ日町只木)〈『延喜式』彌和山神社〉
神明宮(しんめいぐう)は 上古 浜名湖周辺に定着繁栄した三輪 (神・美和)氏族が奉斎し弥和山神社と称した 延喜式内社 遠江國 濱名郡 彌和山神社(みわやまの かみのやしろ)で 天慶三年(940)伊勢神宮神領 但木御薗の成立があり 旧来の祭神 大物主命の霊に代り 天照皇大神を奉斎した神明宮へと変化したと考えられています
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子倉神社(磐田市笠梅)〈『延喜式』子倉神社〉
子倉神社(こくらじんじゃ)は 『遠江風土記傳』に「富田村 子安明神 天龍河洪水之時 田村流亡 大海村有 子倉明神者移是以齋彼所也」とあり 天竜川の洪水により子安神社(白鳥町富田)から この地に遷座したと記されています 延喜式内社 遠江國 長上郡 子倉神社(こくらの かみのやしろ)の論社です
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子安神社(浜松市中央区白鳥町富田)〈『延喜式』子倉神社〉
子安神社(こやすじんじゃ)は 元々は天竜川左岸の集落(富田村字堤外中ノ町)に鎮座していましたが 昭和14年(1939)5月天龍川改修工事によって 堤防傍の現在地に遷座しています 延喜式内社 遠江國 長上郡 子倉神社(こくらの かみのやしろ)の論社です
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稲荷神社(浜松市中央区飯田町)〈『延喜式』子倉神社・朝日波多加神社
稲荷神社(いなりじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 延暦二十年(801)に建てられたとも云い伝えられています 延喜式内社 遠江國 長上郡 子倉神社(こくらの かみのやしろ)であるとも 延喜式内社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)であるとも云い 二つの式内社の論社となっています
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有玉神社(浜松市中央区有玉南町)〈『延喜式』朝日波多加神社〉
有玉神社(ありたまじんじゃ)は 明治四十年 八幡宮境内〈現在地〉に郷社 神明宮〈式内論社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)〉を移転し 当時の有玉村の地域内にあった 郷社 神明宮 村社 無格社などと八幡宮 俊光将軍社等 併せて十一社を合祀して 郷社 有玉神社と称したものです
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六所神社(浜松市中央区半田町)〈『延喜式』朝日波多加神社〉
六所神社(ろくしょじんじゃ)は 朝日(あさひ)山〈往古 村名゛波多(はた)村゛にある〉の中腹に 社殿・境内は東を向いて 旭日(あさひ)を迎えるように鎮座しています 創建年代不詳ですが この地名と地形からみて 延喜式内社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)の論社との説があります
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神明宮(浜松市浜名区内野)〈『延喜式』朝日波多加神社〉
神明宮(しんめいぐう)は 創立年代不詳ですが 鎮座の地「内野(うちの)」が「宇治乃(うぢの)」と呼ばれていた頃 伊勢神宮より勧請したと云い 又 神明宮由緒によると寛永二年(1625)正月十五日 現在地に創建したと云います 延喜式内社 遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)の論社です
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稲荷神社(浜松市浜北区小林)〈『延喜式』猪家神社〉
稲荷神社(いなりじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 明徳年間(1390)足利義満の時代に改造の記録があります 寛政8年9月 稲荷大明神を稲荷神社と改称 明治12年8月26日村社に列格 延喜式内社 遠江國 長下郡 猪家神社(ゐけの かみのやしろ)の論社でもあります
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椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島)〈『延喜式』猪家神社〉
椎ヶ脇神社(しいがわきじんしゃ)は 延暦二十年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため下向の折 天竜川が氾濫し大海となり 東岸に渡ることも出来ず困っていた時 土人が筏を作り将軍を渡し 大変喜ばれこの地に減水を祈り「闇淤加美神」を祀ったと伝わる 延喜式内社 遠江國 長下郡 猪家神社(ゐけの かみのやしろ)の論社
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蒲神明宮(浜松市中央区神立町)〈『延喜式』大歳神社・朝日波多加神社・子倉神社〉
蒲神明宮(かばしんめいぐう)は 『三代實録』蒲太神とする説があり これによって三つの式内社〈①遠江國 長上郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)②遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)③遠江國 長上郡 子倉神社(こくらの かみのやしろ)〉の論社となっています
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大歳神社(浜松市中央区天王町)〈『延喜式』大歳神社〉
大歳神社(おおとしじんじゃ)は 延喜式内社 遠江國 長上郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)を合祀しています 元来「天王宮」「天皇宮」「大歳神社」の三社に別れてご鎮座になっていたが 後に合祀され 更に当神社氏子四町の氏神を合祀し現在に至ります
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等乃伎神社(高石市取石)〈『延喜式』等乃伎神社(鍬靫)・〈合祀〉大歳神社(鍬)〉
等乃伎神社(とのきじんじゃ)は 古代の太陽信仰と密接な関係があり『古事記』下巻 仁徳天皇の段には「巨木伝説」が伝わり 又『続日本紀』天平勝宝4年(752)「中臣殿来連竹田売」と記載の中臣氏一族 殿来連が祖先神 天兒屋根命を当社に奉祀した 式内社 等乃伎神社(鍬靫)で 明治期に式内社 大歳神社(貞・鍬)を合祀しています
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舟寄神社(賀茂郡松崎町江奈)〈『延喜式』伊那下神社〉
舟寄神社(ふなよせじんじゃ)は 社伝に「初 古代 嶋にありしを此の地に遷座すと云ふ」とあり 地名の江奈は伊奈の轉訛とし 往古 此地の総称と聞え 中川村の下流にあり伊奈下の称に適すとして 『伊豆神階帳』「從四位いなし利の明神」・『延喜式』伊豆國 那賀郡 伊那下神社(いなしもの かみのやしろ)であると伝えます
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仲神社(賀茂郡松崎町那賀)〈『延喜式』伊那上神社・仲神社・仲大歳神社〉
仲神社(なかじんじゃ)は 社記には もと仲神社と称し 中古 伊那上神社(松崎町宮内)に合祀して高根名神社と改称 後 本地に遷祀して 旧仲神壮に復称したとあり 現在は三つの式内社〈①伊那上神社(いなかみの かみのやしろ)②仲神社(なかの かみのやしろ)③仲大歳神社(なかをほとしの かみのやしろ)〉の論社です
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伊那上神社(賀茂郡松崎町宮内)〈『延喜式』伊那上神社・仲神社・仲大歳神社〉
伊那上神社(いなかみじんじゃ)は 社伝には 第52代 嵯峨天皇弘仁2年(811)伊豫國越智郡三島より遷座と伝えられ 又一説に弘仁8年(817)伊豆國府三島より遷座とも云う 三つの式内社〈①伊那上神社(いなかみの かみのやしろ)②仲神社(なかの かみのやしろ)③仲大歳神社(なかをほとしの かみのやしろ)〉の論社です
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伊志夫神社(賀茂郡松崎町石部)〈『延喜式』伊志夫神社〉
伊志夫神社(いしふじんじゃ)は 創建について 石部の神田の地にある石火石から遷座と云う 往昔 磐座であった「石火石」の頂上部の窪みに 火を燃やして海上交通の目印と交通安全を祈っていたとされ やがて神社を建立したのであろうと伝わる 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 伊志夫神社(いしふの かみのやしろ)の論社です
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伊那下神社(賀茂郡松崎町松崎)〈『延喜式』伊志夫神社・伊那下神社・仲大歳神社〉
伊那下神社(いなしもじんじゃ)は 三つの式内社〈伊豆國 那賀郡① 伊志夫神社(いしふの かみのやしろ)②伊那下神社(いなしもの かみのやしろ)③仲大歳神社(なかをほとしの かみのやしろ)〉の論社です 又 三韓征伐の時 この国の人が神功皇后の御船を守り 長門豊浦から松崎に来て唐(新羅)征討の住吉三神を祀り俗に唐大明神と称します
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神明神社(賀茂郡西伊豆町中)〈『延喜式』仲大歳神社〉
神明神社(しんめいじんじゃ)は かつて火災に遭って多くの記録を失い 創建年代等は不祥 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 仲大歳神社(なかおほとしの かみのやしろ)の論社です 毎年十一月の秋祭りに奉納される三番叟は初演が享保年間即ち1700年代と伝えられ 三世紀に渡り伝承される貴重な民俗文化財です
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大歳神社(橿原市石川町)〈『延喜式』大歳神社 二座〉
大歳神社(おおとしじんじゃ)は 創建年代は不明ですが 創祀について鎮座地の石川村を開発した人物「石川楯〈雄略天皇の臣下〉」であると推測されています 延喜式内社 大和國 高市郡 大歳神社 二座(おほとしの かみのやしろ ふたくら)の論社で 中世両部習合神道から大山咋命を主神として社名を山王社と云ったと棟礼にみえています