中山神社(なかやまじんじゃ)は、岐阜県美濃加茂市下米田町信友に鎮座 延喜式内社 美濃国賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社の一つで 諏訪神社(山本入会地)・天神社(西脇)も論社に挙げられ 比定地をめぐる見解は分かれています 鍛冶の神・金山彦命を祀り 地名「信友」には鍛冶職人の伝承が伝わっています
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
中山神社(Nakayama shrine)
【通称名(Common name)】
江戸時代には『天神社』『中山天神』とも呼ばれていました
【鎮座地 (Location) 】
岐阜県美濃加茂市下米田町信友697番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》金山彦命(かなやまひこのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
不詳
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
境内にある「中山神社 由緒」碑(現地掲示)には、勧請年紀は不詳としたうえで、次のように記されています。
中山神社はもと下飯田村水上の地に鎮座していたが、永禄年間(1558年〜1570年)の火災によって焼失し、福島城主・肥田玄蕃の一族である肥田長寿丸が山本村(現在の諏訪神社の鎮座地)に再建して信州から諏訪明神を迎えたのち、「当所に配祀された」と伝えられている、と記されています。碑文自体が「〜と伝えられている」という結びで結ばれており、下飯田村水上への鎮座からこの経緯に至る一連の内容は、碑を建てた当社自身も、確定した史実としてではなく、あくまで伝承として紹介していることがうかがえます。また同碑には、旧今尾縣神社調書に、当社が加茂郡米田荘信友村に鎮座し「中山天神」と呼ばれ、周辺一帯が「中山村」と称されていたことが記されているとあり、あわせて信友・為岡・則光・兼行など周辺の地名が、金山彦命にちなむ鍛冶職人の名に由来するとみられることも紹介されています。
【現地由緒石碑 原文】
中山神社 由緒
中山神社は金山彦命を奉り、勧請年紀は不詳。
旧 今尾縣神社調書には加茂郡米田荘信友村に座して中山天神と云われ、この近辺を中山村と称していた。
又、近辺の地名には金山彦命に因み鍛冶の銘と思われる信友、為岡、則光、兼行等多くが現存する。
又、中山神社は下飯田村水上の地に鎮座されていたが永禄年間の火災により、福島城主 肥田玄蕃の一族 肥田長寿丸が山本村(現在の諏訪神社の地)に再建して信州より諏訪明神を迎えたのち 当所に配祀されたと伝えられている。平成十三年より始められた信友天神洞開発事業に伴い、現在地の北百メートルの山腹から 平成十五年九月に移転、新築された。
【原文参照】 「中山神社 由緒」境内由緒碑(現地石碑文)
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【由 緒 (History)】
岐阜県神社庁ホームページに記される由緒
岐阜県神社庁の当社詳細ページには、上記の近世史料とも重なる伝承・記録が、まとめて紹介されています。江戸時代を通じて当社が「天神」「天満神社」とも呼ばれていたこと、鍛冶職人・信友の伝承、そして社勢が一時衰えていたことなど、他の史料にはない情報も含まれています。
【抜粋(原文のまま)】
当社は信友支村中山に有り。其の支村の田畑の字を大神洞と云ふ。旧名古屋藩社寺古帳に曰く、信友村天神一社○社内(東西九間南北十間)前反除、文化三年六月呈記曰く、加茂郡信友村天満神社又説米田の庄神社五天四面但し柿葺境内(東西九間南北十間)岩井本神社名帳中神社中山村に有り。市置武彦式社稿曰く、中山神社加茂郡米田庄信友村に座して中山天神と称す云々。一人の鍛冶有り。名に信友と云ふ。中山の金神に誓ひ太刀を打事のくわしき業をなせりより村名にせり。里の老人の口碑有り。祭神金山彦命にやあらむ。当社衰頽して神主なし。今社を守る人を置くのみ。按ずるに鍛冶の住めるより村名せりと云ふ。近き辺りの村里皆鍛冶の名の如き村多し。為岡、則光、兼行、と云ふ村有るなり。当社在中石拘あり。其の銘に上列加毛郡美濃國中山と有り。当社境内実地四百四十八坪。
【原文参照】岐阜県神社庁HP「中山神社詳細」
https://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=2418&shrname=%E2%96%A0%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%96%A0
【現代語訳(要旨)】
当社は信友の支村・中山にある。その支村の田畑の字(あざ)を「大神洞」という。旧名古屋藩の社寺古帳には「信友村天神一社、社内は東西九間・南北十間、前面は反物(年貢)を免除された土地」とある。文化3年(1806年)6月に提出された記録には「加茂郡信友村天満神社、また米田庄神社ともいう。五天四面〈規模を示すとみられる記載〉、ただし柿葺(こけらぶき)、境内は東西九間・南北十間」とある。また、ある神社名帳には、当社が中山村にあると記されている。ある式社稿(式内社に関する考証書)には「中山神社は加茂郡米田庄信友村に鎮座し、中山天神と称する」旨が記されている。
ひとりの鍛冶職人がおり、名を信友といった。中山の金神に誓いを立てて太刀を鍛え、その技を極めたことから、これが村名になったという、里の古老の言い伝えがある。祭神は金山彦命ではないかとされる。当社は衰頽して神主がおらず、今は社を守る人を置くのみである。考えるに、鍛冶職人が住んでいたことから村名になったといい、近隣の村里にも鍛冶職人の名のような村名が多い。為岡・則光・兼行という村がある。当社の中には石造物があり、その銘には「加茂郡美濃国中山」と刻まれている。当社の境内は実測448坪である。
※文中「旧名古屋藩社寺古帳」という書名は、すでに引用した境内由緒碑の「旧今尾縣神社調書」、『特選神名牒』の「舊今尾藩神社取調帳」とは、必ずしも同一の史料を指すとは限りません。名古屋藩(尾張藩)と今尾藩(尾張藩の支藩)は別の藩であり、複数の異なる藩政期の調査記録が、それぞれ独自に当社の由緒を書き留めていた可能性があります。また「岩井本神社名帳」「市置武彦式社稿」という書名は、原ページの表記をそのまま採録したものです。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・ 社殿〈本殿 拝殿〉
社殿は、本殿と拝殿からなります。拝殿は瓦葺の建物で、正面・側面にガラス張りの引き戸を備えています。本殿は、拝殿の奥・向かって右手に、石垣によって一段高く積まれた基壇の上に鎮座しています。
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・ 〈境内社〉稲荷大神・愛宕大神
境内社として、「愛宕大神」「稲荷大神」と刻まれた石碑が、並んで祀られています。
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・ 社頭から〈境内全体〉
参道入口には石造の鳥居が建ち、その脇に一対の石灯籠が置かれています。鳥居の奥、石垣の上には玉垣(石造の柵)がめぐらされ、社殿はその内側、一段高くなった境内に鎮座しています。
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・ 社頭の由緒石碑
社頭には「中山神社 由緒」碑が建てられています(碑文の全文は【創建】をご覧ください)。
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・中山神社(美濃加茂市下米田町信友)の旧鎮座地
社頭の由緒案内石碑に「平成十三年より始められた信友天神洞開発事業に伴い、現在地の北百メートルの山腹から 平成十五年九月に移転、新築された。」と書かれていた 旧鎮座地の方向に当たる神社の北側100m
そこには コンクリート製の壁が見えています これは「天神洞下池」の堤防で この溜池「天神洞下池」の工事が 由緒書きにある「平成十三年より始められた信友天神洞開発事業」の事なのでしょう
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【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃國 39座(大1座・小38座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 9座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 中山神社
[ふ り が な ](なかやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakayama no kaminoyashiro)
【原文参照】
[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 美濃國賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社
延喜式内社「美濃國賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)」の論社は、次の3社です。
・諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)
式内社「中山神社」をめぐっては、当社が後身、あるいは論社とされています
諏訪神社(すわじんじゃ)は 岐阜県美濃加茂市下米田町に鎮座 延喜5年(905)「中山社」として創祀 延喜式内社 美濃国賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の後身と伝わります 戦国時代の兵火で焼失後 同じ場所で再建したと伝わり 信州諏訪明神を勧請して諏訪社と称し 現社名に改めたと云う 明治6年郷社に列せられました
諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)〈『延喜式』中山神社〉
・中山神社(美濃加茂市下米田町信友)※当記事でご紹介している神社です。
現在も「中山神社」の名を伝える神社ですが、(下米田町山本の諏訪神社)とは別の神社ですのでご注意ください。江戸時代には「天神社」とも呼ばれていたと伝わります。
中山神社(なかやまじんじゃ)は、岐阜県美濃加茂市下米田町信友に鎮座 延喜式内社 美濃国賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社の一つで 諏訪神社(山本入会地)・天神社(西脇)も論社に挙げられ 比定地をめぐる見解は分かれています 鍛冶の神・金山彦命を祀り 地名「信友」には鍛冶職人の伝承が伝わっています
中山神社(美濃加茂市下米田町信友)〈『延喜式』中山神社〉
・天神社(美濃加茂市下米田町西脇)
下米田町西脇に鎮座する天神社も、中山神社の論社の一つとして挙げられています。
天神神社(てんじんじんじゃ)は 延喜式内社 美濃国賀茂郡 中山神社(なかやまの かみのやしろ)の論社の一つで 「下米田町エリアにある天神(てんじん)の名を持つ古い神社」として 諏訪神社(山本入会地)・中山神社(信友)とともに論社に挙げられ 比定地をめぐる見解は分かれています
天神神社(美濃加茂市下米田町西脇)〈『延喜式』中山神社〉
式内社「中山神社」の論社問題は、江戸末期から明治にかけての史料にはすでに扱われています
明治3年(1870年)成立の『神社覈録』は、中山神社について「考証によれば中山祇、国帳には仲山明神と云う」という短い注記を載せるのみで、比定地には触れていません。
ところが明治9年(1876年)に成立した『神祇志料』と『特選神名牒』は、いずれも中山神社を米田庄信友村にあると記し、「中山天神」と称すると伝えています(これは 中山神社(美濃加茂市下米田町信友)にあたります)。
特選神名牒はさらに、信友という地名が鍛冶職人の伝承に由来するとし、祭神を金山毘古命(同社の御祭神・金山彦命の異表記)ではないかとする説も紹介しています。
そして明治45年(1912年)刊『明治神社誌料』は、「この諏訪神社こそ式内・中山社ではないか」としつつも、「信友村の支村・中山という土地にある天神社こそがそれではないか、という説もあり、今にわかには定めがたい」と、両論〈諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)or中山神社(美濃加茂市下米田町信友)〉を併記して判断を留保しました。ここに云う天神社(「信友村天神一社」「中山天神」とも呼ばれた)も、同じく中山神社(美濃加茂市下米田町信友)です。
一世紀半近く前から続く比定の難しさが、そのまま現在まで持ち越されている格好です。加えて明治神社誌料には、諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)の神輿に納められた銅製幣帛に「中山神」「諏訪大明神」の二行が彫られ、木札には「従三位中山天神」、額には「中山神社」を肩書きとして中央に「諏訪宮」と記されていた、という記録も残されており、諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)自身が「中山」と「諏訪」という二つの社号を重ねて伝えてきた痕跡がうかがえます。
〈参考〉インターネット上でよく紹介されている、もう一つの説
中山神社(美濃加茂市下米田町信友)の境内 由緒石碑は、式内社 中山神社の元々の鎮座地を下飯田村水上としています、その後 山本での再建・諏訪明神の勧請があり、信友への「配祀」が後、という順序を伝えています。
一方、インターネット上では、これとは順序の異なる説も比較的よく紹介されています(ウィキペディア「中山神社 (美濃加茂市)」などには)。
もともとこの地(信友)に式内社・中山神社が鎮座していたが、米田城主・肥田玄蕃の命により中山神社が山本の地へ移転・再建され、その際に信濃国の諏訪大社を祀って「諏訪神社」に改称した(=現在の諏訪神社〈美濃加茂市下米田町山本入会地〉)とし、現在の中山神社(信友)は、その後、元の式内社の鎮座地に改めて再建されたものと推測する、という説です。
この説では、元々の鎮座地を信友(当地)とし、山本への移転・改称があり、信友での再建が後、という順序になっています
境内由緒碑とは、元々の鎮座地がどこであったか、また山本と信友のどちらが先に動いたか、という二つの点で食い違っています。ウィキペディアや個人サイトによる紹介にとどまり、一次資料による裏付けは管理人において未確認のため、あくまで参考意見としてご紹介するにとどめます。
また、境内由緒碑によれば、諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)の地で勧請されたと伝わる信濃国一之宮・諏訪大社(『延喜式』神名帳所載の名神大社「南方刀美神社二座」に比定)については、以下の記事で詳しくご紹介しています。あわせてご覧ください。
・諏訪大社 上社 本宮(諏訪市)《主》建御名方神
URL: https://shrineheritager.com/suwataisha-kaminoyashiro-honmiya/
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高山本線 古井駅からさくらの森通り経由で 東方向へ約4.3km 車での所要時間8~10分程度
県道64号を北上して 右折します
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中山神社(美濃加茂市下米田町信友)に参着
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社頭には由緒石碑があります
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社殿は南向き 社頭は西を向いています
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拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして 西を向いている鳥居を抜けて戻ります
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鳥居の正面にある森です
何か 神々しい感じがする森でしたので 撮影しました
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又
社頭の由緒案内石碑に「平成十三年より始められた信友天神洞開発事業に伴い、現在地の北百メートルの山腹から 平成十五年九月に移転、新築された。」と書かれていた 旧鎮座地の方向に当たる神社の北側100m
そこには コンクリート製の壁が見えています これは「天神洞下池」の堤防で この溜池「天神洞下池」の工事が 由緒書きにある「平成十三年より始められた信友天神洞開発事業」の事なのでしょう
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
祭神・位階・類社などについての具体的な記載はなく、鈴鹿連胤の考証段階では、この社がどの現存社にあたるかを特定するには至っていなかったことがうかがえます。
【抜粋(原文のまま)】
中山神社
考證、云中山祇、國帳云、仲山明神
【現代語訳(要旨)】
式内社「中山神社」について、考証によれば「中山祇」と呼ぶとされ、美濃国内神名帳(国帳)には「仲山明神」と記されている、という短い注記のみが載せられています。
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
※神社覈録(1870年)は比定地を明示していませんが、神祇志料(1876年)は中山神社の所在地を信友村と明記しています。
後の明治神社誌料(1912年)も、信友村の支村・中山にある天神社を式内「中山社」の候補の一つとして挙げています。
なお、ここに云う信友村の中山神社(中山天神)は、中山神社(美濃加茂市下米田町信友)です。
【抜粋(原文のまま)】
中山(ナカヤマノ)神社、
今 米田庄中山郷信友村に在り、中山天神と云ふ、『尾張藩申出書』
【現代語訳(要旨)】
中山神社は、現在の米田庄中山郷信友村(現在の美濃加茂市下米田町信友にあたる)にあり、「中山天神」と呼ばれている、としています。この記述は『尾張藩申出書』という史料に拠るものと注記されています。
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
神祇志料には「尾張藩申出書」、特選神名牒には「旧尾張藩神社取調帳」という、いずれも尾張藩に由来する書名が典拠として挙げられていますが、両者が同一の史料を指すかどうかは確認できていません。
なお、ここに云う中山神社は、中山神社(美濃加茂市下米田町信友)であり、「金山毘古命」はその御祭神「金山彦命」の異表記です。
【抜粋(原文のまま・試読)】
中山(ナカヤマノ)神社
祭神
祭日
社格所在
今按、舊今尾張藩神社取調帳に、米田ノ庄信友村にあり、中山天神と稱す、東は和知村中山の郷、西は信友村中山の郷にして 其中間にあり、里老の口碑に、古へ中山邨と稱し 中世 紀村となりしとき 東郷は和知に属して和知中山と云ひ 西の郷を信友邑に属して信友中山と云と云り、又、昔一人の鍛工あり、信友と云 中山金神に誓ひて 太刀を鍛ふの精妙を得たり 仍て村名とすと云り、もしくは祭神 金山毘古命ならんと云る由ありて聞ゆれば 此と定めて記せり
【現代語訳(要旨)】
中山神社は、旧尾張藩神社取調帳によれば米田庄信友村にあり、「中山天神」と称する。
もとは東を和知村中山の郷、西を信友村中山の郷とする、その中間にあった。古老の言い伝えによれば、古くは「中山邨」と呼ばれていたが、中世に村が分かれた際、東郷は和知に属して「和知中山」と呼ばれ、西郷は信友邑に属して「信友中山」と呼ばれるようになったという。また、昔ひとりの鍛冶職人がおり、信友という人物が「中山金神」に誓いを立てて太刀を鍛え、その技を極めたことから、これを村名にしたとも伝える。あるいは、祭神は金山毘古命ではないかという説が聞こえることから、それをもってここに定めて記す、としています。
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料』〈明治45年(1912年)〉に記される、諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)側の由緒
式内「中山神社」の、もう一つの論社である諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)には、中山神社(美濃加茂市下米田町信友)との関係を論じた記述があります。
【抜粋(原文のまま)】
〇岐阜縣 美濃國 加茂郡下米田村大字山本
郷社 諏訪(スハノ)神社
祭神 建御名方(タケミナカタノ)命
創建年代詳ならず、社傳によれば、舊名古屋藩式社取調書に「中山神社、加茂郡米田郷十ケ村入會の地、字中山と云所に諏訪大明神と称する社あり、是ならん歟、按ずるに諏訪神社は米田十村の産土神にして、往昔より土民 中山神社と云傳へ、古くは今の地より丑寅の方、水上と呼ぷ地に在りしを、焼亡して永禄年間 今の地に遷座し、信州諏訪神社を配せ享り、夫より村民 諏訪社と稱し奉るとなむ、是によりて考ふれば、此社 中山社かとも思はるれど、信友村の支村 中山と云地に天神社ありて、是ならんかと云ふ説あれば、今容易に定めまつらんこと難し」とありと云ひ、尚 神輿内の銅製幣帛の面には、中山神諏訪大明神と二行に彫鎸(ちょうせん)し。他の木札の面には、從三位中山天神と記し、額面には中山神社と肩書して、中央に諏訪宮とあり、また吉田家 玉田主計の著はせる舊名古屋社寺帳に、「加茂郡下飯田村字 中山諏訪大明神一社、同村社人山田信濃扣 境内山林之内(東西八十間 南北六十間)祭禮場(長八十間 巾十二間)袖島村、上飯田村、下飯田村、信友村、朽井村、西脇村、今村、山本村、為岡村、則光村、右十ケ村と」あるが故に、之を式内 中山社に引付けんとするが如くなれども、右に擧げたるのみにては、未だ確證とするに足らざるが如し、尚考ふべし、古来 本社の祭禮には氏子等車楽を出し、観者また遠近より堵の如く群集し、其殷賑なること近村稀に見る所にして、里俗これを米田祭と云ふ由、今尚行はるるや否や、明治六年二月郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿の二宇を備へ、外に社務所あり、境内坪数四千三百坪(官有地第一種)あり、寶物は神剱二口(一は長三尺六寸七分、一は長三尺三寸、何れも無銘にして永禄年間火災に罹りしを以て焼身となる)其他数種あり。
境内神社 下諏訪(シモスハノ)神社
例祭日 八月二十七日
【原文参照】
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278
【現代語訳(要旨)】
岐阜県美濃国加茂郡下米田村大字山本、
郷社・諏訪神社。
祭神は建御名方命。
創建年代は詳らかでない。社伝によれば、旧名古屋藩の式社取調書に次のようにある。「中山神社は、加茂郡米田郷十か村の入会地、字中山という所に、諏訪大明神と称する社がある。これがそれ(式内中山神社)ではないだろうか。考えるに、諏訪神社は米田十か村の産土神であり、昔から土地の人々は中山神社と言い伝えてきた。古くは今の地より丑寅(北東)の方角にある、水上と呼ばれる土地にあったが、焼失して永禄年間に今の地へ遷座し、信州の諏訪神社を配し祀った。それより村民は諏訪社と称し申し上げるようになったという。これによって考えれば、この社が中山社かとも思われるが、信友村の支村・中山という土地に天神社があり、これがそれではないかという説もあるので、今すぐには定めがたい」とあるという。また、神輿の中に納められた銅製の幣帛には「中山神」「諏訪大明神」と二行に彫られており、別の木札には「従三位中山天神」と記され、額には「中山神社」を肩書きとして、中央に「諏訪宮」とある。
また、吉田家の玉田主計が著した旧名古屋社寺帳には、「加茂郡下飯田村字中山、諏訪大明神一社。同村の社人は山田信濃が務める。境内山林の中(東西八十間・南北六十間)、祭礼場(長さ八十間・幅十二間)。袖島村・上飯田村・下飯田村・信友村・朽井村・西脇村・今村・山本村・為岡村・則光村の右十か村」とある。このため、これを式内・中山社に結びつけようとする向きもあるが、右に挙げた内容だけでは、いまだ確証とするには足りないようである。なお検討を要する。
古来、当社の祭礼には氏子らが車楽(山車)を出し、見物人も遠近から垣根のように群集し、その賑わいは近隣の村では珍しいほどで、里の人々はこれを「米田祭」と呼んだという。今なお行われているかどうかは分からない。明治6年(1873年)2月、郷社に列せられた。
社殿は本殿・拝殿の二棟を備え、他に社務所がある。境内は4,300坪(官有地第一種)。宝物として神剣二口(一つは長さ3尺6寸7分、もう一つは3尺3寸、いずれも銘はなく、永禄年間の火災で焼け身となっている)その他数種がある。
境内神社は下諏訪神社。
例祭日は8月27日。
※この記述と、境内由緒碑(信友側)・特選神名牒との違いを、論点ごとに整理します。
・地名の表記について 「水上」と「字中山」は、同じ場所の異表記ではなく、遷座の前後で異なる場所を指していると考えられます。
明治神社誌料の社伝部分(『旧名古屋藩式社取調書』の引用)は、「水上」を「今の地(遷座後の現在地)より丑寅(北東)」の方角にあった、遷座前の鎮座地としています。境内由緒碑(信友側)の「下飯田村水上」も、これと同じ地名を指すと考えられます。
一方、「下飯田村字中山」は、玉田主計著『旧名古屋社寺帳』(明治神社誌料が引く別の史料)に見える地名です。この史料自体は、それがいつの時点の所在地であるかを明示していませんが、同じ明治神社誌料が引く社伝(旧名古屋藩式社取調書)が「水上に鎮座していたが、永禄年間に今の地へ遷座し、信州の諏訪明神を配し祀った」という遷座の経緯を伝えていることと考え合わせると、すでに「諏訪大明神」の名で記されている「字中山」は、遷座後の所在地を指すと考えるのが妥当です。
したがって、「字中山」は遷座後の「今の地」=現在の諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)の所在地一帯にあたり、「水上」はそこから北東にあった遷座前の鎮座地(現在の詳細な所在地は不明)と考えるのが筋が通ります。ただし、これは二つの異なる史料(旧名古屋藩式社取調書と旧名古屋社寺帳)の記述を組み合わせて導いた読み方であり、いずれかの史料が直接「字中山=遷座後」と明記しているわけではない点にご留意ください。
・編者の留保姿勢 明治神社誌料の編者は、
①社伝(旧名古屋藩式社取調書)が伝える「加茂郡米田郷十ケ村入會の地、字中山」という鎮座地の記述、
②神輿内の銅製幣帛・木札・額に「中山神」「中山天神」「中山神社」など「中山」を含む名が見えるという物証、
③玉田主計著『旧名古屋社寺帳』が伝える、信友村を含む十か村(袖島村・上飯田村・下飯田村・信友村・朽井村・西脇村・今村・山本村・為岡村・則光村)の入会地「字中山」に諏訪大明神一社が鎮座するという記述、という三つの材料を挙げたうえで、諏訪神社を式内「中山社」に結びつけようとする見方があることを紹介しています。
しかし編者自身は、原文で「右に擧げたるのみにては、未だ確證とするに足らざるが如し、尚考ふべし」(=ここまでに挙げた事柄だけでは、いまだ確かな証拠とするには足りないようである、なお検討を要する)と述べており、これは地名の一致だけでなく、①〜③の材料全体をもってしても式内比定を確定するには至らない、という留保の姿勢を、編者自身の言葉として明記したものです。
『式内社調査報告 第十三巻』〈昭和59年(1984年)刊〉に記される、諏訪神社(美濃加茂市下米田町山本入会地)側の由緒
式内社研究会による本格的な学術調査の報告書で、諏訪神社の神主・山田家に伝わる棟札や、明治39年(1906年)に氏子総代・社司が連署して村長に提出した『郷社延喜式内の有無、創立年代由緒ノ取調書』という一次資料に基づいて記されています。ここに云う「諏訪神社」も、中山神社(美濃加茂市下米田町信友)とは別の神社です。
【抜粋(原文のまま)】
【由緒】
美濃國神名帳には従三位中山大神とすることを前述の通りで、『美濃國加茂郡誌』には明治六年二月米田郷十三ヶ村の郷社に定められ、同十二月兼ねて第十大區五小區の郷社となつたが、翌年十二月廢せられたと記してゐる。又、明治四十年三月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定された。
創祀年代は不詳であるが、神職山田家には明治三十九年八月六日附の氏子總代及び社司連署の『郷社延喜式內の有無、創立年代由緒ノ取調書』が保存されてゐる。これは同年七月二十三日附甲第一、〇七七號によつて照會されたものに對する回答で、當時の下米田村村長馬場兼太郎宛であるが、かなり詳しく由緒が記されてゐる。明細帳に記されてゐない内容が多いので、以下その概略を記さう。
諏訪明神は往古、下飯田村内水上といふところに僅かな祠としてあつたが、丁度その頃、西脇村に郷士毛利勘右衛門といふ大惡の地頭がゐて、諸事恣に取扱ひ、我が意に叶はざる庄屋百姓等は、頭に油をかけ松明で焼く等の残酷無道の責をもつて死に至らせ、庶民の難澁は言語に絕するものがあつた。そこで下飯田・上飯田・福島・山本・信友・今・西脇・則光・爲岡・東栃井等 十ヶ村の住民が擧つて諏訪神社へ、毛利勘右衛門を亡ぼし給はば 右十ヶ村の惣氏神として奉齋する旨 專心祈願をしたところ、その御神力にて勘右衛門は忽ち公儀の刑罰を受け、同人が使用してゐた劍は神社に奉納されることになつた。米田庄 十ヶ村の惣氏神とされた所以は ここにあつて、神社も水上より十ヶ村の惣入會野に遷され、下飯田村の山田右近右衛門家が神主として奉齋することになつた。
然し、永祿年間火災によつて舊記 寶物類すべて燒失し、その頃までの年暦も不明となつてしまつたが、僅かに勘右衛門誅伐の折奉納した劍のみ燒身として殘つた。その後 隣村 福島村 加茂山城主 肥田玄蕃の弟で今村に住む肥田長壽丸が、永祿十二年己巳(一五六九)九月二十四日に再建したとの棟札が神主山田家に殘つてゐる。肥田玄蕃は可兒郡兼山村中井戸之庄鳥加城城主 森武藏守長一に攻められて、天正十年(一五八二)秋に落城した。
以上が」概略で、その也祭禮のことについても記してゐるが、その點は後の祭祀の項に譲ることにしよう。さて、この由緒によれば十ヶ村の總氏神となる前の中山神社は「水上ミと云所ニわすかのほこら壹社」と記されてゐて、美濃國神名帳に從三位中山大神とあるのと餘りにも似つかはしくない感じがする。事實とすれば或は式內撰定以後の一時的衰微を示すものであらうか。肥田長壽丸再建の棟札は現存してゐて、而も既に「諏訪大明神」と記されてゐるので、もうこの頃には信州の諏訪明神を合祀してゐて、再び武將や庶民の崇敬を集めたのであらう。又、神佛習合の事實は棟札にも窺ひ知ることはできるが、神主山田家の系圖には「靈璽」と共に「居士」の稱號が同一人物に記されてゐて一層明瞭である。然し その實態は明らかではない。
尚、前掲『取調書』には基本財産として、境內の山林以外に「加茂郡下米田村大字山本地內字コタ山四百番 一、山林貳段參畝貳拾貳歩、地価壹圓六拾壹錢」「加茂郡上米田村大字下飯田地內字諏訪坂 一、田壹畝貳拾六歩 地価参圓参拾六錢」と記されてゐる。寄進者については明らかでないが、山林は現存してゐる。
【現代語訳(要旨)
美濃国神名帳には「従三位中山大神」とあることは前述のとおりで、『美濃国加茂郡誌』には、明治6年2月に米田郷十三か村の郷社に定められ、同年12月には第十大区五小区の郷社を兼ねたが、翌年12月に廃止された、と記されている。また明治40年3月27日、神饌幣帛料供進神社に指定された。
創祀年代は不詳であるが、神職・山田家には、明治39年(1906年)8月6日付の氏子総代および社司連署による『郷社延喜式内の有無、創立年代由緒ノ取調書』が保存されている。これは同年7月23日付甲第1,077号による照会への回答で、当時の下米田村村長・馬場兼太郎宛のものだが、かなり詳しく由緒が記されている。明細帳に記されていない内容が多いので、以下その概略を記す。
諏訪明神は、昔、下飯田村内「水上」というところに、わずかな祠として祀られていたが、ちょうどその頃、西脇村に郷士・毛利勘右衛門という大悪の地頭がいて、万事を勝手気ままに取り扱い、自分の意に沿わない庄屋・百姓らを、頭に油をかけて松明で焼くなどの残酷非道な責め苦で死に至らせ、庶民の苦しみは言葉に尽くせないほどであった。そこで下飯田・上飯田・福島・山本・信友・今・西脇・則光・為岡・東栃井の十か村の住民がこぞって諏訪神社に参り、毛利勘右衛門を滅ぼしていただけたら、右の十か村の惣氏神として祀り申し上げる、と一心に祈願したところ、その神力によって勘右衛門はたちまち公儀の刑罰を受け、彼が使っていた剣は神社に奉納されることになった。米田庄十か村の惣氏神とされたのはこれが理由で、神社も「水上」から十か村の惣入会地に遷され、下飯田村の山田右近右衛門家が神主として奉斎することになった。
しかし永禄年間の火災によって旧記・宝物類がすべて焼失し、それまでの年暦も不明となってしまったが、わずかに勘右衛門誅伐の折に奉納された剣だけが、焼け身として残った。その後、隣村・福島村の加茂山城主・肥田玄蕃の弟で今村に住む肥田長寿丸が、永禄十二年己巳(1569年)9月24日に再建したとの棟札が、神主・山田家に残っている。肥田玄蕃は、可児郡兼山村中井戸之庄鳥加城の城主・森武蔵守長一に攻められ、天正10年(1582年)秋に落城した。
以上が概略で、祭礼についても記されているが、それは後の祭祀の項に譲る。さて、この由緒によれば、十か村の惣氏神となる前の中山神社は「水上ミと云所ニわすかのほこら壹社」と記されており、美濃国神名帳に「従三位中山大神」とあるのとは、あまりにも不釣り合いな感じがする。事実だとすれば、式内選定以後の一時的な衰微を示すものだろうか。肥田長寿丸再建の棟札は現存しており、しかもすでに「諏訪大明神」と記されているので、この頃にはもう信州の諏訪明神を合祀しており、再び武将や庶民の崇敬を集めたのだろう。また神仏習合の事実は棟札からもうかがえるが、神主・山田家の系図には、同一人物に「霊璽」と共に「居士」という称号が記されていて、いっそう明らかである。しかし、その実態は明らかではない。
なお、前掲の『取調書』には、基本財産として、境内の山林のほかに「加茂郡下米田村大字山本地内字コタ山400番 山林2反3畝22歩、地価1円61銭」「加茂郡上米田村大字下飯田地内字諏訪坂 田1畝26歩、地価3円36銭」と記されている。寄進者については明らかでないが、山林は現存している。
【原文】『式内社調査報告第13巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より
※この史料は、諏訪神社(山本入会地)の神主・山田家に伝わる棟札や、明治39年(1906年)の氏子総代・社司連署による取調書という、現存する実物の一次資料に基づいている点で、他のどの史料よりも具体性の高い記述を伝えています。たとえば、再建の年月日を「永禄十二年己巳(1569年)9月24日」と、棟札に基づいて特定しています。
しかし、その具体的な記述を他の史料と突き合わせると、細部には食い違いも見られます。たとえば十か村の顔ぶれは、明治神社誌料が引く旧名古屋社寺帳(袖島・上飯田・下飯田・信友・朽井・西脇・今・山本・為岡・則光)と、この史料(下飯田・上飯田・福島・山本・信友・今・西脇・則光・為岡・東栃井)とで、袖島・朽井と福島・東栃井が入れ替わっており、村の顔ぶれ自体が史料によって同一ではありません(『美濃國加茂郡誌』はさらに「米田郷十三ヶ村」とも記しています)。
このように、この史料をもってしても、論社問題を最終的に確定させるものではない、と理解しておくのが適切です。
中山神社(美濃加茂市下米田町信友)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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美濃国(みののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 美濃国には 39座(大1座・小38座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
美濃國(みののくに)の 式内社 39座(大1座・小38座)について