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小布勢神社(三条市上保内丙)-源義家と榎の神体・大彦命の由緒

小布勢神社(おぶせじんじゃ)は 新潟県三条市上保内丙に鎮座します 延喜式神名帳 越後国蒲原郡 小布勢神社(をふせの かみのやしろ)論社の一つとされ 大彦命を御祭神とお祀りしています 今は「布勢谷」という谷の名にわずかにその名残をとどめるのみとなった「布勢」の地名を手がかりに この社の由緒をたどってみたいと思います

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

小布勢神社(Obuse shrine)

【通称名(Common name)】

八幡宮(『式内社調査報告』によれば、從來このように稱されることがあるという)

【鎮座地 (Location) 】

新潟県三条市上保内丙1288

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大比古命(おほひこのみこと/大彦命)
   誉田別命(ほんだわけのみこと/八幡神)

《合》天照大神・大山祇命・健御名方命・菅原道真朝臣

合祀神4柱は 明治四十二年に同字の神明宮・十二神社、その後 諏訪神社•菅原神社を合併したものです

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

 

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社

【創 建 (Beginning of history)】

創立年月は不詳

ただし江戸中期・元文5年(1740年)の文書に、当社の由緒は「何方の頃鎮座」したものか伝わっていない旨が記されており、少なくともその時点で既に創建の伝承が失われていたことがわかる
(出典:式内社研究会編『式内社調査報告』第17巻、皇学館大学出版部、昭和59年〔1984年〕刊)

【由 緒 (History)】

小布勢神社は、平安時代中期の延長5年(927年)に完成した『延喜式』の巻九・十、いわゆる延喜式神名帳に記載される越後国蒲原郡の式内社「小布勢神社」の論社の一つです。

式内・小布勢神社の鎮座地をめぐっては、江戸末期から大正期にかけての史料の間で見解が分かれています。大きく分けると、
①現在の上保内(三条市上保内丙)そのものを後裔とする説(『神祇志料』『特選神名牒』)と
②五泉市宮町の五泉八幡宮を後身とする説(『神社覈録』の記述が典拠)とがあり、大正期の『越後古代史之研究』は、この二説とはまた別に、『和名類聚抄』の郷名「小伏郷」の比定地そのものを疑問視する『大日本地名辞書』の異論を紹介し、これに賛意を示しています。各史料の原文・現代語訳・詳しい論点は、後段の「【神社の伝承】」でご紹介していますので、あわせて参照ください。

これらの学説史を踏まえ、昭和59年(1984年)刊行の『式内社調査報告』第17巻は、現在の小布勢神社(三条市上保内丙)を中心に調査結果をまとめており、五泉市の八幡宮を論社とする説については「大方の採用する所とはなっていない」と評しています。同書によれば、社名の訓は吉田家本で「ヲフセ」とされ、當社は從來「八幡宮」とも稱されてきたといい、祭神は大比古命(大彦命)と誉田別命(八幡神)の二柱とされています。創立年月は不詳ですが、元文5年(1740年)の文書に、由緒がいつの頃のものか既に伝わっていない旨が記されており、江戸中期の時点で創建の経緯が失われていたことがわかります(出典:式内社研究会編『式内社調査報告』第17巻、皇学館大学出版部、昭和59年刊)。

専門の調査報告書がこう評価している以上、現在の小布勢神社が式内社の後裔である可能性が高いといえそうです。ただし、これも数ある説の一つであり、絶対的な確定ではないことは念頭に置いておきましょう。

【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・小布勢神社 社殿

拝殿を正面から見ると、むくり(起くり)を持つ緑青色の屋根が大きく張り出し、軒下には精緻な木彫(懸魚・蟇股など)の装飾が施されています。軒下には、前述の「三条神楽」の由来を記した札も掲げられています。木製の高欄をめぐらせた広縁があり、中央の階段を上った先には格子戸の扉が構え、その両脇は格子状の壁で囲まれています。石段の左右には、風化の跡がうかがえる(それほど古くはなさそうですが)一対の狛犬が控えており、こちらも長い年月を経てきた趣を伝えています。

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拝殿正面に掲げられた扁額には「小布勢神社」の社名とともに、「陸軍大将 鈴木荘六 敬書」の署名があります。鈴木荘六(1865〜1940年)は、越後国蒲原郡三条町(現・三条市)の生まれで、日清・日露戦争を経て陸軍大将にまで昇り、昭和10年(1935年)には参謀総長も務めた軍人です。予備役編入後は郷里の三条に帰り、北新保に居を構えて帝国在郷軍人会会長や枢密院顧問官を歴任しました。没後は三条市葬が営まれ、市内の実盛寺に眠っています。この扁額は、そうした郷土の偉人と小布勢神社との結びつきを伝える貴重な遺品といえるでしょう。

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・神楽殿 ?

社号標の脇には、高床式に組まれ、板張りの壁を持つ切妻造の建物があり、その造りから神楽殿とみられます。前述の県指定無形民俗文化財「三条神楽」は、春秋の祭礼の折にこの建物で奉納されていると思われます

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・社頭

社頭には 参道の入口に「村社 小布勢神社」と刻まれた社号標が立ち 朱塗りの両部鳥居には大きな注連縄と紙垂が掛けられ 鳥居の扁額にも社名が記されています 鳥居の右手前には瓦葺の手水舎が設けられ 正面奥には拝殿が鎮座します 境内右手には〈境内社〉琴平社が祀られています 参道の両脇には石灯籠が並び、背後には杉などの高木が社叢として茂っており 静かな鎮守の杜の趣を伝えています

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

『特選神名牒』(教部省編、大正14年刊)には、社殿がもともと「膳殿」と呼ばれる山中に鎮座しており、後に現在の地へ遷座したという伝承が記されています。この「膳殿」の具体的な所在地は、現時点で確認できている資料の範囲では特定できていませんが、上保内周辺のいずれかの山中にあったと考えられ、当社の旧鎮座地にあたるものと見られます。

現在の「二ツ山神社」辺りとの説もあります

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また同書には、神社の敷地に続けて「小布施山石塚長泉寺」という寺院があったことも記されており、近代以前の神仏習合の様子をうかがわせます。この長泉寺は現在も三条市上保内丙1292に所在し、小布勢神社(同丙1288)のすぐ隣に位置しています。宗派は浄土真宗で、住職は石塚祐堂氏。『特選神名牒』が記す寺号「小布施山石塚長泉寺」の「石塚」は、山号や俗称ではなく住職家の姓であったとみられ、大正期の記録から現在まで、石塚家がこの寺を守り続けてきたことがうかがえます。

【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲原郡 13座(大1座・小12座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 小布勢神社
[ふ り が な ](をふせの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wofuse no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

御祭神 大彦命について

御祭神の大彦命は、『日本書紀』に登場する伝承上の人物で、第8代孝元天皇の皇子とされます。同書によれば、崇神天皇10年(伝承年代・紀元前88年)、大彦命は「北陸」「東海」「西道」「丹波」の4方面にそれぞれ将軍を派遣して従わない者たちを平定したという、いわゆる「四道将軍」の伝承の中で、北陸道(当時の呼称で「高志道」)を鎮撫する将軍として派遣されたと伝えられています。蒲原郡を含む越後国は、古代においてまさにこの「高志(こし)」の一部にあたる地域であり、大彦命を祭神とする神社が北陸各地に点在する背景には、この将軍派遣伝承が色濃く関わっていると考えられます。

御祭神 大彦命を祀る式内社について

大彦命を祭神とする式内社は、蒲原郡小布勢神社だけではありません。北陸道を歩くように、隣国・越中にも同じ祭神を祀る古社が鎮座しています。

・布勢神社(富山県氷見市)《主》大彦命 現在の富山県氷見市に鎮座する布勢神社も、『延喜式』に記載される越中国の式内社です。社伝によれば、崇神天皇10年に北陸道鎮撫将軍として派遣された大彦命を祭神としており、これは小布勢神社の由緒的背景と重なります。また同社は、奈良時代に越中国守として赴任した大伴家持が「布勢の水海」の景観を愛し、しばしば歌に詠んだ地としても知られ、境内には享和2年(1802年)建立の「大伴家持卿遊覧之地」の石碑が残ります。「布勢」という地名・社名そのものが、大彦命が平定したとされる「高志道」の各所に、同じような形で残された可能性を考えると、蒲原郡の小布勢神社もまた、その北陸道ネットワークの一端に連なる存在と見ることができそうです。

・五泉八幡宮(新潟県五泉市宮町5366) 小布勢神社と同じく、越後国蒲原郡の式内・小布勢神社の論社として名前が挙がる神社です。大同2年(807年)創立と伝え、坂上田村麻呂による創祀伝説や村松藩主による再興の由緒を持ちます。なお、『式内社調査報告』第17巻(皇学館大学出版部、昭和59年)は、この五泉市の八幡宮を論社とする見解について「大方の採用する所とはなっていない」と評しており、必ずしも有力な説ではないようです(内部リンクは下記「全国に広がる『布勢・布制』を名に持つ式内社ネットワーク」をご参照ください)。

全国に広がる「布勢・布制」を名に持つ式内社ネットワーク

『延喜式神名帳』には「布勢」「布制」を社名に含む式内社が全国に点在しています。布勢立石神社は、その中でも近江国伊香郡に単独で立つ式内社(論社なし)ですが、社名の共通性から見ると、次のような式内社群と同じ「類社」の輪に連なっています。

東山道 信濃國 更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・布制神社(長野市篠ノ井石川) URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-2/ 

一緒に読む
布制神社(長野市篠ノ井石川)〈『延喜式』布制神社〉

布制神社(ふせじんじゃ)は 創立年代不祥ですが ロ碑に「奈良朝以前から鎮座していたと云ふ」「古昔 布勢朝臣某 下向ありて士賊を教化し 地を拓きて此處に館せしより布制郷と云ふ」とあり 布勢氏は第8代 孝元天皇の皇子 大彦命を祖とする氏族であり 延喜式内社 信濃國更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社となっています

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・布制神社(長野市篠ノ井布施五明) URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-3/ 

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布制神社(長野市篠ノ井布施五明)〈『延喜式』布制神社〉

布制神社(ふせじんじゃ)は 社伝に「第八代 孝元天皇の皇子 大彦命の本貫を瀬原田の長者窪に移し 北陸を巡按し 東夷を鎭撫させたが 終に長者窪に於て薨ぜられ 布施氏の御祖 大彦命の神靈を鎭齋し奉った」とあり 延喜式内社 信濃國更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社とされます

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・臼女神社(長野市篠ノ井布施高田唐臼)〈五明 布施神社旧鎮座地〉 URL: https://shrineheritager.com/usume-shrine/ 

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臼女神社(長野市篠ノ井布施高田唐臼)〈五明の布施神社 旧鎮座地〉

臼女神社(うすめじんじゃ)は 古老の言い伝えによると「神社の前身は六百数十年続いた鎌倉時代の豪族 布施八郎と後に天照大神とを奉斎した布施神社」で 明治41年(1908)国の合併令により 五明の布制神社に御神体などを引き渡したと云う 延喜式内社 信濃國更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社の旧鎮座地です

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・布制神社(長野市篠ノ井山布施) URL: https://shrineheritager.com/fusei-shrine/ 

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布制神社(長野市篠ノ井山布施)〈『延喜式』布制神社〉

布制神社(ふせいじんじゃ)は 口碑に「寶龜八年(七七七)伊勢神宮より天照大神の御分靈を迎へ(當地を開拓した「布施氏」公の租神 大彦命)を祀り 寶祚長久・國家隆昌・生業家内安全を祈願し 両柱の神を産土の大神として奉祀したのが當社の起源」と云う 延喜式内社 信濃國更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社となっています

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北陸道 越中国 射水郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・布勢神社(氷見市布施)《主》大彦命 URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-4/ 

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布勢神社(氷見市布施)〈『延喜式』布勢神社〉

布勢神社(ふせじんじゃ)は 布勢の円山と云う小山に鎮座します 今から約1300年前は 周囲の田園一帯は「布勢水海(ふせのみずうみ)」と呼ばれる大きな水海で湖に浮かぶ小山でした その頂きに「水影明神の祠」が祀られ手織りこの祠は 延喜式内社 越中國射水郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)とされます

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北陸道 越中国 新川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

一説に、布施川と片貝川の川中島に鎮座していたが、宝永5年(1708年)6月の洪水で流失し、芦峅寺がこの神社を引きとったと云われ、芦峅寺の雄山神社の境内社・若宮神社に合祀されたと伝わります。

・布勢神社(魚津市布施爪)《主》五十猛命・五十日足彦命 URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine/ 

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布勢神社(魚津市布施爪)〈『延喜式』〉布勢神社

布勢神社(ふせじんじゃ)は 社伝に 創立は第26代 継体天皇(507~531)の時とあります 鎮座地の布施川流域は 阿古屋野古墳群などの遺跡が多数あり 古代 北陸道の布勢驛があった 新川東部では最も早く拓けた地域とされます 延喜式内社 北陸道 越中国 新川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)とされます

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・布勢神社の論社〈雄山神社中宮 若宮に合祀〉 URL: https://shrineheritager.com/oyama-shrine-chugu-kiganden/ 

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雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)〈『延喜式』雄山神社〉

雄山神社 中宮祈願殿(おやまじんじゃ ちゅうぐうきがんでん)は 社伝に「文武天皇 大宝元年(701)景行天皇の後裔 越中国司 佐伯宿禰有若公の嫡男 有頼少年が白鷹に導かれ熊を追い岩窟に至り 雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山」と伝わり 現在・立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成る宗教法人です

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山陰道 出雲国 出雲郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・奥宇賀布勢鎮座 籠守明神〈奥宇賀神社に合祀〉《主》伏雷神・武内宿禰命・息長足姫命・大己貴神 URL: https://shrineheritager.com/okuuga-shrine/ 

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奥宇賀神社(出雲市奥宇賀町)〈『出雲國風土記』・彌努婆社・布世社・布西社〉

奥宇賀神社(おくうがじんじゃ)は 明治十五年(1882)に・奥宇賀 和田に鎮座「美奴麻神社」・奥宇賀 布勢に鎮座「布勢神社」・奥宇賀 池田に鎮座「伊勢神社」の三社を合祀して「奥宇賀神社」と称したものです 『出雲國風土記』の「彌努婆社」「布世社」「布西社」に該当します

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山陽道 備前国 赤坂郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・布勢神社(赤磐市仁堀西)《主》大穴牟遅神 URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-5/ 

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布勢神社(赤磐市仁堀西)〈『延喜式』布勢神社〉

布勢神社(ふせじんじゃ)は 古伝に 往古 中勢實村龍天山に鎭座 垂仁天皇の御字 瀬戸内海で渡船の転覆の難が続き 占うと「吉備の国布勢大明神の神威なり 社殿を七谷七畝の山麓に遷し 北面に勧請ありたし」と奏上があり 現在の山麓の地に勧請し 社殿を北向きに造営 延喜式内社 備前国 赤坂郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)です

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・布勢巨神社(赤磐市中勢実)《主》事代主命 URL: https://shrineheritager.com/fuseko-shrine/ 

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布勢巨神社(赤磐市中勢実)〈『延喜式』布勢神社〉

布勢巨神社(ふせこじんじゃ)は 龍天山の山頂の眺望絶佳の地に鎮座します 古昔 式内社布勢神社は此の山に御鎮座せられていたが 後世仁堀西に遷され 現在は布勢巨神社のみとなっています 延喜式内社 備前国 赤坂郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社です

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南海道 讃岐国 寒川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・布勢神社(さぬき市寒川町) URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-6/ 

一緒に読む
布勢神社(さぬき市寒川町石田西)〈『延喜式』布勢神社〉

布勢神社(ふせじんじゃ)は 天平年間(729~749年)行基が菩薩藥師堂〔極樂寺〕を石田に建て 當社を鎭守神とした旨が記されるので天平以前の創祀と云う 祭神は大彦命〔第八代 孝元天皇の皇子〕を祀る 一説には 伏雷(ふせいかずち)則ち雷神なりとも云う 延喜式内社 讃岐国 寒川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)です

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・造田神社(さぬき市造田是弘) URL: https://shrineheritager.com/zota-shrine/ 

一緒に読む
造田神社(さぬき市造田是弘)〈『延喜式』布勢神社〉

造田神社(ぞうたじんじゃ)は 口伝に「往昔 少童命を奉斎して造田明神と奉稱し 新年祈雨の祭事を行う 仁和二年(886)京師より石清水八幡宮の御分霊を勧請 相殿に奉祀 天暦元年(947)極樂寺の僧 観清導師となり 現今の地に遷座」と云う 延喜式内社 讃岐国 寒川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社となっています

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式内社「布勢・布制神社(ふせの かみのやしろ)」の類社として

東山道 近江國伊香郡 布勢立石神社(ふせのたていしの かみのやしろ)

・布勢立石神社(長浜市木之本町赤尾) URL: https://shrineheritager.com/fuse-tateishi-shrine/ 

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「布勢」一族の謎──近江の式内社・布勢立石神社(長浜市木之本町赤尾)

北国街道の宿場町・木之本から山あいへ分け入った赤尾の集落に 地元で「山王さん」と呼ばれる 布勢立石神社(ふせたていしじんじゃ)は 鎮座しています 祭神は記紀に名を残す古代皇族・意富々杼王と 比叡山の神・大山咋神 二柱がなぜこの伊香の里に並び祀られているのか 由緒をたどっていきたいと思います

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北陸道 越後國蒲原郡 小布勢神社(をふせの かみのやしろ)

・小布勢神社(三条市上保内丙) URL: https://shrineheritager.com/obuse-shrine/ 

一緒に読む
小布勢神社(三条市上保内丙)-源義家と榎の神体・大彦命の由緒

小布勢神社(おぶせじんじゃ)は 新潟県三条市上保内丙に鎮座します 延喜式神名帳 越後国蒲原郡 小布勢神社(をふせの かみのやしろ)論社の一つとされ 大彦命を御祭神とお祀りしています 今は「布勢谷」という谷の名にわずかにその名残をとどめるのみとなった「布勢」の地名を手がかりに この社の由緒をたどってみたいと思います

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・五泉八幡宮(五泉市宮町) URL: https://shrineheritager.com/gosen-hachimagu/ 

一緒に読む
五泉八幡宮(五泉市宮町)〈延喜式内社 宇都良波志神社・小布勢神社 論社〉

五泉八幡宮(ごせんはちまんぐう)は 創建は元慶3年(879)と伝えられ かつて五泉城があった地に鎮座 本殿には四十柱を超える神々が合祀される五泉城跡総鎮守です 越後國蒲原郡の二つの式内社の論社〔・本殿合祀の白山社は 宇都良波志神社(うつらはしの かみのやしろ)・本殿は 小布勢神社(をふせの かみのやしろ)〕とされます

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR信越本線 保内駅から南下して約1.4km 車での所要時間3分程度

長泉寺の脇を抜けて行きます

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道路に面して 集落の中に神社が表れます

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小布勢神社(三条市上保内丙)に参着

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社頭には 参道の入口に「村社 小布勢神社」と刻まれた社号標が立ち 朱塗りの両部鳥居には大きな注連縄と紙垂が掛けられ 鳥居の扁額にも社名が記されています
向って左の高床式の建物は おそらく神楽殿だと想います

一礼をして鳥居をくぐり抜けて

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録』下編〈鈴鹿連胤撰、皇典研究所、明治35年(1902年)刊〉に記される考証

『神祇志料』が「保内村布勢谷」という地名の痕跡を根拠に鎮座地を語るのに対し、『神社覈録』は「布勢村」に鎮座し「今は八幡宮と称する」と、より踏み込んで現在の社名(=八幡宮)まで言及している点が特徴的です。前述の通り、これが五泉八幡宮を論社とする説の典拠になっていると考えられますが、両史料が同一の地点を指しているのか、それとも別々の場所を指しているのかは、現時点では断定できません。

【抜粋原文】

 「小布勢神社  小布勢は假字也、和名鈔郷名小伏、  ○祭神大彦命〈風土記節解〉  ○布勢村に在す、今八幡宮と称す、〈案内〉」

【現代語訳(大意)】

小布勢神社。「小布勢」は仮の文字(当て字)である。『和名類聚抄』に見える郷名では「小伏(おぶせ)」とする。祭神は、『風土記』によれば大彦命である。(この神社は)布勢村にあり、今は八幡宮と称している。

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料』第15-17巻〈栗田寛編、温故堂、明治9〜20年(1876〜1887年)刊〉に記される考証

『神祇志料』の時点ですでに「布勢谷は小伏郷の遺れるなり」と、「布勢」と「小伏」を結びつける見方が示されている点は注目されます。この「小伏」表記との対応は、後年の『神社覈録』(「小布勢は假字也、和名鈔郷名小伏」)にも引き継がれており、両者は明治期を通じて共有されていた理解であったことがうかがえます。

なお、『神祇志料』のこの記述は、あくまで明治期の一編纂者による考証であり、「保内村布勢谷=式内小布勢神社の旧地」とする比定を、確定した史実としてではなく、数ある見解の中で採用されている一つの説として理解する必要があります。

【抜粋原文】

「小布勢神社、今保内村布勢谷にあり、谷は布勢郷の遺名なりと云ふ、布勢〇接保内もと布勢村と云ふ、布勢谷は小伏郷の遺れるなりとぞ、凡 三月八月十五日祭を行ふ、『式社考証』 」

【現代語訳(大意)】

小布勢神社は、今の保内村(現在の三条市上保内)にある「布勢谷」に鎮座している。この「谷」という地名は、古代の「布勢郷」の名残であるという。また一説には、保内はもともと「布勢村」と呼ばれており、「布勢谷」は「小伏郷」の名残であるともいう。祭りはおおむね三月と八月十五日に行われる。(『式社考証』の項による)

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

この『特選神名牒』の記述は、『神社覈録』とは対照的に、上保内(保内村)こそが古い「布勢村」の後身であるとする地元の伝承を紹介しており、現在の小布勢神社そのものを式内社の直接の後裔と見る立場に近いものです。加えて、社殿がもと「膳殿」という山中にあり、後に遷座したという伝承、そして長泉寺がかつて当社の別当(神仏習合期に神社を管理した寺院)であったとする伝承も含まれ、単なる論社比定にとどまらない貴重な情報を伝えています。式内社「小布勢神社」の比定については、確定した史実としてではなく、こうした複数の史料・編者による見解が並立しているものとして理解する必要があります。

【抜粋原文】

 「小布勢神社
 祭神 大彦命
 祭日 三月八月十五日
 社格 村社

 所在 上保内村(南蒲原郡今大崎村大字上保内)

  今按土人の説に、保内村はもと布勢村と云ひしを、二百年以来 村内の稱に覆はれて布勢は支村の如くなれり、小布勢神社 膳殿と云ふ山中にありしを、後今の地に遷座ありし也、又 神社に並びたる神官宅地につゞきて小布施山石塚長泉寺あり 是本社の別當なりしと云ふもの證とすべし」

【現代語訳(大意)】

小布勢神社。祭神は大彦命。祭日は三月と八月十五日。社格は村社。所在地は上保内村(南蒲原郡、当時の大崎村大字上保内)。編者の考証によれば、地元の人々の言い伝え(「土人の説」)として、保内村はもともと「布勢村」と呼ばれていたが、二百年ほど前から村内での呼び名に覆われて、布勢は(保内の中の)支村のようになったのだという。小布勢神社は、もともと「膳殿」という山中にあったのを、のちに現在の地へ遷座したとも伝える。また、神社に並んで建つ神官の宅地に続けて、小布施山石塚長泉寺という寺院がある。これは、この寺がかつて本社(小布勢神社)の別当であったことを裏付けるものとすべきである。

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『越後古代史之研究』に記される内容

『大日本地名辞書』は、単純な地名の一致だけで比定を確定させることに慎重な立場をとっており、池田雨工もこれに同調しています。なお、この異論が紹介する『新撰姓氏録』の布勢氏の系譜(高志深江国造などと同じく大彦命の後裔)は、当社の祭神・大彦命とも通じるところがあり、地名・氏族の両面から見ても興味深い論点です。

【抜粋原文】

 「小布勢神社は多く大崎村字保内にありと云ふ。地名辭書ひとり反對して曰く『此の地を和名抄小伏郷となせど、勇禮郷に密接して別に一郷を建設せらるべき形勢に非ず、村中に伏谷てふ字ありと云ふも、郷名祠名の舊地に引きあて難し。而して小伏郷は本郡櫻井郷の北方、角田山の東麓などにもやとおもはる、且つ峯岡村に伏部と云ふ大字あるも、小伏と多少の關係ある如し。小伏はオフセと讀むべきこと明白也、姓氏錄によれば布勢氏は、高志深江等の國造と同じ、大彦命の裔に出づ、布勢の部民を伏部とも云へる説』と唱ふ、後説に賛する。」

【現代語訳(大意)】

 小布勢神社は、多く(多数説として)大崎村字保内にあるとされている。(しかし)『大日本地名辞書』はただ一つ、これに反対して次のように述べる。「この地を『和名類聚抄』の小伏郷にあてる説があるが、(保内は)勇礼郷にあまりに近接しており、そこに別個の一郷(小伏郷)を建てるような地理的余地はない。村内に『伏谷』という字(あざ)があるというだけでは、古代の郷名・社名の旧地とみなす根拠として乏しい。むしろ小伏郷は、蒲原郡桜井郷の北方、角田山の東麓のあたりにあったのではないかと思われる。また峯岡村に『伏部』という大字があるのも、『小伏』といくらか関係があるように見える。『小伏』は『オフセ』と読むべきことは明らかである。『新撰姓氏録』によれば、布勢氏は、高志(越)の深江国造などと同じく大彦命の子孫であるとされ、布勢の部民(べのたみ)を『伏部』とも称したという説もある」。池田雨工は、この後者の説(『大日本地名辞書』の異論)に賛意を示している。

【原文参照】

池田雨工 著『越後古代史之研究』,万松堂新潟支店,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/983262

式内社研究会編『式内社調査報告』第17巻〈皇学館大学出版部、昭和59年(1984年)刊〉の【祭神】の項に記される考証

誉田別命が源義家によって祭られたとする『温古之栞』の伝承は、当社が古くから「八幡宮」とも称されてきたこと(前述【通称名】参照)と、よく符合します。もっとも、源義家(八幡太郎義家)が奥州征討の途上で各地に八幡神を勧請したとする伝承は全国各地に広く分布しており、五泉八幡宮に伝わる坂上田村麻呂創建説などと同様、史実そのものというよりは、後世に八幡信仰の由緒を権威づけるために語られた類型的な伝承である可能性が高い点には留意が必要です。榎(えのき)の神体や、これを焚き木にすることを忌む禁忌の言い伝えは、神木・依り代信仰の一例として興味深いものです。また、明治42年(1909年)前後の神社合祀については、同時期に全国で進められた神社合祀政策(神社整理)の一環と見られ、天照皇大神・大山祇命・建御名方命・菅原道眞朝臣の四柱は、いずれもこの合祀によって当社の祭神に加わったものです。

【抜粋原文】

「大比古命と誉田別命の二柱を祭る。大比古命を祭るのは新撰姓氏録に『布施朝臣大彦命之後也』とあるのと関連するものであらうか。誉田別命については、『温古之栞』は源義家が奥州征討の際に祭つたものとする。同書はまた『傳に當神體は榎を以て彫刻せしものなり、故に當村にては榎は小枝と雖も焚火とせず、之を犯す時は怪異ありと言傳ふ』とも記す。右二柱の他に天照皇大神・大山祇命・建御名方命・菅原道眞朝臣も祭るが、これらは明治四十二年に同字の神明宮・十二神社、その後諏訪神社・菅原神社を合併したものである。」

【現代語訳(大意)】

(当社は)大比古命と誉田別命の二柱を祭神とする。大比古命を祭るのは、『新撰姓氏録』に「布施朝臣は大彦命の後なり」とあることと関連するものであろうか。誉田別命については、『温古之栞』は、源義家が奥州征討の際にこれを祭ったのだとしている。同書はまた、「言い伝えによれば、御神体は榎(えのき)を彫刻したものである。そのため当村では、榎は小枝であっても焚き木にせず、これを犯す(伐る)と怪異があると言い伝えられている」とも記している。以上の二柱のほかに天照皇大神・大山祇命・建御名方命・菅原道眞朝臣も祭っているが、これらは明治42年(1909年)に同じ字(あざ)の神明宮・十二神社を、その後さらに諏訪神社・菅原神社を合併したものである。

【原文参照】

式内社研究会編『式内社調査報告』第17巻、皇学館大学出版部、昭和59年(1984年)刊(同書は『温古之栞』の記述を引用する形で紹介しています)

小布勢神社(三条市上保内丙)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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