実践和學 Cultural Japan heritage

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旦飯野神社(阿賀野市宮下)〈『延喜式』旦飯野神社・中山神社〉

旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)は 新潟県阿賀野市宮下に鎮座する神社です 御祭神は誉田別命(応神天皇)・相殿に天照皇大神・天児屋根命を祀ります 延喜式内社・旦飯野神社の論社である一方 『特選神名牒』は当社(旧称・山浦八幡宮)を式内・中山神社の論社にもあてており 二つの延喜式内社の論社となっています

 

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

旦飯野神社(Asaiino jinja)

※読み方について、『式内社調査報告』が引く武田本・吉田家本は「イヒノノ」、『延喜式神名帳秘釋』は「アサイノ」、『神社覈録』は「阿佐伊比乃(あさいひの)」と、資料によって訓みが分かれています。当サイトでは『延喜式』原文に基づき「あさいいの」を採用しています。詳しくは後述【この神社の予備知識】をご参照ください。

【通称名(Common name)】

山浦八幡宮(やまうらはちまんぐう)

【鎮座地 (Location) 】

新潟県阿賀野市宮下968

(旧・新潟県管下越後国北蒲原郡宮ノ下村字道上、北蒲原郡笹神村大字宮ノ下19番地)

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神》
 誉田別命(ほんだわけのみこと/応神天皇)

《配祀神》
 豊受姫命(とようけひめのみこと)

《相殿神》
 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 天児屋根命(あめのこやねのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

 

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社

【創 建 (Beginning of history)】

公式サイトによれば、御宇元年(391年)8月15日、大山守皇子へ貢米を奉った際に「角鹿笥飯大神、飯津神を祭れば汝の里に百姓また種物が出来る」との御教があり、これによって旦飯野神社と号し、奉祭したことに始まると伝えられます。長野麿(神官の大祖)が、応神天皇(第15代天皇)の御弓・御衣・御石を祀ったとされる八幡宮であり、日常生活に根ざした諸願成就の神様として崇敬されてきました。 (旦飯野神社公式サイト「創建の歴史とご利益」による。https://asaiino-jinja.or.jp/about/)

『式内社調査報告』第17巻(昭和59年)には、創立年月は不詳としたうえで、鈴木家の祖・長野麻呂が誉田別命を奉斎したのが始まりと伝え、永正3年(1506年)・享保4年(1719年)・寛政4年(1792年)に造替が行われたことが記されています。中世には、上杉家の家臣で笹岡城主・山浦国清や今井源右衛門(文化元年の書上には「山浦右衛門佐」と記されます)の崇敬を受けましたが、笹岡城の落城によって大破していたものを、神官・筑後正吉重が享保4年(1719年)に再建したと伝えられます。 (式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年)による)

旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)由緒

祭神 誉田別命

由緒

 長野麿(神官の大祖)なるもの応神天皇の御弓、衣、石を斉祭、仁徳天皇御宇元年8月15日大山守皇子へ貢米奉る、此時に角鹿笥大神、飯津神を奉祭すれば汝の里に百姓に種物出来るとの御教に因て旦飯野神社と号し奉祭、仁徳天皇御宇より永正まで四度造営、永正3年5月20日造営又享保4年10月元宮と称す地に造改、寛政4年3月(1792)本宮地へ奉祭造替て現今に至る、明治4年12月第24区郷社の許可を受く、同6年2月10日第24区村社の改号を受く、その後区改正に付22区小三区村社又郡区に付社格は村社と称す、元亀前上杉公の臣家笹岡旧城主山浦国清、今井源右衛門両殿の崇敬社と被定候、祖先より子孫次々三十八代藤原朝臣儀形まで官位ありて神勤せり四十代儀形の子儀定寛永17年4月16日(1640)に神道吉田流(京都)より神官の許状を請此より後代は皆吉田殿より許状を請たり、祖先より子孫代々(小職六十五代)山浦神主と名のり四時祭式を怠たる事無く神明に奉仕致し居り(越後野志記、神職文化中マデ代オ重メル事五四世相続キ絶エズ)社の峯に新池古き泉水あり、北隅に神遊苑と称する所ありしが今草木茂りて荒廃せり(元馬場跡)大門、鳥居前は北陸道、南方は菱ケ嶽、東方は出湯の湯、後方は五頭山に当り、社地老樹森々として枝を交へ鷺は群り住居して風致極めて清雅なり(越後野志記、社地方八町許山林松杉老樹繁茂シ実ニ神サビタル霊地也)

 祭典は旧暦正月15日、7月15日、8月15日且つ8月15日は甘酒祭りを行う(安政年間まで)7月15日は農耕馬による奉納競馬を遠くは中条、黒川方面より出走して行い大変な賑わいとなる(昭和35年7月15日まで) 尚寛保3年(1743)山浦八幡宮霞氏子帳には当時各部落氏子名記あり(一部新村は記載なし)

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由 緒 (History)】

『式内社調査報告(Shikinaisha Chosa Hokoku)』第17巻〈昭和59年(1984年)〉に記される由緒(論社〔A〕旦飯野神社の項)

旦飯野神社(当社)についての由緒は、『式内社調査報告』第17巻に詳しく記されています。同書は延喜式内社・旦飯野神社の論社として、当社(阿賀野市宮下、旧・北蒲原郡笹神村大字宮ノ下)を〔A〕、新津市朝日の旦飯野神社を〔B〕として並べ、それぞれの由緒を紹介しています。

【抜粋原文】

〔A〕旦飯野神社

【社名】

 武田本・吉田家本は「イヒノノ」と讀み、『延喜式神名帳秘釋』は「アサイノ」と讀む。

【論社】

 現在、延喜式内社の旦飯野神社とされるものには、北蒲原郡笹神村の旦飯野神社〔A〕と新津市朝日の旦飯野神社〔B〕の二社がある。

【所在】

新潟縣北蒲原郡笹神村大字宮ノ下一九番地(新潟縣管下越後國北蒲原郡宮村ノ下村字道上)。國鐵羽越本線水原驛から約四キロメートル。長峰山の西山麓に位置す。廣義には五頭山の麓ともいへる。

【祭神】

譽田別命を祭る。豐受姫命を配祀し、天照皇大神・天兒屋根命を相殿す。應神天皇の弓・衣・石なども合わせ祭る。

【由緒】

 從来、山浦八幡宮と稱されてきた。創立年月不詳。鈴木家の祖・長野麻呂が譽田別命を奉齋したのが始まりといふ。永正三年(一五〇六)・享保四年(一七一九)・寛政四年(一七九二)の度、造替。明治四年十二月第廿四區 郷社の許可をうけ、同六年一月第廿四區 村社と改號す。
 中世においては、上杉家の臣・笹岡城主山浦國清・今井源右衛門(文化元年の書上は山浦今井右衛門佐と記す)の崇敬をうけたが、落城によつて大破してゐたのを、神官 筑後正吉重が享保四年(一七一九)に再建したといふ。

【神職】

 宮司は鈴木吉彦氏。鈴木家は代々世襲で、長野麻呂から數へて六十五代目といふ。寛永十七年(一六四〇)藤原儀定の時に吉田家からの許状をうけるやうになつたといはれる。現存する中では貞享三年(一六八六)のものが一番古いが、寛保三年(一七四三)の許状には「越後國蒲原郡白川莊山浦 宮下村 八幡宮神主 藤原吉勝 當社祭禮八月十四日十五日一日 法令可着衣冠者 神道啓状如件」とある。

【祭祀】

 例祭日は八月十五日。かつてはこの日に甘酒祭も行なはれた。甘酒祭は二代穗田麻呂が氣比大神 五穀の神を奉祀した故事に由來するものであるが、安政年間(一八五四~六〇)までは八月十四日に初穗米を献じ、それを甘酒にして參詣者にふるまつてゐた。その後新嘗祭と同日に米の品評會を兼て復興されたこともあつたが、現在は行なはれてゐない。七月十五日にも祭典があり、昭和三十五年迄は氏子の農耕馬による奉納競馬が行なはれた。

【氏子・崇敬者】

 氏子數は明治十六年に二七戸。しかし當社では祭禮や社殿の修繕等は一切 鈴木家が行なひ、氏子の意識は強くない。從つて氏子數といふとらへ方ではなく、崇敬者でとらへてある。現在は約一、二〇〇戸の崇敬者がある。

【境内地】

 一、九二四坪。他に山林が一萬二、二六〇坪ある。その中にかつては杉の大木の林もあつたが、伐採や颱風によつてそれも失はれてゐる。

【社殿・施設】

 社殿規模は昭和二十七年(一九五二)の書上でみるに、本殿 間口一間半 奥行一間、向拝 一間半二尺五寸、渡殿 二坪五合、大床 三坪、拝殿 六坪、拜殿 六坪、後拜 五合、神饌所 三坪七合五勺とある。本殿は寛政四年(一七九二)の建造になるもので棟札も現存する。三社造で西向き。鳥居は木造の兩部鳥居と石造の春日鳥居の二基がある。  境内社としては、風神社(志那都比古命・志那都比賣命)・香椎神社(息長足姫命)・大三輪神社(大己貴命・少彦名命)・三峰神社(大山祗命)がある。  參道入口には昭和五十四年に建てられた「延喜式内社 旦飯野神社」の碑があり、兩部鳥居をくぐつて石段を登ると隨神門がある。これは明治四十二年に日露戰爭戰勝記念として、歸還兵 五十嵐純藏らが發起人となつて再建したものである。

【寶物・文書・記録】

寶物に屬するものとして崇峻五年の作と傳へられる八幡宮の額がある。神社の文書は『笹神村史資料第二集』(昭和五十四年三月一日、笹神村教育委員会發行)に整理されてゐる。

【所在】

〔B〕旦飯野神社 新潟縣新津市朝日五三五番地。(〔B〕の由緒等は略す。)」

 

【現代語訳】

 〔A〕旦飯野神社

【社名】

武田本・吉田家本は「イヒノノ」と訓み、『延喜式神名帳秘釋』は「アサイノ」と訓みます。

【論社】

現在、延喜式内社の旦飯野神社とされるものには、北蒲原郡笹神村の旦飯野神社〔A〕と新津市朝日の旦飯野神社〔B〕の二社があります。

【所在】

新潟県阿賀野市宮下(旧・新潟県管下越後国北蒲原郡宮村ノ下村字道上、北蒲原郡笹神村大字宮ノ下19番地)。国鉄羽越本線水原駅から約4キロメートル。長峰山の西山麓に位置します。広義には五頭山の麓ともいえます。

【祭神】

誉田別命を祀ります。豊受姫命を配祀し、天照皇大神・天児屋根命を相殿に祀ります。応神天皇の弓・衣・石なども合わせて祀ります。

【由緒】

従来、山浦八幡宮と称されてきました。創立年月は不詳です。鈴木家の祖・長野麻呂が誉田別命を奉斎したのが始まりと伝えられます。永正3年(1506年)・享保4年(1719年)・寛政4年(1792年)に造替が行われました。明治4年(1871年)12月、第24区郷社の許可を受け、同6年(1873年)1月、第24区村社と改称されました。

中世においては、上杉家の家臣で笹岡城主・山浦国清や今井源右衛門(文化元年の書上には「山浦今井右衛門佐」と記されます)の崇敬を受けましたが、笹岡城の落城によって大破していたものを、神官・筑後正吉重が享保4年(1719年)に再建したと伝えられます。

【神職】

宮司は鈴木吉彦氏です。鈴木家は代々世襲で、長野麻呂からかぞえて65代目にあたるといいます。寛永17年(1640年)、藤原儀定の時代に吉田家からの許状を受けるようになったといわれます。現存するものの中では貞享3年(1686年)のものが最も古いのですが、寛保3年(1743年)の許状には「越後国蒲原郡白川荘山浦、宮下村八幡宮神主・藤原吉勝、当社祭礼8月14日・15日、法令通り衣冠を着すべき者なり」という趣旨の神道啓状が記されています。

【祭祀】

例祭日は8月15日です。かつてはこの日に甘酒祭も行われていました。甘酒祭は、2代・穂田麻呂が気比大神・五穀の神を奉祀した故事に由来するものとされますが、安政年間(1854~60年)までは8月14日に初穂米を献じ、それを甘酒にして参詣者にふるまっていました。その後、新嘗祭と同日に米の品評会を兼ねて復興されたこともありましたが、現在は行われていません。7月15日にも祭典があり、昭和35年(1960年)までは氏子の農耕馬による奉納競馬が行われていました。

【氏子・崇敬者】

氏子数は明治16年(1883年)に27戸でした。しかし当社では祭礼や社殿の修繕等はすべて鈴木家が執り行っており、氏子としての意識は強くありません。そのため氏子数というとらえ方ではなく、崇敬者としてとらえられており、現在は約1,200戸の崇敬者があるとされています。

【境内地】

1,924坪です。他に山林が12,260坪あります。その中にはかつて杉の大木の林もありましたが、伐採や台風によって失われています。

【社殿・施設】

社殿の規模は、昭和27年(1952年)の書上によれば、本殿が間口一間半・奥行一間、向拝が一間半・二尺五寸、渡殿が二坪五合、大床が三坪、拝殿が六坪、後拝が五合、神饌所が三坪七合五勺となっています。本殿は寛政4年(1792年)の建造で、棟札も現存します。三社造で西向きです。鳥居は木造の両部鳥居と石造の春日鳥居の2基があります。

境内社としては、風神社(志那都比古命・志那都比売命)・香椎神社(息長足姫命)・大三輪神社(大己貴命・少彦名命)・三峰神社(大山祗命)があります。

参道入口には昭和54年(1979年)に建てられた「延喜式内社 旦飯野神社」の碑があり、両部鳥居をくぐって石段を登ると随神門があります。これは明治42年(1909年)に日露戦争戦勝記念として、帰還兵・五十嵐純蔵らが発起人となって再建されたものです。

【宝物・文書・記録】

宝物に属するものとして、崇峻5年(592年)の作と伝えられる八幡宮の額があります。神社の文書は『笹神村史資料第二集』(昭和54年3月1日、笹神村教育委員会発行)に整理されています。

【所在】

〔B〕旦飯野神社 新潟県新津市朝日535番地(現・新潟市秋葉区朝日)です。地内の諏訪神社・稲荷神社・石動神社・十二神社を合祀しています。詳しくは別途「旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)」の記事でご紹介する予定です。

【原文参照】 式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年).(〔A〕旦飯野神社の項)

なお、当社(旧・山浦八幡宮)については、『特選神名牒』が式内・中山神社の論社としてもあてており、二つの延喜式内社の論社となっている点が注目されます。詳しくは後述の【神社の伝承】をご参照ください。

【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・丸石「御神霊石」

社殿の裏に据えられた、粗い石の台座の上に丸く滑らかな石が載る一対の石組みで、前には「御神霊石」と刻まれた石碑が建てられ、台座との間には参拝者による賽銭とみられる硬貨が置かれています。

公式サイトによると、直径1.5メートルほどのこの丸石は神様が宿る石とされ、触れると神様の御力を授かるとされます。邪気を祓い、災難を消除するなど様々なご利益があるといわれるほか、人の手を一切加えていない天然のままの丸い形状が妊婦のおなかにも似ていることから、触れた後に「子を授かった」という声も多く聞かれるといいます(旦飯野神社公式サイトによる)。

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・旦飯野神社 幣殿 本殿

拝殿の奥に続く幣殿は瓦葺き・板張りの壁で、石垣造りの基礎の上に建てられています。さらにその奥には本殿が続き、幣殿とは異なる意匠の屋根を樹々の間からうかがうことができます。社殿の周囲は木々に囲まれ、静かな杜の中に鎮座しています。

本殿は寛政4年(1792年)の建造で、三社造・西向きです。

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・旦飯野神社 拝殿

 

石段を上った先には黒塗りの両部鳥居が建ち、鳥居の柱には白い紙片(おみくじ等とみられます)が結ばれています。鳥居をくぐった正面が拝殿で、緑色の屋根に切妻造の向拝(庇)を構え、太い丸柱で支えられています。拝殿内部には赤い敷物が敷かれ、参拝者が腰掛けられるようになっています。石段の脇には石灯籠も据えられています。

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・境内社

 

風神社(志那都比古命・志那都比売命)・香椎神社(息長足姫命)・大三輪神社(大己貴命・少彦名命)・三峰神社(大山祗命)の4社が境内社として祀られています(『式内社調査報告』第17巻による)

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・半分の鳥居 と〈境内で栽培?〉しいたけ

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・二の鳥居

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・参道石段

 

社頭から社殿へと続く参道は、木々に囲まれた緩やかな上り坂の先に真っすぐな石段が続きます。石段の両脇は苔むした斜面になっており、静かな杜の雰囲気を感じながら参道を進むことができます。石段を上りきった先には鳥居が望め、そこが社殿のある境内への入口となっています。

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・社頭〈社号標・鳥居・隋神門〉

鳥居の右手には「延喜式内社 旦飯野神社」と刻まれた社号標が建ち、鳥居の奥には石段を挟んで随神門が構えています

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・社号標

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・手水鉢

神社の案内によれば 清らかな地下水が流れ出ているとのこと

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

旦飯野神社(阿賀野市宮下)は 二つの式内社の論社です

①越後國蒲原郡 中山神社
②越後國蒲原郡 旦飯野神社

①越後國蒲原郡 中山神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲原郡 13座(大1座・小12座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 中山神社
[ふ り が な ](なかやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakayama no kaminoyashiro)

②越後國蒲原郡 旦飯野神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲原郡 13座(大1座・小12座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 旦飯野神社
[ふ り が な ](あさいいのの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asaiino no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

旦飯野神社(阿賀野市宮下)は 二つの式内社の論社です

①越後國蒲原郡 中山神社
②越後國蒲原郡 旦飯野神社

①越後國蒲原郡 中山神社の論社

 当社(阿賀野市宮下の旦飯野神社、旧称・山浦八幡宮)は、延喜式内社・旦飯野神社の論社〔A〕であると同時に、『特選神名牒』によって式内・中山神社の論社としても名前が挙がっている、珍しい位置づけの神社です。中山神社の論社をめぐっては、五泉市橋田戊の中山神社(論社〔A〕)と三条市西大崎の中山神社(論社〔B〕)という二つの候補地がすでにありますが、『特選神名牒』はこれとは別に、当社(宮下村の山浦八幡宮)を中山神社にあてる説を唱えているのです。

この構図は、五泉市橋田戊の中山神社の境内社・天神宮が式内・宇都良波志神社の論社ともされている「一つの神社が二つの式内社の論社を兼ねる」パターンと似ています。当社の場合は、当社自体が旦飯野神社の論社であり、なおかつ中山神社の論社説の対象にもなっている、という形です。詳しくは後述の【神社の伝承】をご参照ください。

・中山神社(五泉市橋田戊)〈論社〔A〕〉

延喜式内社・中山神社の論社の一つです。あわせて式内・宇都良波志神社の論社(境内社・天神宮)でもあり、二つの式内社の論社となっている点が当社と共通しています。

一緒に読む
中山神社(五泉市橋田戊)〈『延喜式』中山神社・宇都良波志神社〉

中山神社(なかやまじんじゃ)は 主祭神は大己貴命・大山咋命で 新潟県五泉市橋田戊に鎮座 社殿には幕末の名工・石川雲蝶による龍や鯉の彫刻があります 延喜式内社・越後国蒲原郡 中山神社の論社 明治35年に中山神社へ移転 その後昭和19年 合祀された境内社の天神宮は式内・宇都良波志神社の論社 二つの式内社の論社となっています

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・中山神社(三条市西大崎)〈論社〔B〕〉

延喜式内社・中山神社のもう一つの論社です。『式内社調査報告』は当社を含めた三つの候補地(橋田戊・西大崎・宮下)を並べて紹介しています。

一緒に読む
中山神社(三条市西大崎)〈『延喜式』中山神社〉

中山神社(なかやまじんじゃ)は 新潟県三条市大字西大崎に鎮座 御祭神は国常立尊・健御名方命・木花咲姫命 延喜式内社・越後国蒲原郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社です 創立年代は不詳ながら、延暦年間に藤原淡海公の後裔が神職に任じられたと伝えられ 中世を通じて幾度か鎮座地を移しながら現在に至っています

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・旦飯野神社(阿賀野市宮下)※当記事です

一緒に読む
旦飯野神社(阿賀野市宮下)〈『延喜式』旦飯野神社・中山神社〉

旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)は 新潟県阿賀野市宮下に鎮座する神社です 御祭神は誉田別命(応神天皇)・相殿に天照皇大神・天児屋根命を祀ります 延喜式内社・旦飯野神社の論社である一方 『特選神名牒』は当社(旧称・山浦八幡宮)を式内・中山神社の論社にもあてており 二つの延喜式内社の論社となっています

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②越後國蒲原郡 旦飯野神社の論社

・旦飯野神社(阿賀野市宮下)※当記事です

一緒に読む
旦飯野神社(阿賀野市宮下)〈『延喜式』旦飯野神社・中山神社〉

旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)は 新潟県阿賀野市宮下に鎮座する神社です 御祭神は誉田別命(応神天皇)・相殿に天照皇大神・天児屋根命を祀ります 延喜式内社・旦飯野神社の論社である一方 『特選神名牒』は当社(旧称・山浦八幡宮)を式内・中山神社の論社にもあてており 二つの延喜式内社の論社となっています

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・旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)〔論社〔B〕

『式内社調査報告』が当社とともに旦飯野神社の論社として挙げるもう一つの候補地です。同書の【論社考證】は、〔A〕(当社)・〔B〕のいずれが式内・旦飯野神社であるかの判断は難しいとしたうえで、『越後国式内神社案内』や『越後野志』は〔A〕を、『越後国式内神社考証』は〔B〕を採っていることを紹介しています。詳しくは別途「旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)」の記事でご紹介する予定です。

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR羽越本線 水原駅から東南方向へ約5.5km 車での所要時間8~10分程度

旦飯野神社(阿賀野市宮下)に参着

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参道入口には昭和54年(1979年)建立の「延喜式内社 旦飯野神社」の社号標があり、両部鳥居をくぐって石段を登ると随神門(明治42年再建)があります
参道の入口に建つ両部鳥居は朱塗りで、貫の上部中央には「旦飯野神社」と記された額が掛けられています

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神門に掲げられた絵馬など

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神門をくぐりぬけて 長い石段を上ります

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長い石段の上には 鳥居があり その先に拝殿が見えています

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拝殿にすすみます

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拝殿の扁額は「式内 旦飯野神社」と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥は 幣殿 本殿が鎮座します 更にその後ろには
社殿の裏にある直径1.5メートルほどの大きな「御神霊石」は神様が宿る石として、触れると神様の御力が授かるとされています

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社殿の向かって右には 境内社が祀られています

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社殿に一礼をして 境内を戻ると 拝殿の前に 半分の鳥居があり それに椎茸の原木が置かれていて 出来た椎茸を持ち帰れるようになっていました

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長い石段を下ります

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隋神門を抜ければ 社頭に出ます

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

旦飯野神社(阿賀野市宮下)は 二つの式内社の論社です

①越後國蒲原郡 中山神社
②越後國蒲原郡 旦飯野神社

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

①越後國蒲原郡 中山神社

『神社覈録』は、中山神社について「橋田村に在り、今は山王権現と称する」とする一説を紹介しています。前述の通り、この「橋田村」は当社(三条市西大崎)ではなく、五泉市橋田戊の中山神社(論社〔A〕)を指します。当社について直接触れた記述は見当たりません。

【抜粋原文】

中山神社

中山は奈加夜麻と訓べし

○祭神金山彦命、金山姫命、〈風土記節解〉

○橋田村に在す、今山王権現と稱す、〈案内〉

類社 美濃國賀茂郡中山神社

【現代語訳(大意)】

中山神社。「中山」は「なかやま」と訓む。祭神は金山彦命・金山姫命とする(『風土記』の節解による)。橋田村にあり、今は山王権現と称している(〈案内〉の説による)。この「山王権現」は五泉市橋田戊の中山神社にあたります。 類社(同名の他国式内社):美濃国賀茂郡の中山神社。

②越後國蒲原郡 旦飯野神社

『神社覈録』は、中山神社の項とは別に、旦飯野神社そのものの項も設けています。ここでは祭神を保食神とし、宮ノ下村(当社)に鎮座し、当時「山浦八幡宮」と称されていたことを記しています。前掲【由緒】でご紹介した『式内社調査報告』(昭和59年)は祭神を誉田別命ほかとしており、祭神について異なる伝承が併存している点にご留意ください。

【抜粋原文】

旦飯野神社

旦飯野は阿佐伊比乃と讀り

○祭神保食神〈風土記節解〉

○宮ノ下村に在す、今山浦八幡宮と稱す、〈案内〉

【現代語訳(大意)】

旦飯野は「あさいひの」と訓む。祭神は保食神とする(『風土記』の節解による)。宮ノ下村(当社)にあり、今は山浦八幡宮と称している(〈案内〉の説による)。

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

①越後國蒲原郡 中山神社

『神祇志料』は、中山神社について社名のみを記し、所在地や祭神についての付記はありません。当社(三条市西大崎)を指すのか、橋田村の中山神社を指すのかは、この記述だけでは判断できません。

【抜粋原文】

中山(ナカヤマノ)神社

【現代語訳(大意)】

中山神社。(社名のみが記され、祭神・所在地等の付記はない。)

②越後國蒲原郡 旦飯野神社

『神祇志料』は、旦飯野神社についても社名のみを記し、所在地や祭神についての付記はありません。

【抜粋原文】

旦飯野(アシイヒヌノ)神社、

【現代語訳(大意)】

旦飯野神社。(社名のみが記され、祭神・所在地等の付記はない。)

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

①越後國蒲原郡 中山神社

『特選神名牒』は、橋田村・当社(三条市西大崎)のいずれでもなく、宮下村(現・阿賀野市宮下の旦飯野神社)にある「山浦八幡宮」を式内・中山神社にあてています。同書は、隣接する「金谷村」という地名が祭神・金山彦命(金=金属の神)に由来するという語源論から、実は中山神社の方こそふさわしい、と論じています。

注目したいのは、この一文の中に「中山村」「中山寺」への言及がある点です。同書は「中山村の隣本田村に諏訪山中山寺あり、此別当寺と思しく」と述べており、これは前掲【オタッキーポイント】・【由緒】でご紹介した『式内社調査報告』の〔B〕当社の項が、旦飯野神社説の根拠として「中山神社の別当中山寺が中山村隣村の本田村にある」と紹介している内容と、ほぼ同一の記述です。当社の由緒に見える「もと大崎村の字中山にあり」という伝えと、この「中山村」との関係は史料上明記されていませんが、地名としてのつながりを感じさせる箇所です。

これにより、式内・中山神社の比定地については、橋田村の「山王権現」=現・中山神社〈五泉市橋田戊〉(『神社覈録』『神祇志料』)、当社(三条市西大崎、『式内社調査報告』〔B〕)、宮下村の「山浦八幡宮」=現・旦飯野神社〈阿賀野市宮下〉(『特選神名牒』)という、大きく三つの見解が史料上並び立つ形になります。いずれも確定した史実としてではなく、編者・時代の異なる複数の見解の一つとして理解する必要があります。

【抜粋原文】

中山神社

祭神 金山彦命

祭日 正月八月十四日十五日
社格 村社

所在 宮下村(北蒲原郡笹岡村大字宮下)

今按、水原驛の東一里宮下村なる山浦八幡宮是ならん。越後風土記節解に、在中山、建久二年神楽野へ遷座と見えたるは、中山村にありしを宮下村に遷座ありしなるべし。金谷組とて金谷村等数十村ある中に、中山村あり、この村の鎮守はさせる社にあらず、式内の由緒もなしと土人云り。宮下村は社地のさまいと神さびて式社と思はれ、中山村の隣本田村に諏訪山中山寺あり、此別當寺と思しく、金谷村の名祭神によしあらば、本社旦飯野神社と申傳ふと云へども、中山神社ならんと云る條理正しく、中山神社に由ありて聞ゆれば、此村と定めて可ならん。

【現代語訳(大意)】

中山神社。

祭神は金山彦命。祭日は正月と8月の14・15日。社格は村社。

所在は宮下村(北蒲原郡笹岡村大字宮下)。 今考えるに、水原駅の東一里にある宮下村の「山浦八幡宮」がこれ(式内・中山神社)にあたるのだろう。『越後風土記節解』に「中山にあり、建久2年(1191年)神楽野へ遷座した」とあるのは、もと中山村にあったものを宮下村へ遷座したということであろう。金谷組と呼ばれる金谷村など数十の村々の中に「中山村」という村があるが、この村の鎮守はさしたる社ではなく、式内社としての由緒もないと土地の人は言う。一方、宮下村は社地の様子がいかにも神々しく式内社らしいと思われ、中山村の隣の本田村には「諏訪山中山寺」という寺があり、これがその別当寺(神社を管理した寺)であったと思われる。金谷村という名は祭神(金山彦命)に由来があるので、本社は旦飯野神社であると伝えられているけれども、中山神社であるとする道理の方が正しく、中山神社との由緒が窺えるので、この村(宮下村)と定めるのがよいだろう。

②越後國蒲原郡 旦飯野神社

『特選神名牒』は、旦飯野神社そのものの項も設けていますが、【祭神】【祭日】【社格】【所在】の各欄はいずれも空欄となっており、確たる比定地を示していません。本文では、蒲原郡内の「里飯野村」「里飯野新田」に古い社がないか探したものの見当たらないこと、新津駅の南一里ほどの朝日村(現・旦飯野神社〈新潟市秋葉区朝日〉)に「若宮権現」という石の小祠があるものの、農民の所有地内にあって神官もおらず式内社ではありえないこと、さらに「旦飯野」という語を「朝日」の地名に結びつけて読むこと自体に無理があることを述べ、この候補にも懐疑的な立場を示しています。

注目すべきは、当社(宮下村・山浦八幡宮)については、この旦飯野神社の項では一切触れられていない点です。当社の名が挙がるのは、あくまで前述の『特選神名牒』中山神社の項に限られます。同じ『特選神名牒』という一つの史料の中でも、中山神社の項と旦飯野神社の項とで当社への言及の有無が異なっている点にご留意ください。

【抜粋原文】

旦飯野神社

【祭神】
【祭日】
【社格】
【所在】

 今按、蒲原郡に里飯野村・里飯野新田などあれば、此神社 此内にあらんと尋ぬれどさせる舊社なし。又 新津驛の南一里許に朝日村 若宮權現ありて是なりと云ど、石の小祠にて農民の持地内にあり神官もなければ 式社にはあるべからずと注進状に云り いかにも旦飯野神社は旦飯野とつゞきたる語にて、旦飯(アサヒ)ノ野神社とはよみ難き心地せらるればなり

【現代語訳(大意)】

旦飯野神社。

【祭神】【祭日】【社格】【所在】いずれも原文に記載がありません。

今考えるに、蒲原郡内に「里飯野村」「里飯野新田」などがあるので、この神社はこの中にあるのではないかと尋ねてみたが、これといった旧社は見当たらない。また、新津駅の南一里ほどのところに朝日村の「若宮権現」(現・旦飯野神社〈新潟市秋葉区朝日〉)があってこれがそうだという説もあるが、石の小さな祠で農民の所有地内にあり神官もいないので式内社ではありえない、と注進状にはある。いかにも「旦飯野神社」は「旦飯野」でひと続きの語であって、「旦飯(あさひ)ノ野神社」と読むのは無理があるように感じられるからである。

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

旦飯野神社(阿賀野市宮下)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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