彌五郎殿社(やごろうでんしゃ)は 津島神社(津島市神明)の地主の神であり 延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)と云われます 現在は 津島神社の南門をくぐって すぐ左手 拝殿の西側手前にありますが 旧鎮座地は 〈津島神社の境内〉居森社出逢ったと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
彌五郎殿社(Yagoroden sha)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
愛知県津島市神明町1〈津島神社 境内〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)
大穴牟遅命(おほなむちのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・郷土の守護
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『津島町史』に記される内容
【抜粋意訳】
第九編 寺社教會 第一章神社
第九項 攝末社
第一 境內攝社 彌五郞殿社
南門の内本宮の西南にあつて神殿東面す。大己貴命・武内宿禰を祀る。創立年代未詳であるが、南朝の忠臣堀田彌五郎正泰の正平元年七月十三日夢想によつて復興せるもので、願主の名によつて この名を稱ふと傳へる。
津島神社の社地の地主の神であって、津田正生はこの宮を式內國玉神社とし、本國神名帳集説訂考 及 尾張國地名考にこれを論じて居る。社殿には本殿流造、檜材、屋根檜皮葺、縦一間五尺七寸 横六尺六寸、建坪二坪一合四勺五、拜殿大破風造、檜材、屋根銅板葺、縦二間二尺二寸、横四間一尺二寸、建坪九坪八合七勺、渡折造、檜材、屋根銅板葺、建坪三年七勺五。又 拝殿の南北より本殿の周圍にある瑞垣は檜材、屋根銅板葺、延長二十四間三尺、向拝殿の南なる元の御供所は今物置として使用し、平屋造檜材、屋根瓦葺、縦三間五寸、横二間建坪六坪一合六勺六、島居木造檜材、笠木長一丈三尺、柱長九尺。例祭は十月十五日である。
當社はもと神官 堀田右馬太夫の扣で、永享九年十二月五日祭主右馬太夫父子とある棟札をも存して居るが、現存の棟札によれば寛文十三年六月二十六日造營、享保十五年九月二十六日修復、安永四年九月三日造營、文政三年十二月二十一日造營、慶應二年三月吉日修理、慶應四年九月二十八日造營のことが見える。
【原文参照】
愛知県海部郡津島町 編『津島町史』,愛知県海部郡津島町,昭13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1230991
【由 緒 (History)】
彌五郎殿社
御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
武内宿禰公(たけのうちすくねのきみ)御祭神 武内宿禰公の末裔 堀田弥五郎正泰が、正平(西暦一三四六年)造替した縁故を以て、社名としたと伝える。
堀田弥五郎は南朝方の忠臣で正平三年 楠正行公に従がい、四条畷に於いて戦死した勇将である。
正泰公が当社の宝物として寄進した伯耆国の名工 大原真守作の太刀は現在神社に持伝え、重要文化財に指定され、なお社前の石灯篭は津島市文化財に指定されている。現地立札より
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摂社(せっしゃ)弥五郎殿社(やごろうでんしゃ)
(愛知県指定文化財)
御社殿
本殿 木造流造 銅板葺
拝殿 木造切妻造妻入 銅板葺両殿 寛文十三年(一六七三)六月二十六日建造
御祭神
武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)•大穴牟遅命(おおなむちのみこと)御神徳 郷土の守護
由 緒
津島神社社家 紀氏の祖神「武内宿禰命」を祀る。
南北朝時代、南朝の忠臣楠正行と共に四条啜の戦 (正平三年 一三四八)にて戦死した社家 堀田一族の堀田弥五郎正泰が、生前当社を造替し、大原真守作の佩刀(津島神社社宝 国重要文化財)を寄進したことから弥五郎殿社と呼称されている。
現地立札より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
彌五郎殿社(津島市神明)は 津島神社 境内社となっています
・津島神社(津島市神明)〈全国天王総本社〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
居森社は 昔は「国玉神社」と称していたと云う 〈弥五郎殿の旧鎮座地〉津島神社の旧鎮座地とされています
・〈弥五郎殿の旧鎮座地〉居森社(津島市神明〈津島神社の境内〉)
居森社(いもりしゃ)は 津島神社の南門大鳥居をくぐると鎮座します 素戔嗚大神が この地に初めて来臨され 神船を高津の湊の森に寄せて奉られた地とされ 蘇民将来の裔孫と云う老女が 霊鳩の詫によって森の中に居え奉った事により「居森社」と云われます 彌五郎殿社〈式内社 國玉神社〉の舊跡とされています
居森社(津島市神明〈津島神社 境内摂社〉)〈『延喜式』國玉神社の旧跡〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)海部郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 國玉神社
[ふ り が な ](くにたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kunitama no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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゛國魂〈国玉〉神(くにたまのかみ)゛を祀ると想われる゛延喜式内社゛について
・國魂神・国靈神・国玉神とも書く
古代の日本人は 国土には それぞれ神威〈靈威〉が内在していて その神威〈靈威〉の盛衰が国の興亡をも左右する 國を治める神靈゛国魂(くにたま)゛であると考えており 国魂の霊威は 国土そのものの神霊を云う爲 国の支配権にも結び付いた信仰の形態となっていったと云う
延喜式内社 山城國 久世郡 水主神社十座(並 大 月次 新嘗・就中同 水主坐天照御魂神 水主坐山背大国魂命神 二座預相嘗祭)(みぬしの かみのやしろ)
・水主神社(城陽市水主宮馬場)
延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社 三座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(おほやまとにます おほくにたまの かみのやしろ みくら)
・大和神社(天理市新泉町)
大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります
大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉
延喜式内社 和泉國 日根郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)
・國玉神社(泉南郡岬町深日)
國玉神社(くにたまじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 延喜式内社 和泉國 日根郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)とされます 『續日本紀』に第48代 称徳天皇が 紀伊國に行幸された天平神護元年(765年)使を遣はして行宮を 和泉國に設けられた地は 深日(ふけ)であり 國玉神社の辺りと伝えられています
国玉神社(泉南郡岬町深日)〈『延喜式』國玉神社〉
延喜式内社 攝津國 東生郡 難破坐生國咲國魂神社二座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(なにはにいます いくくにさき くにたまの かみのやしろ ふたくら)
・生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)
生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)は 祭神 生島神・足島神は 日本国土の神霊とされ『延喜式』には宮中神として 生嶋巫祭神 2座(並大月次新嘗)として祀られた神です 新天皇の即位儀礼の゛八十島神祭゛の主神とされました かつては現在の大坂城の地に鎮座していましたが 豊臣秀吉公が大坂城の築城の頃 現在地に遷座と伝わります
生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)〈『延喜式』難破坐生國咲國魂神社〉
延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくたまの かみのやしろ)
・河内國魂神社(神戸市灘区国玉通)
河内國魂神社(かわちくにたまじんじゃ)は 延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくにたまの かみのやしろ)の論社です 一説には摂津国造である九河内忌寸の祖 天御影命を祀っていたのであろうと云われますが 詳しくはわかりません 通称 五毛天神と呼ばれています
河内國魂神社〈五毛天神〉(神戸市灘区国玉通)〈『延喜式』河内國魂神社〉
・綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)
綱敷天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)は 菅原家の祖神・天穂日命をお祀りするお社です 又 背後の丘陵地帯を御影山〈凡河内氏(凡河内国造)の祖神 天津彦根命 その御子 天御影命を祀る〉と云い この理由から 延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくにたまの かみのやしろ)の論社とする説があります
綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)〈『延喜式』河内國魂神社(寛大延・鍬靫)〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)
・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
堅田神社(かただじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 垂仁天皇25年(BC5)二見の地に巡幸された倭姫命に 佐見都日女命(さみつひめのみこと〈地主神〉)は 黙して堅塩(かたしお)を奉った これを祝して倭姫命は当地に堅田神社を定めたと創建伝説に云う 二つの式内社〈①大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)②榎村神社(えむらの かみのやしろ)〉の論社となっています
堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
宇治山田神社(うじようだじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社となっています 御同座に 那自賣神社(なじめじんじゃ)〈内宮 末社〉が祀られ 2社ともに 倭姫命が定めた神社であるとされています
宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 那自賣神社〈内宮 末社〉)
延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會國御神社(わたらひの くにみかみの やしろ)
・度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
度会国御神社(わたらい くにみ じんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)宮域内に鎮座する摂社です しかし かつての鎭座地は宮域外とされ『度會元長の内外宮諸社記』に 室町時代の文明(1469~1487)の頃までは 豊受大神宮の神域より堀を隔てた所〈現在の山田工作場の辺り〉と記載があり その後頽廃して社地を失い 正保二年(1645)に禰宜 常晨が その位置に再興したが 古今その旧社地には諸説があり定まっていません
度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會乃大國玉比賣神社(わたらひの をほくにたまひめの かみのやしろ)
・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
度會大國玉比賣神社(わたらいおほくにたまひめじんじゃ)は 神武天皇の御代 伊勢国造の祖・天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢の國覓(くにまぎ)〈平定〉の時 地主神に梓弓を以て橋と為して出迎えられ 歓んで゛刀自に度り會ひぬ゛と云い度會の名を為したという故事を持つ古社で 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わる 豊受大神宮(外宮)摂社です
度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大国玉神社(松阪市六根町)
大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 近世には御薗神社と称し近郷の氏神として人々の崇敬を集めていました 明治以降 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)とする説が有力視され 明治16年(1883)社名を御薗神社より大國玉神社に変更しています
大國玉神社(松阪市六根町)〈『延喜式』大國玉神社〉
延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)
・国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町大字万場字郷中)
國玉神社・八剱社合殿(くにたまじんじゃ はちけんしゃあいどの)は 延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)の論社です 佐屋街道(東海道の脇往還)沿い鎮座し 明治元年(1868)明治天皇が東幸の際 勅使より奉弊を享け 明治五年には郷社に列しています 現在は 國玉神社と八剱社が合殿となっています
国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〈『延喜式』國玉神社〉
・津島神社(津島市神明)〈全国天王総本社〉
・居森社(津島市神明)
〈津島神社の境内 弥五郎殿の旧鎮座地〉
居森社(いもりしゃ)は 津島神社の南門大鳥居をくぐると鎮座します 素戔嗚大神が この地に初めて来臨され 神船を高津の湊の森に寄せて奉られた地とされ 蘇民将来の裔孫と云う老女が 霊鳩の詫によって森の中に居え奉った事により「居森社」と云われます 彌五郎殿社〈式内社 國玉神社〉の舊跡とされています
居森社(津島市神明〈津島神社 境内摂社〉)〈『延喜式』國玉神社の旧跡〉
・彌五郎殿社(津島市神明)
〈津島神社の境内〉
彌五郎社(やごろうでんしゃ)は 津島神社(津島市神明)の地主の神であり 延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)と云われます 現在は 津島神社の南門をくぐって すぐ左手 拝殿の西側手前にありますが 旧鎮座地は 〈津島神社の境内〉居森社出逢ったと伝わります
彌五郎殿社(津島市神明〈津島神社 境内〉)〈『延喜式』國玉神社〉
延喜式内社 尾張國 中嶋郡 尾張大國霊神社(貞)(をはりおほくにたまの かみのやしろ)
・尾張大國霊神社(国府宮)
尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)は 尾張地方の総鎮守神 農商業守護神 厄除神として広く信仰される神社です 奈良時代に国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたので尾張国の総社と定められ 国司 自らが祭祀を執り行っていたので 一般には「国府宮神社」「国府宮」と呼ばれるようになり 通称「国府宮」として広く知られます
尾張大國霊神社(稲沢市国府宮)〈尾張国総社〉
延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海国玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)
・淡海國玉神社(磐田市見付)〈遠江總社〉
淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)は 延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海國玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)とされます 見附は國府であり 遠江国総社でした 一説には『三代實録』貞観七年五月八日の条にある゛淡海石井ノ神゛であると云い 見付の南に今浦と云う湖があった地から遷座したと伝わります
〈遠江国総社〉淡海國玉神社(磐田市見付)〈『延喜式』淡海國玉神社〉
延喜式内社 常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大國玉神社(桜川市大国玉)
大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝によれば養老年間(717~724年)の創立とされます 『続日本後紀』承和4年(837)3月の条に゛霊感甚だ大であるため 官社に預かる・同12年の条に゛従五位下を授く゛と記され 『延喜式』常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と載る由緒ある古社です
大國玉神社(桜川市大国玉)〈『續日本後紀』大國玉ノ神『延喜式』大國玉神社〉
延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくに かみのやしろ)
・大國神社(伊勢崎市境下渕名)
大國神社(おおくにじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御宇 朝廷から派遣された百済車臨が 御手洗池で手を洗う大国主命の化身である白頭翁と出会い大干魃(かんばつ)から救われた伝説により創建された その後 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷合祀して五護宮・五后宮・第五姫大明神とも称した 延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくにかみのやしろ)とされます
大國神社(伊勢崎市境下渕名)
延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたま かみのやしろ)
・大國魂神社(いわき市平菅波宮前)
大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 建許呂命(こたけころおのみこと)〈養老2年(718)石城国造に任命〉 の一族によって奉斎されたと云う 延曆年間(782~806)坂上田村磨の蝦夷征伐で 賊の平定にご神威があり 大社を築造して報賽したと伝わる 延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたまの かみのやしろ)です
大國魂神社(いわき市平菅波宮前)〈『延喜式』大國魂神社〉
延喜式内社 能登國 能登郡 能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこの かみのやしろ)
・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)
能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮
・能登生國玉比古神社(中能登町)
能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神 多気倉長命(タケクラナガノミコト)は 神代の昔 能登国に巡行された・大己貴命・ 少彦名命の2柱の神と協力して 国土を平定されたので「能登の国魂の神」と仰がれています 又 その姫神〈娘〉の伊豆目比売命(イズメヒメノミコト)は 少彦名命の妃(ヒ)となって 金丸村 村主の遠祖である菅根彦命を生み給わった伝えられていて 現在の神主家 梶井氏は その裔(エイ)とされます
能登生國玉比古神社(中能登町金丸)能登の国魂の神「多気倉長命」を祀ります
・能登部神社(中能登町)
能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります
能登部神社(中能登町能登部上)
延喜式内社 出雲國 出雲郡 杵築大社〈名神大〉(きつきの おおやしろ)
・出雲大社〈大国主神を祀る〉
出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています
出雲大社(出雲市)【前編】
延喜式内社 淡路国 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとのおほくにたまの かみのやしろ)
・大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)
大和大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は 文武天皇が慶雲元年(704)諸国印及諸社に下し賜われた゛銅印゛が今も存し『日本文徳天皇實録』仁寿元年(851)に官社に列したとあり 延喜式には淡路國 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとの おほくにたまの かみのやしろ)゛と記される由緒ある古社です
大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)〈淡路國二之宮〉
延喜式内社 阿波國 美馬郡 倭大國玉神 大國敷神社二座(やまとおほくにたまのかみ おほくにしきかみの やしろ ふたくら)
・医家神社(三好市池田町)
医家神社(いけじんじゃ)は 兵火により 社伝・記録等を全て焼失の為 創建等不詳です 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の論社となっています
醫家神社(三好市池田町マチ)〈式内社 倭大國玉神大國敷神社 二座の論社〉
・磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)
〈医家神社 旧鎮座地〉
磐坂神社(いわさかじんじゃ)は 医家神社(三好市池田町)の旧鎮座地であると伝わります 従って『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の旧鎮座地の論社となっています
磐坂神社〈医家神社 旧鎮座地〉(三好市池田町シンヤマ)
・倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)
・倭大國敷神社(美馬市脇町拝原)
延喜式内社 壹岐嶋 石田郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁二年(811)草創と伝わり 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 式内社 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と比定されました それ以前は 田原天神(たいばるてんじん)と称されていました
大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
・兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)
兵主神社(ひょうすじんじゃ)は 元々は日吉山王と称し奉っていましたが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉によって 聖母神社〈現 聖母宮〉を日吉山王権現と査定し 現 兵主神社を聖母神社と査定して 式内社 壱岐郡 兵主神社 名神大と比定されました 其の後この処置が誤りであると藩も認め 聖母宮は元に戻りましたが 兵主神社はそのままと据え置かれています
兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大國魂神社(しまおおくにたまの かみのやしろ)
・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
・島大國魂神社(対馬 豊)
島大國魂神社は かつて 上対馬 豊(豊漁港)の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していました〈旧 鎮座地〉 この白水山に続く海岸沿いは 不通浜(トオラズガハマ)と呼ばれて 神聖ゆえに近づくことすら許されず 禁足地としての掟が厳しく 立ち入ると大風が吹く 腹痛に見舞われる 災害が起きる さらに 白水山には老人が住んでおり そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう という伝承もあります 決して近づいてはならない神域です 下の写真は望遠にて撮影
島大國魂神社(対馬 豊 白水山)〈旧 鎮座地〉
・那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社(三社合祀)
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉は もともとは 豊(トヨ)の村人たちが 豊漁港の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していた「島大国魂(シマオオクニタマ)神社の遥拝所」としていた処であったとされます ここに 旧 藩政時代 国主により「那祖師(ナソシ)神社」が建立されます やがて 島大国魂神社と 北東にあるナンガ浦〈豊と泉の中間辺り〉に鎮座する若宮(ワカミヤ)神社も合わせ 豊(トヨ)に鎮座する3社が合祀されて 現在に至ります
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉
・島大國魂神社(対馬 御岳)
島大國魂神社(しまおおくにたま じんじゃ)は 御岳(ミタケ)の山頂に磐座(イワクラ)があり かつては禁足地でした 山岳信仰〈修験道〉の霊場とされ た対馬北部の上県町「御岳(ミタケ)」は ・雄岳・雌岳・平岳が連なり 御岳と呼ばれます 対馬南部の「白嶽(シラタケ)」と並んで古くから知られた修験道の聖地です
島大國魂神社(対馬 御岳)
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大国魂神御子神社(貞)(しまおほくにたまのかみの みこの かみの やしろ)
・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
・島御子神社(対馬 曽)
島御子神社(しまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳〈927年〉』所載の「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の論社ともなっています 六国史の記録としては『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「嶋御子神(シマミコノカミ)従5位上」と 對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに記されていて 対馬でも有数の由緒を持つ古社です
島御子神社(対馬 曽)
・国本神社(対馬 瀬田)
国本神社(くにもとじんじゃ)は まさしく神社名に相応しい 対馬の国本の神を祀る古社です 六国史『日本三代実録』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条には「国本神(クニモトノカミ)」として記されています 御祭神は『古事記』によれば 日本創成を語る「国生みの段」に 6番目に津島〈対馬〉が生まれていて その別名を「天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)」であると記されています この神が対馬国の大本であるとわかります
國本神社(対馬 瀬田)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
名鉄線 津島駅から西へ約1.5km 車で6分程度 津島神社の境内にあります
彌五郎社(津島市神明)は 津島神社 境内社となっています
・津島神社(津島市神明)〈全国天王総本社〉
津島神社(津島市神明)の津島神社の南門をくぐって すぐ左手 拝殿の西側手前にあります
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鳥居の先にサカキの御神木が祀られていて その先に拝殿があります
彌五郎殿社(津島市神明〈津島神社 境内〉)に参着
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拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 國玉神社について 所在は゛在所詳ならず゛とあり 所在不明と記されています
【抜粋意訳】
國玉神社
國玉は久爾陀麻と訓べし
○祭神 大國玉命、〔考證〕
○在所詳ならず
集説に、與に中島郡 國霊社不同歟、以に伊勢國 度會郡 大國玉社之例謂之、則此社 盖海部直祖神乎、と云るはいかやあらん、
類社
和泉國 日根郡 國玉神社の條見合すべし神位
國内神名帳云、從二位 國玉名神、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 國玉神社について 所在は゛今 海東郡戸田庄万場村 八劔社の相殿に坐り、゛〈現 国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〉と記されています
【抜粋意訳】
尾張國 海部郡
國玉(クニタマノ)神社
〔〇按 尾張國内神名帳、國玉を太國玉に作る、〕
今 海東郡戸田庄万場村 八劔社の相殿に坐り、〔尾張式社確實記、愛知縣神社調、〕
大物主命を祀る、〔社傳説、尾張國内神名帳、〕
凡正月十五日、五月五日 十一月卯日 祭を用ふ、〔愛知縣神社調、〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 國玉神社について 所在は゛戸田庄萬場村 今属 海東郡(海東郡富田村大字萬場)゛〈現 国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〉と記されています
他の説として゛彌五郞殿宮是なりとあり 此宮は津島社内にあり゛〈現 〈津島神社の境内〉彌五郎社(津島市神明)〉を挙げています
【抜粋意訳】
國玉(クニタマノ)神社
祭神 大物主命
祭日 正月十五日 五月五日 十一月初卯日
社格 郷社
所在 戸田庄萬場村 今属 海東郡(海東郡富田村大字萬場)
今按 尾張式内神社錄に 尾張地名考に 國玉の本因は今 彌五郞殿宮是なりとあり 此宮は津島社内にありて元祿文化の呈記に國玉神社と云ことみえず 確に確證なし
但 萬場村 八劔社の相殿にます國玉神社は享祿三年棟札に國玉名神と記し既に明治元年に官帶使もありと云り 今之に因て決め記せり
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
彌五郎殿社(津島市神明〈津島神社 境内〉)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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尾張国(おわりのくに・をはりのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 尾張国には 121座(大8座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について