実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

月山神社(亘理町吉田作田)

月山神社(つきやまじんじゃ)は 以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺〈現 亘理町立吉田小学校の地に祀られていた 文久元年(1861)6月に現社内に移転し 明治2年(1869)月山神社と改称 明治43年2月 作田の民有地祀られていた小祠の鹿島社〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社論社〉と八幡神社を合併奉祀し現在に至ります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

月山神社(Tsukiyama shrine)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

宮城県亘理郡亘理町吉田字作田98

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》月讀命(つきよみのみこと)

《配》鹿島伊都乃比気神社の御祭神
八幡神社の御祭神

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社〈合祀の鹿島社〉

【創  (Beginning of history)】

社伝によれば
勧請の年代は定かではない

明治2年月山神社と改称し
明治43年2月 延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社及び八幡神社を合併奉祀現在に至る

【由  (History)】

由緒

勧請の年代は定かではないが、以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺に祀られていたが、文久元年6月に現社内に移転して、明治2年月山神社と改称した。
明治6年1月村社に列せられ、同43年2月 延喜式内社、鹿島伊都乃比気神社及び八幡神社を合併奉祀し現在に至る。
本殿は、流造である。現存されている奉納品の鰐口には「宝暦8年」と記銘され、また昭和46年7月の本殿解体新築の折には、蟇股に「文化十一年云々」と奥書されていた。戦時中はお百度参りで郡内外からの参拝者もあったが、終戦後は神輿の渡御は勿論暁参り等も半減している。

宮城県神社庁HPより

鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)社伝や宮司の話

社伝や宮司の話によれば、
鹿島天足和気神社の相殿神として鹿島緒名太神社と鹿島伊都乃比気神社を合祀しているのは、日本武尊が三門山に鹿島天足和気神社を創建した 当時は三座を一社にまとめていたためということである。
その後、鹿島天足和気神社は 平安時代に北鹿島地区に遷座し、江戸時代に現在の鎮座地へと再遷座した。
他の二社もそれぞれ、鹿島緒名太神社は 逢隈地区小山へ、鹿島伊都乃比気神社は 吉田地区作田へと遷座したという

by ウィキペディア

【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)は 合祀した鹿島社が
式内社 陸奥国 曰理郡 4座(並小)の内 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)の論社になっています

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曰理郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 鹿伊都乃比神社
[ふ り が な ]かしまいつのひけの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima Itsunohike no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

香取・鹿島の御子神(みこがみ)苗裔神(びょうえいしん)〉について

古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました

このことから東北地方平定には軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました

香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったもの考えられています

こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の流域各地に祀られていきました

平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社

大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い威を誇りました

その御神威を背景として 奥州〈東北地方制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀苗裔神を祀るこれらの分社 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています

『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国香取苗裔神式内社2社の論社

〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや) 

・香取神宮(香取市)下総国一之宮 

一緒に読む
香取神宮(香取市)下總國一之宮

香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です

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牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)

・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

一緒に読む
香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

香取伊豆乃御子神社(かとりいづのみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)とされます 御祭神は 香取神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈香取伊豆乃御子神(阿佐比古命)〉とされます

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・和渕神社(石巻市和渕町)

一緒に読む
和渕神社(石巻市和渕町)

和渕神社(わぶちじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)の論社です 大古 香取神社の神船が 常陸より牡鹿郡 和渕山の西辺(船島)に着き その東方に船を留め(船澤)山頂に宮柱を立て神様を祭祀したとも 坂上田村麿将軍が 大同二年(806)遠田郡箆岳へ十一面観音を建立の節に和渕山本宮に「木船明神」を勧請したのがはじまりとも伝えられる

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栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)

・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)

一緒に読む
香取御児神社(栗原市築館久伝)〈旧鎮座地〉

香取御児神社(かとりみこじんじゃ)〈旧鎮座地〉は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社地です 『観跡聞老志區別帳』『登米縣の注進』に「所在は築館村 二尺程の石をたてて 香取神社と彫付ありと云る」と記されています

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・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

一緒に読む
鹿島神社〈香取御兒社を合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 東夷征伐後の入植者により 常陸国鹿島より黒瀬向山(三峯山)に勧請 江戸初期に現在地に遷座 この時 香取御兒社(かとりみこしゃ)を相殿に合祀 香取御兒社は『延喜式神名帳927 AD.』所載 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社で 勧請は 第12代景行天皇の時とも 神護景雲元年(767)城生野 伊治城の造営時とも伝わります

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国鹿島苗裔神式内社8の論社

〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや) 

・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮 

一緒に読む
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)〈延喜式内社名神大社・常陸國一之宮〉

鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 名神大社 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています

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黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・・鹿島天足別神社(富谷市大亀)

一緒に読む
鹿島天足別神社(富谷市大亀)

鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社・石神山精神社〉の論社となっています これは 明治42年(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社〉であり 本社は式内社〈石神山精神社〉であるとする説がある為です

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曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

一緒に読む
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)

鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります

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・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉

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月山神社(亘理町吉田作田)

月山神社(つきやまじんじゃ)は 以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺〈現 亘理町立吉田小学校の地〉に祀られていた 文久元年(1861)6月に現社内に移転し 明治2年(1869)月山神社と改称 明治43年2月 作田の民有地に祀られていた小祠の鹿島社〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉と八幡神社を合併奉祀し現在に至ります

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曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

一緒に読む
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)

鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります

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・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉 

信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社です 社伝には 天明元年(1781)4月火災により 同2年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し 同年7月光格天皇の御世 勅宣奉授し「正一位」を授けられたとあり この時古記録は焼失したとのこと

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・鹿島神社(福島市小田鹿島山) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市小田鹿島山)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に その昔篠生(信夫)郷が湖沼であった時わずかに水上に出ていた鹿島の丘上に常陸国の鹿島神宮より蝦夷地経営の為分祀勧請されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります

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・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に 第13代成務天皇の御代〈130~190〉 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請し 後年 社地を源氏山に遷したとあり『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります

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・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)

一緒に読む
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 縁起に「常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地〈古鹿島〉に安置す」とあり 享保十年(1725)古鹿島の地から現境内に遷座と伝わり 医薬神社(いやくじんじゃ)は 明け薬師縁起に「天長の頃 空海上人巡礼のおり 眼病流行に苦しむ里人を救わんと 霊石に薬師如来を刻し 現在地に祀った」とあり 明治元年(1868)明け薬師の名称を医薬神社と改称 鹿島神社に合祀されました

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磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

一緒に読む
鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は 神護景雲二年(七六八年)創建と伝わり 古より鬼人が出没し 人畜に被害を及ぼし 庶民は大いに苦しんでいた時 武甕槌命が天より現れ 鏑矢で悪鬼を退治し 国家安泰となり 以来 鹿島明神として この山上に鎮座と伝わる 『延喜式神名帳927 AD.』所載 磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)とされます

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牡鹿郡 鹿嶋御神社(かしまのみこの かみのやしろ)

・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

一緒に読む
鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)は 太古 関東の鹿島 香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し その乗船がたまたま石巻の沿岸に到り 停泊して錨を操作した際 石を巻上げたことから 石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあり 石巻に上陸されたと伝わります

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行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)

・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町) 

一緒に読む
鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)

鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)は 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)祭神 武甕槌命の御子神 天足別命(あめのたらしわけのみこと)を祀ります 奥州の地を統御する為 この地で〈鹿島の稚児沼に仮宮された時〉賊徒が ...

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・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)

一緒に読む
鹿島御子神社旧蹟(南相馬市鹿島区鹿島町)

鹿島御子神社旧蹟(かしまみこじんじゃ きゅうせき)は 大同元年(西暦806)に現在の社地に社殿を造営し遷座するまでの旧鎮座地です 社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのはこの旧蹟地になります

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『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について

悪路王(あくろおう) 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています

鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます

文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています

【抜粋意訳】

常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす

祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・

【原文参照】

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR常磐線 浜吉田から西へ5.3km 車10分程度
常磐自動車道 山元ICからR6号を北上 約5km 車8分程度

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R6号を仙台岩沼方面へ暫らく進み 左折〈西〉の山並みにある作田地区に向かいます

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果実園の坂道を上って行くと 猪or鹿 獣除けの柵で一般車両は進めなさそうなので こちらで駐車 振り返ると 吉田から太平洋までが見渡せます

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道路を歩いて進むとすぐに右側に東南を向いて鳥居が建っています
鳥居の上に太陽があり 中々良い気持ちで 鳥居に一礼をして進みます

しかし 月山神社なので 月読神を祀るので 太陽で良かったのか?とか思いながら進みます

月山神社(亘理町吉田作田)に参着

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鳥居の横の案内板には 黒森入口とあるので 鎮座する山は 黒森山と呼ばれているようです

鳥居扁額には「月山神社」(つきやまじんじゃ)読みます 月山信仰(がっさんしんこう)ではあると想います

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すぐ先には 沢に橋が架かりますので 他の道からは行けないのでしょう

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参道の草などはなく 綺麗な参道です しかし私の頭の中には 先程の獣除けの柵が頭をよぎっています 日も傾いていて 猪やらの群れが出てくる もしかしたら熊がとか 勝手に気になっています

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木が伐採された広々とした空間が現れ 獣の不安は消えて参道を進みます 振り返ると 美しい景色でしばらく見とれます

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参道は再び 杉林中へと通じています

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参道の先に 拝殿が見えてきました

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何とも神聖な雰囲気が漂う空間でした

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進むと 社殿の奥に沈めかけている夕日がありました

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拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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文久元年(1861)6月に現社内に遷座ありますので 江戸時代からこの地に鎮座する 月神と合祀される式内社 鹿島伊都乃比気神社の神 八幡神の祀られる社殿に一礼をして参道を戻ります

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先程の木が伐採された箇所に戻ってきます 古代から 海の幸 山の幸に恵まれた豊かな土地であろうと 想いを巡らせながら 参道を下ります

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鳥居まで戻ってきました そういえば帰りは獣がいるかと不安もなく怖くなかった

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鳥居を抜けて 振り返り一礼をして 車まで戻ります

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車に戻ると農作業をされていた里人が珍しそうに 私を見ていたので
式内社の参拝に訪れた旨を話すと 笑顔で ご苦労様です と答えて頂き
明治43年2月に合祀された〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉は  作田の里人の土地に祀られていた小祠であったが 延喜式内社の小祠として 合祀されたようだと伝え聞いていると話しておられました

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
式内社 鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
この三社の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

鹿島は 加志麻と訓べし 伊都乃比氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記

鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

鹿島は前に同じ 緒名太は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇在所前に同じ

鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

鹿島は前に同じ 天足は阿麻多良志と訓べし、和氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記

〇当国 黒川郡 鹿島天足別神社あり

雑事
朝野群載云、康和五年(1103)六月十日、奏亀卜、御體御卜、中略 坐ニ陸奥國 島天足別神社、云々、社司等依過穢神事祟給、遣使料中祓 可令祓清奉仕事、下略 宮主従五位下 行少祐卜部宿祢兼良、中臣従五位上・・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
この両社の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています

式内社 鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社

祭神 建御雷神

祭日 三月二十八日
社格 村社
所在 小山村 〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山

鹿緒名太神社

社格 村社
所在 小山村 鹿伊都乃比神社同殿 
〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山

鹿天足和氣神社

祭日 四月六日至八日
社格 郷社
所在 鹿島村
今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字鹿島

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています

式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています

ある説として「鹿島苗裔神、本郡に一社にして延喜式四座記し」と紹介していて 鹿島三社は 三座で一社である との説を取り上げています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

今、小山村鹿島山に在り、
伊都乃比氣神を祀る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式

鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

今、鹿島村にあり、鹿島大明神と云ふ、
緒名太神を祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式

鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

今、鹿島村にあり、
天足和氣神祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録
〇按 本書載する所 鹿島苗裔神、本郡に一社にして延喜式四座記し磐城十一座にして式に鹿島神社一座挙るかの如き、彼比異同あるものは、郡境の分合に古今の別あり、三十八社 苗裔の神にも、又 式内式外の差あるを以たり、姑附て後考を俟つ

毎年四月六日鹿島祭、七日 禍神鎮、八日 鳥屋崎神幸の祭を行ふ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

月山神社(亘理町吉田作田)に (hai)」(90度のお辞儀)

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