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一宮(いちのみや)とは?成立・総社・式内社との違いを解説

一宮(いちのみや)とは、令制国で第一の位置にあると認識された神社です。本記事では、地域の氏神祭祀、国造制、朝廷の神祇制度、国司・国衙祭祀を経て数世紀をかけて形成された過程と、総社・式内社との違い、複数の候補社が生じた理由を分かりやすく解説します。

表1 一宮の基本情報
項目 内容
用語 一宮
読み方 いちのみや
別表記 一之宮・一の宮・一ノ宮
英語表記 Ichinomiya / First-ranking shrine of a province
意味 その令制国で第一の位置にあると認識された神社
分類 神社制度・神社の歴史的序列
対概念 特になし
関連概念 二宮・三宮・総社・国府・国司・国造・氏神・式内社・神階

第1章 一宮とは

1-1 一宮の基本的な意味

一宮とは、令制国を単位として、その国で第一の位置にあると認識された神社です。「一之宮」「一の宮」「一ノ宮」とも表記されます。一宮に続く有力な神社を二宮・三宮、さらに四宮・五宮などと呼ぶ例もあります。

ここでいう「国」は、現在の日本国や都道府県ではなく、古代の地方行政区分である令制国です。そのため、一宮は現在の都道府県ごとに一社ずつ存在するものではありません。

1-2 朝廷が全国一律に定めた社格ではありません

律令や格式には、朝廷が各令制国の一宮を一斉に指定したことを示す明確な条文や全国一覧は確認されていません。一宮は、官幣社・国幣社などの近代社格とも異なります。

一宮の成立については、国司による神拝、国府・国衙における祭祀、神階、官社としての位置、神社の由緒や社勢、地域の人々や有力者の崇敬、武家の保護など、複数の要素が関係したと考えられています。ただし、その時期と経過は令制国ごとに異なります。

1-3 一宮になったから有力になったとは限りません

一宮とされた神社の多くは、一宮という呼称が現れる以前から、地域で長く崇敬されていた有力神社でした。朝廷や国司が何もないところに一宮を新設し、その結果として地域の信仰が生まれた、と説明することはできません。

むしろ、地域固有の祭祀を担ってきた神社が、数世紀にわたって朝廷の神祇制度や国司・国衙の祭祀と関係を深め、その積み重ねの先に、その令制国を代表する一宮として認識された場合が多いと考えられます。

第2章 一宮という名称と成立時期

2-1 「一」は何を表すのでしょうか

一宮の「一」は、その令制国で第一の位置にあると認識されたことを表します。しかし、創建年代が最も古い、社殿が最も大きい、神階が最も高いという一つの基準だけを示すものではありません。

また、国司が最初に参詣した神社が機械的に一宮になった、とする説明も慎重でなければなりません。国司神拝は重要な背景の一つですが、地域で蓄積された崇敬や社勢などを除いて成立を説明することは困難です。

2-2 一宮はいつ成立したのでしょうか

一宮は、主として11世紀末から12世紀初頭ごろに、各令制国の多様な事情のもとで形成されたとする研究があります。ただし、一宮の呼称が史料に現れる時期は国ごとに異なり、二宮以下を伴わない場合、一宮が交替したとみられる場合、複数の候補社がある場合も確認されています。

したがって、「一宮制度がある年に全国で始まった」とは説明できません。個々の令制国と神社について、一宮と記された同時代史料、その年代、記録された事情を確認する必要があります。

2-3 地名・社名に残る一宮

現在も各地に一宮・一之宮・一ノ宮などの地名や神社名が残ります。それらは歴史上の一宮との関係を示す場合がありますが、現在の名称だけで古代・中世の位置づけを断定することはできません。

第3章 国造制と地方の統治・祭祀

3-1 大和朝廷以前から存在した地方の統治と祭祀

大和朝廷の支配が各地に及ぶ以前から、それぞれの地域には有力氏族が存在し、土地や人々に関わる政治的な働きと、その土地の神々への祭祀を担っていました。当時の統治と祭祀は、現代の政治と宗教のように明確に分離されたものではありませんでした。

有力氏族は祖神・守護神などを氏神として祀りました。氏神祭祀は氏族内部だけの信仰に限らず、氏族の由緒、支配する土地との関係、農耕や水利、その地域の安定などとも結びつく場合がありました。ただし、古代の地域祭祀のすべてを氏神祭祀だけで説明することはできません。山・海・河川などに関わる祭祀や、複数の集団が関係する祭祀もありました。

3-2 国造とは

国造(くにのみやつこ)とは、大和朝廷と関係を結び、各地域の統治と祭祀に関わった有力氏族、またはその地位を指します。国造となった氏族の多くは、中央から新たに派遣された官人というより、もともとその地域に政治的・祭祀的な基盤を持っていたと考えられます。

国造制を、全国で同時に完成した統一的な地方行政制度として見ることはできません。大和朝廷と各地の有力氏族との関係が形成された時期や形態には地域差があり、服属、連携、婚姻、奉仕など、関係のあり方も一様ではなかったと考えられます。

3-3 国造が担った地方統治と氏神祭祀

国造氏族は、土地や人々、産物などに関わる統治を担う一方、氏神や地域の神々への祭祀にも関係しました。大和朝廷は、地方の有力氏族とその祭祀を直ちに排除して、中央の仕組みに一斉に置き換えたのではありません。

地域の有力氏族が持つ統治上・祭祀上の基盤を通して各地との関係を築き、それを長い時間をかけて大和朝廷の統治に取り入れていったと考えられます。その過程でも、地域固有の祭祀は継承されました。

3-4 吉備に見る長期的な地域再編

吉備を例にすると、地域と大和朝廷との関係形成、地方行政区分の整備は、短期間の制度変更ではありませんでした。古墳時代の吉備には大規模古墳を築く有力な勢力が存在し、大和朝廷との関係も長い時間をかけて変化しました。

その後、古代の吉備は備前・備中・備後へと分けられ、和銅六年(713)には備前国の一部を割いて美作国が置かれました。これは行政区分の例ですが、地域の政治や祭祀まで同時に一変したことを意味しません。古い統治と祭祀を残しながら、新しい制度が重なっていったと考える必要があります。

3-5 国造制から国司・郡司制への変化

7世紀後半から8世紀初頭にかけて律令国家の地方行政が整えられると、各地は国・郡・里などに編成され、朝廷から国司が派遣されました。郡には郡司が置かれ、旧来の国造氏族など、地域に基盤を持つ有力者が任じられた例がありました。

この変化も、国造制がある日に消滅し、翌日から国司・郡司制へ完全に切り替わったものではありません。旧来の氏族が郡司、神職、在地の有力者などとして残り、地域の統治と祭祀に関わり続けた場合がありました。

3-6 出雲國造に見る統治制度の変化と祭祀の継承

国造制から律令国家の地方行政への変化を考えるうえで、出雲國造は重要な事例です。出雲國造は出雲の統治に関係した国造であるとともに、出雲の神々への祭祀を担った存在として知られます。国司が派遣されるようになった後も、その祭祀上の役割が直ちに失われたわけではありません。

出雲國造神賀詞の奏上や出雲大社の祭祀は、地方行政の制度が変化した後も、旧来の国造氏族が祭祀を継承し、朝廷と地域の神々を結ぶ役割を担ったことを考える手掛かりになります。ただし、出雲國造のあり方を全国の国造へそのまま当てはめることはできません。

出雲國造の系譜、出雲大社の祭祀、出雲國造神賀詞との関係については、次の記事で詳しく紹介しています。

https://shrineheritager.com/itsumonokuninomiyatauko/

出雲國造(いつものくにのみやつこ)〈天皇家と同じの始祖を持つ神代より続く家柄〉

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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3-7 国造制と一宮を直接結びつけないための注意

国造が祀った氏神が、そのまま一宮になったと一般化することはできません。国造制の成立と、一宮が史料に現れる時期との間には長い時間差があります。また、一宮となった神社の成立基盤も、氏神、山岳・海洋・河川の祭祀、農耕、交通などさまざまです。

国造制を扱う意味は、一宮の直接の起源を一つに決めることではありません。国司が任国へ派遣される以前から、地方には統治と祭祀を担う氏族と有力な神々が存在し、それらが新しい制度のもとでも長く継承・変化したことを確認する点にあります。

第4章 神社祭祀と朝廷の政治・統治

4-1 神々を祭ることは統治の重要な営みでした

古代から中世にかけて、神々への祭祀は政治・統治から切り離されたものではありませんでした。朝廷にとって、国家の平穏、五穀豊穣、疫病や災害の鎮静などを神々に祈ることは、公的な営みでした。

この記事で「神道が政治・統治に深く関わった」と述べる場合、歴史上の具体的な行為については「神祇祭祀」「神社祭祀」「奉幣」「神拝」と記します。後世に体系化された神道概念を、古い時代へそのまま遡らせないためです。

4-2 地域の祭祀を地方統治に取り入れる長い過程

大和朝廷は、各地の有力氏族との関係を通じ、地域で行われてきた祭祀を地方統治の仕組みに取り入れていったと考えられます。しかし、それは一度の命令による即時的な変更ではありません。

地域の祭祀、大和朝廷と地方氏族との関係、国造制、律令国家の地方行政、官社・奉幣・神階、国司・国衙の祭祀は、数世紀にわたって順次成立しながら、互いに重なりました。前の段階が完全に消えてから次の段階へ移ったのではありません。

4-3 官社・奉幣・神階

律令国家の神祇制度が整えられると、地域の有力神社の一部は官社として位置づけられ、朝廷から幣帛を受けました。また、六国史などには神階の授与が記録されています。

官社や神階は、一宮とは異なる制度です。しかし、地域の神社が朝廷の公的な祭祀とどのように結びついたかを知る重要な手掛かりになります。

4-4 『延喜式神名帳』と一宮

『延喜式神名帳』は、延長五年(927)に完成した『延喜式』巻九・十に収められた官社の名簿です。一宮の全国一覧ではありません。一宮には式内社が多く含まれますが、式外社が一宮とされる例もあり、名神大社であっても一宮ではない例があります。

『延喜式神名帳』については、次の記事で詳しく紹介しています。

https://shrineheritager.com/engishiki-jimmyocho/

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』について

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました
当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています

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第5章 国司・国衙祭祀から一宮の形成へ

5-1 朝廷が任命した国司

国司は、律令国家のもとで朝廷から令制国へ任命された地方官です。国衙を拠点に行政、徴税などを担うとともに、任国の祭祀にも関わりました。

国司は、国造の単純な後継者ではありません。中央から任命される国司と、地域に基盤を持つ郡司・在地の有力者・神職が関係しながら、地方行政と祭祀が行われました。

5-2 国司による任国の有力神社への神拝

国司は、任国の平穏や五穀豊穣などを祈り、有力神社に奉幣・神拝したとされます。地域で長く崇敬され、神職、祭礼、土地、人々との関係を持つ神社は、国司にとっても無視できない存在でした。

この国司神拝の順序が、一宮・二宮・三宮という序列の形成に関係したとする見解があります。しかし、全国共通の手続に従って国司が一宮を選定したことを示す規定は確認されていません。

5-3 一宮形成までにはさらに時間を要しました

地域の祭祀が大和朝廷の統治と関係を持ったこと、律令国家の神祇制度が整えられたこと、国司が有力神社を神拝したこと、一宮が成立したことは、同時期の一連の制度変更ではありません。

一宮は、地域で古くから崇敬されてきた有力神社が、官社、神階、奉幣、国司・国衙祭祀、在地の有力者や武家との関係を積み重ねた先に、平安時代後期から中世にかけて、その令制国を代表する神社として認識されるなかで形成されたと考えられます。

5-4 一宮は朝廷による一方的な地方支配の施設ではありません

一宮を、朝廷が地方を支配するために新設した施設と説明することはできません。一方で、地域の信仰だけから自然に順位が決まったと説明することも十分ではありません。

地域に根づいた祭祀、朝廷の神祇制度、国司・国衙の祭祀、在地社会の変化が交わるところに、一宮の歴史的な性格があります。朝廷の統治と地域祭祀の関係は一方的な吸収ではなく、地域の祭祀が継承されながら公的な祭祀と重なっていく長期的な過程として理解する必要があります。

第6章 一宮・二宮・三宮と一国の諸社

6-1 一宮以下の序列

一宮に続いて二宮・三宮などが確認される国があります。しかし、すべての令制国に同じ序列が存在したわけではありません。二宮以下が確認できない国もあれば、四宮・五宮まで伝わる国もあります。

6-2 一宮の位置を決める共通基準は確認されていません

一宮には、式内社、名神大社、高い神階を受けた神社、国府との関係が深い神社、広い崇敬を集めた神社などが含まれます。しかし、これらは全国共通の必須条件ではありません。

神社の古さ、規模、神階、国府からの距離のうち、一つだけを基準に一宮を判定することはできません。

6-3 一宮が変化したとみられる場合

政治・交通・祭祀の中心や有力勢力との関係が変化し、時代によって別の神社が一宮と認識されたとみられる国があります。複数の候補社がある場合は、一社だけを先に「正しい一宮」と決めず、それぞれの呼称が確認できる年代と史料を比較する必要があります。

第7章 一宮と総社・式内社・神階との違い

7-1 一宮と総社の違い

一宮は、その令制国で第一の位置にあると認識された神社です。総社は、国司が祭るべき一国の神々を一所に合わせ祀った神社です。一宮は有力神社の位置や序列に関わり、総社は一国の神々をまとめて祭る形態に関わるという違いがあります。

ただし、両者は国司・国衙の祭祀という共通の背景を持ちます。国によっては、一宮以下の諸社と総社との関係が祭礼に残る例や、一宮と総社の位置づけが重なって見える例があります。

7-2 一宮と式内社・神階・近代社格

表2 一宮と関連制度の違い
区分 基本的な意味 一宮との関係
一宮 その令制国で第一の位置にあると認識された神社 全国一律の制定規定は確認されていません
総社 一国の神々を一所に合わせ祀る神社 役割は異なりますが、国司祭祀を背景に関係します
式内社 『延喜式神名帳』に記載された官社 一宮と一致するとは限りません
神階 朝廷から神に授けられた位階 一宮の順位とは別のものです
近代社格 官幣社・国幣社・府県社・郷社など 成立時期・制度が異なります

7-3 一宮と「神宮」「大社」

「神宮」「大社」は神社の社号です。一宮は令制国における歴史的な位置づけであるため、神宮・大社と同じ基準で上下を決めることはできません。

第8章 代表的な一宮と各令制国の特徴

8-1 全国の一宮を旧国別に見る

全国の一宮を確認する場合は、現在の都道府県ではなく旧国・令制国を単位に見る必要があります。Shrine Heritagerでは、全国の一宮を旧国別に紹介しています。

https://shrineheritager.com/ichi-no-miya/

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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8-2 相模国―一宮以下の諸社と総社が祭礼に参集する例

相模国では、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮、総社六所神社が国府祭に関係します。一宮以下の諸社と総社との関係を、現代の祭礼から考えることができる重要な例です。

国府祭に伝わる座問答は、寒川神社と川勾神社の一宮をめぐる伝承として知られます。ただし、現在の祭礼伝承を、そのまま中世の出来事の記録と断定することはできません。

相模国の一宮・二宮・三宮・四宮・五宮・総社については、次の記事で紹介しています。

https://shrineheritager.com/sagaminokuni-ichinomiya-ninomiya/

相模國の「一宮 二宮 三宮 四宮 五宮 総社」について

相模國の「一宮 二宮 三宮 四宮 五宮 総社」について 「相模國の一之宮争い」を今に伝える神事「国府祭」には 相模國の六社〔・一之宮 寒川神社・二之宮 川勾神社・三之宮 比々多神社・四之宮 前鳥神社・五之宮 平塚八幡宮・総社 六所神社〕が祭場である神揃山(かみそろいやま)・逢親場(おおやば)に 毎年五月五日に参集します

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相模国一之宮の寒川神社については、次の記事で詳しく紹介しています。

https://shrineheritager.com/samukawa-shrine/

寒川神社(寒川町)〈『六国史』寒河神『延喜式』寒川神社(名神大)〉相模國一之宮

寒川神社(さむかわじんじゃ)は 約1600年以上の歴史を持つとされ 古くは朝廷から さらに歴代の武将〈源頼朝公 武田信玄公 徳川将軍家など〉や 民間からも幅広い信仰がありました 今でも 八方除の守護神〈全国唯一〉として 全国各地から参拝者が絶えない 相模國一之宮です

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8-3 尾張国―複数の一宮伝承を持つ例

尾張国では真清田神社が一宮として広く知られる一方、大神神社も尾張国一之宮を称しています。大神神社には、真清田神社との「相殿」「対の宮」に関する伝承があります。

これらは、一つの固定一覧だけでは捉えにくい例です。社伝の内容と、中世文書などから確認できる一宮呼称を区別し、時期ごとに検討する必要があります。

https://shrineheritager.com/omiwa-shrine/

大神神社(一宮市花池)〈延喜式内 名神大社・尾張国一之宮〉

大神神社(おおみわじんじゃ)は 社伝によれば 大和系の人々が大神神社と同じ「三輪の神」を祀ったとされます 奈良時代には 尾張国司が赴任の際 国中の神社を代表する総社には 国府宮の尾張大国霊神社を指定し 次いで 花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめて「相殿・対の宮」として「尾張国一之宮」に指定したと伝えています

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8-4 阿波国―一宮の認識が変化したとみられる例

阿波国では、上一宮大粟神社、一宮神社、天石門別八倉比賣神社、大麻比古神社が一宮の歴史に関係する神社として挙げられます。式内社の論社関係、一宮呼称の時期、国府との位置関係、中世の政治勢力など、複数の論点があります。

「ある年に一宮が正式に移された」と直ちに断定せず、それぞれの神社を一宮とする史料・社伝・研究上の見解を分けて確認する必要があります。

上一宮大粟神社については、次の記事で紹介しています。

https://shrineheritager.com/kami-ichinomiya-oawa-shrine/

上一宮大粟神社(名西郡神山町神領字西上角)〈阿波国一之宮〉

上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は 御祭神として 古事記に記載されている゛大宜都比売命(おほげつひめのみこと)゛を祀ります 粟国(阿波)を開かれた祖神で 五穀養蚕の神として 古代から農耕を守り生命の糧を恵みむ神で 式内社 天石門別八倉比売(あめのいわとわけ やくらひめの)神社(大月次新嘗)の論社です

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一宮神社については、次の記事で紹介しています。

https://shrineheritager.com/ichinomiya-shrine/

一宮神社(徳島市一宮町西丁)〈阿波国一之宮〉

一宮神社(いちのみやじんじゃ)は 元々は阿波国一之宮であった上一宮大粟神社(名西郡神山町)の分祠として 平安時代後期に国府の近くであったこの地に下一宮として祀られて 阿波国一之宮とされていました しかし 室町時代以降は 細川氏の台頭とともに 大麻比古神社が阿波国一之宮となっていきます

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天石門別八倉比賣神社については、次の記事で紹介しています。

https://shrineheritager.com/amanoiwatowake-yakurahime-shrine/

天石門別八倉比賣神社(徳島市国府町)〈阿波国一之宮〉

天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)は 杉尾山(標高120m)の上に鎮座し 杉尾大明神と呼称されていました 明治3年(1870)に現号に改称していますが 地元では今でも「杉尾さん」と呼ばれて親しまれています 阿波一之宮とされる式内社「天石門別八倉比賣神社(大 月次 新嘗)」の論社でもあります

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大麻比古神社については、次の記事で紹介しています。

https://shrineheritager.com/oasahiko-shrine/

大麻比古神社(鳴門市大麻町)阿波国一之宮とされる由緒ある古社

大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は 〈初代 神武天皇の御代〉阿波国を開拓した天太玉命の御孫 天富命(アメノトミノミコト)が 忌部氏の祖神 天太玉命(アメノフトダマノミコト)を祀ったのに始まります その後 猿田彦大神が合祀され 平安期には延喜式の名神大社 中世以降は 阿波国一之宮とされる由緒ある古社です

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8-5 加賀国―一宮と総社の関係を検討する例

加賀国では白山比咩神社が一宮として知られます。一方、石部神社は加賀国総社と伝えられ、一宮に関わる説もあります。総社と一宮を単純な上下関係として見るのではなく、それぞれの呼称がどの史料に、どの時期から現れるかを確認する必要があります。

https://shrineheritager.com/isobe-shrine/

石部神社(小松市古府町)加賀国 総社〈惣社〉

石部神社(いそべじんじゃ)は 加賀国の誕生にかかわる古社で 弘仁14年(823)3月 越前国から分割して加賀国ができた際には 国府庁の南に すでに当社が「府南社」と称して祀られていたと伝えられます ここから加賀国の一之宮であるとも 加賀国総社であるともされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社です

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8-6 代表例から分かること

表3 代表例から見る一宮の特徴
令制国 主な論点 確認上の注意
相模国 一宮以下の諸社と総社、国府祭 祭礼伝承と同時代史料を区別します
尾張国 複数の一宮伝承 社伝と一宮呼称の初見を比較します
阿波国 一宮の認識の変化 論社・政治勢力・時期を分けます
加賀国 一宮と総社の関係 異なる役割と史料上の呼称を確認します

第9章 一宮を調べる方法と現代の一宮巡拝

9-1 一宮を確認するための史料

個別の神社が一宮と呼ばれた根拠を調べる場合は、中世文書、国司神拝関係史料、社領文書、寄進状、棟札、祭礼記録、地誌、一宮記、神社明細帳、神社の由緒書などを確認します。

特に重要なのは、その神社を「一宮」と記した最古の同時代史料です。近世・近代にまとめられた由緒書だけから、古代・中世の実態を遡って断定することは避けなければなりません。

9-2 史料・社伝・研究上の見解を区別します

同時代史料で確認できる事項は「○年の文書に一宮と記されています」、神社の由緒による事項は「社伝では」、研究上の説明は「○○とする見解があります」と書き分けます。

複数候補がある場合も、勝敗を先に決めるのではなく、それぞれの神社が一宮とされた根拠、年代、地域的背景を並べることが重要です。

9-3 現代の全国一の宮巡拝

現代では全国の一宮を巡拝する信仰・文化活動が行われています。巡拝の対象となる神社一覧と、中世一宮制研究における比定は、目的や判断基準が異なる場合があります。どちらかを誤りとするのではなく、現代の巡拝と歴史研究を区別して理解する必要があります。

現代の一之宮について
・日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について https://shrineheritager.com/ichi-no-miya/

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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第10章 よくある質問(FAQ)

Q1 一宮は各都道府県に一社ずつありますか

いいえ。一宮は現在の都道府県ではなく、原則として令制国を単位とします。一つの令制国に複数の候補社がある場合もあります。

Q2 一宮は朝廷が正式に定めた社格ですか

各令制国の一宮を朝廷が全国一律に指定したことを示す明確な規定や一覧は確認されていません。地域の祭祀、国司神拝、社勢などが関係して形成された歴史的な位置づけと考えられます。

Q3 一宮は必ず式内社ですか

いいえ。一宮と式内社は異なる分類です。一宮には式内社が多く含まれますが、必ず一致するわけではありません。

Q4 一国に一宮候補が複数あるのはなぜですか

一宮と認識された時期の違い、史料と社伝の相違、政治・交通・祭祀の中心の変化などが考えられます。それぞれの根拠と年代を確認する必要があります。

Q5 国造の氏神がそのまま一宮になったのですか

そのように一般化することはできません。国造制と一宮成立には長い時間差があり、一宮となった神社の成立基盤もさまざまです。ただし、旧来の有力氏族による祭祀が地域で継承され、後の一宮形成の基盤の一つとなった可能性は検討できます。

Q6 一宮と総社はどちらが上ですか

役割が異なるため、単純に上下を比較できません。一宮はその令制国で第一の位置にあると認識された神社、総社は一国の神々を一所に合わせ祀る神社です。

Q7 一宮と神宮・大社はどちらが上ですか

一宮は令制国における歴史的な位置づけ、神宮・大社は社号です。異なる基準なので単純な上下関係はありません。

第11章 Shrine Heritager編集部考察

11-1 一宮は数世紀にわたる統治と祭祀の変化を映します

一宮を国司の参詣順序だけで説明すると、大和朝廷以前から存在した地域の統治と祭祀、国造氏族と氏神、律令国家の成立後も継承された地域祭祀が見えなくなります。

地域の祭祀が朝廷の統治と関係を持った段階から一宮の成立までには、数世紀の隔たりがあります。その間、古い仕組みが一度に消えたのではなく、新しい制度と重なりながら変化しました。一宮は、この長い歴史を読み解く入口です。

11-2 神社祭祀は政治・統治に深く関わっていました

古代・中世の神社祭祀は、政治の外側にある私的な信仰だけではありませんでした。朝廷や国司が神々に国家・任国の安寧や豊穣を祈ることは、政治・統治を構成する重要な営みでした。

一方、その祭祀の基盤には、地域の人々や氏族が長く祀ってきた神々がありました。一宮は、朝廷が地方に一方的に設置した神社ではなく、地域祭祀と朝廷・国衙の統治が長い時間をかけて関係を結んだ先に成立したと見る必要があります。

11-3 「本当の一宮」を一社に決める前に

複数の候補社がある国では、一社だけを本当の一宮と決めることに重点を置くと、時代による変化や史料ごとの違いが見えにくくなります。各社が、いつ、どの史料や伝承によって一宮と位置づけられたかを整理することが、歴史を理解するうえで重要です。

第12章 関連項目(See also)・内部リンク

第13章 参考文献

表4 参考文献
区分 書誌情報
基礎史料 『延喜式』巻九・巻十「神名帳」
基礎史料 『続日本紀』和銅六年四月三日条
基礎史料 『延喜式』巻八「出雲国造神賀詞」
専門研究 中世諸国一宮制研究会編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年
専門研究 一宮研究会編『中世一宮制の歴史的展開 上―個別研究編』岩田書院、2004年
専門研究 一宮研究会編『中世一宮制の歴史的展開 下―総合研究編』岩田書院、2004年
専門研究 新野直吉『研究史 国造』吉川弘文館、1974年
専門研究 篠川賢『国造制の成立と展開』吉川弘文館、1985年

第14章 External Links(外部リンク)

科学研究費助成事業データベース「中世諸国一宮制の総合的研究」

諸国一宮が11世紀末から12世紀初頭にかけて多様な形で成立したとする研究課題の概要を確認できます。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-08301033/

國學院大學学術情報リポジトリ「中世諸国一宮制の歴史的展開と神社史の諸問題」

中世一宮制研究と神社史上の論点を確認するための研究資料です。

https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/2001131

国立国会図書館サーチ『中世一宮制の歴史的展開 上(個別研究編)』

長門国、吉備、薩摩国など、個別地域の一宮形成を扱う専門書の書誌情報を確認できます。

https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007645380

福井県文書館『福井県史』通史編2「越前国衙と気比社」

国衙、在地勢力、総社・一宮との関係を地域史から確認できる資料です。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-04-02-01.htm

第15章 更新履歴(Revision History)

表5 更新履歴
更新日 更新内容
2026年9月3日 Edition 1 Official Master 公開記事を全面再構成。国造制、氏神祭祀、朝廷の神祇制度、国司・国衙祭祀から一宮形成までの長期的な過程を追加しました。
  • B!

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています