旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)は 新潟県新潟市秋葉区朝日に鎮座します 旧称は若宮八幡宮 御祭神は誉田別尊 配祀に健御名方命(もと諏訪神社の祭神)を祀ります 延喜式内社・旦飯野神社の論社〔B〕とされ 阿賀野市宮下の旦飯野神社〔A〕とともに いずれが式内社であるかの判断は『式内社調査報告』でも難しいとされています
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
旦飯野神社(Asaiino shrine)
【通称名(Common name)】
※史料により旧称が異なります。
『式内社調査報告』は「若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)」
『特選神名牒』は「若宮権現(わかみやごんげん)」と伝えています
現在の通称については要確認
【鎮座地 (Location) 】
新潟県新潟市秋葉区朝日535
(旧・新潟県新津市朝日535番地)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
《配祀神》
健御名方命(たけみなかたのみこと)〈元々当地に鎮座した諏訪神社の祭神〉
《合祀神》
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
大山祇命(おおやまづみのみこと)
石動彦命(いするぎひこのみこと)
※明治41年 朝日地内の諏訪神社・稲荷神社・石動神社・十二神社を合祀しています(『式内社調査報告』第17巻による)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
(現地由緒板による)
創建年代そのものは現地の由緒板にも記されていませんが、同板によれば、当社は延喜式内社で越後56座の一つとされ、中世には「若宮八幡大菩薩」とも称される地方信仰の中心として栄えたと伝えられます。境内地は約2,400坪あり、往古より領主・地頭も検地しない「守護不入の地」であったといい、境内には高さ数十丈、夕陽時には影が東方4キロメートル以上に及んだという大きな槻桜の大樹(一本の枝から臼が33個とれたとも伝えられます)があったと伝えられています。
数百年の間に戦乱・火災等で衰頽し、社殿も小さな祠となって建て替えの資力もなかったところ、明治22年(1889年)11月5日、同じ朝日地内の諏訪神社に合併して「旦飯野神社」と改称しました。明治32年(1899年)に社殿を改築し、明治41年(1908年)には村内の稲荷神社・石動神社・下諏訪神社・十二神社を合併、昭和5年(1930年)に村社に列せられています。
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なお、【由緒】でご紹介する『式内社調査報告』(昭和59年)は、社殿改築を明治33年(1900年)とし、諏訪神社等の合祀についても明治22年(1889年)の一度の合併として記すなど、現地由緒板の年代・経緯と細部で食い違いが見られます。また例祭日についても、現地由緒板は「9月19日」とする一方、『式内社調査報告』は「かつては9月19日であったが、現在は4月19日と8月25日」としており、記載時期の違いによる差である可能性があります。いずれも典拠・記載時期の異なる複数の伝えとして、あわせてご紹介します。
【由 緒 (History)】
式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年).(〔B〕旦飯野神社の項)より
当社についての由緒は、『式内社調査報告』第17巻に、延喜式内社・旦飯野神社の論社の一つ〔B〕として紹介されています。同書は、阿賀野市宮下の旦飯野神社を〔A〕、当社を〔B〕として並べ、それぞれの由緒を記しています。
【抜粋原文】
〔B〕旦飯野神社
【所在】
新潟縣新津市朝日五三五番地(新潟縣管下越後國中蒲原郡朝日村字若宮)。國鐵信越本線古津驛から約1.5キロメートル。古津と金津を結ぶ道路に沿って、少し谷合に入った所に位置する。
【祭神】
誉田別尊を祭る。他に健御名方命・事代主命・倉稲魂命・石動彦命・大山祇命を祭る。これは朝日地内の諏訪神社・稲荷神社・石動神社・十二神社を合祀した結果である。
【由緒】
明治十六年の『神社明細帳』は「創立年月不詳」とあるのみである。神社に傳わる由緒には、「創立年月不祥 諏訪神社卜稱セシ處 明治二十二年十一月五日 金津村大字朝日 無格社 旦飯野神社ヲ合併シ 旦飯野神社卜改稱セリ」と記す。すなはち明治二十二年に字 若宮の旦飯野神社が字 馬場の諏訪神社に合併され、改めて旦飯野神社と改稱したといふのである。現拝殿に旦飯野神社・諏訪神社を併記した額があるのも その邊の事情による。
旦飯野神社は、もと若宮八幡宮と稱された。その舊地は字若宮か、その向いの普談寺(真言宗智山派)の地であるといわれるが、どちらか明確ではない。
合併後の旦飯野神社は昭和五年八月 金津村の村社に列せられてゐる。
【神職】
宮司は轡田勝彦氏。世襲で十二代目といふ。轡田家はそれ以前の神主 吉田家が轉退したのち、神社を預かるようになったが、初代の轡田勝輝は橋田村 山王社(現、中山神社)の神主・轡田長門の二男で、明暦元年(一六五五)橋田から朝日に移ってきたものである。吉田家から轡田家への移り變りは、寛永十四年(一六三七)の許状に「越後國蒲原郡金津之保旭村 諏訪大明神之祠官 吉田日向守 勝光恒例之神事祭禮参勤之時・・・・」とみえ、元禄十四年(一七〇一)のそれに「越後國蒲原郡金津保旭村 諏訪大明神之祠官 轡田日向守 勝宗雪任例神奉参勤之時・・・・」とみえることによってうかがい知れる。ただし轡田家は若宮八幡の宮司ではなく、諏訪神社の宮司としても奉祀してきたことも、この史料からは同時に分かる。
【祭祀】
例祭日はかつて九月十九日であったが、現在は四月十九日と八月二十五日。
【氏子・崇敬者】
氏子數は現在 三〇三戸。記録にみえるところでは、明治十六年に九五戸、昭和五年に二一〇戸となつてゐる。
【境内地】
境内地・社有地が七四三坪。他に山林が多少ある。
【社殿・施設】
社殿は文化八年(一八二五)に火災にあい、同十二年再建。その後 明治三十三年に改築し現在に至たつてゐる。その規模は
本殿 間口三間 奥行二間半
幣殿 間口二間 奥行三間
拜殿 間口三間三尺 奥行二間三尺
となつてゐる。本殿は八幡造、東向き。鳥居は木製の兩部鳥居と石製の臺輪鳥居があり、後者は昭和三十三年に寄進されたものである。境内社には伊夜日子大明神(天保九年四月六日建設)・大山祇神(明治二十四年六月建設)・十二神社・金毘羅大権現がある。
このほか参道入口には、昭和五年八月一日寄進の「村社旦飯野神社」の碑がある。また、社殿の前には昭和六年九月寄進の狛犬がある。【論社考證】
〔A〕・〔B〕いずれが式内・旦飯野神社であるか判断することはむずかしいが、『越後國式内神社案内』や『越後野志』は〔A〕を、『越後國式内神社考證』は〔B〕を採用してゐる。尚〔A〕は申山神社とされることもある。
(山田英雄・木村宗文)
【現代語訳】
〔B〕旦飯野神社
【所在】 新潟県新津市朝日535番地(新潟県管下越後国中蒲原郡朝日村字若宮、現・新潟市秋葉区朝日)です。国鉄信越本線古津駅から約1.5キロメートル。古津と金津を結ぶ道路に沿って、少し谷合に入った所に位置します。
【祭神】 誉田別尊を祀ります。他に健御名方命・事代主命・倉稲魂命・石動彦命・大山祇命を祀りますが、これは朝日地内の諏訪神社・稲荷神社・石動神社・十二神社を合祀した結果です。
【由緒】 明治16年(1883年)の『神社明細帳』には「創立年月不詳」とあるのみです。神社に伝わる由緒には、「創立年月不詳。諏訪神社と称していたところ、明治22年(1889年)11月5日、金津村大字朝日の無格社・旦飯野神社を合併し、旦飯野神社と改称した」と記されています。すなわち明治22年に字若宮の旦飯野神社が字馬場の諏訪神社に合併され、改めて旦飯野神社と改称したということです。現在の拝殿に旦飯野神社・諏訪神社の名を併記した額があるのも、この事情によるものです。 旦飯野神社は、もとは若宮八幡宮と称されていました。その旧地は字若宮か、その向いの普談寺(真言宗智山派)の地であるといわれますが、どちらであるかは明確ではありません。 合併後の旦飯野神社は、昭和5年(1930年)8月、金津村の村社に列せられています。
【神職】 宮司は轡田勝彦氏です。世襲で12代目といいます。轡田家は、それ以前の神主であった吉田家が転出したのち、神社を預かるようになりました。初代の轡田勝輝は、橋田村・山王社(現・中山神社)の神主であった轡田長門の二男で、明暦元年(1655年)に橋田から朝日へ移ってきた人物です。吉田家から轡田家への移り変わりは、寛永14年(1637年)の許状に「越後国蒲原郡金津之保旭村 諏訪大明神之祠官 吉田日向守 勝光 恒例之神事祭礼参勤之時……」とみえ、元禄14年(1701年)のそれに「越後国蒲原郡金津保旭村 諏訪大明神之祠官 轡田日向守 勝宗 雪任例神奉参勤之時……」とみえることによってうかがい知ることができます。ただし轡田家は若宮八幡の宮司ではなく、諏訪神社の宮司としても奉祀してきたことも、この史料からは同時にわかります。
【祭祀】 例祭日はかつて9月19日でしたが、現在は4月19日と8月25日です。
【氏子・崇敬者】 氏子数は現在303戸です。記録にみえるところでは、明治16年(1883年)に95戸、昭和5年(1930年)に210戸となっています。
【境内地】 境内地・社有地が743坪です。他に山林が多少あります。
【社殿・施設】 社殿は文化8年(1825年)に火災にあい、同12年に再建されました。その後、明治33年(1900年)に改築し、現在に至っています。その規模は、本殿が間口三間・奥行二間半、幣殿が間口二間・奥行三間、拝殿が間口三間三尺・奥行二間三尺となっています。本殿は八幡造で、東向きです。鳥居は木製の両部鳥居と石製の台輪鳥居があり、後者は昭和33年(1958年)に寄進されたものです。 境内社には、伊夜日子大明神(天保9年〈1838年〉4月6日建設)・大山祇神(明治24年〈1891年〉6月建設)・十二神社・金毘羅大権現があります。 このほか参道入口には、昭和5年(1930年)8月1日寄進の「村社旦飯野神社」の碑があります。また、社殿の前には昭和6年(1931年)9月寄進の狛犬があります。
【論社考證】 〔A〕・〔B〕のいずれが式内・旦飯野神社であるかを判断することはむずかしいのですが、『越後国式内神社案内』や『越後野志』は〔A〕を、『越後国式内神社考証』は〔B〕を採用しています。なお〔A〕は中山神社とされることもあります。 (山田英雄・木村宗文)
【原文参照】 式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年).(〔B〕旦飯野神社の項)
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・旦飯野神社 社殿(拝殿)
瓦葺きの入母屋造の屋根に、正面へ深く張り出した向拝(庇)を構えた木造の社殿です。向拝の中央には太い注連縄が張られ、三本のワラ紙垂が下がっています。社殿は木々に囲まれた静かな境内に鎮座し、社殿の左右には木製の縁と手すりが設けられています。
社殿に向かって左奥には、境内社とみられる小さな社殿が見えます
『式内社調査報告』第17巻には、境内社として伊夜日子大明神・大山祇神・十二神社・金毘羅大権現の名が挙げられていますが、この祠がどの境内社にあたるかを確定することはできません。
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・拝殿の扁額
拝殿の内部には、金泥で縁取られた木製の額が掲げられており、向かって右に「諏訪神社」、左に「旦飯野神社」と刻まれています。【由緒】でご紹介した「現拝殿に旦飯野神社・諏訪神社を併記した額があるのも、その邊の事情による」(『式内社調査報告』第17巻)という記述のとおり、諏訪神社に旦飯野神社が合併して現在の社名となった経緯を、この扁額が今に伝えています。
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・神楽殿
拝殿に向かって左手には、独立した建物として神楽殿が建っています。切妻造の屋根を持つ高床式の建物で、正面の板戸には注連縄が張られ、紙垂が下がっています。
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・狛犬・石燈籠
社殿前の境内には、石畳の参道の両脇に一対の狛犬と一対の石燈籠が据えられています。ここから振り返ると、木々の間を抜けて社頭の鳥居まで参道が一直線に見通せます。
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・参道石段
社頭から社殿へと続く参道には、木々に囲まれた石段がまっすぐに延びています。石段の両脇には手すりが設けられ、上り口には「奉納」と刻まれた一対の石灯籠が据えられています。石段を上りきった先には、瓦葺きの社殿の屋根が望めます。
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・手水舎
境内には切妻造・瓦葺きの屋根を持つ手水舎が設けられています。木製の柱と柵に囲まれた中に、直方体の石造りの手水鉢が据えられ、蛇口が取り付けられています。
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・二の鳥居
二の鳥居の額には「諏訪神社・旦飯野神社・石動神社」と三社の名が併記されています。石動神社は、【由緒】でご紹介した明治41年(1908年)の合祀で当社に合わせ祀られた神社の一つであり(【御祭神】もあわせてご参照ください)、この額もまた、当社が複数の神社の合祀によって成り立ってきた経緯を伝えています。
二の鳥居にも注連縄が張られ、その奥には石段が続き、両脇には「奉納」と刻まれた一対の石燈籠が据えられています。石段の先には社殿の屋根がのぞいています。
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・社頭
手前に、控え柱を備えた両部鳥居(一の鳥居)が構えています。中央には「旦飯野神社」と刻まれた木製の額が掲げられ、貫には注連縄が張られています。その奥には、色調の異なる石造りの二の鳥居が続いており、二基の鳥居の間を石畳の参道が結んでいます。【由緒】でご紹介したとおり、当社には「木製の兩部鳥居と石製の臺輪鳥居」があり、後者は昭和33年(1958年)の寄進と伝えられます(『式内社調査報告』第17巻による)。
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・普談寺の辺り〈旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)の 旧鎮座地とされる推定地〉
「その舊地は字若宮か、その向いの普談寺(真言宗智山派)の地であるといわれるが、どちらか明確ではない。」(『式内社調査報告』(昭和59年)より)
【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲原郡 13座(大1座・小12座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 旦飯野神社
[ふ り が な ](あさいいのの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asaiino no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 越後國蒲原郡 旦飯野神社の論社
延喜式内社・旦飯野神社の論社は、当社(新潟市秋葉区朝日)〔B〕と、阿賀野市宮下の旦飯野神社〔A〕の二つがあります。『式内社調査報告』はこの二社を並べて紹介しつつ、いずれが式内社であるかの判断は難しいとしています。〔A〕は「山浦八幡宮」の旧称を持ち、『特選神名牒』からは式内・中山神社の論社としても名前が挙がるという、二つの延喜式内社の論社となっている珍しい神社です。
もう一点、『式内社調査報告』第17巻〔B〕旦飯野神社の項【神職】欄には、思いがけないつながりが記されています。当社の神主家・轡田家の初代・轡田勝輝は、もと橋田村の山王社(現・中山神社〈五泉市橋田戊〉)の神主・轡田長門の二男で、明暦元年(1655年)に橋田から朝日へ移ってきた人物とされています。当社と五泉市橋田戊の中山神社は、延喜式内社としては別々の論社(旦飯野神社と中山神社)ですが、神主家の系譜においては橋田村を介してつながっていたことになります(式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年)による)。
・旦飯野神社(阿賀野市宮下)〈論社〔A〕〉
延喜式内社・旦飯野神社のもう一つの論社です。
『特選神名牒』からは式内・中山神社の論社としても名前が挙がっており、二つの延喜式内社の論社となっている点が特徴です。
旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)は 新潟県阿賀野市宮下に鎮座する神社です 御祭神は誉田別命(応神天皇)・相殿に天照皇大神・天児屋根命を祀ります 延喜式内社・旦飯野神社の論社である一方 『特選神名牒』は当社(旧称・山浦八幡宮)を式内・中山神社の論社にもあてており 二つの延喜式内社の論社となっています
旦飯野神社(阿賀野市宮下)〈『延喜式』旦飯野神社・中山神社〉
・旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)〈論社〔B〕です ※当記事です〉
※(このカードは当記事自身の紹介で クリックすると本記事の先頭に戻ります)
旦飯野神社(あさいいのじんじゃ)は 新潟県新潟市秋葉区朝日に鎮座します 旧称は若宮八幡宮 御祭神は誉田別尊 配祀に健御名方命(もと諏訪神社の祭神)を祀ります 延喜式内社・旦飯野神社の論社〔B〕とされ 阿賀野市宮下の旦飯野神社〔A〕とともに いずれが式内社であるかの判断は『式内社調査報告』でも難しいとされています
旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)〈『延喜式』旦飯野神社〉
〈参考〉旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)と中山神社(五泉市橋田戊)の関係
当社 旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)の神主家・轡田家の初代が、もと神主を務めていたと伝わるのは、橋田村の山王社にあたります(延喜式内社・中山神社の論社〔A〕)。
なお、この中山神社とのつながりは、あくまで神主家の系譜上の縁にとどまり、延喜式内社・旦飯野神社の論社としての関係ではありません(当社が式内・中山神社の論社に数えられているわけではなく、その逆でもありません)。上記の阿賀野市宮下の旦飯野神社〔A〕が「一つの神社が二つの延喜式内社の論社を兼ねる」ケースであるのに対し、当社と中山神社(五泉市橋田戊)の関係は、論社どうしのつながりとは別種の、神職の家系にまつわるエピソードとしてご紹介するものです。
・中山神社(五泉市橋田戊)
中山神社(なかやまじんじゃ)は 主祭神は大己貴命・大山咋命で 新潟県五泉市橋田戊に鎮座 社殿には幕末の名工・石川雲蝶による龍や鯉の彫刻があります 延喜式内社・越後国蒲原郡 中山神社の論社 明治35年に中山神社へ移転 その後昭和19年 合祀された境内社の天神宮は式内・宇都良波志神社の論社 二つの式内社の論社となっています
中山神社(五泉市橋田戊)〈『延喜式』中山神社・宇都良波志神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR信越本線 古津駅から東南方向へ約1km 徒歩での所要時間15分程度
新潟市立金津中学校の東隣に鎮座しています 金津中学校の校庭の南側の道路を東へ進んで行くと東を向いている社頭にでます
旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)に参着
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両部鳥居(一の鳥居)が構えています。中央には「旦飯野神社」と刻まれた木製の額が掲げられ、貫には注連縄が張られています。
その奥には、色調の異なる石造りの二の鳥居が続いており、二基の鳥居の間を石畳の参道が結んでいます
二の鳥居をくぐり抜けると 右手には手水舎があり 正面には石段があります
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石段を上がると 東向きの社殿の背後に西日が落ちていて逆光 ですが何故か 出迎えられている感じがして 身が引き締まります
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写真では 逆光でわかり難いので 日陰から撮影した写真で 拝殿の向かって左側の建物は神楽殿です
神楽殿の後ろには 境内社が祀られています
右手の建物は確認しなかったけれども 何だったのだろうか 神庫でしょうか
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拝殿にすすみます
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拝殿の扁額は 向かって右に「諏訪神社」、左に「旦飯野神社」と刻まれています
これは 元々は諏訪神社であった当地に 後に旦飯野神社が合併して現在の社名となった経緯を この扁額が今に伝えています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして 東へと伸びている参道を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
『特選神名牒』は、旦飯野神社そのものの項も設けていますが、【祭神】【祭日】【社格】【所在】の各欄はいずれも空欄となっており、確たる比定地を示していません。本文では、蒲原郡内の「里飯野村」「里飯野新田」に古い社がないか探したものの見当たらないこと、新津駅の南一里ほどの朝日村(現・旦飯野神社〈新潟市秋葉区朝日〉)に「若宮権現」という石の小祠があるものの、農民の所有地内にあって神官もおらず式内社ではありえないこと、さらに「旦飯野」という語を「朝日」の地名に結びつけて読むこと自体に無理があることを述べ、この候補にも懐疑的な立場を示しています。
【抜粋原文】
旦飯野神社
【祭神】
【祭日】
【社格】
【所在】今按、蒲原郡に里飯野村・里飯野新田などあれば、此神社 此内にあらんと尋ぬれどさせる舊社なし。又 新津驛の南一里許に朝日村 若宮權現ありて是なりと云ど、石の小祠にて農民の持地内にあり神官もなければ 式社にはあるべからずと注進状に云り いかにも旦飯野神社は旦飯野とつゞきたる語にて、旦飯(アサヒ)ノ野神社とはよみ難き心地せらるればなり
【現代語訳(大意)】
旦飯野神社。
【祭神】【祭日】【社格】【所在】いずれも原文に記載がありません。
今考えるに、蒲原郡内に「里飯野村」「里飯野新田」などがあるので、この神社はこの中にあるのではないかと尋ねてみたが、これといった旧社は見当たらない。また、新津駅の南一里ほどのところに朝日村の「若宮権現」(現・旦飯野神社〈新潟市秋葉区朝日〉)があってこれがそうだという説もあるが、石の小さな祠で農民の所有地内にあり神官もいないので式内社ではありえない、と注進状にはある。いかにも「旦飯野神社」は「旦飯野」でひと続きの語であって、「旦飯(あさひ)ノ野神社」と読むのは無理があるように感じられるからである。
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
〔参考〕式内「旦飯野神社」の論社〔A〕(阿賀野市宮下の旦飯野神社)に関する記述
「延喜式内社・旦飯野神社」をめぐる江戸~明治期の史料には、当社〔B〕ではなく、もう一つの論社〔A〕(阿賀野市宮下、旧・山浦八幡宮)について記すものもあります。当社を式内・旦飯野神社に比定できるかどうかを考えるうえでの比較材料として、あわせてご紹介します。
『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902.
『神社覈録』は、旦飯野神社の項を設けていますが、ここに記されているのは宮ノ下村(阿賀野市宮下、論社〔A〕)であり、当社(新潟市秋葉区朝日)ではありません。
【抜粋原文】
旦飯野神社
旦飯野は阿佐伊比乃と讀り
○祭神保食神〈風土記節解〉
○宮ノ下村に在す、今山浦八幡宮と稱す、〈案内〉
【現代語訳(大意)】
旦飯野は「あさいひの」と訓む。祭神は保食神とする(『風土記』の節解による)。宮ノ下村(論社〔A〕・阿賀野市宮下)にあり、今は山浦八幡宮と称している(〈案内〉の説による)。
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20
『神祇志料』も旦飯野神社の項を設けていますが、社名のみが記され、所在地・祭神についての付記がないため、〔A〕〔B〕のいずれを指すかはこの記述だけでは判断できません。
【抜粋原文】
旦飯野(アシイヒヌノ)神社、
【現代語訳(大意)】
旦飯野神社。(社名のみが記され、祭神・所在地等の付記はない。)
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497
実は『特選神名牒』には、旦飯野神社の項とは別に中山神社の項があり、そこには宮下村(論社〔A〕・阿賀野市宮下)の「山浦八幡宮」を式内・中山神社にあてる説が紹介されています(詳しくは「旦飯野神社(阿賀野市宮下)」の記事をご参照ください)。
ところが上記のとおり、旦飯野神社の項では、蒲原郡内の「里飯野村」「里飯野新田」や朝日村の「若宮権現」(当社)を候補として一つひとつ検討しながらも、宮下村は候補としてまったく取り上げていません。同じ書物の中で、宮下村は中山神社の候補地としては扱われても、旦飯野神社の候補地としては扱われていないことになります。
こうして史料を並べてみると、旦飯野神社の所在をめぐる見方は一つに定まっていないことが分かります。
『神社覈録』は宮下村(論社〔A〕)をはっきりと旦飯野神社の所在地としています。一方『特選神名牒』は、朝日村(当社〔B〕)を候補として取り上げてはいるものの、「式内社とは考えにくい」と否定的な見方を示しています。どちらが本当の延喜式内・旦飯野神社なのかは、江戸~明治期の学者の間でも意見が一致していなかったということです。
旦飯野神社(新潟市秋葉区朝日)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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越後国(えちごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越後国には 56座(大1座・小55座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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