実践和學 Cultural Japan heritage
二十五柱神社(松阪市柿木原町)〈多氣郡の式内社論社8つを合祀〉
二十五柱神社(にじゅうごはしらじんじゃ)は 三重県令に依り旧東黒部村内25社の神社を明治41年(1907)9月30日に合祀して二十五柱神社が創建 合祀社の内 伊勢國多氣郡の8つの式内社〈・須麻漏賣神社・服部伊刀麻神社・林神社・服部麻刀方神社二座・流田神社・流田上社神社・火地神社・牛庭神社〉の論社を含みます
牛庭神社 跡(うしばじんじゃあと)は 明治41年 (1908) 二十五柱神社に合祀された 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 牛庭神社(うしにはの かみのやしろ)の旧跡地で 元々は現在地の北東75mの位置 牛草町に鎮座していました この跡地の石碑は 昭和六十年三月に耕地整理によって 現在地に移転しています
牛庭神社(うしばじんじゃ)は 往古 里人が神社の前の野に牛を放ち飼いにしていたので牛飼場と呼ばれたと云う 旧名を牛庭牛頭天王 又は牛嶺天王社と云い 明治六年(1873)社寺御改めに際し 牛庭神社と改称しました 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 牛庭神社(うしにはの かみのやしろ)の論社です
伊勢庭神社(いせばじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 牛庭神社(うしにはの かみのやしろ)の論社とされています 明治40年(1907)神社合祀令により漕代神社(現 葉生田神社)に合祀されましたが 昭和28年(1953)現在地〈旧社地〉に分祀されました
葉生田神社(はふだじんじゃ)は 平安時代末期から土田(はふだ)村の神仏混淆の産土神「日天八王子社」でした 明治3年 神仏分離により「葉生田神社」と改称 明治40年の県令により 漕代(こいしろ)村の22社26祭神を合社・合祀 昭和28年に分社・分祀するも 正式な手続きは社名変更のみで 現在も22社26祭神が祀られています
神垣神社(こうがぎじんじゃ)は 元々は゛髙木村に座す彦神゛と云い 明治40年(1907)漕代神社(現 葉生田神社)に合祀 昭和28年(1953)旧社地の現在地に分祀されました 延喜式内社 伊勢國 飯野郡 神垣神社(かむかきの かみのやしろ)とされ 延喜式内社 多氣郡 石田神社(いはたの かみのやしろ)の論社でもあります
佐牙神社(京田辺市宮津佐牙垣内)〈延喜式内社 佐牙乃神社(鍬靫)〉
佐牙神社(さがじんじゃ)は 社伝に 敏達天皇二年(573)創建 祭神は佐牙弥豆男神・佐牙弥豆女神の二神で山本村に鎮座した 宮中の造酒司よりの奉幣を伝え 我国の酒づくりの発祥と深い関係が推測される 延喜式内社 山城國 綴喜郡 佐牙乃神社(鍬靫)(さかの かみのやしろ)です 永享年間(1429~41)に現在地に遷座しました
畠田神社 宮蹟(はたけだじんじゃ みやあと)は 明治41年(1908)中村の畠田神社へ遷座合祀されています かつて藤原村は 南藤原 中藤原 北藤原の三村に別れており 各村に産土神として 延喜式内社 伊勢國 多気郡 畠田神社三座(はたけたの かみのやしろ みくら)が各一座があったとされ その北藤原の社地跡です
畠田神社(明和町大字中村)〈『延喜式』畠田神社三座&〈合祀〉式内社十座〉
畠田神社(はたけだじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 多気郡 畠田神社三座(はたけたの かみのやしろ みくら)です 明治41年4月に下御系地区11ヵ字に鎮座していた神社を すべて北藤原の畠田神社に合祀 更に同年8月に中村の畠田神社へ遷し現在に至ります 合祀前の下御系地区24座の中で12座が延喜式内社となっています
住吉神社〈下鴨宮〉(南丹市八木町観音寺裏山)〈『延喜式』神野神社〉
住吉神社〈下鴨宮〉(すみよしじんじゃ)は 元々は熊野社でしたが 明治時代の神社整理により 明治六年四月大字刑部の住吉神社の祭神を遷座 改称したものです 『大日本地名辭書』に依れば 延喜式内社 桑田郡 神野神社(かむのの かみのやしろ)は大宇觀音寺に在り と記されており式内論社となっています
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