実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 延喜式神名帳927 AD.所載 陸奥国 信夫郡 鹿神社(かしまの かみのやしろ)論社です 社伝には 天明元年(1781)4月火災により 同2年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し 同年7月光格天皇の御世 勅宣奉授し「正一位」を授けられたとあり この時古記録は焼失したとのこと

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

鹿島神社(Kashima shrine)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

福島県福島市鳥谷野字宮畑8、9、10

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》武甕槌命(たけみかづちのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・開運の神

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

社伝に

鎮座は 延暦元年(七八二)常陸の國 鹿島神宮より分祀

【由  (History)】

延喜式内社 正一位 郷社 鹿島神社 由緒

鎮座地 福島市鳥谷野字宮畑八・九・一〇番地
御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
例祭日 十月第一日曜日(旧十月九日本祭り)

由 緒
 鎮座は延暦元年(七八二)で、常陸の國 鹿島神宮より分祀された
延喜式内社信夫五社の一社に列せらる。 「続日本紀巻三十七」に「按ずるに桓武天皇延暦元年壬戌五日、常陸國言祈祷(ゴキトウ)鹿島神討(トウ)はつ凶賊神験非虚望寛位封奉格 勳五等 封戸(フウコ)云々」とある。天明元年(一七八一)四月火災により、同二年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し、同年七月光格天皇の御世、勅宣奉授し「正一位」を授けられ、郷民勅宣社として崇敬をあつめた。その後、建替えの棟札の中に福島城主 板倉甲斐守重房の武運長久の為の祈願棟札も見つかっていることから古くから開運の神として崇敬が厚い。

旧社格
明治四年十月十日郷社に列せらる。明治八年九月二十七日には村社となり、明治二十九年十二月再び郷社に列せらる。

社 殿
享保八年(一七二二)時の領主板倉勝里朝臣社殿一切を改造。
天明元年(一七八一)四月火災にて焼失。
同二年二月拝殿を建立する。
昭和二十八年(一九五三)社殿老朽化の為大改築をする。
同五十年火災にて焼失。
同五十一年(一九七六)十月鉄筋コンクリート造とし再建。

神 輿
天明二年(一七八二)正一位を奉授の折り京都にて購入する。
文化十三年(一八一五)破損のため京都にて購入する。
以後、例祭には神輿渡御を行い、昭和三十八年には大修繕を施し、現在も若者が担ぎ、氏子全域を巡っている。

末 社
境内社
養蚕神社(保食命)疱瘡神社(月夜見命)
菅原神社(菅原道真公)稲荷神社(稲倉魂命)
大瀧神社(不動明王)白山神社(白山比咩命)
道光内稲荷(鍋冠の狐)

境外社
八幡神社(誉田別命)水汲田地内

境内神苑 鎮守社
「鹿島神社、東西八間、南北弐拾壱間、本殿七尺四方、拝殿四間、裏に松大古木三株あり、廻り壱丈余り、四方に枝葉し高さ雲間を凌ぎ、碧樹中苔衣す、是に因って之を見れば社祠の久しく、幾百歳に及ぶ、里人信夫一の古木と云う、其の外に松杉樅樫等数本あり」昔は境内も廣大で多くの木々があり陰深とした鎮守の杜を形成していた。

一の鳥居前の神社名称柱
 揮毫 板倉藩士  遂堂 髙橋純蔵
 施主 羽田喜三郎 佐藤伊勢太郎

平成十二年十月吉日建之
鹿島神社 責任役員
杉妻地区史跡保存会
鳥谷野町会有志

現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

〈本殿向かって右の境内に いくつかの石祠が並んで祀られているが特定不明〉

・養蚕神社《主》保食命
・疱瘡神社《主》月夜見命
・菅原神社《主》菅原道真公
・稲荷神社《主》稲倉魂命
・大瀧神社《主》不動明王
・白山神社《主》白山比咩命

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

・八幡神社(水汲田地内)《主》誉田別命

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

第50代 桓武天皇 延暦元年 凶賊を征伐する事を鹿嶋神に祈り 神験あるため 勲五等及び本国の封に戸を授かったと 記されています

【抜粋意訳】

延暦元年(七八二)五月壬寅二十〉の条

○壬寅 陸奥国言 祈祷鹿嶋神 討撥凶賊 神験非虚 望賽位封 勅奉 授勲五等 封二戸

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)信夫郡 5座(大1座・小4座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 鹿神社
[ふ り が な ]かしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

香取・鹿島の御子神(みこがみ)苗裔神(びょうえいしん)〉について

古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました

このことから東北地方平定には軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました

香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったもの考えられています

こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の流域各地に祀られていきました

平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社

大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い威を誇りました

その御神威を背景として 奥州〈東北地方制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀苗裔神を祀るこれらの分社 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています

『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国香取苗裔神式内社2社の論社

〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや) 

・香取神宮(香取市)下総国一之宮 

一緒に読む
香取神宮(香取市)下總國一之宮

香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です

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牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)

・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

一緒に読む
香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

香取伊豆乃御子神社(かとりいづのみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)とされます 御祭神は 香取神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈香取伊豆乃御子神(阿佐比古命)〉とされます

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・和渕神社(石巻市和渕町)

一緒に読む
和渕神社(石巻市和渕町)

和渕神社(わぶちじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)の論社です 大古 香取神社の神船が 常陸より牡鹿郡 和渕山の西辺(船島)に着き その東方に船を留め(船澤)山頂に宮柱を立て神様を祭祀したとも 坂上田村麿将軍が 大同二年(806)遠田郡箆岳へ十一面観音を建立の節に和渕山本宮に「木船明神」を勧請したのがはじまりとも伝えられる

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栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)

・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)

一緒に読む
香取御児神社(栗原市築館久伝)〈旧鎮座地〉

香取御児神社(かとりみこじんじゃ)〈旧鎮座地〉は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社地です 『観跡聞老志區別帳』『登米縣の注進』に「所在は築館村 二尺程の石をたてて 香取神社と彫付ありと云る」と記されています

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・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

一緒に読む
鹿島神社〈香取御兒社を合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 東夷征伐後の入植者により 常陸国鹿島より黒瀬向山(三峯山)に勧請 江戸初期に現在地に遷座 この時 香取御兒社(かとりみこしゃ)を相殿に合祀 香取御兒社は『延喜式神名帳927 AD.』所載 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社で 勧請は 第12代景行天皇の時とも 神護景雲元年(767)城生野 伊治城の造営時とも伝わります

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国鹿島苗裔神式内社8の論社

〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや) 

・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮 

一緒に読む
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)

鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています

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黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足別神社(富谷市大亀)

一緒に読む
鹿島天足別神社(富谷市大亀)

鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社・石神山精神社〉の論社となっています これは 明治42年(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社〉であり 本社は式内社〈石神山精神社〉であるとする説がある為です

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曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

一緒に読む
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)

鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります

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・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉

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月山神社(亘理町吉田作田)

月山神社(つきやまじんじゃ)は 以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺〈現 亘理町立吉田小学校の地〉に祀られていた 文久元年(1861)6月に現社内に移転し 明治2年(1869)月山神社と改称 明治43年2月 作田の民有地に祀られていた小祠の鹿島社〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉と八幡神社を合併奉祀し現在に至ります

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曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

一緒に読む
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)

鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります

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・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉 

信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社です 社伝には 天明元年(1781)4月火災により 同2年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し 同年7月光格天皇の御世 勅宣奉授し「正一位」を授けられたとあり この時古記録は焼失したとのこと

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・鹿島神社(福島市小田鹿島山) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市小田鹿島山)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に その昔篠生(信夫)郷が湖沼であった時わずかに水上に出ていた鹿島の丘上に常陸国の鹿島神宮より蝦夷地経営の為分祀勧請されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります

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・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に 第13代成務天皇の御代〈130~190〉 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請し 後年 社地を源氏山に遷したとあり『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります

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・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)

一緒に読む
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 縁起に「常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地〈古鹿島〉に安置す」とあり 享保十年(1725)古鹿島の地から現境内に遷座と伝わり 医薬神社(いやくじんじゃ)は 明け薬師縁起に「天長の頃 空海上人巡礼のおり 眼病流行に苦しむ里人を救わんと 霊石に薬師如来を刻し 現在地に祀った」とあり 明治元年(1868)明け薬師の名称を医薬神社と改称 鹿島神社に合祀されました

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磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

一緒に読む
鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は 神護景雲二年(七六八年)創建と伝わり 古より鬼人が出没し 人畜に被害を及ぼし 庶民は大いに苦しんでいた時 武甕槌命が天より現れ 鏑矢で悪鬼を退治し 国家安泰となり 以来 鹿島明神として この山上に鎮座と伝わる 『延喜式神名帳927 AD.』所載 磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)とされます

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牡鹿郡 鹿嶋御神社(かしまのみこの かみのやしろ)

・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

一緒に読む
鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)は 太古 関東の鹿島 香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し その乗船がたまたま石巻の沿岸に到り 停泊して錨を操作した際 石を巻上げたことから 石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあり 石巻に上陸されたと伝わります

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行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)

・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町) 

一緒に読む
鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)

鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)は 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)祭神 武甕槌命の御子神 天足別命(あめのたらしわけのみこと)を祀ります 奥州の地を統御する為 この地で〈鹿島の稚児沼に仮宮された時〉賊徒が ...

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・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)

一緒に読む
鹿島御子神社旧蹟(南相馬市鹿島区鹿島町)

鹿島御子神社旧蹟(かしまみこじんじゃ きゅうせき)は 大同元年(西暦806)に現在の社地に社殿を造営し遷座するまでの旧鎮座地です 社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのはこの旧蹟地になります

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『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について

悪路王(あくろおう) 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています

鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます

文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています

【抜粋意訳】

常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす

祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・

【原文参照】

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR福島駅と南福島駅の中間辺り 東北線の東側 阿武隈川の西岸の鳥谷野
R4号 福島南バイパス沿い 大型ドラッグストアの裏手に鎮座します

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石の社号標には 延喜式内 郷社 鹿島神社 彫られています

鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進みます

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案内板には「昔は境内も廣大で多くの木々があり陰深とした鎮守の杜を形成していた」とありますが 現在でも参道の両側には木々が残っていて面影あります

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参道には 二の鳥居が建っています 鹿島鳥居ではなく 木製の明神鳥居

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二の鳥居扁額には「郷社 延喜式内 正一位 鹿島神社」と記されています
一礼をして 鳥居をくぐります

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石碑と案内板があり 暁雲斎翁寿碑 とあり
羽田喜三郎翁とあります 社伝に云う 再建した鳥谷野羽田喜三郎氏だと思います

「天明元年(一七八一)四月火災により、同二年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し、同年七月光格天皇の御世、勅宣奉授し「正一位」を授けられ、郷民勅宣社として崇敬をあつめた」

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拝殿にすすみます

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扁額には 鹿島神社

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神蔵に 五三の桐 の紋があります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌

鹿島神社の境内に 地名の鳥谷野(トヤノ)の万葉歌として 石碑が建てられています

この碑には 併刻があり 

中務卿親王(なかつかさきょう しんのう) 

 古今和歌集

 みちのくの 信夫の鷹の  鳥谷ごもり かりにもしらじ 思ふ心は

 みちのくの しのぶたかの とやごもり かりにもしらじ おもふこころは

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【抜粋意訳】

万葉集
巻第十四 東歌

未勘國相聞往来歌百十二首-[歌番号]3529

[原文]
等夜乃野尓 乎佐藝祢良波里 乎佐乎左毛 祢奈敝古由恵尓 波伴尓許呂波要

[訓読]
等夜(とや)の野に 兎(をさぎ)ねらはり をさをさも 寝なへ子ゆゑに 母(はは)に嘖(ころ)はえ

[仮名]
とやののに をさぎねらはり をさをさも ねなへこゆゑに ははにころはえ

[意訳]
等夜(とや)の野で 兎(うさぎ)ねらい 仕留めたが ほとんど寝てはいない娘なのに (あの娘の)母さんに叱られ

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在は 小倉〈現 鹿島神社(福島市小田鹿島山)〉と記しています

【抜粋意訳】

信夫郡五座 大一座小四座

信夫は 志乃不と訓べし 和名鈔 郡名信夫 假字上の如し
二十二 民部拾芥抄 國郡部 信夫

〇舊事紀 国造本紀 信夫國造 志賀高穴穂朝御世 阿波国造同祖 久志伊宇命孫 久麻直定賜国造

鹿島神社

鹿島は 加志麻と訓べし
〇祭神 武甕槌命
小倉村に在す 参拝参考

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在は 小倉〈現 鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿島神社

祭神 武甕槌命
祭日 九月九日
社格 村社
所在 鳥谷野村〇鹿島森 今 岩代國(信夫郡杉妻村大字鳥谷野)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在を鳥谷野村鹿島〈現 鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)〉と記しています

【抜粋意訳】

信夫五座(大1座・小4座)

鹿島(カシマノ)神社

今、鳥谷野村鹿島にあり陸奥式社考 福島縣神社調 武御雷命を祀る、日本書紀、延喜式、本社伝説
桓武天皇延暦元年壬戌勅して 勳五等 封充奉る 是よりさき凶賊

を撥時、鹿島神に祈るに神験虚しからさりしを以てなり・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

陸奥國式社考に 式内社とある と記している

【抜粋意訳】

福島縣 岩代信夫郡杉妻村大字 鳥谷(トヤノ)

郷社 鹿島(カシマノ)神社

祭神 武甕槌(タケミカヅチノ)

創建年代及び由緒縁起詳ならずと雖も、
按ずるに續日本紀に「延暦元年(七八二)五月壬寅二十〉の条○壬寅。陸奥国言。祈祷鹿嶋神。討撥凶賊。神験非虚。望賽位封。勅奉授勲五等封二戸
又 日本書紀云く「御雷命を祀る」と
陸奥國式社考には、「鹿島神社 今 鳥谷(トヤノ)村 鹿島森にあり」と見えその他 神名帳考証 神社覈録等 共に信夫五座一に列して名神大社とす
尚 郡村志に云ふ、鳥谷野 又時野に作る、鹿島神社あり、舊記古文書なし、祠背に老松三株あり、廻各一丈餘、輪郭、苔蘇全身に被る、郡中第一の古木といふ」、

又 信達風土雑記に云ふ「伏拝(ふしをがみ)より北方、永井川.鳥谷野の邊、田園平坦にして、直に福島城市に連接す、蓋、古の沼澤の址にして、鳥谷野とは放鷹に宜き草澤なりければならん云々」と、又續古今集中務卿親王の歌に「みちのくの信夫の鷹の鳥屋ごもり狩にも如らじ思ふ心を」の詠あるを見れば、其起源の古くして、日本武尊に縁故ある伏拝と相隣接するより考へても其由緒の不深きを知るべし、明治の初年村社に列し、同廿九年郷社に昇格す。
・・・・・・

境内社 養蚕(コカヒノ)神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

境内社 道光内稲荷(鍋冠の狐)の昔話「道光内きつね」の伝承

境内の案内板より

【抜粋意訳】

昔話 「道光内きつね

これは、私の祖父から聞いた話です。道光内の阿武隈川の川向かいにある、小倉寺の稲荷山などには、昔からきつねの火が連なり先の方から火が付かり後ろの方から消えるのを見たそうです。

私の家では、昭和42年まで稲荷山の山畑を3反歩(約900坪)位、耕作して、小麦とさつま芋を作っており、芋づるは、乳牛の飼料としておりました。畑の200m位の上に五輪石の岩穴があって、きうねが巣を造って住んでおり、日中でも、時々畑に下りて来たきっねを見たことがありました。今では開発されて、住宅団地になっておりますが、今でも五輪石稲荷神社があって、小倉寺の氏子の方々が各年祭礼を執り行っております。

島谷野には、「南光原の七色きつね」、「道光内きつね」、阿武隈川沿いの「舘下きつね」などといった名前のきつねがいました。
「道光内きつね」がいた所は 道光内24番地私の所有地で、このきつねを祀った稲荷の祠が三基建っておりましたが、平成2年10月 鹿島神社の西側に遷宮させて頂きまして、私が管理し、皆様にもお参りをして頂いております。

昔から鳥谷野には、濁川がながれています。そこに住んでいたあるおじいさんは、毎年秋口になると、この濁川に「やな」を掛け、竹のすのこに魚を受け捕っていました。その年は魚が豊漁でしたが、夜中に「道光内きつね」が来てやなばの魚を食い荒らしくわえていくので、おじいさんは.ある時「道光内きつね」の巣のところへ行き、入口へ大小玉石運び、石を打ち込み、きつねが出入りできないようにしてしまいました、きつねは、巣の中に閉じ込められてしまったので、何日もかかって苦心して別の所へ出口を掘ってようやく外へ出ることができたようです。

 ところで、このおじいさんの家は集落から離れたところにあり、おばあさんと二人で暮らしていました。ある夜、おじいさんは先にもらい風呂に行きまし

たが、いつまで待っても帰ってきません。ちょうちんを点けて迎えに出たのですが、桑畑のところまで来ると、そこから急に寂しくなり、一歩も進むことができず、やっとの思いで家まで帰ったそうです。翌朝、また捜しに行ったところ、おじいさんは桑畑の中で桑の木と一晩中けんかしてそこへ倒れていました。桑の木が4~5本ふらふらになって、今にも根から抜けそうになっていました。おじいさんが穴に押し込めたきつねに化かされたことが分かりました。
おじいさんはこれが原因でしばらく寝込みましたが、きつねに油揚げを供えて、謝ったところ、まもなく元気になったということです。

平成20年11月11日 鹿島神社 責任役員 丹治正

境内の案内板より

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鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)に (hai)」(90度のお辞儀)

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