実践和學 Cultural Japan heritage

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八幡神社(大仙市神宮寺)〈『延喜式』副川神社〉

八幡神社(はちまんじんじゃ)は 坂上田村麻呂が建立したと伝わる大仙市神宮寺の旧県社です 延喜式内社 出羽國山本郡 副川神社(そひかはの かみのやしろ)の論社の一つであり 源頼朝や佐竹氏ら歴代武将からも崇敬されていました 伝統的な奇祭「旗背負い」が伝わっています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

八幡神社(Hachiman shrine)

【通称名(Common name)】

八幡宮(はちまんぐう)

【鎮座地 (Location) 】

秋田県大仙市神宮寺字神宮寺33

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》保牟田和気命(ほむたわけのみこと)
   加句槌命(かぐつちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の論社

【創 建 (Beginning of history)】

八幡神社

 八幡神社は大同二年(八〇六)坂上田村麻呂が建立したといわれている。
現在の社殿は寛永三年(一七〇六)に建てられたが、拝殿は明治十二年に改築されたものである。

応神天皇と火具土神(かぐつちのかみ)を祀り、棟札をはじめ数点の宝物が町の文化財に指定されている。平成元年に社殿改修奉賛会が設立され神社の改修工事が施工された。

現地標柱の案内文より

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由緒

或る説に大宝元年創建という。

 大同2年田村麻呂将軍が秋田男鹿寒風山に住む大猛丸退治に下向の折、神宮寺にて兵を募り、首尾退治の時は社殿新築する旨祈請し、帰陣の際当村へ家徒の中普請係を残し、字隠里という所に神社建立して、永久社守として6人を付置き、現在も続いている。

 寛治3年八幡太郎義家公奥羽征伐の折、当社信奉し軍功あり、帰陣の際多数奉納するも現存は、「八幡大菩薩(一流)」「七僧一二天の仏画(唐の顔躯筆)のみである。

 後 社伝によればに、源頼朝再件、戸沢上総之助再建とある。

 佐竹公水戸より遷封されてより累代の崇敬社となり、社領30石賜わり江戸往復時に必ず参拝する。

 現在の本殿は宝永3年義格公再建であり、安永年間の大洪水にて川欠多くの家流失し、危険となり現在地に遷座する。

 幣殿拝殿は明治12年建立す。

 明治4年郷社に列し、同14年10月県社に列する。

 同39年神饌幣帛料供進神社に指定される。
 大正3年愛宕神社合祀する。

 平成元年3月に、社殿改修奉賛会設立され、神社大改修工事施行し、11月完成を見る。

秋田県神社庁HPより
https://akita-jinjacho.sakura.ne.jp/tatsujin_etc/kennsaku/daisen_senbokunisi/66_hatiman_jinguuji.html

【由 緒 (History)】

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

現在の「八幡神社」について、『延喜式』神名帳の「山本郡 副川神社」に比定する説を明確に掲げています

【抜粋原文】

〇秋田縣 羽後國 仙北郡神宮寺村大字神宮寺

縣社 八幡神社

祭神 譽田別(ホムタワケノ)命

創建は社傳に據れば、平城天皇大同二年、坂上田村麿將軍、當時 秋田郡男鹿寒風山に住する大猛丸退治の爲めに秋田に下向す、此 神宮寺に於て兵を募り、天神地祇を祭る、歸陣の際、其報賽として一社を造營せんために家臣の普請係を當村へ殘し、字隠里と云ふ處に八幡社を建立し、且つ永久神守とて六人を附し置かれたり、今猶 其家連綿として本社に奉仕す、

延喜式「山本郡小一座、副川神」と載せられたるは蓋し當社なるべく、

地理志料に、
神名式
、山本郡 副川神社、副川須介、卽助川也、出羽國土記曰、今在ニ 神宮寺村、曰八幡宮、玉川 舊 副川至 此會雄物川、神祇志爲ニ、秋田郡浦大町山本宮、恐非云々」とあればなり、
東遊雜記、奥劦筋巡見自分日記 亦然り、堀川天皇 寛治元年 源義家、出羽豪族 清原武衡家衡等を征伐の時、深く崇敬し、自ら綾に八幡大菩薩と記したる旗一旒、菅公富谷弘法等の直筆何れも紺地へ金泥にて書したる經一部宛、亦 唐の顔輝の筆にて七僧十二天の佛畫、其外數多奉納せられしと云ふ、

後鳥羽天皇 建久三壬子年に於て右大將 原頼朝再建したる棟札あり、其後二百六十年の星霜を經て、崇光天皇 觀應二年 戸澤上總之助再建の棟札有り、元來本社に棟札三枚あり、其の一枚は至って古けれど文字見え、二枚は文字見えず、やうやう大の字と覺しき字あり、一枚は頼朝公再建の棟札にて文字も少し見ゆる所あり云々と東遊雜記に見ゆ、而して、東山天皇 元祿四年に社殿類燒の節、寶物類悉皆燒失したり、されど當時の別當に十九軸の佛畫を預け置きしにより、僅に火災を免かれ、今猶旗と共に佛畫は傳来せり、

随鑾紀程に、
「神宮寺驛、貢川落々、隔水孤峯、祀六所明神、稱神嶽、北岸一帯、人烟聚蔟、有八幡神社、殿宇古朴、神庫藏種々寶器、并不足信、祠典毎歳上元祭神、爲逐禽曳、綱戲云々」
とあり、此の文中に殿宇古朴、神庫藏種々寶器并不足信とあるは、是れ元祿四年の炎上の後、殿宇粗造にして、且つ寶物も燒失殘餘のものゝみにて僅少なればかくの如く記載せられしなるべし、

而して東遊雜記には、
「寶物に白旗一旒正眞物と見えて古し、又長さ六寸餘の中に穴のあるめのふ石あり、何れも此處寶物なり、別當を松香山神宮寺と號し、社領僅かに五石なる故に社は小なり云々」
とあり、

其後 佐竹義宣 當秋田へ國替 以來 累代崇敬の社となり、悉く同家にて營繕せられ、社領もありしを維新の際 全く返上す、後桃園天皇 安永年中 現社地に遷宮す、以來 巡檢使等下向之砌は本社に参詣して實物類を引合せたりと云ふ、明治元年に澤三位卿 此邑に滯陣して、當時の神主 齋藤左一之助へ賊軍降伏の祈禱を仰付られし事あり、同四年七月中 郷社に列し、同十四年十月縣社に昇格す。

社域は御物川の北岸に緣り、玉川は町の東方を溶々として横流したり、社地は町の東方に在りて、境内四千百五十五坪(官有地第一種)の入口に鳥居立つ、其の左右に石燈籠有り、土地清淨にして神域として崇むべし、建物は本殿のみなり。

境内神社
 神明社、諏訪社、天神社、稲荷神社

例祭日 陰暦八月十五日

會計法適用 明治四十一年十一月二十七日
指定年月日 訓令甲第六十五號

【現代語訳】

秋田県 羽後国 仙北郡神宮寺村大字神宮寺

県社 八幡神社

祭神 誉田別命(ほむたわけのみこと)

創建について社伝によれば、平城天皇の大同2年(806)、坂上田村麻呂将軍が、当時秋田郡の男鹿・寒風山に住んでいたという大猛丸を討伐するため秋田へ下向しました。

坂上田村麻呂は、この神宮寺の地で兵を募り、天神地祇を祀りました。そして戦いを終えて帰還する際、その報賽、すなわち神恩に報いるため一社を造営しようと、家臣のうち普請を担当する者をこの村に残しました。そして「隠里」という場所に八幡社を建立し、さらに「永久神守」として六人を置いたと伝えられています。その家々はその後も代々続き、今(明治時代)に至るまで当社に奉仕しているといいます。

『延喜式』に**「山本郡小一座 副川神」**と記される式内社は、おそらく当社にあたるとされています。

『地理志料』には、おおよそ次のように記されています。
「『延喜式』神名帳にみえる山本郡の副川神社について、『副川』は『須介』、すなわち助川のことである。『出羽国土記』には『現在、神宮寺村にあり、八幡宮という。玉川は、かつて副川といい、ここで雄物川と合流する』とある。一方、『神祇志』では秋田郡浦大町の山本宮としているが、おそらくこれは正しくない」

このような記述があることから、神宮寺村の八幡神社を式内社・副川神社にあてる説が示されています。また、『東遊雑記』や『奥劦筋巡見自分日記』にも同様の記述があります。

堀川天皇の寛治元年(1087)、源義家が出羽の豪族である清原武衡・家衡らを討伐した際、当社を深く崇敬したと伝えられています。そのとき源義家が自ら綾の布に「八幡大菩薩」と記した旗一旒のほか、菅公・富谷・弘法などの直筆とされる、紺地に金泥で書かれた経典各一部、さらに唐の顔輝の筆とされる七僧・十二天の仏画など、多数の品が奉納されたといいます。

後鳥羽天皇の建久3年(1192)には、右大将源頼朝が再建したことを示す棟札があったとされています。

それから約260年を経た崇光天皇の**観応2年(1351)**には、戸沢上総之助が再建したことを示す棟札がありました。

もともと当社には棟札が三枚ありました。そのうち一枚は非常に古く、文字が見えるもの、別の二枚は文字がほとんど判読できず、ようやく「大」の字らしい文字が確認できる程度のものだったといいます。また一枚は源頼朝による再建の棟札で、一部に文字が確認できたと『東遊雑記』に記されています。

その後、東山天皇の元禄4年(1691)に社殿が焼失した際、宝物もことごとく失われました。しかし、当時の別当寺に十九軸の仏画を預けていたため、それらだけは辛うじて火災を免れました。そのため、当時に至るまで、旗とともに仏画が伝えられていたといいます。

『随鑾紀程』には、神宮寺について、

「神宮寺駅では川がゆったりと流れ、水を隔てて孤立した峰がある。そこには六所明神が祀られ、神嶽と称する。北岸一帯には人家が集まり、八幡神社がある。社殿は古風で素朴であり、神庫には種々の宝物が収められているが、それらについては必ずしも信用できない。毎年、上元には神を祭り……」
 という趣旨の記述があります。

この中で、社殿が「古朴」であり、神庫にある種々の宝物も「并不足信」と記されているのは、元禄4年の火災後、社殿が簡素に再建され、宝物も焼失を免れたわずかなものしか残っていなかったため、このように記されたのであろうと本文は説明しています。

また、『東遊雑記』には、
「宝物として白旗一旒があり、本物と思われるほど古い。また、長さ六寸余りで中央に穴の開いた瑪瑙の石があり、いずれもこの神社の宝物である。別当寺は松香山神宮寺といい、社領はわずか五石であるため、神社は小さい」
という趣旨の記述があります。

その後、佐竹義宣が秋田へ国替えとなって以来、佐竹家が代々崇敬する神社となりました。社殿などの造営・修繕はすべて佐竹家によって行われ、社領も与えられていましたが、明治維新の際にすべて返上しました。

後桃園天皇の**安永年間(1772~1781)**に現在の社地へ遷宮しました。それ以後、巡検使などが当地へ下向した際には当社へ参詣し、伝来する実物の品々と記録を照合したといいます。

明治元年(1868)には、澤三位卿がこの村に滞陣し、当時の神主であった斎藤左一之助に、賊軍降伏の祈祷を命じたことがありました。

その後、明治4年(1871)7月に郷社に列せられ、明治14年(1881)10月に県社へ昇格しました。

社地は雄物川の北岸に沿っており、玉川は町の東側をゆったりと流れています。神社は町の東側にあり、境内は**4,155坪(官有地第一種)**です。

境内入口には鳥居が立ち、その左右には石灯籠があります。境内は清浄で、神域として崇敬するにふさわしい場所であると記されています。建物は本殿のみです。

境内神社 神明社、諏訪社、天神社、稲荷神社があります。

例祭日 旧暦8月15日です。

会計法適用・指定
明治41年(1908)11月27日、訓令甲第65号によって指定されています。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

※『明治神社誌料』の記述と現存する棟札について

『明治神社誌料』には、建久3年(1192)に源頼朝が再建したことを示す棟札があったと記されています。また、観応2年(1351)には戸沢上総之助が再建したことを示す棟札があったとされ、さらに『東遊雑記』を引いて、当社にはかつて三枚の棟札があったことを伝えています。

一方、現在、大仙市指定文化財として現地で案内されている八幡神社の棟札三枚は、正応3年(1290)、元応元年(1319)、長享3年(1489)のものとされています。

このため、『明治神社誌料』などに記された棟札と、現在文化財として伝わる三枚の棟札とでは年代が一致していません。両者がどのような関係にあるのか、また『明治神社誌料』に記された棟札がその後どのように伝来したのかについては、本記事で確認した資料からは明らかにできませんでした。

したがって、源頼朝や戸沢上総之助による再建については、現存する棟札の年代から直接確認できるものとしてではなく、『明治神社誌料』などに記された伝承・記録として捉える必要があります。

【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・八幡神社 社殿〔本殿・幣殿・拝殿〕

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・八幡神社 拝殿

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・参道の向かって左の建物は参集殿?

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・鳥居

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・狛犬

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・社頭

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・〈境内社〉

※写真はありません

神明社《主》天照皇大神,三吉霊神,積羽八重言代主命,建御名方命,菅原大神
天神社
稲荷社《主》稲倉魂命
市杵島神社《主》市杵島姫命

【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・嶽六所神社(大仙市神宮寺落貝)〈八幡神社(大仙市神宮寺)の本宮〉

本宮と里宮の関係については下記の記事を参照

【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)出羽國 9座(大2座・小7座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山本郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 副川神社
[ふ り が な ](そひかはの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sohikaha no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『式内社調査報告第14巻』昭和59年に記される内容

式内社 副川神社の論社の所在地として 4つの説を紹介しています
①〈現 副川神社(南秋田郡八郎潟町浦大町小坂)〉とする説
②〈現 添川神明社(秋田市添川古城廻)〉とする説
③〈現 八幡神社(大仙市神宮寺)〉とする説
④〈現 嶽六所神社(大仙市神宮寺落貝)〉とする説

【抜粋原文】

出羽國山本郡 副川神社

【所在】

  秋田縣南秋田郡八郎潟町浦大町字小坂四五。所蔵されてゐる江戸時代の社殿造営棟札などは、みな「出羽國山本郡高岳山副川神社」と記してゐるが、それは、この山頂が秋田・山本両郡境に當たる事實と、本神社が本來古代山本郡に鎭座してゐたことの縁によるものであらう。

『神名帳考證』には「三鞍鼻、高岳山ニ在」とあるが、三鞍鼻は現在名三倉鼻で八郎潟に突出してゐた小さな岬で、潟に八郎太郎を祀る洞窟祠がある。

なお、志賀剛氏に「式内副川神社新考」(『秋大史學』九號)あり、秋田市添川(舊秋田郡旭川村添川)の「神明神社」が副川神社であると論ずる。しかしこの説は、志賀氏孤獨の見解であるにすぎず、添川神明神社を、式内副川神社の論社と位置づけることはできない。添川の地は、古代秋田郡添川郷に屬して居り、神名式の言ふ副川神社所在の「山本郡」域には當たらない。

また古代副川神社の地は、神宮寺の八幡神社が秋田縣仙北郡神岡町神宮寺字神宮寺三三三であり、嶽六所神社が同郡神岡町神宮寺字落貝七である。

 

【現代語訳】

【所在地】

〈現 副川神社(南秋田郡八郎潟町浦大町小坂)〉とする説
秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町字小坂45に鎮座しています。

当社に所蔵されている江戸時代の社殿造営に関する棟札などには、いずれも**「出羽国山本郡高岳山副川神社」**と記されています。これは、高岳山の山頂が秋田郡と山本郡の境にあたること、また、この神社がもともと古代の山本郡に鎮座していたことに由来するものと考えられます。

『神名帳考證』には、「三鞍鼻、高岳山に在り」とあります。「三鞍鼻」は現在の三倉鼻にあたり、八郎潟へ突き出していた小さな岬です。そこには、八郎太郎を祀る洞窟の祠があります。

〈現 添川神明社(秋田市添川古城廻)〉とする説
なお、志賀剛氏は「式内副川神社新考」(『秋大史學』第9号)において、秋田市添川(旧秋田郡旭川村添川)の神明神社を『延喜式』神名帳に記載された副川神社であると論じています。

しかし本文の著者は、この説について、志賀氏独自の見解にすぎず、添川神明神社を式内社・副川神社の論社として位置づけることはできないとしています。その理由として、添川の地は古代には秋田郡添川郷に属しており、『延喜式』神名帳が副川神社の所在地として記す**「山本郡」には含まれない**ことを挙げています。

〈現 八幡神社(大仙市神宮寺)〉とする説
また、古代の副川神社の鎮座地との関係で挙げられる神社として、神宮寺の八幡神社は秋田県仙北郡神岡町神宮寺字神宮寺333に、

〈現 嶽六所神社(大仙市神宮寺落貝)〉とする説
嶽六所神社は同郡神岡町神宮寺字落貝7に所在すると記されています。

【原文】『式内社調査報告第14巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

『式内社調査報告』にみる副川神社の鎮座地をめぐる諸説

『式内社調査報告』では、式内社・副川神社の鎮座地をめぐって、現在の副川神社(南秋田郡八郎潟町浦大町)、添川神明社(秋田市添川)、八幡神社(大仙市神宮寺)、嶽六所神社(大仙市神宮寺)に関係する説や記録について検討しています。

ただし、これら四社を同じ位置づけの「論社」として扱っているわけではありません。

とくに添川神明社については、志賀剛氏が「式内副川神社新考」において副川神社に比定する説を示したことを紹介したうえで、添川の地が古代の秋田郡添川郷に属し、『延喜式神名帳』が副川神社の所在地として記す山本郡には当たらないことから、『式内社調査報告』では「式内副川神社の論社と位置づけることはできない」としています。

そのため、本記事では「副川神社には四つの論社がある」と単純に整理せず、副川神社の鎮座地をめぐって挙げられてきた諸説・関係社として、それぞれの説と史料上の位置づけを紹介します。

文献名 支持する所在地(説) 根拠・内容
『明治神社誌料』 ③ 八幡神社(大仙市神宮寺) 『出羽国土記』などの記述を引き、玉川がかつて「副川」と呼ばれ雄物川に合流する地(神宮寺)にあるため、ここが式内社であると主張。源義家や源頼朝、戸沢氏、佐竹氏など歴代の武将から崇敬された歴史を持つ。
『式内社調査報告』 4つの説を併記 ①現・副川神社、②添川神明社、③八幡神社、④嶽六所神社の4説を紹介。ただし②の秋田市説は郡が違うため否定。神宮寺の八幡神社(③)と嶽六所神社(④)は本宮・里宮の関係にあると言及。
『神社覈録』
『神祇志料』
『特選神名牒』 ① 副川神社(八郎潟町) いずれも現在の南秋田郡八郎潟町浦大町にある「高岳山(三倉鼻)」の副川神社を式内社とみなしている。かつて土地の人々は「牛頭天王」と呼んでいたとも記載。

延喜式内社 出羽國山本郡 副川神社(そひかはの かみのやしろ)の論社

①・副川神社(南秋田郡八郎潟町浦大町小坂)

一緒に読む
副川神社(八郎潟町浦大町字小坂)〈最北の延喜式内社〉

副川神社(そえがわじんじゃ)は 秋田の八郎潟に鎮座します 大和朝廷の延喜の制では官社とされる 「延喜式神名帳engishiki jimmeicho」(927年12月完成)所載の神社で 最北端の式内社とされています つまり当時の大和朝廷勢力の北限にあたります

続きを見る

②・添川神明社(秋田市添川古城廻)

③・八幡神社(大仙市神宮寺)〈嶽六所神社(大仙市神宮寺落貝)の里宮〉

一緒に読む
八幡神社(大仙市神宮寺)〈『延喜式』副川神社〉

八幡神社(はちまんじんじゃ)は 坂上田村麻呂が建立したと伝わる大仙市神宮寺の旧県社です 延喜式内社 出羽國山本郡 副川神社(そひかはの かみのやしろ)の論社の一つであり 源頼朝や佐竹氏ら歴代武将からも崇敬されていました 伝統的な奇祭「旗背負い」が伝わっています

続きを見る

④・嶽六所神社(大仙市神宮寺落貝)〈八幡神社(大仙市神宮寺)の本宮〉

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR東日本・奥羽本線 神宮寺駅から南東方向へ約750m 徒歩での所要時間10~13分程度

大仙市立神岡小学校の東隣に鎮座しています
社頭は境内の南側にあります

八幡神社(大仙市神宮寺)に参着

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社頭には何本かの標柱が建てられていて それぞれに案内文が記されています

大仙市指定文化財
八幡神社 棟札(はちまんじんじゃ むなふだ)
八幡大菩薩大旗(ちまんだいぼさつ おおはた)

八幡神社棟札(はちまんじんじゃ むなふだ)・・・棟札は、棟上げの際に工事の由緒や建築の年月、施主や工匠名などを記して棟木に打ち付けた木札のことである。八幡神社(神宮寺地区)の三枚の棟札は、それぞれ正応三年(一二九〇)、元応元年(一三一九)。長享三年(一四八九)のものとされ、地域の支配関係や神社の建築の変遷などを探る上で貴重である。

大仙市指定文化財
十二天画像(じゅうにてんがぞう)
七僧画像(しちそうがぞう)

十二天画像 (じゅにてんがぞう )••・十二の護世天 (ごせいてん )といわれ、昔、神宮密寺では正月二十七日から二十八日まで不動護摩修法 (ふどうごましゅうほう )の時に仏殿へかけ、供物や燈明を供えた。制作代等は判然としないが、この八幡神社(神宮寺地区)のものは脇侍がなく主尊のみの立像で、京都の八幡山東寺 (教王護国寺 )の絹本著色十二天像(国宝)の形式と酷似した珍しいものである。

現地標柱の案内文より

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大仙市指定文化財
八幡神社祭典旗背負い(はちまんじんじゃ さいてん はたしょい)

毎年九月十五日の八幡神社祭典で行われている。長さ約九 mの竹竿に「八幡宮」と染め抜かれた旗を取り付け、石を詰めたカマス六袋と ともに体に括 (くく)りつけ、町内を一巡して神社へ向かう。この地域に流行した疫病を祓(はら)うために、村の中の屈強な若者を選んで重いものを背負ってもらい、苦難を背負うということで疫病から逃れるために始まったと伝えられ、県内でも珍しい民族行事である。

現地標柱の案内文より

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社頭の門を抜けて 参道へと進みます

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木製の両部鳥居があり 一礼をしてくぐり抜けて境内へ進みます

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鳥居の扁額には「八幡宮」とあり 「八」の文字は 八幡宮の神使い「鳩」の文字になっています

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正面の
拝殿にすすみます

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参拝の方法が記された案内板が設置されています

二拝(二度頭をさげる)

神社拝詞(じんじゃはいし)

掛けまくも畏き 八幡大神の大前を
(かけまくもかしこき はちまんおおかみのおおまえを)

拝み奉りて 恐み恐みも白さく
(をうがみまつりて かしこみかしこみもまをさく)

大神等の広き厚き御恵を 辱み奉り
(おほかみたちのひろきあつきみめぐみを かたじけなみまつり)

高き尊き神教の随に 天皇を仰ぎ奉り
(たかきとうとき みおしえのままに すめらみことをあおぎまつり)

直き正しき真心もちて(祈願のことば)誠の道に
(なおきただしきまごころもちて (きがんのことば)まことのみちに)

違ふことなく 負ひ持つ業に励ましめ給ひ
(たがうことなく おいもつわざにはげましめたまひ)

家内髙く身健に 世の爲 人の為に
(いえかどたかく みすこやかに よのため ひとのために)

尽さしめ給へと 恐み恐みも白す
(つくさしめたまえと かしこみかしこみもまをす)

  • 二拝二拍手一拝
    (にはい にはくしゅ いっぱい)

拝殿の案内板より

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賽銭をおさめ 案内板の通りに お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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又

神社本庁HPにある「過疎地域等神社活性化への取り組み」にある「八幡神社」の記事について

過疎地域の神社活性化について 記されています

https://www.jinjahoncho.or.jp/sys/11030

【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 副川神社について 所在は「浦大町村三鞍鼻高岳山に在す」〈現 副川神社(南秋田郡八郎潟町浦大町小坂)〉と記しています

【抜粋原文】

副川神社

副川は曾比加波と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕秋田郡添川、

○祭神詳ならず、〔或云、播磨國廣峯神を徙し祭るとて、土俗 牛頭天王と稱す、〕

○浦大町村三鞍鼻高岳山に在す、〔祭考〕例祭 月 日、

【現代語訳】

副川神社

「副川」は「ソヒカハ」と読むべき名称です。『和名類聚抄』の郷名の項には、秋田郡の「添川」が記されています。

祭神については詳しく分かっていません。ある説では、播磨国の広峯神社の神を遷して祀ったといい、土地の人々はこの神を**牛頭天王(ごずてんのう)**と称していました。

神社は、浦大町村の三鞍鼻高岳山に鎮座しています。『祭考』例祭についての記載がありますが、月日は記されていません。

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 副川神社について 所在は「浦大町村高岳山に在り」〈現 副川神社(南秋田郡八郎潟町浦大町小坂)〉と記しています

【抜粋原文】

副川(ソヒカハノ)神社

今 浦大町村高岳山に在り、神名帳考、巡拜舊祠記、

【現代語訳】

副川神社

副川神社は、現在、浦大町村の高岳山に鎮座しています。

このことは、**『神名帳考』および『巡拜舊祠記(巡拝旧祠記)』**に記されています。

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 副川神社について 所在は「浦大町村〔今属 羽後國南秋田郡〕(南秋田郡内川村大字浦夫町)」〈現 副川神社(南秋田郡八郎潟町浦大町小坂)〉と記しています

【抜粋原文】

副川神社

祭神
祭日 六月八月並五日
社格 郷社

所在 浦大町村〔今属 羽後國南秋田郡〕(南秋田郡内川村大字浦夫町)

【現代語訳】

副川神社

祭神

祭神についての記載はありません。

祭日は、6月5日および8月5日です。

社格 郷社です。

所在地

浦大町村に鎮座しています。現在の国郡区分では、羽後国南秋田郡に属します。(南秋田郡内川村大字浦大町)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

八幡神社(大仙市神宮寺)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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出羽國 式内社 9座(大2座・小7座)について

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