実践和學 Cultural Japan heritage

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「布勢」一族の謎──近江の式内社・布勢立石神社(長浜市木之本町赤尾)

北国街道の宿場町・木之本から山あいへ分け入った赤尾の集落に 地元で「山王さん」と呼ばれる 布勢立石神社(ふせたていしじんじゃ)は 鎮座しています 祭神は記紀に名を残す古代皇族・意富々杼王と 比叡山の神・大山咋神 二柱がなぜこの伊香の里に並び祀られているのか 由緒をたどっていきたいと思います

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

布勢立石神社(Fuse Tateishi shrine)

【通称名(Common name)】

山王さん(さんのうさん)明治期の記録には「立石明神」とも

【鎮座地 (Location) 】

滋賀県長浜市木之本町赤尾793

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》意富々杼王(おほほどのみこ)

《配》大山咋神(おやまくいのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創 建 (Beginning of history)】

当社の祭神は布勢氏の祖神であり、創立は天武天皇6年(677年)と伝えられています。延喜式内社に列せられており、古くから神威著しい古社であったことがうかがえます。

祭神の意富々杼王(おほほどのおおきみ)は、応神天皇の皇孫にあたる人物です。その裔(すえ)にあたる布勢宿禰(ふせのすくね)が、自らの祖神としてこの地に勧請したのが創祀といわれています。近江・越前一帯に勢力を持った息長氏(おきながうじ)や三国公(みくにのきみ)などと同じく、意富々杼王を祖に仰ぐ氏族の一つが布勢氏であり、湖北の地に根を張っていたことが、この由緒からもうかがえます。

配祀神の大山咋神(おおやまくいのかみ)は、正中2年(1325年)6月、坂本の日吉大社より分霊を勧請したものと伝わります。この時、同時に神領・神戸(かんべ)を賜ったといいます。本社御垂(みたらし)の下流には、今も「山王田」「猿喰田(さるはみだ)」「宮田」といった、山王信仰に関わりの深い小字名が残っており、往時の社領の広がりを物語っています。

中古には「山王立石権現」と称され、通称「山王様」として親しまれてきました。社地の背後には布勢山の鬱蒼たる神林が広がり、その中腹には、古代の磐境(いわさか)祭祀の跡と思われる巨岩が屹立しています。「布勢立石」という社名は、この巨岩に由来すると考えられています。文字を持たない時代、人々が巨岩そのものを神の依り代として祀った、原初の祭祀の記憶をとどめる社であるといえるでしょう。

布勢氏の後裔にあたる布施(勢)氏の崇敬は篤く、社蔵の正徳年間(1711~1716年)の古文書には、天台宗・養泉寺との深い関わりが記されています。当社の「おこない」神事には同寺の和尚が参詣して読経を行い、また西山・坂口・千田・磯野・東物部・横山・布施など、周辺諸村の頭家(とうや)神事にも参列していたことが記録されており、当社の神威が広く及んでいたことがうかがえます。

文化元年(1804年)6月には、氏子たちが社殿の新造を計画したものの、社地の広さをめぐって議論が紛糾し、いったんは破談となりました。ところがその夜、社地が頻りに鳴動し、現社殿の横から夥しい土砂が崩れ出して止まなかったといいます。氏子たちは大いに畏怖し、この出来事を宮に上申したところ、当時の領主・井伊侯は「まさに神意の致すところ」として金一封を献納し、造営を強く勧めてこの事業を後押ししたと伝わります。現在の社殿は、この時に造営されたものです。

かつて当社は赤尾・北布施・布施の三ヶ村の総社でしたが、布施村(年暦不詳)、北布施村(明治8年)、赤尾本郷(明治43年)が相次いで分離し、現在は田居前郷のみによって護持されています。明治9年(1876年)には村社に列せられ、明治42年(1909年)には神饌幣帛料供進指定神社に指定されました。現在は滋賀県神社庁伊香支部の本務社となっています。

※由緒は「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]によります。

由緒

 当社祭神は布勢氏の祖神にして 創立は天武天皇6年と云う 延喜式内社にして既に神威顕著の古社たるを知る。

應神天皇の皇孫 意富富杼王の喬布勢宿称野勧請なり。又 配祭神は正中2年6月 坂本日吉大社の分霊を勧請せしものにして同時に神領神戸を賜ると云う。

本社御垂池の下流に山王田 猿喰田 宮用等 関連深き小字名現存す。
中古 山王立石権現と称し 通称 山王様と親しまれ、社地の背後は鬱蒼たる布勢山の神林深く 中腹に古代磐境祭祀の跡と想われる巨磐峻立し布勢立石の社名もここに由来すると考えられる。

 当社は祭神の後喬 布施(勢)氏の崇敬篤く、社蔵正徳年間の古文書には天台宗養泉寺との関わり深く、当社おこない神事に同寺の和尚に依る参詣読経、又西山、坂口、千田、磯野、東物郭、横山、布施等の諸頭神事に参列せし事が記され、御神威の広きに及びし事が窺える、又 文化元年6月氏人等社殿を新たに造営せんと計り社地の広狭を論争して破談せしに、一夜社地頻りに鳴動し現社殿の横より多くの土砂崩出して止らず、氏人等大いに畏怖し宮に上申するに当時の領主 井伊候是正に神意の致すわざ也と金一封を献納し直ちに造営の事を奨め 此の業を扶けたと伝う。現在の社殿は此の時の造営にして、当時赤尾、北布施、布施三ケ村野総社たりしも布施(年暦不詳)北布施(明治8)赤尾本郷(明治43)それぞれ分離し 現在は田居前郷のみにて護持する、明治9年村社に列っせられた。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由 緒 (History)】

由緒

布勢立石神社の創建について、滋賀県神社庁は「天武天皇六年、布勢宿禰が祖神として奉祀したのが肇であろうと伝える」としています。天武天皇6年は西暦677年にあたり、壬申の乱を経て天武天皇が近江ゆかりの地に力を及ぼしていた時期にあたります。「布勢宿禰」を氏の長とする布勢氏が、自らの祖神をこの地に祀ったのが起源とされているわけです。

近世以降の歩みとしては、明治9年(1876年)に村社に列格し、明治42年(1909年)には神饌幣帛料供進指定神社に指定されました。これは府県社・郷社・村社のうち、皇室・国家に準じて幣帛(供物)を捧げることが認められた神社を指し、地域における社格の高さを示す一つの指標です。

※参照:滋賀県神社庁公式サイト「神社紹介」布勢立石神社の項
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1264

明治期に編まれた栗田寛編『神祇志料』の近江国伊香郡の項にも、当社について次の記載があります(詳細は「神社の伝承」参照)。

布勢立石神社 今赤尾村に在り、立石明神と云ふ。〔彦根藩取調〕

これにより、江戸期には「立石明神」の名でも呼ばれていたことが分かります。

【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・布勢立石神社 本殿覆い屋

【本殿】一間社流造 間口三尺六寸 奥行三尺 覆屋あり

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・布勢立石神社 中門

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布勢立石神社 拝殿

【拝殿】入母屋造 間口二間四尺 奥行二間四尺

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・〈拝殿前〉狛犬

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・参道 石段

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・〈社殿下〉祀られている石碑あり

境内に残るという古代磐境祭祀の跡と思われる巨岩は、社名「布勢立石」の直接の由来とされています それではないのかもしれません

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・境内

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・二の鳥居

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・手水舎

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・神橋

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・一の鳥居

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・社頭

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

この神社は、大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)伊香郡 46座(大1座・小45座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 布勢立石神社
[ふ り が な ](ふせのたていしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Fuse no Tateishi no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

意富々杼王とは何者か

意富々杼王(おほほどのみこ)は、第15代応神天皇の孫にあたる皇族で、父は若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)、母は百師木伊呂弁(またの名を弟日売真若比売命)です。『古事記』は彼を、三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君など、近江・越前一帯に根を張った有力氏族群の「祖」として位置づけています。中でも息長氏は、後に第26代継体天皇を輩出した近江・息長氏の直系にあたるとされ、意富々杼王は古代近江における皇統と地方豪族を結ぶ、いわば要のような存在だったといえます。布勢立石神社の「布勢」は、この系譜に連なる布勢氏に由来すると考えるのが自然でしょう

又 意富々杼王は、日本書紀・古事記の系譜記事にのみ名が見える人物で、単独の事績を伝える説話はほとんど残っていません。にもかかわらず、近江・越前の複数の有力氏族(息長氏・三国氏・坂田氏など)の祖として位置づけられているのは、後の継体天皇の出自(越前・近江ゆかりの傍系皇族)を権威づける系譜として、後世に整えられた可能性も指摘される人物です。祖神として名指しで祀られる例は全国的にも珍しく、当社は数少ない意富々杼王直祭の社の一つといえます。

(詳しくは「神社の伝承」で解説します)。

大山咋神と「山王さん」

一方の大山咋神(おおやまくいのかみ)は、比叡山を守護し、日吉大社(滋賀県大津市)や日枝神社(東京都千代田区)などに祀られる山の神です。中世以降「山王権現」として神仏習合の信仰を集め、その系譜の神社は各地で「山王さん」と通称されます。布勢立石神社もこの伝統を受け継ぎ、地元では式内社としての正式名称よりも「山王さん」の呼び名で親しまれているようです。

又 大山咋神を祀る神社は、日吉大社系(山王信仰)と松尾大社系(秦氏の氏神信仰)の大きく二系統に分かれるとされます。当社の場合、正中2年(1325年)に坂本の日吉大社から分霊を勧請したことが由緒に明記されており、日吉山王信仰の系統であることがはっきりしています。南北朝の動乱期に差し掛かる直前という時代に、なぜこの地へ山王信仰が持ち込まれたのか、想像をかき立てられます。

左三ツ巴の御神紋

御神紋の「左三ツ巴」は、八幡信仰や水神信仰と関わりの深い意匠として全国の神社で広く用いられています。勾玉状の三つ巴が反時計回りに配される「左」の形は右巴に比べてやや珍しく、地域や社家の伝統によって使い分けられてきました。

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたがこの神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します。

全国に広がる「布勢・布制」を名に持つ式内社ネットワーク

『延喜式神名帳』には「布勢」「布制」を社名に含む式内社が全国に点在しています。布勢立石神社は、その中でも近江国伊香郡に単独で立つ式内社(論社なし)ですが、社名の共通性から見ると、次のような式内社群と同じ「類社」の輪に連なっています。

東山道 信濃國 更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・布制神社(長野市篠ノ井石川) URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-2/

一緒に読む
布制神社(長野市篠ノ井石川)〈『延喜式』布制神社〉

布制神社(ふせじんじゃ)は 創立年代不祥ですが ロ碑に「奈良朝以前から鎮座していたと云ふ」「古昔 布勢朝臣某 下向ありて士賊を教化し 地を拓きて此處に館せしより布制郷と云ふ」とあり 布勢氏は第8代 孝元天皇の皇子 大彦命を祖とする氏族であり 延喜式内社 信濃國更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社となっています

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・布制神社(長野市篠ノ井布施五明) URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-3/

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布制神社(長野市篠ノ井布施五明)〈『延喜式』布制神社〉

布制神社(ふせじんじゃ)は 社伝に「第八代 孝元天皇の皇子 大彦命の本貫を瀬原田の長者窪に移し 北陸を巡按し 東夷を鎭撫させたが 終に長者窪に於て薨ぜられ 布施氏の御祖 大彦命の神靈を鎭齋し奉った」とあり 延喜式内社 信濃國更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社とされます

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・臼女神社(長野市篠ノ井布施高田唐臼)〈五明 布施神社旧鎮座地〉 URL: https://shrineheritager.com/usume-shrine/

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臼女神社(長野市篠ノ井布施高田唐臼)〈五明の布施神社 旧鎮座地〉

臼女神社(うすめじんじゃ)は 古老の言い伝えによると「神社の前身は六百数十年続いた鎌倉時代の豪族 布施八郎と後に天照大神とを奉斎した布施神社」で 明治41年(1908)国の合併令により 五明の布制神社に御神体などを引き渡したと云う 延喜式内社 信濃國更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社の旧鎮座地です

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・布制神社(長野市篠ノ井山布施) URL: https://shrineheritager.com/fusei-shrine/

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布制神社(長野市篠ノ井山布施)〈『延喜式』布制神社〉

布制神社(ふせいじんじゃ)は 口碑に「寶龜八年(七七七)伊勢神宮より天照大神の御分靈を迎へ(當地を開拓した「布施氏」公の租神 大彦命)を祀り 寶祚長久・國家隆昌・生業家内安全を祈願し 両柱の神を産土の大神として奉祀したのが當社の起源」と云う 延喜式内社 信濃國更級郡 布制神社(ふせの かみのやしろ)の論社となっています

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北陸道 越中国 射水郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・布勢神社(氷見市布施)《主》大彦命 URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-4/

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布勢神社(氷見市布施)〈『延喜式』布勢神社〉

布勢神社(ふせじんじゃ)は 布勢の円山と云う小山に鎮座します 今から約1300年前は 周囲の田園一帯は「布勢水海(ふせのみずうみ)」と呼ばれる大きな水海で湖に浮かぶ小山でした その頂きに「水影明神の祠」が祀られ手織りこの祠は 延喜式内社 越中國射水郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)とされます

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北陸道 越中国 新川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

一説に
布施川と片貝川の川中島に鎮座していたが 宝永5年(1708)6月の洪水で流失し 芦弁寺がこの神社を引きとったと云われ 芦弁寺の雄山神社の境内社若宮神社に合祀と伝わります

・布勢神社(魚津市布施爪)《主》五十猛命 五十日足彦命 URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine/

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布勢神社(魚津市布施爪)〈『延喜式』〉布勢神社

布勢神社(ふせじんじゃ)は 社伝に 創立は第26代 継体天皇(507~531)の時とあります 鎮座地の布施川流域は 阿古屋野古墳群などの遺跡が多数あり 古代 北陸道の布勢驛があった 新川東部では最も早く拓けた地域とされます 延喜式内社 北陸道 越中国 新川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)とされます

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・布勢神社 の論社 URL: https://shrineheritager.com/oyama-shrine-chugu-kiganden/
〈雄山神社 中宮 若宮に合祀〉

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雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)〈『延喜式』雄山神社〉

雄山神社 中宮祈願殿(おやまじんじゃ ちゅうぐうきがんでん)は 社伝に「文武天皇 大宝元年(701)景行天皇の後裔 越中国司 佐伯宿禰有若公の嫡男 有頼少年が白鷹に導かれ熊を追い岩窟に至り 雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山」と伝わり 現在・立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成る宗教法人です

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山陰道 出雲国 出雲郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・奥宇賀布勢鎮座 籠守明神《主》伏雷神 武内宿禰命 息長足姫命 大己貴神 URL: https://shrineheritager.com/okuuga-shrine/
〈奥宇賀神社に合祀〉

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奥宇賀神社(出雲市奥宇賀町)〈『出雲國風土記』・彌努婆社・布世社・布西社〉

奥宇賀神社(おくうがじんじゃ)は 明治十五年(1882)に・奥宇賀 和田に鎮座「美奴麻神社」・奥宇賀 布勢に鎮座「布勢神社」・奥宇賀 池田に鎮座「伊勢神社」の三社を合祀して「奥宇賀神社」と称したものです 『出雲國風土記』の「彌努婆社」「布世社」「布西社」に該当します

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山陽道 備前国 赤坂郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・布勢神社(赤磐市仁堀西)《主》大穴牟遅神 URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-5/

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布勢神社(赤磐市仁堀西)〈『延喜式』布勢神社〉

布勢神社(ふせじんじゃ)は 古伝に 往古 中勢實村龍天山に鎭座 垂仁天皇の御字 瀬戸内海で渡船の転覆の難が続き 占うと「吉備の国布勢大明神の神威なり 社殿を七谷七畝の山麓に遷し 北面に勧請ありたし」と奏上があり 現在の山麓の地に勧請し 社殿を北向きに造営 延喜式内社 備前国 赤坂郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)です

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・布勢巨神社(赤磐市中勢実)《主》事代主命 URL: https://shrineheritager.com/fuseko-shrine/

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布勢巨神社(赤磐市中勢実)〈『延喜式』布勢神社〉

布勢巨神社(ふせこじんじゃ)は 龍天山の山頂の眺望絶佳の地に鎮座します 古昔 式内社布勢神社は此の山に御鎮座せられていたが 後世仁堀西に遷され 現在は布勢巨神社のみとなっています 延喜式内社 備前国 赤坂郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社です

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南海道 讃岐国 寒川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社

・布勢神社(さぬき市寒川町) URL: https://shrineheritager.com/fuse-shrine-6/

一緒に読む
布勢神社(さぬき市寒川町石田西)〈『延喜式』布勢神社〉

布勢神社(ふせじんじゃ)は 天平年間(729~749年)行基が菩薩藥師堂〔極樂寺〕を石田に建て 當社を鎭守神とした旨が記されるので天平以前の創祀と云う 祭神は大彦命〔第八代 孝元天皇の皇子〕を祀る 一説には 伏雷(ふせいかずち)則ち雷神なりとも云う 延喜式内社 讃岐国 寒川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)です

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・造田神社(さぬき市造田是弘) URL: https://shrineheritager.com/zota-shrine/

一緒に読む
造田神社(さぬき市造田是弘)〈『延喜式』布勢神社〉

造田神社(ぞうたじんじゃ)は 口伝に「往昔 少童命を奉斎して造田明神と奉稱し 新年祈雨の祭事を行う 仁和二年(886)京師より石清水八幡宮の御分霊を勧請 相殿に奉祀 天暦元年(947)極樂寺の僧 観清導師となり 現今の地に遷座」と云う 延喜式内社 讃岐国 寒川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)の論社となっています

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式内社「布勢・布制神社(ふせの かみのやしろ)」の類社として

東山道 近江國伊香郡 布勢立石神社(ふせのたていしの かみのやしろ)

・布勢立石神社(長浜市木之本町赤尾) URL: https://shrineheritager.com/fuse-tateishi-shrine/

一緒に読む
「布勢」一族の謎──近江の式内社・布勢立石神社(長浜市木之本町赤尾)

北国街道の宿場町・木之本から山あいへ分け入った赤尾の集落に 地元で「山王さん」と呼ばれる 布勢立石神社(ふせたていしじんじゃ)は 鎮座しています 祭神は記紀に名を残す古代皇族・意富々杼王と 比叡山の神・大山咋神 二柱がなぜこの伊香の里に並び祀られているのか 由緒をたどっていきたいと思います

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北陸道 越後國蒲原郡 小布勢神社(をふせの かみのやしろ)

・小布勢神社(三条市上保内丙) URL: 

・五泉八幡宮(五泉市宮町) URL: 

阿加穂神社との共同祭礼

赤尾の地区には、当社のほかに阿加穂神社(あかほじんじゃ)という神社もあり、後述する8月の野神祭では両社が連携して神事を行います。木之本町赤尾という一つの集落に、性格の異なる二つの社が並び立ち、それぞれの祭礼で結びついているのは興味深い点です。

8月18日の野神祭・太鼓踊りは、布勢立石神社単独ではなく、隣接する阿加穂神社の氏子と合同で行われます。長さ一丈(約3メートル)の御幣を先頭に、大太鼓・小太鼓・鉦・横笛の編成で両社の境内を渡り歩き、涌出山西端で野神を祀るという、集落単位の結びつきを感じさせる神事です。

【抜粋意訳】(原文)
「8月18日 野神祭・太鼓踊り 長さ一丈程の2本の御幣を先頭に、大太鼓2人・小太鼓5人・鉦2人・横笛数人で、阿加穂神社・布勢立石神社各境内において太鼓踊りを奉納する。その後、楽器を鳴らして御門を一巡し、涌出山西端に御幣2本を立て野神を祀る。夜は阿加穂神社裏の丸山上の小祠前の広場において、太鼓踊り奉納の後、村中総出の盆踊りを行う。」

【原文参照】
滋賀県神社庁「神社紹介」布勢立石神社の項(祭礼日欄)https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1264

頭家(とうや)制度が残る「おこない」

2月のおこない神事では、13日の米かしに始まり、14日の餅搗きと来年度の頭家(当番)を籤で選ぶ神事、ぜんざいの直会、15日の鏡餅・繭玉・餅わらの奉納、頭渡し・受頭祭と、数日がかりの複雑な次第が今も伝わっています。人口減少が進む山間集落でこれだけの規模の頭家行事が継承されている点は特筆に値します。

【抜粋意訳】(原文)
「2月15日 おこない 13日は米かし。14日は餅搗き、来年度の頭家選定御籤占い。そして、ぜんざいによる直会。15日は鏡餅・まゆ玉・餅わらにつけた餅を神社へ奉納する。さらにこれを次年度の頭家へ持ち行き、頭輪作り・御頭割り(餅切り)を行い、終了となる。14日は頭家祭。15日は神社で頭渡祭、新頭家で受頭祭を斎行する。」

【原文参照】
滋賀県神社庁「神社紹介」布勢立石神社の項(祭礼日欄)https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1264

【神社にお詣り】(Here’s a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

鎮座地は滋賀県長浜市木之本町赤尾793 最寄り駅はJR北陸本線・木ノ本駅 駅からは車で7分程度 約4kmの距離あります 奥琵琶湖・木之本エリアは木之本地蔵院や賤ヶ岳古戦場など周辺の見どころも多く あわせて巡ることができます

社頭は東を向いています
社号標には「式内 布勢立石神社」と刻まれています

集落の中の参道入口・鳥居

布勢立石神社長浜市木之本町赤尾に参着

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一礼をしてから 鳥居をくぐり 参道を進みます

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小川に 神橋が架かり その先に手水舎があり 二の鳥居が建っています

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一礼をして 二の鳥居をくぐり抜けて 境内へ

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境内は3段構成になっていて 高い壇に本殿 中壇に拝殿 石垣の下が境内となっています

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境内奥 拝殿の下辺りに 石灯籠が建てられていて 祀られている石碑があります 文字が刻まれているのですが 苔むしていて 文字の判読は不能

境内に残るという古代磐境祭祀の跡と思われる巨岩は、社名「布勢立石」の直接の由来とされています それではないのかもしれません

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拝殿前には 巨木の中を進むように 中段へと石段があります
杉の巨木に囲まれた石垣沿いの参道

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かなり大きな杉の木です

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杉の根元も苔蒸していますが 参道石段の脇にある石には びっしりと苔がありますので かなり湿潤な場所だとおもいます

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拝殿にすすみます

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拝殿に賽銭箱がありませんでしたので 奥の中門に進みます

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ところが中門にも 賽銭箱はありませんでした
中門をくぐり 本殿の覆い屋へと

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内へと戻ります

境内から見渡す赤尾の集落の風景

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拝殿は東向き 拝殿の前には 狛犬 石灯籠があり そこで左下方向へと境内へ石段が降りています

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境内におりて 鳥居をくぐりぬけて 参道をもどります

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境内に一礼をしてもどります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します。

『古事記』中巻・応神天皇の段に記される伝承

近江・越前から北部九州にまで及ぶ広範な氏族の祖として名を連ねる意富々杼王(おほほどのみこ) なぜ近江国伊香郡の一角・赤尾の地で祀られているのでしょうか 正史はそれ以上を語りませんが 社名に残る「布勢」の一字と 布勢君を彼の子孫氏族とする記述が その手がかりを今に伝えているように思えます

【抜粋意訳】

『古事記』中巻・応神天皇記 系譜(若野毛二俣王の系譜)

原文(漢字のみ)

又此品陀天皇之御子若野毛二俣王娶其母弟百師木伊呂辨亦名弟日賣眞若比賣命生子大郎子亦名意富富杼王

訓読

又此の品陀天皇(ほむだのすめらみこと)の御子、若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)、其の母の弟(いろど)、百師木伊呂弁(ももしきいろべ)、亦の名は弟日売真若比売命(おとひめまわかひめのみこと)を娶りて生みし子は、大郎子(おおいらつこ)、亦の名は意富富杼王(おほほどのみこ)。

現代語訳

また、この品陀天皇=応神天皇の御子・若野毛二俣王は、その母の妹にあたる百師木伊呂弁(別名・弟日売真若比売命)を娶り、大郎子、またの名を意富富杼王という子を生みました。

 

この系譜記事に続けて、割注として次の一文が続きます。

原文(漢字のみ)

故意富富杼王者、三國君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君等之祖也

現代語訳

故に意富富杼王は、三国君・波多君・息長君・坂田君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君らの祖である。

【原文参照】

[件名・細目]「古事記 中」(137-0008-0002)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/3946456

[件名・細目]「古事記 中」(137-0008-0002)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/3946456

[件名・細目]「古事記 中」(137-0008-0002)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/3946456

『神社覈録 下編』〈明治3年(1870年)成立〉に記される伝承

式内社の比定作業がまとめられた早い時期の史料である『神社覈録』では、布勢立石神社の祭神・鎮座地は、実はまだ「詳らかでない」とされていました。

【抜粋意訳】(原文)

布勢立石神社

布勢は假字也、

立石は多以志と訓べし、

○祭神在所等詳ならず

 考證、在ニ 布勢村ニと云り、輿地志所見なし、

(現代語訳:布勢立石神社。「布勢」は仮借字(当て字)である。「立石」は「たていし」と訓むべきである。○祭神・鎮座地などは詳らかでない。『考証』には布勢村にあると言われている。『輿地志』には所見がない。)

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『特選神名牒』〈明治9年(1876年)完成〉に記される伝承

『神社覈録』とほぼ同時期にまとめられた『特選神名牒』には、布勢立石神社の所在をめぐって、赤尾村説と布施村説の2説があったことが具体的に記されています。

【抜粋意訳】

(原文)

布勢立石(フセタテイシ)神社

祭神 
祭日 
社格 

所在

 今按、注進状にこの社赤尾村と布施村と兩所にありと云ふ 神名帳考證に「在布施村」とみゆ されど近来赤尾村を以てよしとする者あり 今一定しがたしと云り 而るに赤尾村なる土神 立石明神と稱すること 寶暦中の届書にもみえ 又古く布施村とも云りとある由ありて聞ゆ

(現代語訳:布勢立石(フセタテイシ)神社。今考えるに、村々からの報告書ではこの社は赤尾村と布施村の両方にあるという。伴信友の『神名帳考証』には「布施村にあり」と見える。しかし近年では赤尾村とするのが正しいとする者もあり、今のところどちらとも定めがたいという。とはいえ、赤尾村の土地神が「立石明神」と称されることは、宝暦年間(1751〜1764年)の届書にも見え、また古くは布施村とも言われていたとのことである。)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『神祇志料』〈明治9〜20年刊〉に記される伝承

『神祇志料』は、江戸期の彦根藩による調査を典拠として、次のように記しています。『神社覈録』『特選神名牒』とは異なり、迷いのない書きぶりで赤尾村・立石明神と述べている点が特徴です。

【抜粋意訳】

布勢立石神社 今赤尾村に在り、立石明神と云ふ。〔彦根藩取調〕

(現代語訳:布勢立石神社は、現在赤尾村にあり、「立石明神」と呼ばれている。〔彦根藩の調査記録による〕)

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

のように3つの史料を並べてみると いずれも明治初期という近い時期にまとめられていながら 拠った典拠(注進状、神名帳考証、彦根藩取調など)の違いによって書きぶりに差が出ていることが分かります
「詳らかでない」(神社覈録)、「赤尾村・布施村の両説あり、なお一定しがたし」(特選神名牒)、「赤尾村・立石明神」(神祇志料)という三者三様の記述は、時代が下るにつれて解明が進んだというより、著者・依拠史料ごとの見解の相違として捉えるのが妥当であろう

現在 滋賀県神社庁の公式情報では赤尾村(現・長浜市木之本町赤尾)を比定地としていますが これも数ある見解の中で現在採用されている一説であって 確定した史実というわけではありません 式内社の「現在地」は最初から自明だったのではなく こうした考証の食い違いの延長線上にある一つの比定として捉えるのが妥当であろう

布勢立石神社長浜市木之本町赤尾 (hai)」(90度のお辞儀)

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