大鳥神社(おおとりじんじゃ)は 和泉国一之宮です 延長5年(西暦927年)に完成した『延喜式神名帳』所載の名神大社(霊験特に著しい神社)です ご祭神「日本武尊(yamato takeru no mikoto)」の御霊が 白鳥となり舞い降りた聖地として まさしく大鳥(otori)の由来をもちます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
大鳥神社(otori shrine)
(おおとりじんじゃ)
[通称名(Common name)]
大鳥大社(otori taisha)
【鎮座地 (location) 】
大阪府堺市西区鳳北町1-1-2
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(yamato takeru no mikoto)
《主》大鳥連祖神(otori no muraji oyagami)
【御神格 (God's great power)】
・勝運 Guide the luck to win
・開運 Guide good luck
・厄除 Prayer at an age considered a milestone in life
・交通安全 Pray for traffic safety
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・和泉国一之宮
・別表神社
・大鳥五社大明神
【創 建 (Beginning of history)】
今から約1900年前
【由 緒 (history)】
当社は醍醐天皇延喜式神名帳所載の名神大社であり、月次新嘗の官幣に預かり、和泉国の一の宮として、歴代皇室の御尊崇極めて篤く殊に防災雨祈の御祈願社85社の一つであって、しばしば臨時奉幣に預かり、御神階も清和天皇貞観3年7月には従三位に叙せられ後正一位に御昇階になりました。
御祭神 日本武尊様は景行天皇の第二皇子で、その武勇は広く知られているところでありますが、社伝によりますと日本武尊が東夷御征討の帰途、にわかに病におかかりになり、伊勢国能褒野に於て死去あそばされ、その御屍は白鳥と化して飛び去り給い、最後に当所に来り留まられましたので、社を建立して尊様をお祀りしたのが当社の起源であって 今から約1850有余年前であります。
また、大鳥連祖神様は、この和泉国に栄えた神別であられ大中臣と祖先を一にする大鳥氏と言う部族の先祖をお祀りしたもので、新撰姓氏録には天児屋根命を祖先とすると伝えられております。
当社は明治4年5月祭神 日本武尊として官幣大社に列格になりましたが、明治9年1月天覧に供しました官社祭神考証においては、祭神 大鳥連祖神とせられ、明治九年以来この説が公のものとせられていたので、以来当社の歴代宮司は度々御祭神の御変更方を禀請致しましたが、ついに明治29年10月3日付を以て、「上奏相成候官社祭神考証に於て大鳥連祖神と確定相成居候条左様御承知有度」との時の内務省社寺局長の通達回答がよせられて、当時としてはこれ以上は神社側の主張を通す方法はなかったのでありましたが、
偶々昭和32年6月28日付にて、祭神 日本武尊増祀の御允許を得ることとなり、ここに御祭神に関する問題も決裁し日本武尊様を主祭神とする二座の御社となり御神慮に御応え申すことが出来たのであります。
御祭神の御神徳は文武の神として、累代の武家の崇敬が篤く、平清盛、同重盛父子が熊野参詣の途次、当社に祈願し、和歌及び名馬を奉献したのを始めとして、織田、豊臣、徳川の三武将も社領の寄進、社殿の造営等を再度にわたって奉仕しております。
また、聖武天皇の御宇には、僧行基が勅願を奉じて、この地に勧学院神鳳寺を建立しましたが、明治維新の神仏分離によって廃寺となりました。
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]
【境内社 (Other deities within the precincts)】
摂社4社は 大鳥大社を含めて「大鳥五社大明神」と言われ
いずれも『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社です
摂社:大鳥美波比神社(おおとりみはひじんじゃ)
ご祭神:天照大神
相殿:菅原道真公
由緒:本社の境内東側に鎮座、もと当社は北王子村に鎮座であったが明治十二年に現在地に遷座した。主神の外七柱を合祀する。摂社:大鳥北濱神社 堺市西区浜寺元町三丁鎮座
ご祭神:吉備穴戸武媛命(きびのあなとたけひめのみこと:日本武尊の妃)
由緒:場所の移転はないが、明治六年に大鳥鍬靭神社から改称した。摂社:大鳥羽衣濱神社 堺市堺区宿院町鎮座
ご祭神:両道入媛命(ふたじのいりひめのみこと:日本武尊の妃)摂社:大鳥井瀬神社 堺市堺区宿院町鎮座
ご祭神:弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと:日本武尊の妃)
由緒:もとは大鳥郡八田荘村大字堀上大明神山に鎮座していたが、明治三十一年に本社に遷座し、大正十一年宿院にある本社のお旅所に遷座し今日に至る以上が平安時代から、大鳥大社含め大鳥五社大明神と言われている。
いずれも式内社である。末社:四社合祀殿
ご祭神:火鎮大神・宗像大神・稲荷大神・織姫大神
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座 大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)和泉国 62座(大1座・小61座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)大鳥郡 24座(大1座・小23座)[名神大 大 小] 式内 名神大社 預月次新嘗
[旧 神社名 ] 大鳥神社
[ふ り が な ](おおとりの かみのやしろ)
[How to read ](otori no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大鳥五社(otori gosha)について
大鳥五社大明神とも呼ばれ いずれも和泉国大鳥郡(大阪府堺市周辺)の式内社で「大鳥(otori)」を冠する五つの神社の総称です
大鳥大社の御祭神「日本武尊(yamato takeru no mikoto)」を中核として 境内外の摂社で構成され 残る4社の内 3社では「日本武尊の妃神を一柱ずつ奉斎」1社では祖神「天照大神」を祀ります
※それぞれの神社の記事をご覧ください
①大鳥大社 【和泉國大鳥郡 大鳥神社 名神大 月次新嘗】
《主》日本武尊(yamato takeru no mikoto)
➁大鳥美波比神社【和泉國大鳥郡 大鳥美波比神社】【和泉國大鳥郡 押別神社】
《主》天照大神(amaterasu okami)
大鳥美波比神社(おおとり みはひじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に所載され 又 大鳥大社を筆頭とした「大鳥五社大明神」の一つで 由緒正しい神社です 御祭神の天照大神(amaterasu okami)が 「鳳」と化して降臨をしたとする由来があり まさしく「大鳥(otori)」あるいは「鳳(otori)」にふさわしい伝承を持ち 大鳥大社 境内に坐ます
大鳥美波比神社(大鳥大社 境内)
➂大鳥北濱神社 【和泉國大鳥郡 大鳥神社 鍬靫】
《主》吉備穴戸武媛命(kibino anatotake hime no mikoto:日本武尊の妃)
大鳥北浜神社(おおとりきたはまじんじゃ)は 大鳥五社とも呼ばれる いずれも「大鳥(otori)」を冠している五つの神社の1社です 和泉国大鳥郡(大阪府堺市周辺)の式内社で ご祭神は「日本武尊(yamato takeru no mikoto)」の后神の一柱「吉備穴戸武媛命(kibino anato takehime no mikoto)」を祀ります
大鳥北濱神社(堺市)
④大鳥羽衣濱神社【和泉國大鳥郡 大鳥濱神社 鍬】
《主》両道入媛命(futajino irihime no mikoto:日本武尊の妃)
大鳥羽衣濱神社(おおとりはごろもはまじんじゃ)は 羽衣をまとう天女を連想させるような神社名を持ちます 御祭神は 大鳥大社に祀られている「日本武尊」の后神で 仲哀天皇の皇太后となる「両道入姫皇女」が祀られています また 当社は江戸時代には 井戸守明神といわれていて 社殿前にある井戸から上がる水は神水として尊ばれたと伝わります
大鳥羽衣濱神社(高石市羽衣)
➄大鳥井瀬神社【和泉國大鳥郡 大鳥井瀬神社】
《主》弟橘姫命(ototachibana hime no mikoto:日本武尊の妃)
住吉 大鳥 両大社宿院頓宮(sumiyoshi ohotori ryotaisha shukuintongu)は 摂津国一之宮「住吉大社」と和泉国一之宮「大鳥神社」の両大社(両社ともに 一之宮)の御旅所とされています 1つの社殿に・住吉大社に所縁のある「波除住吉神社」・大鳥大社に所縁のある「大鳥井瀬神社」が 両大社に所縁ある神社として祀られています 境内の飯匙堀(iigaibori)は 水のない空堀ですが 住吉大社の神功皇后にまつわる伝説などがあります
住吉 大鳥 両大社 宿院頓宮 (住吉大社・大鳥大社 両大社の御旅所)
※大鳥美波比神社以下の4社が摂社の扱いとされるのは 大鳥神社が官弊大社となった明治4年(1871)です 大鳥美波比神社は 明治12年(1879)境内(旧神鳳寺跡)に遷座します
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
鳳駅から 約450m 徒歩6分程度
社号標「大鳥大社」とあります
その先に 狛犬の座す正面鳥居前から石畳の広い参道がまっすぐに伸びています なかなか見事な構えです
境内は 都市部にありますが 広いので 案内図を見ると様子が判り易いかもしれません
一礼して鳥居をくぐります
参道を進むと突き当り 右に曲がります 右側の植え込みの先には「絵馬殿」があります
さらに参道を進みますと 今度は左へ曲がります
玉垣に囲まれたスペースに「祓所」と立札があり 注連縄で結界が張られています 奥には 神聖な木である榊の木が植えてあります 礼をして祓い詞を唱えます
すぐ隣に「日本武尊 御神像」が建っています 賽銭箱に納め 拝礼します
続いて「神馬の像」鞍に御神文「鳳凰」があります
左手に「鳥居」があり その奥に檜皮葺の見事な社殿が建ちます 参道は一気に広がります
左手に「鳥居」の左手前に「手水舎」があり 清めます
一礼して鳥居をくぐります ここから御神域の中心部になります
拝殿にすすみます 天皇陛下大阪に行幸された折に幣饌料を下された証として「幣饌料御下賜」が掲げられています
賽銭箱には御神紋「鳳凰」があります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
この拝殿の奥に神門と御垣に囲われて本殿が鎮座します 社殿は全体を見ることはできませんが 重厚な檜皮葺の社が建ちます
この本殿域内に 授与所があり ご朱印やお守りなどの授与を受けます
本殿域を出て 鳥居をくぐり振り返り一礼
左へ進むと境内社が建ちます お詣りします 由緒ある名社で 大鳥五社の一つで式内社です
岸和田のだんじり祭りよりも長い歴史を誇る「鳳だんじり祭り」が この「大鳥美波比神社」に宮入します
摂社:大鳥美波比(otori mihahi)神社
《主》天照大神(amaterasu okami)
大鳥美波比神社(おおとりみはひ)の鳥居の手前左手の境内社にお詣りです
末社:四社合祀殿
ご祭神:火鎮大神・宗像大神・稲荷大神・織姫大神
参道横の絵馬殿によります
明治期の「堺消防組」の絵馬などがあり 写真を撮っていましたら
氏子代表の方から声を掛けられまして 明治期の官社であった頃の貴重な写真を拝見させて頂きました
明日の祭りの打ち合わせで来られていたとか こうした方々の支えがあって 神社が成立しています
お礼を述べて 石畳の参道を戻ります
鳥居をくぐり 振り返り一礼
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
御祭神 日本武尊(yamato takeru no mikoto)と千種森(chigusa no mori)について
現在の大鳥大社(otori taisha)の起源は 今から約1900年前 日本武尊(yamato takeru no mikoto)の御霊が 白鳥となり 天空高く舞い上がり 降り立った所とされています
そのご神域が境内の神聖な杜となっていて「千種森(chigusa no mori)」と呼ばれます
この伝承では 日本武尊の御霊が白鳥となり 舞い降りたおりに 一夜にして諸々の樹木が生い茂った 故に「千種森(chigusa no mori)」と伝わっています
伊吹山の荒ぶる神を倒すために山に入ったところ神の祟りに遭い病となってしまいました。
病身のまま大和を目指したのですが、都にたどり着くことができず伊勢国能褒野(のぼの)にて身罷りました。
そこに陵を造り皆が嘆き悲しんでいると、日本武尊の御霊が白鳥となり陵から飛び立ったのです。
最初に舞い降りたのは大和の琴弾原(ことひきのはら)、再び舞い上がり次に降り立ったのが河内国の古市、その後は社伝によると再び天空高く舞い上がり当所に降り立ちました。
そこに社を建てお祀りしたのが当社の起源であり今から約1900年前の話であります。神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われています。
公式HPより抜粋
『橘三喜 諸国一宮巡詣記抜粋』より
現在の大鳥神社は 当時は「大鳥大明神(watatsumi no kamino yashiro)日本武尊」と記されていて 境内の様子が絵図に記されています
『橘三喜 諸国一宮巡詣記抜粋 乾』(1675年~1697年)国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039344&ID=M2014090119552785625&TYPE=&NO=画像利用
ご祭神「日本武尊(yamato takeru no mikoto)」の御霊が 白鳥となり舞い降りた聖地として まさしく大鳥(otori)の由来をもちます
大鳥大社(otori taisha)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
和泉国 式内社 62座(大1座(月次新嘗)・小61座(並官幣))について に戻る
和泉國(いづみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている官社〈延喜式内社〉の事で 和泉国には 62座(大1座(月次新嘗)・小61座(並官幣))の神々が 坐します
和泉国 式内社 62座(大1座(月次新嘗)・小61座(並官幣))について