中山神社(なかやまじんじゃ)は 新潟県三条市大字西大崎に鎮座 御祭神は国常立尊・健御名方命・木花咲姫命 延喜式内社・越後国蒲原郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社です 創立年代は不詳ながら、延暦年間に藤原淡海公の後裔が神職に任じられたと伝えられ 中世を通じて幾度か鎮座地を移しながら現在に至っています
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
中山神社(Nakayama jinja)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
新潟県三条市大字西大崎2-136番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》国常立尊(くにのとこたちのみこと)
健御名方命(たけみなかたのみこと)
木花咲姫命(このはなさくやひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 明治16年(1883年)5月 村社に列格
【創 建 (Beginning of history)】
創立年月は不詳です。もとは大崎村の字中山にあり、山上に「寄木」(御神木)が残っています。延暦年間、勅命によって藤原淡海公の後裔・西野小次郎忠吉が神職に任じられ、蒲原郡十三座の一つとして延喜式に記載されたと伝えられます。
中世を通じて、承平年間(931~938年)の社領加増、文治年間(1185~90年)の遷座、延徳年間(1489~92年)の領地没収、永禄年間(1558~70年)の大崎村への遷座など、鎮座地・社領をめぐる幾度かの変遷があったと伝わります。鎮座地は中山→七社平→現在地(大崎村)へと移動したことが確認できます。
(式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年)による)
【由 緒 (History)】
『式内社調査報告(Shikinaisha Chosa Hokoku)』第17巻〈昭和59年(1984年)〉に記される由緒(論社〔B〕中山神社の項)
中山神社(当社)についての由緒は、『式内社調査報告』第17巻に詳しく記されています。同書は延喜式内社・中山神社の論社として、五泉市橋田戊の中山神社を〔A〕、当社(三条市西大崎)を〔B〕として並べ、それぞれの由緒を紹介しています。
【抜粋原文】
〔B〕中山神社
【所在】
新潟縣三條市大字西大崎二、一三六番地(新潟縣管下越後國南蒲原郡西大崎村字町裏)。國鐵彌彦線大崎驛から約四〇〇メートル。
【祭神】
國常立尊・健御名方命・木花咲姫命の三柱を祭る。
【由緒】
創立年月不詳。もと大崎村の字中山にあり、山上に寄木が存する。延暦年間、勅命によつて藤原淡海公の胤・西野小次郎忠吉が神職に任ぜられ、蒲原郡十三座の一つとして延喜式に記載されたといふ。承平年間(九三一~三八)、料地千町歩を加賜さる。文治年間(一一八五~九〇)領主 五十嵐小文治 社祠を他に移し、七代神を祭る。よつて神號を七社大神と改む。字七社平がその地に當る。延德年間(一四八九~九二)領主 長尾因幡によつて邑を没收せらるるも、永祿年間(一五五八~七〇)上杉輝虎の臣・大崎越前の支配となるに及んで社祠を大崎村に移す。 『神社明細帳』等に記す所は以上のやうである。鎭座地については中山→七社平→現在地と移動したことがわかるが、眞言宗寺院 寶蔵院とともに中山平から籠場に移り、そして現在地に移つたといふ傳へもある。 明治十六年五月村社に列せられてゐる。
【神職】
宮司は西野稔氏。西野家の祖先は藤原鎌足の後胤 西野小次郎忠吉といはれ、稔氏は四十七代目といふ。
【祭祀】
例祭日は四月十八日及び九月十八日。
【氏子・崇敬者】
氏子数は現在約六〇〇戸餘。記録にあるものでは、明治十六年に二三一戸、昭和二十七年に二二〇戸となつてゐる。
【境内地】
二〇七坪。
【社殿・施設】
社殿の規模は、本殿 間口二間 奥行一間半、幣殿 間口二間 奥行四間、拝殿 間口三間 奥行二間半。で、これに神饌所がつく。本殿は流れ造、向きは東。鳥居は臺輪鳥居。境内社として稲荷社(稻倉魂命)・罹石社(罹石神)・水神社(水神)・雨負社(龍神)・大山社(大山祗命)・古峰社(古峰神)がある。
【論社考證】
〔A〕・〔B〕の中山神社のほか、北蒲原郡笹神村の旦飯野神社(もと山浦八幡宮)を中山神社に比定する説もある。しかし神社自體は中山神社を唱へず、詳しくは旦飯野神社の項を參照してもらひたいが、『特選神名牒』は、山浦八幡宮が中山村から移動したものであること、中山神社の別當中山寺が中山村隣村の本田村にあることを理由として、「本社旦飯野神社と申傳ふと云へども中山神社ならんと云る條理正しく中山神社に由ありて聞ゆれば此村と定めて可ならん」としてゐる。必ずしも説得力の強いものではないが、紹介しておく。」 (山田英雄・木村宗文)
【現代語訳】
〔B〕中山神社
【所在】
新潟県三条市大字西大崎2-136番地(旧・新潟県管下越後国南蒲原郡西大崎村字町裏)。国鉄弥彦線大崎駅から約400メートル。
【祭神】
国常立尊・健御名方命・木花咲姫命の三柱を祀ります。
【由緒】
創立年月は不詳です。もとは大崎村の字中山にあり、山上に「寄木」(御神木)が残っています。延暦年間、勅命によって藤原淡海公の後裔・西野小次郎忠吉が神職に任じられ、蒲原郡十三座の一つとして延喜式に記載されたと伝えられます。承平年間(931~938年)、社領として料地千町歩が加え賜られました。文治年間(1185~90年)、領主・五十嵐小文治が社祠を他へ移し、七代神を祀りました。これにより神号を「七社大神」と改めました。字「七社平」の地名はこれに由来します。延徳年間(1489~92年)、領主・長尾因幡によって領地を没収されましたが、永禄年間(1558~70年)、上杉輝虎の家臣・大崎越前の支配となるに及んで、社祠は大崎村へ移されました。
『神社明細帳』等に記されているのはおおよそ以上の通りです。鎮座地については、中山→七社平→現在地、と移動したことがわかりますが、真言宗の寺院・宝蔵院とともに中山平から籠場へ移り、その後現在地へ移ったという伝えもあります。
明治16年(1883年)5月、村社に列せられています。
【神職】
宮司は西野稔氏です。西野家の祖先は藤原鎌足の後裔・西野小次郎忠吉といわれ、稔氏はその47代目にあたるといいます。
【祭祀】
例祭日は4月18日および9月18日です。
【氏子・崇敬者】
氏子数は現在約600戸余りです。記録によれば、明治16年に231戸、昭和27年(1952年)に220戸でした。
【境内地】
207坪です。
【社殿・施設】
社殿の規模は、本殿が間口二間・奥行一間半、幣殿が間口二間・奥行四間、拝殿が間口三間・奥行二間半で、これに神饌所が付属します。本殿は流れ造、向きは東です。鳥居は台輪鳥居です。境内社として、稲荷社(稲倉魂命)・罹石社(罹石神)・水神社(水神)・雨負社(龍神)・大山社(大山祇命)・古峰社(古峰神)があります。
【論社考証】
延喜式内社・中山神社の論社としては、〔A〕(五泉市橋田戊)・〔B〕(当社、三条市西大崎)のほかに、北蒲原郡笹神村の旦飯野神社(もと山浦八幡宮)を中山神社にあてる説もあります。ただし旦飯野神社自体は中山神社を名乗ってはおらず、詳しくは旦飯野神社の項を参照していただきたいとしたうえで、『特選神名牒』が、山浦八幡宮はもと中山村から移動したものであること、また中山神社の別当寺・中山寺が中山村の隣村である本田村にあることを理由に、「本社は旦飯野神社と伝えられているけれども、中山神社であるとする道理の方が正しく、中山神社との由緒が窺えるので、この村(宮下村)と定めるのがよいだろう」としていることを紹介しています。必ずしも説得力の強いものではないとしながらも、参考として紹介しておく、という位置づけです。
【原文参照】 式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年).(〔B〕中山神社の項)
なお、『論社考證』が引く「本社旦飯野神社と申傳ふと云へども中山神社ならんと云る條理正しく中山神社に由ありて聞ゆれば此村と定めて可ならん」という一文は、明治9年(1876年)の『特選神名牒』の原文そのままです。詳しくは後述の【神社の伝承】をご参照ください。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・中山神社 社殿
入母屋造の堂々とした社殿で、正面には唐破風風の装飾を施した千鳥破風があり、破風の中央には社紋があしらわれています。向拝には太い注連縄と紙垂が掛けられ、拝殿前には一対の石造狛犬が控えます。本殿は流れ造で、向きは東。幣殿・拝殿を備え、神饌所が付属します。鳥居は台輪鳥居です(『式内社調査報告』第17巻による)。
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・境内社
稲荷社(稲倉魂命)・罹石社(罹石神)・水神社(水神)・雨負社(龍神)・大山社(大山祇命)・古峰社(古峰神)の六社が境内社として祀られています(『式内社調査報告』第17巻による)。境内には小さな鳥居を構えた祠が建ち、軒下には「正一位稲荷大明神」と刻まれた木製の額(扁額)が掛けられており、これが稲荷社にあたります。隣接する板張りの建物は、他の境内社(罹石社・水神社・雨負社・大山社・古峰社)を合わせ祀る合殿です。
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・神楽殿
参道沿いに 社殿に向かって右手に神楽殿〔瓦葺の入母屋屋根を持ち 板張りで覆ってある建物〕があり その足元には 石造の狛犬が控えます
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・社頭の鳥居
社頭には石造の鳥居が構えられ、両脚の柱にはそれぞれ「奉」「納」の文字が刻まれています(合わせて「奉納」の意と見られます)。鳥居をくぐると石畳の参道がまっすぐに伸び、その両脇には石灯籠が並びます。参道の先には社殿が望め、境内全体の構えを鳥居越しに見渡すことができます。
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・社号標
参道脇には「村社 中山神社」と刻まれた社号標が建てられています。前述の通り、当社は明治16年(1883年)5月に村社へ列せられており、この社号標はその社格を今に伝えるものです。鳥居の周囲には石造の玉垣がめぐらされ、境内の区画を示しています。
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・社務所(参集所)
境内には、瓦葺の大きな入母屋屋根を持つ建物があります。正面には注連縄と紙垂が掛けられ、格子戸を備えており、社務所または参集所として使われているものと見られます。前掲【社殿・施設】に記される「神饌所」は、この建物にあたるとも考えられます。
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲原郡 13座(大1座・小12座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 中山神社
[ふ り が な ](なかやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakayama no kaminoyashiro)
【原文参照】
[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
北陸道 越後國蒲原郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社
当社(三条市西大崎の中山神社)は、延喜式内社・中山神社の論社の一つ〔B〕です。『式内社調査報告』第17巻によれば、当社はもと大崎村の字「中山」に鎮座しており、その後「七社平」を経て現在地へと移動したことが記録から確認できます。同書は、五泉市橋田戊の中山神社(論社〔A〕)とともに当社を紹介したうえで、北蒲原郡笹神村の旦飯野神社(もと山浦八幡宮)を中山神社にあてる説(『特選神名牒』)にも触れており、必ずしも説得力の強いものではないとしながらも参考として紹介しています。
興味深いのは、この旦飯野神社説の根拠のひとつが「中山神社の別当寺・中山寺が、中山村の隣村である本田村にある」という点にある点です。当社の由緒に見える「もと大崎村の字中山にあり」という一文と、この「中山村」「中山寺」との関係は、史料上明記されてはいないものの、地名としてのつながりを感じさせます。詳しくは後述の【神社の伝承】をご参照ください。
・中山神社(五泉市橋田戊)〈論社〔A〕〉
中山神社(五泉市橋田戊)は、当社と同じく延喜式内社・中山神社の論社です。あわせて式内・宇都良波志神社の論社(境内社・天神宮)でもあり、二つの式内社の論社となっている点が特徴です。
中山神社(なかやまじんじゃ)は 主祭神は大己貴命・大山咋命で 新潟県五泉市橋田戊に鎮座 社殿には幕末の名工・石川雲蝶による龍や鯉の彫刻があります 延喜式内社・越後国蒲原郡 中山神社の論社 明治35年に中山神社へ移転 その後昭和19年 合祀された境内社の天神宮は式内・宇都良波志神社の論社 二つの式内社の論社となっています
中山神社(五泉市橋田戊)〈『延喜式』中山神社・宇都良波志神社〉
・中山神社(三条市西大崎)〈 論社〔B〕〉この記事です
中山神社(なかやまじんじゃ)は 新潟県三条市大字西大崎に鎮座 御祭神は国常立尊・健御名方命・木花咲姫命 延喜式内社・越後国蒲原郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社です 創立年代は不詳ながら、延暦年間に藤原淡海公の後裔が神職に任じられたと伝えられ 中世を通じて幾度か鎮座地を移しながら現在に至っています
中山神社(三条市西大崎)〈『延喜式』中山神社〉
・旦飯野神社(阿賀野市宮下)
『特選神名牒』が中山神社にあてる、もう一つの候補地です。現在は旦飯野神社として鎮座していますが、同書は「山浦八幡宮」と呼ばれていた頃の由緒から、この社こそ式内・中山神社にふさわしいと論じています。
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR信越本線 東三条駅から東南方向へ約2.1km 車での所要時間5~6分程度
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中山神社(三条市西大崎)に参着
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社頭には石造の鳥居が構え 一礼をしてから鳥居をくぐると 向って左に〈境内社〉 向って右には神楽殿 中央には石畳の参道がまっすぐに伸び その両脇には石灯籠が並び 参道の先には社殿が望め 境内全体の構えを鳥居越しに見渡すことができます
拝殿にすすみます
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入母屋造の堂々とした社殿で、正面には唐破風風の装飾を施した千鳥破風があり、破風の中央には社紋があしらわれています
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拝殿の扁額には「延喜式内社」と記されています
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして 参道の石畳みを戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
中山神社(三条市西大崎)は 延喜式内社・中山神社の論社です
以下でご紹介する『神社覈録』『神祇志料』『特選神名牒』は、いずれも五泉市橋田戊の中山神社の記事でご紹介したものと同じ内容です。これらの江戸期〜明治期の史料は、実は当社(三条市西大崎)そのものには触れておらず、橋田村(現・中山神社〈五泉市橋田戊〉)や宮下村(現・旦飯野神社〈阿賀野市宮下〉)を中山神社の所在地として論じています。当社が式内・中山神社の論社〔B〕として挙げられるのは、昭和59年(1984年)の『式内社調査報告』が初出であり、江戸期〜明治期の学者たちの間では候補地として意識されていなかったことがうかがえます。それでも、当社と橋田村・宮下村との関係を理解するうえで欠かせない史料ですので、あわせてご紹介します。
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
『神社覈録』は、中山神社について「橋田村に在り、今は山王権現と称する」とする一説を紹介しています。前述の通り、この「橋田村」は当社(三条市西大崎)ではなく、五泉市橋田戊の中山神社(論社〔A〕)を指します。当社について直接触れた記述は見当たりません。
【抜粋原文】
中山神社
中山は奈加夜麻と訓べし
○祭神金山彦命、金山姫命、〈風土記節解〉
○橋田村に在す、今山王権現と稱す、〈案内〉
類社 美濃國賀茂郡中山神社
【現代語訳(大意)】
中山神社。
「中山」は「なかやま」と訓む。
祭神は金山彦命・金山姫命とする(『風土記』の節解による)。
橋田村にあり、今は山王権現と称している(〈案内〉の説による)。この「山王権現」は五泉市橋田戊の中山神社にあたります。
類社(同名の他国式内社):美濃国賀茂郡の中山神社。
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
『神祇志料』は、中山神社について社名のみを記し、所在地や祭神についての付記はありません。当社(三条市西大崎)を指すのか、橋田村の中山神社を指すのかは、この記述だけでは判断できません。
【抜粋原文】
中山(ナカヤマノ)神社
【現代語訳(大意)】
中山神社。(社名のみが記され、祭神・所在地等の付記はない。)
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
『特選神名牒』は、橋田村・当社(三条市西大崎)のいずれでもなく、宮下村(現・阿賀野市宮下の旦飯野神社)にある「山浦八幡宮」を式内・中山神社にあてています。同書は、隣接する「金谷村」という地名が祭神・金山彦命(金=金属の神)に由来するという語源論から、実は中山神社の方こそふさわしい、と論じています。
注目したいのは、この一文の中に「中山村」「中山寺」への言及がある点です。同書は「中山村の隣本田村に諏訪山中山寺あり、此別当寺と思しく」と述べており、これは前掲【オタッキーポイント】・【由緒】でご紹介した『式内社調査報告』の〔B〕当社の項が、旦飯野神社説の根拠として「中山神社の別当中山寺が中山村隣村の本田村にある」と紹介している内容と、ほぼ同一の記述です。当社の由緒に見える「もと大崎村の字中山にあり」という伝えと、この「中山村」との関係は史料上明記されていませんが、地名としてのつながりを感じさせる箇所です。
これにより、式内・中山神社の比定地については、橋田村の「山王権現」=現・中山神社〈五泉市橋田戊〉(『神社覈録』『神祇志料』)、当社(三条市西大崎、『式内社調査報告』〔B〕)、宮下村の「山浦八幡宮」=現・旦飯野神社〈阿賀野市宮下〉(『特選神名牒』)という、大きく三つの見解が史料上並び立つ形になります。いずれも確定した史実としてではなく、編者・時代の異なる複数の見解の一つとして理解する必要があります。
【抜粋原文】
中山神社
祭神 金山彦命
祭日 正月八月十四日十五日
社格 村社
所在 宮下村(北蒲原郡笹岡村大字宮下)
今按、水原驛の東一里宮下村なる山浦八幡宮是ならん。越後風土記節解に、在中山、建久二年神楽野へ遷座と見えたるは、中山村にありしを宮下村に遷座ありしなるべし。金谷組とて金谷村等数十村ある中に、中山村あり、この村の鎮守はさせる社にあらず、式内の由緒もなしと土人云り。宮下村は社地のさまいと神さびて式社と思はれ、中山村の隣本田村に諏訪山中山寺あり、此別當寺と思しく、金谷村の名祭神によしあらば、本社旦飯野神社と申傳ふと云へども、中山神社ならんと云る條理正しく、中山神社に由ありて聞ゆれば、此村と定めて可ならん。
【現代語訳(大意)】
中山神社。
祭神は金山彦命。
祭日は正月と8月の14・15日。
社格は村社。
所在は宮下村(北蒲原郡笹岡村大字宮下)。
今考えるに、水原駅の東一里にある宮下村の「山浦八幡宮」がこれ(式内・中山神社)にあたるのだろう。『越後風土記節解』に「中山にあり、建久2年(1191年)神楽野へ遷座した」とあるのは、もと中山村にあったものを宮下村へ遷座したということであろう。金谷組と呼ばれる金谷村など数十の村々の中に「中山村」という村があるが、この村の鎮守はさしたる社ではなく、式内社としての由緒もないと土地の人は言う。一方、宮下村は社地の様子がいかにも神々しく式内社らしいと思われ、中山村の隣の本田村には「諏訪山中山寺」という寺があり、これがその別当寺(神社を管理した寺)であったと思われる。金谷村という名は祭神(金山彦命)に由来があるので、本社は旦飯野神社であると伝えられているけれども、中山神社であるとする道理の方が正しく、中山神社との由緒が窺えるので、この村(宮下村)と定めるのがよいだろう。
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
中山神社(三条市西大崎)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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越後國 式内社 56座(大1座・小55座)について に戻る
越後国(えちごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越後国には 56座(大1座・小55座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
越後國(えちごのくに)の 式内社 56座(大1座・小55座)について