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Shrine-heritager

椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

椎取神社Shiitori Shrine)
(しいとりじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

椎取さまShiitori sama)

【鎮座地 (Location) 

東京都三宅島 三宅村 神着

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》志理太(乎)宜命Shiritawoki no mikoto

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

不詳

しいとりじんじゃ
椎取神社

「志理太宣神社」として延喜式内社に数えられ、佐伎多麻比咩命(御笏神社の御祭神)の八王子のうち「したい」とよばれる王子さまをお祀りします。

平成十二年の噴火で拝殿と鳥居が埋まり椎の森が枯れてしまいまいたが、脇に新しく建てられ、森も再生してきています。奥には御本殿が、聳え立つ岩の陰にお祀りされています。

<御祭神> 志理太宣命(しりたきのみこと)
(大明神の御子神)

神主・壬生家が運営する
公式HPよりhttps://miyakejima-jinja.jimdofree.com/

【由  (history)】

不詳

椎取(しいとり)神社

 この神社には、佐伎多麻此咩命(さはたまひめのみこと)の第八子 志理太宣命(しりたきのみこと)が祀られていて、別名 志理太宣(しりたき)神社とよぶ式内社である。
神社にむかつて左側の熔岩原は、昭和15年7月の噴火で埋没するまでは自然が創りあげた島内唯一の自然の良港があった。
事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島に渡られた時、上陸の第一歩はこの地とされている。
「三宅記」によれば、
「三女おば神着に浦あり、"シトリ"と名付くなり、これに斎(すま)いまいらすべし。」
「また三女おば、嶋の丑寅(北東)の方に置きまいらせ、一番なこ、二番かね、三番やす、四番てい、五番したい、六番くらひ、七番たかすけ、八番ひんすけ とぞ申しまいらしける。かの王子達生みまいらせ給うところは、嶋の丑寅の方”かまつけ”と申す所にて生みまいらせ給う。七柱と申すところで育てまいらす。」と記されている。

そのことから、この地は事代主命と第四妃 佐伎多麻比咩命の愛の巣とも伝えられている。三宅島における神話発祥の地でもある。
平成12年6月の火山活動に伴い発生した泥流によりこの地域一帯が埋没した。
三宅村

現地案内板より

【境内 奥の原生林に鎮座する 御本殿 (The main shrine of this shrine, which sits in the forest at the back of the precincts)】

拝殿から 南西に約100m程奥の森の中 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿があります

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

2つの式内社の論社となっています


[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 志理太(乎)宜神社
[ふ り が な  ](しりたをきの かみのやしろ)
[How to read ]Shiritawoki no kaminoyashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫


[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 佐伎多麻比咩命神社
[ふ り が な  ](さきたまひめのみことの かみのやしろ)
[How to read ]Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)所載社の論社について

各々の神社の記事をご覧ください

伊豆國(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
志理太(乎)宜神社Shiritawoki no kaminoyashiro)について

・椎取神社(三宅島神着)〈当社〉

一緒に読む
椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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・志理太乎宜神社(片瀬白田)

論社
志理太乎宜神社(片瀬白田)

志理太乎宜神社(しりたおぎじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされ 早い時期から 三宅島の御祭神の分霊を祀っていたとも云われます 一方で八幡神を配祀して「来宮」とも「木の宮」ともされています 地元では 親しみを込めて「白田のキノミヤさん」と呼ばれています

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伊豆國(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
佐伎多麻比咩命神社Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)について

佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)の古社地との説もあり これについては『三宅島式内社に関する歴史地理学的研究 著 森谷ひろみ』に詳しい

この三宅島神着の椎取神社は、従来とも祭神は「志理太乎宜命」であると考えられて来ており、一応 式内社 志理太「乎」宜神社と考えてよいのではないかと思われる。しかし、別の機会に報告したいと思っているが、この神社の立地は、元来 式内社 佐伎多麻比咩命神社そのものであったものが、度重なる噴火により、近くに鎮座していた式内社志理太「乎」宜神社が遷座を余儀なくされて、式内社 佐伎多麻比咩命神社 と共に祀られるようになり、その後いつの間にか志理太「乎」宜神社だけということになってしまったものではないかと考えられるにいたった。

『三宅島式内社に関する歴史地理学的研究 著 森谷ひろみ』より

境内の案内板によれば
三島大明神と佐伎多麻比咩命の暮らした場所とも書かれています

この地は事代主命と第四妃 佐伎多麻比咩命の愛の巣とも伝えられている。三宅島における神話発祥の地でもある

・御笏神社(Oshaku Shrine)

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・祖師堂(Soshido)御笏神社の旧鎮座地

旧鎮座地
祖師堂(三宅島 神着)【御笏神社(Oshaku Shrine)旧鎮座地】

祖師堂(そしどう)は  一説には 御笏神社(Oshaku Shrine)の旧鎮座地で 現在の祖師堂(観音堂)の場所であったとされています 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程のところ 三宅一周道路に面しています

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・椎取神社(三宅島神着)〈古社地〉〈当社〉

古社地
椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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・両神社(下田市須崎)

論社
両神社(下田市須崎)

両神社(りょうじんじゃ)は 伊豆半島 下田の須崎港に鎮座します 須崎には 古代祭祀遺蹟の残る恵比寿島があり 伊豆半島の三島信仰の聖地ともされいて 当社も 江戸期には「両社明神」と呼ばれ「薬師堂」が祀られ「三島明神」であるとされていました こうしたことから『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社となっています

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・波夜多麻和氣神社(下田市相玉)

論社
波夜多麻和氣命神社(下田市 相玉)

波夜多麻和気命神社(はやたまわけのみことじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 由緒(格式ある歴史)があります しかし 御祭神「波夜多麻和気命(Hayatamawake no mikoto)」は謎の神とされます 鎮座地の相玉は 辺りは山深い郷ですが 古くは「大井 (おほゐ) 」と呼ばれ豊かな水があって栄えていたであろうことは 稲生沢川(inozawa gawa)を挟むような相玉の郷の田園風景を一望すれば 推測はできます 稲生沢川は 下田の港に流れ込みますので これを遡れば この辺りの交通の便は良かったのであろうと想像は出来ます 下田から 海上ルートで容易に その先の伊豆諸島と繋がります「三島(御島)の神々」なのかも知れません

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

三池港から 三宅一周道路を北上 約4.5km 車7分程度

椎取神社Shiitori Shrine)に参着

旧社殿は
平成12年(2000年)の噴火で 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残されて 当時発生した大量の泥流の凄まじさが判ります

鳥居の笠木のアップです

鳥居の扁額は半分埋まっていて「椎取神」までは読み取れます

埋もれた鳥居の先は 立木の跡がない 参道であったのであろうと思われる かつての拝殿は 屋根を残し 埋もれています

埋もれた古い拝殿のトタン屋根だけが 地上に出ています
拝礼をします

その場から振り返ると埋もれた鳥居の先には 土手のように見えるのは 三宅一周道路です

道路から 境内はこのように見えます

ジオスポットの案内板には次のようにあります

ジオスポット 椎取神社 Geo spot Shiitori Shrine
~2000年噴火による災害・泥流に埋まる鳥居~

椎取(しいとり)神社を取り囲む原生林は、三宅島の中でも特に深く神々しい森でした。

2000年噴火では、島の北東部に大量の火山灰が降り注ぎ、大雨になると水を含んだ火山灰が斜面を流れくだりました(火山泥流)。さらに、中腹の山肌を削

って土砂を巻き込んだものは土石流となって、山麓を襲いました。

椎取神社の森は、泥流に埋まって根からの呼吸が困難になり、その後の火山ガスの影響もあって、数年後には壊滅状態になりました。

しかしながら、今では、森の再生が着々と進んでいるのが観察できます。

GEO POINT 火山泥流と森の変化
Volcanic mud flow and The change of the forest
写真:青谷知己氏提供

2000年7月 2000年 最初の降灰があった
2000年8月 泥流が押し寄せる
2001年3月 埋没してしまった鳥居と社
2003年3月 周囲の森が立ち枯れる

ルールを守りましょう
○溶岩は持ち帰らないようにしましょう。
○ゴミやタバコの吸い殻などは持ち帰りましょう。
三宅村

この埋もれた鳥居の右側に 新しい鳥居と拝殿があります

鳥居と拝殿の後ろには「雄山」が聳えています

赤鳥居に進み 一礼をしてくぐり抜けます 扁額には「椎取神社」

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

奥の原生林にある本殿に向かいます
かつては 溶岩流の谷に添って参道があったようですが 現在は 谷は埋没していて 平らな参道になっています

途中 かつての溶岩流の谷から山裾へ上る階段が 埋まりきらずに残っています 5~6m程は埋もれたと云われていますので 本来は長い階段であったと思います

階段の上 どうやら ここからが 奥宮のご神域のようですので 深く一礼をしてから 進みます

溶岩流の谷の痕跡が はっきりと残っていて 神聖な空間とすぐにわかります

正面のひときわ聳え立つ溶岩の陰に 祠が見えます

石畳が敷かれて 祠に続いています まるで古代の祭祀場に祠が置かれているようです

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

溶岩壁に沿ってさらに進めそうですが この ご神域を穢してはならない 参道の他は 足を踏み入れることなどできません

深く一礼をして 参道を戻ります

かつての溶岩流の谷に下りたであろう階段を下ると 平らな参道へと戻ります

拝殿の横に戻ります

鳥居を抜けて 振り返り 一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『三宅記(miyakeki)』に記される伝承

三島大明神が 箱根の翁の娘3人を三宅島に迎え 后として3人を置きました

長女 后神社Kisaki Shrine)
《主》伊賀牟比賣命(Ikamuhime no mikoto)
次女二宮神社Ninomiya Shrine)
  《主》伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)
御笏神社Oshaku Shrine)
  《主》佐伎多麻比咩命(Sakitamahime no mikoto)
とされています

この三女が御笏神社Oshaku Shrine)のご祭神です

三宅島の三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)〉は かまつけ(神着)という所に置かれ その腹から8人の王子が 一度にお産まれになったと記されています

5番目の王子が「イタヒ」と呼ばれて
当社の御祭神「志理太(乎)宜命(Shiritawoki no mikoto)」とされています

一説には 当社は
佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)の論社であり 境内の案内板によれば
三島大明神と三女〈佐伎多麻比咩命〉の暮らした場所とも書かれています

意訳

三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto) 三宅島の丑寅(うしとら)〈北東〉の方に置かれました
かまつけ(神着)という所です
その腹から8人の王子が 一度にお産まれになりました

1番は「ナコ」
(南子命)〈南子神社or后神社境内社〉
2番は「カネ」
(加彌命)〈カミイノ宮〉
3番は「ヤス」
(夜須命)〈御嶽神社〉
4番は「テイ」
(氐良命)〈神澤神社or湯船神社〉
5番は「イタヒ」
  (志理太宜命)〈椎取神社or志理太乎宜神社(片瀬白田)
6番は「クライ」
(久良惠命)〈久良浜神社【出張(でばり)】〉
7番は「カタスケ」
(片菅命)〈片菅神社or若宮神社or片菅神社(片瀬白田)〉
8番は「ヒンスケ」
(波夜志命)〈峯指神社or走湯神社(下田市大賀茂)〉
と申します

 

又「ななはしら」と言うところでお育てになられました
ところどころに宮々を置かれました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用

椎取神社Shiitori Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

各々の神社の記事をご覧ください 

母神 三島大明神の第三の后神
(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)祀る神社 

・御笏神社(Oshaku Shrine)

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・祖師堂(Soshido)御笏神社の旧鎮座地 

一緒に読む
祖師堂(三宅島 神着)【御笏神社(Oshaku Shrine)旧鎮座地】

祖師堂(そしどう)は  一説には 御笏神社(Oshaku Shrine)の旧鎮座地で 現在の祖師堂(観音堂)の場所であったとされています 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程のところ 三宅一周道路に面しています

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椎取神社(三宅島神着)〈古社地〉 

一緒に読む
椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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・両神社(下田市須崎) 

一緒に読む
両神社(下田市須崎)

両神社(りょうじんじゃ)は 伊豆半島 下田の須崎港に鎮座します 須崎には 古代祭祀遺蹟の残る恵比寿島があり 伊豆半島の三島信仰の聖地ともされいて 当社も 江戸期には「両社明神」と呼ばれ「薬師堂」が祀られ「三島明神」であるとされていました こうしたことから『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社となっています

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・波夜多麻和氣神社(下田市相玉) 

一緒に読む
波夜多麻和氣命神社(下田市 相玉)

波夜多麻和気命神社(はやたまわけのみことじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 由緒(格式ある歴史)があります しかし 御祭神「波夜多麻和気命(Hayatamawake no mikoto)」は謎の神とされます 鎮座地の相玉は 辺りは山深い郷ですが 古くは「大井 (おほゐ) 」と呼ばれ豊かな水があって栄えていたであろうことは 稲生沢川(inozawa gawa)を挟むような相玉の郷の田園風景を一望すれば 推測はできます 稲生沢川は 下田の港に流れ込みますので これを遡れば この辺りの交通の便は良かったのであろうと想像は出来ます 下田から 海上ルートで容易に その先の伊豆諸島と繋がります「三島(御島)の神々」なのかも知れません

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1番「ナコ」(南子命)祀る神社

・南子神社(三宅島 神着) 

一緒に読む
南子神社(三宅島 神着)

南子神社(なごじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の格式の高い由緒のある神社です 御笏神社の祭神「佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)」の一番目の王子とされる「南子命(Nago no mikoto)」を御祭神として祀ります 神着の南方にある 南子山の原生林の中に鎮座しています 

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・御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀 三ノ朔幣神社(南子神社の遥拝所)
 御笏神社の記事をご覧ください 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・三ノ朔幣神社(san no sakuheino Shrine)旧鎮座地(三宅島 神着)
 三ノ朔幣神社 旧鎮座地の記事をご覧ください 

一緒に読む
三ノ朔幣神社 旧鎮座地(三宅島 神着)

三ノ朔幣神社 旧鎮座地は 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程に鎮座します 三宅島 神着の南方にある南子山に鎮座する「南子神社(Nago Shrine)」の遥拝所であったとも 三宅島 阿古に鎮座する「富賀神社(Toga Shrine)」の遥拝所であったとも伝わります 現在は 御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀されています

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・后神社(Kisaki Shrine)境内社の南子神社
 后神社(境内社の南子神社)の記事をご覧ください 

一緒に読む
后神社(三宅島 伊ヶ谷)

后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります

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・南子神社(下田市 神子元島)

 ※式内社調査報告には記されていますが 現在 神子元島には神社や祠は見あたりません
波風が強く 何度も消失したとも伝わります
https://www.google.com/maps/place/%E7%A5%9E%E5%AD%90%E5%85%83%E5%B3%B6/@34.5745212,138.9420112,18z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x237eb1d45e96afc7!2z5Lih56We56S-!8m2!3d34.6576!4d138.966645!3m4!1s0x60175b74a0a70383:0x2858da0c91ac6c3e!8m2!3d34.5745212!4d138.9420112 

2番「カネ」(加彌命)祀る神社 

・カミイノ宮 御笏神社の本殿に合祀 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・カミイノ宮 旧鎮座地(三宅島 神着 首山)※原生林の奥の為 未参拝です 

・二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着 東郷)〈当社〉 

一緒に読む
二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着東郷)

二宮神社【旧地】山ノ神(にのみやじんじゃ【きゅうちんざち】やまのかみ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「加弥命神社(かみのみことの かみのやしろ)」の旧鎮座地とされています 当初は神着 首山の「カミイノ宮」に鎮座 その後神着 東郷の「山の神(二宮神社)」〈当社〉に遷座したと伝わり さらに 明治7年(1874)の噴火で この地から 御笏神社の境内西の奥にへ遷座し 現在は 御笏神社の本殿に合祀されています

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二宮神社(三宅島 坪田)(合祀先)〈論社〉 

一緒に読む
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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3番「ヤス」(夜須命)祀る神社 

・御嶽神社跡(三宅島 坪田)〈当社〉 

論社
御嶽神社 跡(三宅島 坪田)

御嶽神社 跡(みたけじんじゃあと)は 由緒(格式ある歴史)を持っ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載されている「夜須命神社(やすのみことの かみのやしろ)」の元の鎮座地とされています 昭和29年(1954)に「二宮神社(にのみやじんじゃ)」に合祀されていて 現在は旧鎮座地となり 鳥居が残ります

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・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉 

論社
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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・嶽比良神社(三宅島 伊豆) ※掟により入山禁止の為 未参拝 

・子安宮(三宅島 神着) 

論社
子安宮(三宅島 神着)

子安宮(こやすのみや)は 三宅島の神着 字 門ノ原に 通称「バンバ山」という小丘があり ここに母体を像どる石神の側に陰陽を表わす二個の石が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「夜須命神社(Yasu no Mikoto Shrine)」の旧鎮座地とも 遥拝所ともされています

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4番「テイ」(氐良命)祀る神社 

・神澤神社(三宅島 伊豆) 

一緒に読む
神澤神社(三宅島 伊豆)

神沢神社(かんざわじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「弖良命神社(Tera no mikoto Shrine)」に比定される格式の高い由緒ある神社です 三宅島の伊豆にある神座山の太古の森の中に 静かに鎮座しています

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・湯船神社(三宅島 神着)〈論社〉
 湯船神社の記事をご覧ください 

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湯船神社(三宅島 神着)

湯船神社(ゆぶねじんじゃ)は 三宅一周道路 神着のバス停 湯舟グラウンドの横に鎮座しています 元々の鎮座地は「東郷の湯池の湖畔」に鎮座していましたが 明治7年(1874年)7月3日正午頃より始まった噴火により 東郷集落が埋没焼失したため この地に遷座しました

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・八王子社(下田市中
 八王子社の記事をご覧ください 

 

5番「イタヒ」(志理太宜命)祀る神社 

・椎取神社(三宅島神着) 

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椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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  ・志理太乎宜神社(片瀬白田) 

論社
志理太乎宜神社(片瀬白田)

志理太乎宜神社(しりたおぎじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされ 早い時期から 三宅島の御祭神の分霊を祀っていたとも云われます 一方で八幡神を配祀して「来宮」とも「木の宮」ともされています 地元では 親しみを込めて「白田のキノミヤさん」と呼ばれています

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6番「クライ」(久良惠命)祀る神社 

・久良濱神社【出張(でばり)】 

遥拝所
久良濱神社〈高山様 出張〉(三宅島 坪田)

久良浜神社〈高山様 出張〉〈たかやまさま でばり〉は 昭和15~16年頃(1940~1941)二宮神社(坪田)に合祀された「久良濱神社(くらはまじんじゃ)の遥拝所」です 「久良濱神社」は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の比定社で 由緒(格式ある歴史)を持っています 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ 「出張〈でばり〉」からおまいりし 本殿「高山さん」には足を踏み入れたことはない ということである

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・久良濱神社(三宅島 坪田)
 ※未参拝 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ足を踏み入れない 

・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉 

合祀
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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7番「カタスケ」(片菅命)祀る神社 

・片菅神社(三宅島 神着美茂井
  片菅神社の記事をご覧ください

 

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片菅神社(三宅島 神着 美茂井)

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)にも所載されて 由緒(格式ある歴史)を持っています 『三宅記(みやけき)』(鎌倉時代末期の作)によれば 三女〈三島大明神の后神(佐岐多麻比咩命(さきたまひめのみこと〉のお産みになられた 7番目の御子の名が「かたすけ」と呼ばれ この御子神が 当社の御祭神「片菅命(かたすげのみこと)」であるとされています

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・御笏神社 に合祀された境内神社の勝祖神社
  御笏神社の記事をご覧ください 

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御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・若宮神社(三宅島 伊ヶ谷)后神社の境内社 もしくは 后神社の本殿に合祀
  后神社(三宅島 伊ヶ谷)の記事をご覧ください 

一緒に読む
后神社(三宅島 伊ヶ谷)

后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります

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・若宮神社(三宅島 伊豆)后神社の境外社
若宮神社(三宅島 伊豆)の記事をご覧ください 

一緒に読む
若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境外 末社)

若宮神社は 后神社の境外社です 三宅一周道路から 伊豆岬灯台へと下る道路の左側 道路と海の間にある藪の中に に小さな祠が鎮座しています

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・片菅神社(東伊豆町片瀬) 

一緒に読む
片菅神社(片瀬白田)

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 往昔 八幡神社と称し 鎌倉時代 徳治2年(1307)創始と伝えます この説は 若宮八幡神を合祀勧請した時のものとされ 別の説では 片菅神社の創祀は さらに以前であって 三宅島に鎮座する片菅神社を分霊したとする説です 本来 伊豆地方では 多くの場合「若宮」とは「三嶋大明神の御子神」を意味します そうしたことから「三島神」の7番目の御子の名が「かたすけ」として『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされます

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8番「ヒンスケ」(波夜志命)祀る神社 

・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)御笏神社の本殿に合祀 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)旧鎮座地 

一緒に読む
峯指神社〔 旧鎮座地 〕(三宅島 神着)

峯指神社(ほうしじんじゃ)〔 旧鎮座地 〕は 風速山を祀っていたと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載された格式高い由緒を持ちますが 明治7年(1874)の噴火で 旧鎮座地は 溶岩流の台地の中にあります 現在は御笏神社(おしゃくじんじゃ)に合祀されています

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・走湯神社(下田市大賀茂)

 

一緒に読む
走湯神社(下田市大賀茂)

走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 『南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

一緒に読む
伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊豆国の 92座(大5座・小87座)の神社です

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