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伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)〈『延喜式』物部神社〉
伊奈波神社(いなばじんじゃ)は 社伝に 景行天皇14年 五十瓊敷入彦命の偉徳を偲び武内宿禰により 椿原の地(丸山〈伊奈波神社 旧蹟〉)に鎮斎したのが始まりと云う 天文8年(1539)斎藤道三による稲葉山城の築城により 丸山から現在地へ遷座 合殿には『延喜式』美濃国厚見郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)が祀られます
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丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉(岐阜市赤ケ洞)〈『延喜式』物部神社〉
丸山神社(まるやまじんじゃ〈伊奈波神社 旧蹟〉)は 稲葉山の一角にある丸山の山頂に鎮座する伊奈波神社の旧鎮座地です 天文8年(1539年)斎藤道三による稲葉山城の築城により 丸山から現在の場所へ遷されたと伝わります 現在も石基と六尺周囲一丈余りの烏帽子岩が存在し「伊奈波神社旧蹟」の標号もあります
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岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈『延喜式』物部神社の〈参考論社〉〉
岩戸神社(いわどじんじゃ)は 岐阜市長森岩戸(ながもりいわど)字西山に鎮座する 猿田彦大神を祀る神社で 創建年代 由緒など不祥です 元々この岩戸字西山の辺り〈岩戸観音の地とも岩戸八幡社の社地とも云う〉は 式内社 物部神社の旧社地であったと伝わっていますので 延喜式内社の〈参考論社〉として掲載します
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岩戸八幡社(岐阜市長森岩戸)〈『延喜式』物部神社の跡地〉
岩戸八幡社(いわどはちまんしゃ)は 揖斐川改修の為 八幡社が高須町大字日下丸から現地へ明治43年(1910)遷座したもの 里人の口伝には「元々この地は 延喜式内社 美濃國 厚見郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)が鎮座していたが 斎藤道三の時代(天文8年・1539)丸山へ遷座し 後に伊奈波神社に合祀された」と云う
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辰水神社(津市美里町家所)〈『延喜式』舩山神社を合祀〉
辰水神社(たつみずじんじゃ)は 前身は 辰之口神社と称えていました 明治41年(1908)大字穴倉村社 八柱神社・大字高座原村社 伊豆神社・大字日南田村社 神明社・大字船山村社 船山神社を合祀して辰水神社と改称 この時に合祀の船山神社は 延喜式内社 伊勢國 安濃郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)です
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船山神社 古社地(津市美里町船山)〈『延喜式』舩山神社の旧鎮座地〉
船山神社 古社地(ふなやまじんじゃ こしゃち)は 延喜式内社 伊勢國 安濃郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)の旧鎮座地です 明治四十一年(1908)字内各社を船山社に合祀して 村社に列しましたが 明治四十一年(1909)九月十八日 辰水神社(津市美里町家所)へ合祀されて 現在に至ります
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船山神社(平群町三里)〈『延喜式』舩山神社〉
船山神社(ふなやまじんじゃ)は 大正4年(1915)現在の東光寺(平群町三里)の東側にあった延喜式内社 大和國 平群郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)が 春日神社(安明寺の氏神)の境内地に遷座したものです 又 合祀している船上神社(ふなかみじんじゃ)の御神体とされる「三つの船石〈巨石〉」が矢田丘陵八合目にあります
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石床神社 旧社地〈『三代實録』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉
石床神社 旧社地(いわとこじんじゃきゅうしゃち)は 当初から本殿や拝殿はなく 崖面に露頭した高さ約6m 幅10数mの巨大な「陰石(いんせき)」を 御神体とする『三代實録』平群石床神・『延喜式』大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 大正13年(1924)現在地に遷座しました
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石床神社(平群町越木塚)〈『三代實録〉』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉
石床神社(いわとこじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 「舒明天皇三年(631)肇国創業の御功神 饒速日命を祀らせ給いしに創る」と石碑文にあり 古来 御神体の巨岩(陰石)を祀る旧鎮座地〈現在地の南方〉より大正13年(1924)現在地に遷座しました
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平群坐紀氏神社(平群町上庄)〈『延喜式』平郡坐紀氏神社〔名神大 月次新嘗〕〉
平群坐紀氏神社(へぐりにますきしじんじゃ)は 平群に居住した紀氏の名をとって名付けられたことは『類聚國史』天長元年(824)紀百継・末成らの奏上から明白で 創建はそれ以前とされます 延喜式内社 大和國 平群郡 平郡坐紀氏神社〔名神大 月次新嘗〕(へくりにます きのうじの かみのやしろ)です
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大川神社(舞鶴市大川)〈『日本三代實録』大川神・『延喜式』大川神社〔名神大〕〉
大川神社(おおかわじんじゃ)は 社伝に第23代顕宗天皇 乙丑年(485)3月23日に宮柱を立て鎮祭したところから始まったと云う由緒ある古社で 伝説も数多く残ります 『日本三代實録』大川神〈国史見在社〉・『延喜式』丹後國 加佐郡 大川神社〔名神大〕(おほかはの かみのやしろ)〈延喜式内 名神大社〉です
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物部神社(高岡市東海老坂)〈『延喜式』物部神社〉
物部神社(もののべじんじゃ)は 当初鎮座地は この谷の奥地「氷見の庄 物部神社と称し(氷見との境界の奥山に鎮座)」とされ 次に現在地の西方 鳥帽子山という山に遷座 その後に 現在地〈海老坂八幡宮のあった地〉に遷座しました 延喜式内社 越中國 射水郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
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櫛田神社(射水市串田)〈『三代實録』櫛田神・『延喜式』櫛田神社〉
櫛田神社(くしだじんじゃ)は 社伝によると「創建は 平城天皇 大同貳年(807)」又「千数百年前の昔 大和朝廷から この地に遣わされた武内宿祢が斎主となり創建」とも云う 『三代實録』貞觀十八年(867年)櫛田神・『延喜式』〈927年〉越中國 射水郡 櫛田神社(くしのた かみのやしろ)と記載されている由緒ある古社です
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櫛田神社(桑名市島田)〈『延喜式』櫛田神社〉
櫛田神社(くしだじんじゃ)は 『勢陽雑記拾遺(1656)』等の記録に「現在地の南方の丘の下に鎮座していた蔵王権現・天白天明神」とあり 後に現在地に遷座 明治42年(1909)平群神社(志知)に合祀の後 昭和27年(1952)分祀され現在に至ります 延喜式内社 伊勢國 朝明郡 櫛田神社(くしたの かみのやしろ)の論社です
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古代豪族「平群氏」の興亡と信仰 ― 古代大和王権における平群氏の歴史と式内社
平群氏(へぐりうじ)は 「大和王朝を牽引した葛城氏の没落後を継ぎ 大伴・物部氏に先立って朝廷の実権を握った中央実務豪族」 その栄枯盛衰〔平群眞鳥の専横とその滅亡〕は「古代豪族と王権の力関係」を示す典型例「王権を凌駕する豪族は必ず排除される」という歴史的教訓を残し 古代大和王権の権力交代史を理解する上で欠かせない氏族です
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平群神社(桑名市志知)〈『延喜式』平群神社〉
平群神社(へぐりじんじゃ)は 平群氏族の祖神 平群木兎宿禰(へぐりつくのすくね)を祭神とする 延喜式内社 伊勢國 員辨郡 平群神社(へくりの かみのやしろ)です 背後の平群山は古代神奈備の遺跡で 境内奥には日本武尊の足洗池の跡と伝えられる平群池があり 古代からの息吹を感ずる場所に鎮座します
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平群神社(生駒郡平群町西宮)〈『延喜式』平群神社五座〔並大月次新嘗〕〉
平群神社(へぐりじんじゃ)は 『興福寺官務牒疏(1441年)』に「平群大明神」と記載以来 延喜式内社 大和國 平群郡 平群神社 五座〔並大月次新嘗〕(へくりの かみのやしろ いつくら)の論社とされ 五座については 平群木菟宿禰の裔に平群臣・佐和良臣・馬御樴連・韓海部首・味酒首等があり この祖神を祀ったとする説があります
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長柄神社(御所市名柄)〈『日本書紀』長柄杜『延喜式』長柄神社(鍬靫)〉
長柄神社(ながらじんじゃ)は 御祭神の下照姫命を葛木一言主神社や高鴨神社の姫宮と考え 別名「姫の宮」と云う 又 鎮座地は『日本書紀』天武天皇 即位九年の条に「長柄杜(ながらのもり)で゛馬的を射させ゛」と流鏑馬をご覧になった記述があり 延喜式内社 大和國 葛上郡 長柄神社(鍬靫)(なからの かみのやしろ)の由緒を持ちます
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矢作神社(八尾市南本町)〈『三代實録』掃部神『延喜式』矢作神社・長柄神社〉
矢作神社(やはぎじんじゃ)は 鎮座する八尾の地名は当社から由来したと云う 一帯は物部氏一族の矢作連の屋敷跡と伝わり その祖神である「経津主命」を祀る 延喜式内社 河内國 若江郡 矢作神社(やはぎの/やつくりの かみのやしろ)です 又 明治40年(1907)式内社 長柄神社(なからの かみのやしろ)を合祀しています
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阪合神社(八尾市小阪合町)〈『三代實録』堺神・『延喜式』阪合神社二座〉
阪合神社(さかあいじんじゃ)は 創建年代等は不祥ですが 六国史『三代實録』堺神・『延喜式』河内國 若江郡 坂合神社二座(貞加一座)(さかえの かみのやしろ ふたくら)とされる由緒ある古社です 明治40年(1907)矢作神社(八尾市南本町)に合祀された後 昭和32年(1957)旧社地〈現在地〉に復興しました




















