実践和學 Cultural Japan heritage

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鹿島天足別神社(富谷市大亀)

鹿島天足別神社(かしまあまたわけじんじゃ 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社石神山精神社論社となっています これは 明治42(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社であり 本社は式内社〈石神山精神社であるとする説がある為です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

鹿島天足別神社(Kashima amatariwake shrine)

 [通称名(Common name)]

大亀神社(おおがめじんじゃ)
大亀明神おおがめみょうじん

【鎮座地 (Location) 

宮城県富谷市大亀字和合田2-16

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

本殿〈式内社 ・鹿嶋天足別神社・石神山精神社論社
《主》武甕槌命(たけみかづちのみこと)
   経津主命(ふつぬしのみこと)

合祀社(旧 鎮座地と御祭神)
神明社大亀宇和合田天照皇大神
吹上神社大亀字和合田浣大山祇神〈式内社 鹿嶋天足別神社論社
金山神社大亀字和合田富主姫神
熊野神社西成田字白鳥熊野夫須美神
明石神社(明石字宮前倉稲魂神
薬師神社今泉字後沢大己貴命 少名彦命
運難神社石積字堂ヶ沢可遇突智命

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

鹿島天足別神社

 この神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で、陸奥国(むつのくに)百座の内の一社で、常陸国(ひたちのくに)の鹿島の神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、下総(しもふさ)の国の香取の神、経津主命(ふつぬしのみこと)を祀っている。
 この二柱(ふたはしら)の神は武勇をもって知られ、蝦夷征伐(えみしせいばつ)に出兵した人々の武運長久や旅の安全、さらに東国からきた兵士や、農民の守護神として、尊敬を集め祀(まつ)られた神社で、勧請(かんじょう)年月日は不明である。
 この神社の傍らに亀の形に似た大石があり、里人は大亀(おおがめ)と呼び大明神の地にあるので、神社名(大亀明神 おおがめみょうじん)となり、さらに村名(大亀 おおがめ)となったといわれる。亀石は平成二十四年八月二三日、町の史跡として指定された。 平成二八年十月 富谷市

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

寛永2年(西暦 1,625年、江戸時代) 8月吉川従長の撰にかかる「縁起」によれば、後光厳院文和年中(北朝、1,352年~1,355年)国司北畠顕家は報恩時寺高達を従え越前の国府に戦い戦功の報賽に社殿を再建しました。
棟札に「亀岡山明明神、文亀3年(1,503年、室町時代) 9月15日奉造立丹波遠近守正時」とあります。又、黒川氏友、安房守氏時北方などより崇敬を集めました。
古く大亀大明神、岩下明神と称したが、明治のはじめ今の社号に改め、同5年1月村社に列し、同40年3月幣畠供進社に指定されました。同42年に7社を合わせ祀りました。

【合祀されている神社】

神明社   天照皇大神  大亀宇和合田
吹上神社  大山祇神  大亀字和合田浣
金山神社  富主姫神  大亀字和合田
熊野神社  熊野神  西成田字白鳥
明石神社  倉稲魂神  明石字宮前
薬師神社  可遇突智命  今泉字後沢
運難神社  大巳貴神・少彦名神  石積字堂ヶ沢

※町名は旧富谷町時代のもの

また、当社が伝承する永代神楽は、弘化5年(西暦1,848年)より伝わりました。大干ばつの際に黒川郡内こぞっての雨乞いを行っており、その記録によると寛永6年(西暦 1,853年)7月9日より三日三夜、大肝入遠藤周右衛門はじめ郡内一同参詣し、13日には雨が降りました。そのお礼として本社屋根の葺き替えを奉仕しました。さらに元治元年(西暦 1,864年)5月23日、大肝入遠藤周右衛門はじめ組頭、大亀村肝入小嶋庄衛門、同村組頭佐藤長五郎他か各村より参詣。24日に降雨があり、そのお礼として拝殿を建立しました。
別当 名取郡高柳 植村右近
慶応元年5月5日棟上 宮城郡国分福岡 大工 徳三郎
現在の社殿は、明治37年(西暦 1,904年)10月5日、灯明から出火して全焼したため、明治38年(西暦1,905年)5月27日に新築したものです。

富谷今泉八幡神社公式HPより

榊流永代神楽さかきりゅうえいだいかぐら

 神社には氏子によって伝えられている神楽がある。この神楽は岩切(青麻 あおそ)に伝わる神楽を弘化5年(1848)移入したもので言葉や歌詞を用いずに、大太鼓、小太鼓、笛の調べにあわせて表現する優雅なもので、昭和三八年八月一日、町の無形民俗文化財に指定された。

アカガシ

 このアカガシは高さ約二十メートル、幹周約五・ハメートルで、樹齢は五百~六百年と推定される。
当地方にはまれにみる古木で、昭和三八年四月二八日、県の天然記念物として指定された。 平成二八年十月 富谷市

現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

〈本殿向かって左横に祀られる〉境内社

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亀石

当社の境内にある巨大な石は、折り重なっている形が大ガメの姿に似ているところから「亀石」と呼ばれるようになりました。縦横ともに3.8メートル、高さが1.9メートルもある奇岩で、村名と神社名はこの石にちなんで付けられています。この付近には、亀石の他に布引石、塁石、口石、箪笥石、たいまい石などの奇岩怪岩が散在しています。
富谷今泉八幡神社公式HPより

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アカガシ(宮城県指定天然記念物)
指定文化財〈県指定天然記念物〉鹿島天足別神社のアカガシ

鹿島天足別神社のアカガシ
県指定天然記念物|黒川郡富谷町

富谷町大亀の鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は平安時代の延喜式に記載されている古社である。本樹は同神社の神木で、神社社殿の東南側に生育しており、樹齢は『新訂 富谷町誌』によれば500~600年といわれている。樹高約20m、幹周5.8mで、枝張りは東西27.5m、南北22.5mである。根元から1.5mの高さで太い枝を分枝して巨大な樹形を形成し、旺盛な樹勢を保っている。

アカガシは日本の代表的な暖帯性樹種であり、宮城県は天然分布の北限地である。実際の北限地は気仙沼市大島とされるが、県中部以北の分布は少ない。植物学的に貴重であり、その中で、本樹は県内第一のアカガシの巨木である。

樹種:アカガシ
学名:Quercus acuta

宮城県公式Webサイトより

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

後の式内社 石神山精神社について 官社となった旨記されています

【抜粋意訳】

延暦九年(七九〇)十一月丁亥廿五〉の条

○丁亥 陸奥国 黒川郡 石神山精社  官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

鹿島天足別神社(富谷市大亀)の本社は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社石神山精神社論社となっています
明治42(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社大亀字和合田浣大山祇神を合祀しました この吹上社が式内社〈鹿島天足別神社であり 本社は式内社〈石神山精神社であるとする説があります

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)黒川郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

①石神山精神社

[旧 神社 名称 ] 石神山精神社
[ふ り が な ](いはかむやまつみの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Iwakanuyamatsumi no kamino yashiro)

➁鹿嶋天足別神社

[旧 神社 名称 ] 鹿天足別神社(貞)
[ふ り が な ]かしまあまたりわけの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima Amatariwake no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 石神山精神社(いはかむやまつみの かみのやしろ)二つの論社

・石神山精神社(大和町吉田麓)

一緒に読む
石神山精神社(大和町吉田麓)

石神山精神社(いわかみやますみじんじゃ)は 七ツ森(ななつもり)山裾に鎮座します おそらくは 太古 蝦夷(えみし)が この大岩を石神として祀ったであろう聖地で その後に 蝦夷征伐 坂上田村麻呂将軍が植えた御手植え杉とともに 大和朝廷が崇める式内社 石神山精神社(いはかむやまつみの かみのやしろ)として この地を祀り治めてきたのでしょう

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・鹿島天足別神社(富谷市大亀)

一緒に読む
鹿島天足別神社(富谷市大亀)

鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社・石神山精神社〉の論社となっています これは 明治42年(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社〉であり 本社は式内社〈石神山精神社〉であるとする説がある為です

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香取・鹿島の御子神(みこがみ)苗裔神(びょうえいしん)〉について

古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました

このことから東北地方平定には軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました

香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったもの考えられています

こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の流域各地に祀られていきました

平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社

大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い威を誇りました

その御神威を背景として 奥州〈東北地方制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀苗裔神を祀るこれらの分社 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています

『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国香取苗裔神式内社2社の論社

〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや) 

・香取神宮(香取市)下総国一之宮 

一緒に読む
香取神宮(香取市)下總國一之宮

香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です

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牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)

・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

一緒に読む
香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

香取伊豆乃御子神社(かとりいづのみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)とされます 御祭神は 香取神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈香取伊豆乃御子神(阿佐比古命)〉とされます

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・和渕神社(石巻市和渕町)

一緒に読む
和渕神社(石巻市和渕町)

和渕神社(わぶちじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)の論社です 大古 香取神社の神船が 常陸より牡鹿郡 和渕山の西辺(船島)に着き その東方に船を留め(船澤)山頂に宮柱を立て神様を祭祀したとも 坂上田村麿将軍が 大同二年(806)遠田郡箆岳へ十一面観音を建立の節に和渕山本宮に「木船明神」を勧請したのがはじまりとも伝えられる

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栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)

・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)

一緒に読む
香取御児神社(栗原市築館久伝)〈旧鎮座地〉

香取御児神社(かとりみこじんじゃ)〈旧鎮座地〉は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社地です 『観跡聞老志區別帳』『登米縣の注進』に「所在は築館村 二尺程の石をたてて 香取神社と彫付ありと云る」と記されています

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・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

一緒に読む
鹿島神社〈香取御兒社を合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 東夷征伐後の入植者により 常陸国鹿島より黒瀬向山(三峯山)に勧請 江戸初期に現在地に遷座 この時 香取御兒社(かとりみこしゃ)を相殿に合祀 香取御兒社は『延喜式神名帳927 AD.』所載 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社で 勧請は 第12代景行天皇の時とも 神護景雲元年(767)城生野 伊治城の造営時とも伝わります

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国鹿島苗裔神式内社8の論社

〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや) 

・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮 

一緒に読む
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)

鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています

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黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足別神社(富谷市大亀)

一緒に読む
鹿島天足別神社(富谷市大亀)

鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社・石神山精神社〉の論社となっています これは 明治42年(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社〉であり 本社は式内社〈石神山精神社〉であるとする説がある為です

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曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

一緒に読む
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)

鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります

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・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉 

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月山神社(亘理町吉田作田)

月山神社(つきやまじんじゃ)は 以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺〈現 亘理町立吉田小学校の地〉に祀られていた 文久元年(1861)6月に現社内に移転し 明治2年(1869)月山神社と改称 明治43年2月 作田の民有地に祀られていた小祠の鹿島社〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉と八幡神社を合併奉祀し現在に至ります

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曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

一緒に読む
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)

鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります

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・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

一緒に読む
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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・八雲神社(亘理町逢隈牛袋天王)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉 

信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社です 社伝には 天明元年(1781)4月火災により 同2年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し 同年7月光格天皇の御世 勅宣奉授し「正一位」を授けられたとあり この時古記録は焼失したとのこと

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・鹿島神社(福島市小田鹿島山) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市小田鹿島山)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に その昔篠生(信夫)郷が湖沼であった時わずかに水上に出ていた鹿島の丘上に常陸国の鹿島神宮より蝦夷地経営の為分祀勧請されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります

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・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内) 

一緒に読む
鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に 第13代成務天皇の御代〈130~190〉 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請し 後年 社地を源氏山に遷したとあり『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります

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・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)

一緒に読む
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 縁起に「常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地〈古鹿島〉に安置す」とあり 享保十年(1725)古鹿島の地から現境内に遷座と伝わり 医薬神社(いやくじんじゃ)は 明け薬師縁起に「天長の頃 空海上人巡礼のおり 眼病流行に苦しむ里人を救わんと 霊石に薬師如来を刻し 現在地に祀った」とあり 明治元年(1868)明け薬師の名称を医薬神社と改称 鹿島神社に合祀されました

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磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

一緒に読む
鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は 神護景雲二年(七六八年)創建と伝わり 古より鬼人が出没し 人畜に被害を及ぼし 庶民は大いに苦しんでいた時 武甕槌命が天より現れ 鏑矢で悪鬼を退治し 国家安泰となり 以来 鹿島明神として この山上に鎮座と伝わる 『延喜式神名帳927 AD.』所載 磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)とされます

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牡鹿郡 鹿嶋御神社(かしまのみこの かみのやしろ)

・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

一緒に読む
鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)は 太古 関東の鹿島 香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し その乗船がたまたま石巻の沿岸に到り 停泊して錨を操作した際 石を巻上げたことから 石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあり 石巻に上陸されたと伝わります

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行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)

・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町) 

一緒に読む
鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)

鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)は 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)祭神 武甕槌命の御子神 天足別命(あめのたらしわけのみこと)を祀ります 奥州の地を統御する為 この地で〈鹿島の稚児沼に仮宮された時〉賊徒が ...

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・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)

一緒に読む
鹿島御子神社旧蹟(南相馬市鹿島区鹿島町)

鹿島御子神社旧蹟(かしまみこじんじゃ きゅうせき)は 大同元年(西暦806)に現在の社地に社殿を造営し遷座するまでの旧鎮座地です 社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのはこの旧蹟地になります

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『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について

悪路王(あくろおう) 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています

鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます

文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています

【抜粋意訳】

常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす

祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・

【原文参照】

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

仙台北部道路 府しらかし台ICから県道3号〈塩釜吉岡線〉を北上し 鶴巣山田付近で大亀山 森林公園へ向かうと道沿いに鳥居あり 約5.5km 車7分程度

大亀山110の山頂に鎮座します

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道路脇に白い鳥居が建ち 鹿島天足別(かしまあまたわけ)神社表参道看板があります

鹿島天足別神社(富谷市大亀)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐると 大亀山の山頂へと 自然石参道石段まっすぐ上に延びています

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参道の石段は 長い樹木のトンネルのようで 頂上から覗く青空が トンネルの出口のようです

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石段の最上段迄上がると 強い日差しが差し込んでいて すぐに前の 拝殿にすすみます

扁額には
延喜式内 鹿嶋天足別神社と刻まれています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
社殿は 大きな巌の上に建てられています 向かって右には 注連縄を廻されて亀石が祀られています

色々な角度から見ないと 亀に見えないのですが 真横から見た時 前方の小岩を亀の頭に見立てるとそれらしく見えます

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神社の南側には 大亀山森林公園展望台があります

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そこから 神社に戻る時に大岩が 地面のあちこちから顔を出していて 大亀山山頂岩盤であることがわかりました

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神社まで戻ると この大亀山山頂 巌は 磐座であって 祭祀場だったのであろうと感じます

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社殿に一礼をして 参道石段を下ります

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石段を下り 振り返り一礼

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 石神山精神社について 日本記の官社昇格の記載
式内社 鹿島天足別神社について 陸奥国苗裔神38一つであると記しています

【抜粋意訳】

石神(イハカミ)山精神社

日本記 延暦九年(七九〇)十一月丁亥廿五〉の条○丁亥 陸奥国 黒川郡 石神山精社 並為官社

文徳実録

卷四仁寿二年(八五二)八月辛丑〉の条

○辛丑 陸奧國伊豆佐神 登奈孝志神 志賀理和氣神 並加正五位下
衣多手神 石神 理訓許段神 配志和神 舞草神 並授從五位下

・・・・
・・・・

鹿島天足別(カシマアマタリワケノ)神社

亘理郡にもあり
信友云

三代実録
十二貞觀八年(八六六)正月廿日丁酉〉の条
○廿日丁酉。勅。美濃國多藝郡空閑地六十町施入貞觀寺。』先是。常陸國鹿嶋神宮司言。大神之苗裔神卅八社在陸奧國。菊多郡一。磐城郡十一。標葉郡二。行方郡一。宇多郡七。伊具郡一。曰理郡二。宮城郡三。黒河郡一。色麻郡三。志太郡一。小田郡四。牡鹿郡一。聞之古老云。延暦以往。株大神封物。奉幣彼諸神社。仁而還。絶而不奉。由是。諸神爲祟。物恠寔繁。嘉祥元年。請當國移状。奉幣向彼。而陸奧國。稱无舊例。不聽入。宮司等於外河邊。弃幣物而歸。自後神祟不止。境内旱疫。望請。下知彼國。聽出入。奉幣諸社。以解神怒。其幣用大神封物。又言。鹿嶋大神宮惣六箇院。廿年間一加修造。所用材木五萬餘枝。工夫十六萬九千餘人。稻十八萬二千餘束。採造宮材之山在那賀郡。去宮二百餘里。行路嶮峻。挽運多煩。伏見。造宮材木多用栗樹。此樹易栽。亦復早長。宮邊閑地。且栽栗樹五千七百樹。樹卅四株。望請。付神宮司。令加殖兼齋守。太政官處分。並依請

鹿島「苗裔神卅八社」あるも多く その餘にも由縁ある神に見えたり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 石神山精神社について 所在は 大亀山に在〈現 鹿島天足別神社(富谷市大亀)と同じ敷地内に鎮座していた吹上社大亀字和合田浣大山祇神 明治42(1909)合祀〉と記しています

式内社 鹿島天足別神社について 所在は大亀村〈現 鹿島天足別神社(富谷市大亀)〉と記しています

【抜粋意訳】

石神山精神社

石神山精は 伊波賀美夜麻都美と読り
〇祭神 大山祇命
〇大亀山に在す

官社
續日本紀 延暦九年(七九〇)十一月丁亥廿五〉の条○丁亥 陸奥国 黒川郡 石神山精社 並為官社

鹿島天足別神社

鹿島は 加志麻、天足別は阿女乃多良志和氣と訓べし
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇大亀村に在す

〇当国 亘理郡 鹿島天足和氣神社あり

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 石神山精神社について 所在は 吉田村 岩上明神〈現 石神山精神社(大和町吉田麓)〉と記し
式内社 鹿島天足別神社について 所在は 大亀村 岩下明神と記しています

【抜粋意訳】

石神山精神社 称 岩上明神

祭神 大山祇
今按〈今考えるに〉神社覈録祭神 大山祇命とあるはあり 石神山精神社の義にて山精神社式に記せるなるべし故 今之に従ふ

社格 村社
所在 吉田村〇今陸前(黒川郡吉田村大字吉田)

鹿島天足別神社 称 大亀大明神 或 岩下明神

社格 村社
所在 大亀村〇今陸前國(黒川郡富谷村大字大亀)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

鹿島天足別神社(富谷市大亀)に (hai)」(90度のお辞儀)

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