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志理太乎宜神社(片瀬白田)

志理太乎宜神社(しりたおぎじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)の論社とされ 早い時期から 三宅島の御祭神の分霊を祀っていたとも云われます 一方で八幡神を配祀して「来宮」とも「木の宮」ともされています 地元では 親しみを込めて「白田のキノミヤさん」と呼ばれています

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

志理太乎宜神社Shiritaogi Shrine)
しりたおぎじんじゃ

 [通称名(Common name)]

白田のキノミヤさん

【鎮座地 (Location) 

静岡県賀茂郡東伊豆町白田168

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》志理太(乎)宜命(Shiritawoki no mikoto)
》五十猛命(itakeru no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

不詳
※創立年代康永2年11月再建の記録あり

神社誌

社名 志理太乎宜神社
    別稱 来宮神社
祭神 志理太乎宜命
    併祀 五十猛命
例祭 1025
由緒 創始不詳 康永2年(1343)再建棟札ノ 外棟札多数現存 覆屋内ニ二棟ノ内宮ヲ安置スル 簡素ナ流レ造リ一間社 江戸中期ノ作ト察セラレル秀作デ町ノ重要文化財デアル

註 志理太乎宜命ハ 事代主命ノ 三宅島ノ 丑寅ノ方ノ后 佐伎多麻姫命ノ 第五王子デ 片菅命ノ御兄神ニアラセラレル

境内 案内石板より

【由  (history)】

志理太乎宜神社
(来宮神社)  東伊豆町白田宮後

【由緒】

康永2年(1343)再建の記録が南豆風土誌にしるされている。康永は南北朝の北朝年号で町内の神社再建では最古のもの(現神殿は大正明の建立)境内の公孫樹の古木は樹令推定300年前後と見られるが社殿の山側の枯れた公孫樹は昭和初年に朽倒したが、更に古くおそらく千年以上のものであったろう。

社殿内に安置された二棟の本殿は 江戸中期の作で 簡素ながら均斉のとれた流れ造りで、一流の宮大工と推定される。それぞれの本殿の社章から、『木の宮』と『八幡宮』であることがわかる。

【特色】

祭神の志理太乎宜命は、三島神社 祭神 事代主命の五属神の一座であり、片管神社と共に三島信仰の一環として位置づけられる。昔は、白田浜神社又は、来宮神社と称し、木の客(来宮)神社の特色である島精進、酒精進の行事は河津町の来宮神社と同様、現在でも12月17日から一週間氏子によって継承されている。

境内案内板より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿向って左手「公孫樹」の隣に祀られている境内社
・一社と石祠
(祭神など不明です)
※『豆州志稿(zushu shiko)』に「末社 山の神 稲荷」とありますので 一社が「稲荷」 石祠が「山の神」か?

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 志理太(乎)宜神社
[ふ り が な  ](しりたをきの かみのやしろ)
[How to read ]Shiritawoki no kaminoyashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)所載社の論社について

各々の神社の記事をご覧ください

伊豆國(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
志理太(乎)宜神社Shiritawoki no kaminoyashiro)について

・椎取神社(三宅島神着)

一緒に読む
椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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・志理太乎宜神社(片瀬白田)〈当社〉

論社
志理太乎宜神社(片瀬白田)

志理太乎宜神社(しりたおぎじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされ 早い時期から 三宅島の御祭神の分霊を祀っていたとも云われます 一方で八幡神を配祀して「来宮」とも「木の宮」ともされています 地元では 親しみを込めて「白田のキノミヤさん」と呼ばれています

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鎮座地「片瀬白田」の地名由来について

「片瀬白田」に鎮座する 2つの『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)の所載社(式内社)によるであるとの説があります

〈片瀬〉⇒ 片菅神社Katasuge Shrine)
     《主》片菅命(katasuge no mikoto)

〈白田〉⇒志理太乎宜神社Shiritaogi Shrine)
     《主》志理太乎宜命(shiritaogi no mikoto)

三宅島の三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)〉のお産みになられた
5番目の御子の名が「いたひorしりたき」と呼ばれています この御子神が 志理太乎宜神社Shiritaogi Shrine)の御祭神「志理太乎宜命(shiritaogi no mikoto)」であるとされています
7番目の御子の名が「かたすけ」と呼ばれています この御子神が 片菅神社Katasuge Shrine)の御祭神「片菅命(katasuge no mikoto)」であるとされています

早い時期から この2つの神社の分霊を祀った所が 鎮座地「片瀬白田」だと考えられて

この片菅から 〈片瀬〉
この志理太から〈白田〉の地名由来なったと云われています

片菅神社(片瀬白田の記事もご覧ください

論社
片菅神社(片瀬白田)

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 往昔 八幡神社と称し 鎌倉時代 徳治2年(1307)創始と伝えます この説は 若宮八幡神を合祀勧請した時のものとされ 別の説では 片菅神社の創祀は さらに以前であって 三宅島に鎮座する片菅神社を分霊したとする説です 本来 伊豆地方では 多くの場合「若宮」とは「三嶋大明神の御子神」を意味します そうしたことから「三島神」の7番目の御子の名が「かたすけ」として『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされます

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊豆急行 片瀬白田駅から 約180m 徒歩3分程度
駅のロータリーから山側へ 国道135号が大きく曲る辺りに鎮座します
道路と境内の間に水路があり 小さな神橋を渡ると鳥居が建ち境内です

志理太乎宜神社Shiritaogi Shrine)に参着

一礼して鳥居をくぐります 鳥居には注連縄が掛かり 扁額には「來宮社」と刻まれています

社殿まで 真っ直ぐに 細いコンクリート製の参道が延びています
境内は 3段になっていて 参道の先に 一檀高い所に 石灯篭や案内板が立ち その先に さらに一段高い檀があり社殿が建っています

拝殿にすすみます 扁額には「来宮神社」と書かれています

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿よりもさらに高い檀に本殿が 覆屋の中に建てられています

現在の社殿については石碑が建っていて そちらに詳しく

志理太乎宜神社 改修記念碑

志理太乎宜神社社殿は明治39年11月 当時の白田区氏子180戸の努力により現存の様式に新築された。
以後 数度の修理改修により維持保存されてきたが破損甚だしく今回の大改修工事に平成3年11月起工平成4年10月10日竣工した

ここに社守山本吉郎氏の献納により記念碑を建立する
平成4年10月吉日

何時の時代も氏子の皆さんの力で 信仰が守られていることに感銘を受けます

朝日に向かって 境内から鳥居をくぐり出て 振り返り一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に記される伝承

意訳

志理太宜神社

一本の大木が本殿の下にある

素戔嗚尊を祀る

後 八幡を配祀する

貞和2年の上梁文に伝わる 白田来濱神社は 新羅擁護の神なり 野州岩舩山と同神なりと 志理太宜白田来りを 通音なり
末社に 山の神 稲荷

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=

『三宅記(miyakeki)』に記される伝承

三島大明神が 箱根の翁の娘3人を三宅島に迎え 后として3人を置きました

長女 后神社Kisaki Shrine)
《主》伊賀牟比賣命(Ikamuhime no mikoto)
次女二宮神社Ninomiya Shrine)
  《主》伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)
御笏神社Oshaku Shrine)
  《主》佐伎多麻比咩命(Sakitamahime no mikoto)
とされています

この三女が御笏神社(Oshaku Shrine)のご祭神です

三宅島の三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)〉は かまつけ(神着)という所に置かれ その腹から8人の王子が 一度にお産まれになったと記されています

5番目の王子が「イタヒ」と呼ばれて
当社の御祭神「志理太(乎)宜命(Shiritawoki no mikoto)」とされています

意訳

三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto) 三宅島の丑寅(うしとら)〈北東〉の方に置かれました
かまつけ(神着)という所です
その腹から8人の王子が 一度にお産まれになりました

1番は「ナコ」
(南子命)〈南子神社or后神社境内社〉
2番は「カネ」
(加彌命)〈カミイノ宮〉
3番は「ヤス」
(夜須命)〈御嶽神社〉
4番は「テイ」
(氐良命)〈神澤神社or湯船神社〉
5番は「イタヒ」
  (志理太宜命)〈椎取神社or志理太乎宜神社(片瀬白田)
6番は「クライ」
(久良惠命)〈久良浜神社【出張(でばり)】〉
7番は「カタスケ」
(片菅命)〈片菅神社or若宮神社or片菅神社(片瀬白田)〉
8番は「ヒンスケ」
(波夜志命)〈峯指神社or走湯神社(下田市大賀茂)〉
と申します

又「ななはしら」と言うところでお育てになられました
ところどころに宮々を置かれました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用

志理太乎宜神社Shiritaogi Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

『三宅記(miyakeki)』に記される各々の神社の記事

母神 三島大明神の第三の后神
(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)祀る神社 

・御笏神社(Oshaku Shrine)

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・祖師堂(Soshido)御笏神社の旧鎮座地 

一緒に読む
祖師堂(三宅島 神着)【御笏神社(Oshaku Shrine)旧鎮座地】

祖師堂(そしどう)は  一説には 御笏神社(Oshaku Shrine)の旧鎮座地で 現在の祖師堂(観音堂)の場所であったとされています 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程のところ 三宅一周道路に面しています

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椎取神社(三宅島神着)〈古社地〉 

一緒に読む
椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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・両神社(下田市須崎) 

一緒に読む
両神社(下田市須崎)

両神社(りょうじんじゃ)は 伊豆半島 下田の須崎港に鎮座します 須崎には 古代祭祀遺蹟の残る恵比寿島があり 伊豆半島の三島信仰の聖地ともされいて 当社も 江戸期には「両社明神」と呼ばれ「薬師堂」が祀られ「三島明神」であるとされていました こうしたことから『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社となっています

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・波夜多麻和氣神社(下田市相玉) 

一緒に読む
波夜多麻和氣命神社(下田市 相玉)

波夜多麻和気命神社(はやたまわけのみことじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 由緒(格式ある歴史)があります しかし 御祭神「波夜多麻和気命(Hayatamawake no mikoto)」は謎の神とされます 鎮座地の相玉は 辺りは山深い郷ですが 古くは「大井 (おほゐ) 」と呼ばれ豊かな水があって栄えていたであろうことは 稲生沢川(inozawa gawa)を挟むような相玉の郷の田園風景を一望すれば 推測はできます 稲生沢川は 下田の港に流れ込みますので これを遡れば この辺りの交通の便は良かったのであろうと想像は出来ます 下田から 海上ルートで容易に その先の伊豆諸島と繋がります「三島(御島)の神々」なのかも知れません

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1番「ナコ」(南子命)祀る神社

・南子神社(三宅島 神着) 

一緒に読む
南子神社(三宅島 神着)

南子神社(なごじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の格式の高い由緒のある神社です 御笏神社の祭神「佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)」の一番目の王子とされる「南子命(Nago no mikoto)」を御祭神として祀ります 神着の南方にある 南子山の原生林の中に鎮座しています 

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・御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀 三ノ朔幣神社(南子神社の遥拝所)
 御笏神社の記事をご覧ください 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・三ノ朔幣神社(san no sakuheino Shrine)旧鎮座地(三宅島 神着)
 三ノ朔幣神社 旧鎮座地の記事をご覧ください 

一緒に読む
三ノ朔幣神社 旧鎮座地(三宅島 神着)

三ノ朔幣神社 旧鎮座地は 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程に鎮座します 三宅島 神着の南方にある南子山に鎮座する「南子神社(Nago Shrine)」の遥拝所であったとも 三宅島 阿古に鎮座する「富賀神社(Toga Shrine)」の遥拝所であったとも伝わります 現在は 御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀されています

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・后神社(Kisaki Shrine)境内社の南子神社
 后神社(境内社の南子神社)の記事をご覧ください 

一緒に読む
后神社(三宅島 伊ヶ谷)

后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります

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・南子神社(下田市 神子元島)

 ※式内社調査報告には記されていますが 現在 神子元島には神社や祠は見あたりません
波風が強く 何度も消失したとも伝わります

2番「カネ」(加彌命)を祀る神社 

・カミイノ宮 御笏神社の本殿に合祀 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・カミイノ宮 旧鎮座地(三宅島 神着 首山)※原生林の奥の為 未参拝です 

・二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着 東郷)〈当社〉 

一緒に読む
二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着東郷)

二宮神社【旧地】山ノ神(にのみやじんじゃ【きゅうちんざち】やまのかみ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「加弥命神社(かみのみことの かみのやしろ)」の旧鎮座地とされています 当初は神着 首山の「カミイノ宮」に鎮座 その後神着 東郷の「山の神(二宮神社)」〈当社〉に遷座したと伝わり さらに 明治7年(1874)の噴火で この地から 御笏神社の境内西の奥にへ遷座し 現在は 御笏神社の本殿に合祀されています

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・二宮神社(三宅島 坪田)(合祀先)〈論社〉 

一緒に読む
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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3番「ヤス」(夜須命)を祀る神社 

・御嶽神社跡(三宅島 坪田)〈当社〉 

論社
御嶽神社 跡(三宅島 坪田)

御嶽神社 跡(みたけじんじゃあと)は 由緒(格式ある歴史)を持っ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載されている「夜須命神社(やすのみことの かみのやしろ)」の元の鎮座地とされています 昭和29年(1954)に「二宮神社(にのみやじんじゃ)」に合祀されていて 現在は旧鎮座地となり 鳥居が残ります

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・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉 

論社
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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・嶽比良神社(三宅島 伊豆) ※掟により入山禁止の為 未参拝 

・子安宮(三宅島 神着) 

論社
子安宮(三宅島 神着)

子安宮(こやすのみや)は 三宅島の神着 字 門ノ原に 通称「バンバ山」という小丘があり ここに母体を像どる石神の側に陰陽を表わす二個の石が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「夜須命神社(Yasu no Mikoto Shrine)」の旧鎮座地とも 遥拝所ともされています

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4番「テイ」(氐良命)を祀る神社 

・神澤神社(三宅島 伊豆) 

一緒に読む
神澤神社(三宅島 伊豆)

神沢神社(かんざわじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「弖良命神社(Tera no mikoto Shrine)」に比定される格式の高い由緒ある神社です 三宅島の伊豆にある神座山の太古の森の中に 静かに鎮座しています

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・湯船神社(三宅島 神着)〈論社〉
 湯船神社の記事をご覧ください 

一緒に読む
湯船神社(三宅島 神着)

湯船神社(ゆぶねじんじゃ)は 三宅一周道路 神着のバス停 湯舟グラウンドの横に鎮座しています 元々の鎮座地は「東郷の湯池の湖畔」に鎮座していましたが 明治7年(1874年)7月3日正午頃より始まった噴火により 東郷集落が埋没焼失したため この地に遷座しました

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・八王子社(下田市中)
 八王子社の記事をご覧ください 

 

5番「イタヒ」(志理太宜命)を祀る神社 

・椎取神社(三宅島神着) 

一緒に読む
椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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  ・志理太乎宜神社(片瀬白田) 

論社
志理太乎宜神社(片瀬白田)

志理太乎宜神社(しりたおぎじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされ 早い時期から 三宅島の御祭神の分霊を祀っていたとも云われます 一方で八幡神を配祀して「来宮」とも「木の宮」ともされています 地元では 親しみを込めて「白田のキノミヤさん」と呼ばれています

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6番「クライ」(久良惠命)を祀る神社 

・久良濱神社【出張(でばり)】 

遥拝所
久良濱神社〈高山様 出張〉(三宅島 坪田)

久良浜神社〈高山様 出張〉〈たかやまさま でばり〉は 昭和15~16年頃(1940~1941)二宮神社(坪田)に合祀された「久良濱神社(くらはまじんじゃ)の遥拝所」です 「久良濱神社」は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の比定社で 由緒(格式ある歴史)を持っています 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ 「出張〈でばり〉」からおまいりし 本殿「高山さん」には足を踏み入れたことはない ということである

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・久良濱神社(三宅島 坪田)
 ※未参拝 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ足を踏み入れない 

・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉 

合祀
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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7番「カタスケ」(片菅命)を祀る神社 

・片菅神社(三宅島 神着美茂井)
  片菅神社の記事をご覧ください

 

一緒に読む
片菅神社(三宅島 神着 美茂井)

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)にも所載されて 由緒(格式ある歴史)を持っています 『三宅記(みやけき)』(鎌倉時代末期の作)によれば 三女〈三島大明神の后神(佐岐多麻比咩命(さきたまひめのみこと〉のお産みになられた 7番目の御子の名が「かたすけ」と呼ばれ この御子神が 当社の御祭神「片菅命(かたすげのみこと)」であるとされています

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・御笏神社 に合祀された境内神社の勝祖神社
  御笏神社の記事をご覧ください 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・若宮神社(三宅島 伊ヶ谷)后神社の境内社 もしくは 后神社の本殿に合祀
  后神社(三宅島 伊ヶ谷)の記事をご覧ください 

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后神社(三宅島 伊ヶ谷)

后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります

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・若宮神社(三宅島 伊豆)后神社の境外社
若宮神社(三宅島 伊豆)の記事をご覧ください 

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若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境外 末社)

若宮神社は 后神社の境外社です 三宅一周道路から 伊豆岬灯台へと下る道路の左側 道路と海の間にある藪の中に に小さな祠が鎮座しています

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・片菅神社(東伊豆町片瀬) 

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片菅神社(片瀬白田)

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 往昔 八幡神社と称し 鎌倉時代 徳治2年(1307)創始と伝えます この説は 若宮八幡神を合祀勧請した時のものとされ 別の説では 片菅神社の創祀は さらに以前であって 三宅島に鎮座する片菅神社を分霊したとする説です 本来 伊豆地方では 多くの場合「若宮」とは「三嶋大明神の御子神」を意味します そうしたことから「三島神」の7番目の御子の名が「かたすけ」として『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされます

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8番「ヒンスケ」(波夜志命)を祀る神社 

・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)御笏神社の本殿に合祀 

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御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)旧鎮座地 

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峯指神社〔 旧鎮座地 〕(三宅島 神着)

峯指神社(ほうしじんじゃ)〔 旧鎮座地 〕は 風速山を祀っていたと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載された格式高い由緒を持ちますが 明治7年(1874)の噴火で 旧鎮座地は 溶岩流の台地の中にあります 現在は御笏神社(おしゃくじんじゃ)に合祀されています

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・走湯神社(下田市大賀茂)

 

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走湯神社(下田市大賀茂)

走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 『南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊豆国の 92座(大5座・小87座)の神社です

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