天神宮(てんじんぐう)は 延喜式内社・越後国蒲原郡 宇都良波志神社の論社の一つ 御祭神は少名彦命・天穂日命です かつては字鶉橋(現・五泉市橋田丙)に祀られていましたが 明治35年(1902)橋田小学校の校地拡張に伴い新潟県五泉市橋田戊に鎮座する中山神社の境内へ遷座 昭和19年(1944)正式に中山神社に合祀されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
天神宮(Tenjingu)〈中山神社の境内 天神宮〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
新潟県五泉市橋田戊398〔中山神社 境内〕
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》
少名彦命(すくなひこなのみこと)〈昭和19年 中山神社に合祀〉
天穂日命(あめのほひのみこと) 〈昭和19年 中山神社に合祀〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
国土経営・五穀豊穣・養蚕守護(天穂日命)/医薬・禁厭・温泉・酒造(少彦名命)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創立年月は不詳(明治16年『神社明細帳』による) 祭神は少名彦名命・穂日命 社殿は本殿・拝殿とも小規模で、境内坪数342坪、信徒7人であったと伝えられます(明治16年当時、旧鎮座地における記録)
もとは中蒲原郡橋田村字鶉橋(現・五泉市橋田丙、鶉橋之史蹟)に鎮座していました 明治35年(1902年)、中山神社の境内地拡張にともない現在地へ移転 昭和19年(1944年)、中山神社へ正式に合祀されました
『中山神社沿革簿』によれば、社殿は西向き、例祭日は2月15日、末社に舞篆社(天照皇大神・保倉神・倉稲魂命)があったと伝わります (式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年)による)
なお、中山神社の現地由緒板ではこの移転と合祀をまとめて「明治35年」と記していますが、『式内社調査報告』によれば正式な合祀は昭和19年(1944年)とされています。
【由 緒 (History)】
『式内社調査報告(Shikinaisha Chosa Hokoku)』第17巻〈昭和59年(1984年)〉に記される由緒
天神宮についての由緒は、『中山神社沿革簿』『神社明細帳』という神社側の内部記録を、式内社研究会が調査・整理した『式内社調査報告』に詳しく記されています。
【抜粋原文】
【社名】
宇都良波志神社 吉田家本は「宇都良波志ノ神社」と読み、内閣文庫本は「ウツラハシ」と読み、武田本は「宇都良波志ノ神社」とする。
【論社】
延喜式内社の宇都良波志神社とされるものは、もと中蒲原郡橋田村にあつて、現在中山神社に合祀されてゐる天神社〔A〕(=当社)、五泉市宮町の白山神社〔B〕、村松町の白山権現〔C〕の三社がある。日吉社すなはち現在の中山神社かともいはれるが、中山神社は宇都良波志神社を唱へない(中山神社については別項参照)
〔A〕天神社の項
天神社はもと中蒲原郡橋田村字鶉橋にあつた(『神社明細帳』)。神社の傍に鶉橋といふ橋もあつたといふが、そこは現在の橋田小學校付近に當り、明治三十五年に校地擴張にともなつて中山神社境内に移された。移轉當初は本殿はそのまま使用し、拝殿には中山神社の御神樂殿を用ゐたが、昭和十九年に中山神社に合祀された。
移轉前の状況を明治十六年の『神社明細帳』によつてみると、
祭神 少名彦名命・穂日命
創立年月 不詳
社殿間數 本殿 間口一間 奥行一間三尺 拝殿 間口二間 奥行一間三尺
境内坪數 三百四十二坪
信徒 七人といふ具合になつてゐた。
さらに『中山神社沿革簿』によればこれを補ふに、社殿の向きは西向き、例祭日は二月十五日、末社として舛箕社(天照皇大神・保倉神・倉稲魂命)があつたことがわかる。
鶉橋といふ小字名も現存し、これによつて天神社を宇都良波志神社にあて、寶龜十一年(七八〇)の「西大寺資財流記帳」にみえる蒲原郡鶉橋庄も橋田付近にあつたのではないかとする説が強い。寶龜十一年と延喜式のできた延長五年(九二七)とではかなりの開きもあるが、鶉橋庄と宇都良波志神社は相互に關連させて考へなければなるまい。しかし これ以上具體的なこととなると共に判然としないといふのが實情である。
なほ、中山神社は宇都良波志神社を唱へないが、「橋田村トハ、鶉橋田ノ略名ニテ、惣鎭守ノ日枝社ノ宇都良波志神社ニ座スペキ」(『越後国式内社考証』)といふ説もあるので一應付記しておく。
【現代語訳】
【社名】
宇都良波志神社。吉田家本は「宇都良波志ノ神社」と読み、内閣文庫本は「ウツラハシ」と読み、武田本は「宇都良波志ノ神社」としています。
【論社】
延喜式内社の宇都良波志神社とされているものには、もと中蒲原郡橋田村にあり、現在は中山神社に合祀されている天神社〔A〕(=当社)、五泉市宮町の白山神社〔B〕、村松町の白山権現〔C〕の三社があります。日吉社、すなわち現在の中山神社ではないかとも言われますが、中山神社自身は宇都良波志神社を名乗っていません(中山神社については別項参照)。
〔A〕天神社の項
天神社(当社)は、もと中蒲原郡橋田村字鶉橋にありました(『神社明細帳』)。神社のそばには「鶉橋」という橋もあったといい、その場所は現在の橋田小学校付近にあたります。明治35年(1902年)、校地拡張にともなって中山神社の境内に移されました。移転当初は本殿をそのまま使用し、拝殿には中山神社の御神楽殿を用いましたが、昭和19年(1944年)に中山神社へ合祀されました。
移転前の状況を明治16年(1883年)の『神社明細帳』によって見ると、祭神は少名彦名命・穂日命、創立年月は不詳、社殿は本殿が間口一間・奥行一間三尺、拝殿が間口二間・奥行一間三尺、境内坪数は342坪、信徒は7人という具合でした。
さらに『中山神社沿革簿』によればこれを補い、社殿の向きは西向き、例祭日は2月15日、末社として舛箕社(天照皇大神・保倉神・倉稲魂命)があったことがわかります。
「鶉橋」という小字名も現存しており、これによって天神社を宇都良波志神社にあて、宝亀11年(780年)の「西大寺資財流記帳」に見える蒲原郡「鶉橋庄」も橋田付近にあったのではないかとする説が強いとされます。宝亀11年と延喜式ができた延長5年(927年)とではかなりの年代差がありますが、鶉橋庄と宇都良波志神社は互いに関連づけて考えなければならないでしょう。しかし、これ以上具体的なことについては判然としないというのが実情です。
なお、中山神社は宇都良波志神社を名乗ってはいませんが、「橋田村とは『鶉橋田』の略称であり、惣鎮守である日枝社(=中山神社)こそが宇都良波志神社にあたるはずだ」(『越後国式内社考証』)という説もあるので、一応ここに付記しておきます。
【原文参照】 式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年).(〔A〕天神社の項)
橋田村には、鶉橋のそばにある末社の天神社(当社)と、村全体の惣鎮守である本社の日枝社(=現・中山神社)という、本社・末社の関係にある二つの社がありました。『式内社調査報告』は鶉橋・天神社にまつわる由緒を上記のように詳しく説いたうえで天神社説を主軸としつつ、末尾で日枝社説(=中山神社)にも触れています。この日枝社説の原文は、明治9年(1876年)の『特選神名牒』にも見えるものです。詳しくは後述の【神社の伝承】をご参照ください。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・鶉橋之史蹟(五泉市橋田丙)〈中山神社の境内 天神宮の旧鎮座地〉
天神宮がもと鎮座していた地です。かつてこの付近に「鶉橋」という橋があり、字名も「鶉橋」と呼ばれていました。明治35年(1902年)、中山神社の境内地拡張にともない、天神宮はこの地から中山神社境内へ移されました。現地には「鶉橋之史蹟」の案内板が建てられています。
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【抜粋原文】
鶉橋之史蹟(うずらはしのしせき)
橋田地区のこの地に小字(こあざ)で「ウツラハシ」の地名が残っている。この地名は、奈良の西大寺が越後(現在の新潟県)に所領していた五つの荘園のひとつ「鶉橋荘(うずらはしのしょう)」と考えられる。
このことを示す史料としては、西大寺所有の文書「西大寺資財流記帳(さいだいじしざいりゅうきちょう)」(宝亀十一年、西暦七八〇年)に、所領地として、「越後蒲原郡鶉橋荘 一布 一紙 並白」と記載されている。
また、明治十六年の「新潟県神社明細帳」には、現在 中山神社に合祀されている天神社(てんじんしゃ)(宇都良波志神社)の所在地が「中蒲原郡橋田村字鶉橋」となっている。
さらに、橋田付近一帯には古代の遺跡が存在し、出土品により奈良・平安時代に営まれた集落の跡と考えられている。
これらのことから、西大寺所領の「鶉橋荘」は、橋田地区を中心に展開していたと言われている。
平成二十年三月吉日 橋田史蹟保存会(現地案内板より)
【現代語訳】
鶉橋之史蹟(うずらはしのしせき) 橋田地区のこの地には、小字として「ウツラハシ」という地名が残っています。この地名は、奈良の西大寺が越後(現在の新潟県)に所有していた五つの荘園のひとつ「鶉橋荘」に由来すると考えられています。
これを示す史料として、西大寺が所有していた文書「西大寺資財流記帳」(宝亀11年〈780年〉)に、所領地として「越後蒲原郡鶉橋荘 布一、紙一、ともに白(無地)」と記載されています。
また、明治16年(1883年)の「新潟県神社明細帳」には、現在中山神社に合祀されている天神社(宇都良波志神社)の所在地が「中蒲原郡橋田村字鶉橋」と記されています。
さらに、橋田付近一帯には古代の遺跡があり、出土品から奈良・平安時代に営まれた集落の跡と考えられています。
これらのことから、西大寺所領の「鶉橋荘」は、橋田地区を中心に広がっていたと言われています。
【原文参照】 現地案内板「鶉橋之史蹟」(橋田史蹟保存会、平成20年〈2008年〉3月)
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この案内板が示す「明治十六年の『新潟県神社明細帳』」の記述は、前掲【由緒】でご紹介した『式内社調査報告』が引く「移転前の状況(明治十六年の『神社明細帳』)」と符合しており、天神社(当社)が字鶉橋にあったことを地元の史蹟保存会側からも裏づける内容となっています。
詳しくは下記の記事をご覧ください。
天神宮(てんじんぐう)は 延喜式内社・越後国蒲原郡 宇都良波志神社の論社の一つ 御祭神は少名彦命・天穂日命です かつては字鶉橋(現・五泉市橋田丙)に祀られていましたが 明治35年(1902)橋田小学校の校地拡張に伴い新潟県五泉市橋田戊に鎮座する中山神社の境内へ遷座 昭和19年(1944)正式に中山神社に合祀されました
天神宮(五泉市橋田戊 中山神社の境内)〈『延喜式』宇都良波志神社〉
【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲原郡 13座(大1座・小12座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 宇都良波志神社
[ふ り が な ](うつらはしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Utsurahashi no kaminoyashiro)
【原文参照】
[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
・鶉橋之史蹟(五泉市橋田丙)〈中山神社の境内 天神宮の旧鎮座地〉 ・天神宮(五泉市橋田戊)〈中山神社の境内 天神宮〉
『式内社調査報告』第17巻〔A〕天神社の項によれば、天神社はもと中蒲原郡橋田村字鶉橋にあり(『神社明細帳』)、神社のそばには「鶉橋」という橋もあったといいます。明治35年(1902年)の校地拡張にともなって中山神社境内に移され、昭和19年(1944年)に中山神社へ合祀されました。移転前(明治16年『神社明細帳』)の記録では、祭神は少名彦名命・穂日命、創立年月は不詳、社殿は本殿が間口一間・奥行一間三尺、拝殿が間口二間・奥行一間三尺、境内坪数は342坪、信徒7人という具合でした。『中山神社沿革簿』はこれを補い、社殿は西向き、例祭日は2月15日、末社として舛箕社(天照皇大神・保倉神・倉稲魂命)があったことがわかります。
「鶉橋」という小字名も現存しており、これによって天神社を宇都良波志神社にあて、宝亀11年(780年)の「西大寺資財流記帳」に見える蒲原郡「鶉橋庄」も橋田付近にあったのではないかとする説が強いとされます。宝亀11年と延喜式ができた延長5年(927年)とではかなりの年代差がありますが、鶉橋庄と宇都良波志神社は互いに関連づけて考えなければならないでしょう。しかし、これ以上具体的なことについては判然としないというのが実情です。なお、中山神社は宇都良波志神社を名乗ってはいませんが、「橋田村とは『鶉橋田』の略称であり、惣鎮守である日枝社(=中山神社)こそが宇都良波志神社にあたるはずだ」という説(『越後国式内社考証』)もあるので、同書はあわせて紹介しています。
【原文参照】 式内社研究会 編『式内社調査報告』第17巻,皇学館大学出版部,昭和59年(1984年).(〔A〕天神社の項)
北陸道 越後國蒲原郡 宇都良波志神社(うつらはしの かみのやしろ)の論社
・鶉橋之史蹟(五泉市橋田丙)〈中山神社の境内 天神宮の旧鎮座地〉
・天神宮(五泉市橋田戊)〈中山神社の境内 天神宮〉
天神宮(てんじんぐう)は 延喜式内社・越後国蒲原郡 宇都良波志神社の論社の一つ 御祭神は少名彦命・天穂日命です かつては字鶉橋(現・五泉市橋田丙)に祀られていましたが 明治35年(1902)橋田小学校の校地拡張に伴い新潟県五泉市橋田戊に鎮座する中山神社の境内へ遷座 昭和19年(1944)正式に中山神社に合祀されました
天神宮(五泉市橋田戊 中山神社の境内)〈『延喜式』宇都良波志神社〉
・中山神社(五泉市橋田戊)
中山神社(五泉市橋田戊)は式内社・宇都良波志神社の論社として二説あります〈中山神社本社に合祀する説、または境内社・天神社とする説〉
中山神社(なかやまじんじゃ)は 主祭神は大己貴命・大山咋命で 新潟県五泉市橋田戊に鎮座 社殿には幕末の名工・石川雲蝶による龍や鯉の彫刻があります 延喜式内社・越後国蒲原郡 中山神社の論社 明治35年に中山神社へ移転 その後昭和19年 合祀された境内社の天神宮は式内・宇都良波志神社の論社 二つの式内社の論社となっています
中山神社(五泉市橋田戊)〈『延喜式』中山神社・宇都良波志神社〉
・五泉八幡宮(五泉市宮町)〈合祀 白山社〉 五泉八幡宮(ごせんはちまんぐう)は 創建は元慶3年(879)と伝えられ かつて五泉城があった地に鎮座 本殿には四十柱を超える神々が合祀される五泉城跡総鎮守です 越後國蒲原郡の二つの式内社の論社〔・本殿合祀の白山社は 宇都良波志神社(うつらはしの かみのやしろ)・本殿は 小布勢神社(をふせの かみのやしろ)〕とされます
URL: https://shrineheritager.com/gosen-hachimagu/
五泉八幡宮(五泉市宮町)〈延喜式内社 宇都良波志神社・小布勢神社 論社〉
・慈光寺(五泉市蛭野)
〈白山頂上への登山道の3合目 白山明神祠〉
『式内社調査報告』第17巻は、村松町瀧谷の白山権現を宇都良波志神社の候補とする『越後國式内神社案内』の説もあわせて紹介しています。同書によれば、古くは深山幽谷にあった社地を、楠正成の三男・楠庄五郎と伝える人物が一宇を造立し、山上に遷し祀ったといいます。ただし元禄2年(1689年)の『寺社・山伏・堂宮・神木開基年数改帳』には「白山権現 瀧谷 慈光寺守ル、応永8年(1401年)より元禄2年まで二百八十九年」とあるのみで、必ずしも古代にまで遡る確証はなく、山頂にあったという社も現存しません。同書は、越後の禅門四ヶ道場の一つである明白山慈光寺が白山妙理大権現を守護神としており、白山堂は山から移されたものと伝えることを紹介したうえで、応永年間(1394〜1428年)以前に遡るかどうかは分からないとしつつも、それ以後は慈光寺と密接に結びついてきたと考えてよいだろう、と結んでいます。
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
天神宮(五泉市橋田戊)は 中山神社の境内 天神宮です
・中山神社(五泉市橋田戊)の記事を参照ください
中山神社(なかやまじんじゃ)は 主祭神は大己貴命・大山咋命で 新潟県五泉市橋田戊に鎮座 社殿には幕末の名工・石川雲蝶による龍や鯉の彫刻があります 延喜式内社・越後国蒲原郡 中山神社の論社 明治35年に中山神社へ移転 その後昭和19年 合祀された境内社の天神宮は式内・宇都良波志神社の論社 二つの式内社の論社となっています
中山神社(五泉市橋田戊)〈『延喜式』中山神社・宇都良波志神社〉
参道石段を上がっていくと、途中で右手に折れる新たな石段があります この石段の先に見えている 御堂のような建物が 天神宮(五泉市橋田戊)〈中山神社の境内 天神宮〉です
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天神宮(五泉市橋田戊)〈中山神社の境内 天神宮〉に参着
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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境内社の天神宮は式内・宇都良波志神社の論社です
天神宮の旧鎮座地〈鶉橋之史蹟(五泉市橋田丙)〉から 明治35年に中山神社へ移転 その後 昭和19年 中山神社本殿に合祀されています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
『神社覈録』は、宇都良波志神社について「瀧谷村に在り、今は白山権現と称する」とする一説を紹介しています。この「瀧谷村」は五泉八幡宮のある宮町ではなく、前述の【オタッキーポイント】でご紹介した村松町瀧谷(現・慈光寺周辺)の白山権現を指すと見られ、『式内社調査報告』が候補の一つとして挙げる「瀧谷の白山権現」説(〔C〕白山権現の項)に対応するものです。つまり同じ「白山権現・白山社」でも、『式内社調査報告』は八幡宮本殿合祀の白山社(〔B〕)と瀧谷の白山権現(〔C〕)の両方を宇都良波志神社の候補として挙げており、『神社覈録』はそのうち瀧谷側の説を採っていることになります。このように、宇都良波志神社の鎮座地については、橋田村(前掲『神祇志料』)・瀧谷村(本項『神社覈録』)・五泉八幡宮の白山社(『式内社調査報告』〔B〕)と、史料によって異なる候補地が伝えられており、確定した史実としてではなく、複数の見解が併存しているものとして理解する必要があります。
【抜粋原文】
「宇都良波志神社 宇都良波志は假字也○祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊〈風土記節解〉○瀧谷村に在す、今白山權現と稱す、〈案内〉 〔○節解云、在ニ 勇體郷、〕」
【現代語訳(大意)】
宇都良波志神社。「宇都良波志」は仮の文字(当て字)である。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊とする(『風土記』の節解による)。瀧谷村にあり、今は白山権現と称している、という一説がある。〔『風土記』節解によれば、(宇都良波志神社は)勇体郷にあるという。〕
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
『神祇志料』は、宇都良波志神社を橋田村(現・五泉市橋田)にあるものとし、その根拠として、社地に「鶉橋(うずらばし)」という橋があり、付近の字(あざ)も「鶉橋」と呼ばれ、日吉社と称されていることを挙げています。この「日吉社」は、下記【オタッキーポイント】でご紹介している中山神社(五泉市橋田戊)の旧称にあたります。「宇都良波志」と「鶉橋」の音の通じるところから、この地を式内社の旧地と見る考証です。これは、白山社(八幡宮本殿合祀)を宇都良波志神社の論社とする『式内社調査報告』『神社覈録』の見方とは異なる、もう一つの比定地であり、確定した史実としてではなく、編者ごとに異なる見解の一つとして理解する必要があります。なお、この橋田の伝承地は、下記【オタッキーポイント】でご紹介している「鶉橋之史蹟」「天神宮」「中山神社」(いずれも五泉市橋田)そのものにあたります。
【抜粋原文】
「宇都良波志神社、今橋田村にあり、又其邊の字を鶉橋と云あり、日吉社と云、按、社地に鶉橋と云橋あり、盖し是なり、凡五月五日八月十五日祭を行ふ、『式社考証』」
【現代語訳(大意)】
宇都良波志神社は、今の橋田村にある。また、その付近の字(あざ)を「鶉橋」と言い、日吉社と称している。考えるに、社地に「鶉橋」という橋があり、(社名はこれに由来するのであろう)、これのことであろう。おおむね5月5日と8月15日に祭りを行う。(『式社考証』の項による)
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
『特選神名牒』が候補地として挙げているのは、前に見た『神祇志料』や『式内社調査報告』〔A〕天神社の項と同じ、橋田村です。ただし、同じ橋田村の中でも、どの神社を宇都良波志神社にあてるかという点で見解が異なります。
橋田村には、鶉橋のそばにある天神社(下記【オタッキーポイント】の「鶉橋之史蹟」「天神宮」にあたります)と、村全体の氏神である日枝社(日吉社)の、いわば本社・末社の関係にある二つの社があります。『神祇志料』や『式内社調査報告』〔A〕は、このうち末社の天神社(別名・鶉橋神社)を宇都良波志神社にあてていました。これに対して『特選神名牒』は、末社の天神社ではなく、本社にあたる日枝社〈中山神社(五泉市橋田戊)〉の方こそが宇都良波志神社にふさわしい、と主張しています。
その理由として、まず同書は「祭神を大己貴命・大山咋神とする社伝」自体に疑問を投げかけます。大山咋神は「日吉神」という呼び名から出た神であり、社名の「宇都良波志神」とは結びつきにくい、というのです。そのうえで、天神社を「鶉橋神社」と見る説があることも認めつつ、橋田村という村名自体が「鶉橋田(うずらはしだ)」の略称であることを根拠に、「(鶉橋にちなむ社なら、末社の天神社ではなく)村の惣鎮守である日枝社〈中山神社(五泉市橋田戊)〉こそが宇都良波志神社にあたるはずだ」とする古い「注進状」の説を採用する、と結論づけています。
このように、宇都良波志神社の鎮座地については、橋田村(天神社・日枝社。『神祇志料』『式内社調査報告』〔A〕は天神社を、本項『特選神名牒』はその本社である日枝社〈中山神社(五泉市橋田戊)〉を、それぞれ有力視)、瀧谷村の白山権現(『神社覈録』『式内社調査報告』〔C〕)、五泉八幡宮合祀の白山社(『式内社調査報告』〔B〕)と、大きく三つの候補地・見解が史料上並び立っています。いずれも確定した史実としてではなく、編者・時代の異なる複数の見解の一つとして理解する必要があります。
【抜粋原文】
宇都良波志神社
祭神 日吉大神
祭神 今按社傳祭神大巳貴命大山咋神とあれど 大山咋神は日吉神と云より云出たるにて 宇都良波志神の御名にはあるべからず
祭日 五月五日八月十五日
社格 村社(明細帳になし)
所在 橋田村(中蒲原郡橋田村大字橋田)今按 橋田村日吉社其地景を察するに式内の古社とおぼゆ 末社天神社の側に鶉橋と云橋あり 其邊の田地の字を鶉橋と云事 御圖帳に確に記せり 依て其天神社を鶉橋神社と云へども橋田村は鶉橋田の異稱にて 日枝社ぞ宇都良波志神社なるべしと注進状に云る實にあたれり故今之に從ふ
【現代語訳(大意)】
宇都良波志神社。
祭神は日吉大神。
祭神について。今考えるに、社伝の祭神は大己貴命・大山咋神とあるが、大山咋神は「日吉神」という呼び名から出た神であって、(社名の)「宇都良波志神」の御名にはふさわしくないはずである。
祭日は5月5日、8月15日。
社格は村社(『神社明細帳』には記載なし)。
所在は橋田村(中蒲原郡橋田村大字橋田)。今考えるに、橋田村の日吉社は、その土地の様子から見て式内の古社と思われる。末社の天神社のそばに「鶉橋」という橋があり、その付近の田地の字(あざ)を「鶉橋」ということが『御図帳』に確かに記されている。これによってその天神社を「鶉橋神社」とする説もあるが、橋田村そのものが「鶉橋田」の異称であることから、(天神社ではなく)日枝社こそが宇都良波志神社にあたるはずだと注進状にあるのは、まさに実情にかなっている。そこで今はこの説に従う。
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
天神宮(五泉市橋田戊)〈中山神社の境内 天神宮〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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越後国(えちごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越後国には 56座(大1座・小55座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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