織幡神社(おりはたじんじゃ)は 赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)をお祀りする神社であり 海路守護の神 異国襲来守護の神として 鐘崎の海辺に鎮座します これは神功皇后の三韓出兵の時 赤白二流之旗を織り 武内宿禰命が それを゛宗大臣〈宗像大神〉御手長(みてなが)の旗竿゛に取り付け勝利した事に依ります 延喜式神名帳では 名神大社に列しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
織幡神社(Orihata shrine)
【通称名(Common name)】
・織幡宮(おりはたぐう)
・シキハン様
・宿禰さん(しゅうくあんさん)
【鎮座地 (Location) 】
福岡県宗像市鐘崎字岬224
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《中座》武内宿禰(たけしうちのすくね)
《西座》住吉大神(すみよしのおほかみ)
《東座》志賀大神(しがのおほかみ)
《配祀》
・天照大神(あまてらすおほかみ)
・宗像大神(むなかたのおほかみ)
・香椎大神(かしひのおほかみ)
・八幡大神(はちまんおほかみ)
・壱岐眞根子臣(いきまねこのおみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・富貴長命・漁業・家門繁栄
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
織幡宮
一、祭神 武内宿祢 住吉大神 志賀大神
二、縁起
平安初期、朝廷の年中儀や制度などの事を書いた”延喜式”の中に、日本中の神社が記してあります。織幡宮は、筑前十九社の第二番目に記され、宗像郡内でも、宗像大社に次ぐ神社として記録されています。 その昔、文字を持たない時代から、古代の人々は、山の神、海の神、岬にも神霊を感じて航海安全を「ちはやぶる神の岬」として祈った時代もあったと思われますし、織幡宮は武人、武内宿祢を鎮護国家の備えとして、交通要衝 鐘崎に祀ったといわれています。 古文書に、元禄八年(一六九五年)社殿造立。元禄十六年(一七〇三年)拝殿成就と記され、古い歴史がしのばれます。
平成八年四月一日
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
延喜式名神大社(旧県社)
祭神 武内宿祢神、住吉大神、志賀大神、
武内宿祢公は 神功皇后と謀りて 此地で赤白の軍旗を織られ軍船に立て異賊を平定(コトムケ)られ
応神天皇の御時 筑紫国を治められる此の鐘の岬の佳境を慕はれ此地は本朝無雙の霊地なり此の風景に飽くことなし我れ死なば神霊を此地に祭祀るべし 国家安穏の守護神とならんと申され
仁徳天皇の御代300余歳にて双つの沓を遺こされ神去りましたので 此地に沓塚を建て号を織幡神社と稱へ社を建てられました
以来 富貴長命航海安全の守護神と篤く尊崇されています 霊験尊く参拝後をたたず。万葉集七 よみ人不知 千早振るかねの御崎を過れ共 我は忘れず志賀の皇神。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
織幡神社
織幡神社は、宗像地域で一番大きな漁港である鐘崎を見下ろす位置にあります。ここに祀られている主神は、武内宿禰命です。武内宿禰は、摂政を務めた神功皇后や五人の天皇に仕えたと言われる、伝説に伝わる政治家です。伝説によると神功皇后は摂政として 201 年から 269 年まで君臨し、武内宿禰と共には鐘崎から朝鮮半島へ船で遠征に出たと言われています。
織幡神社に至る階段のふもとには大きな岩があり、神聖なものであることを示す「しめ縄」がかかっています。
この岩は、元は沖合に沈んでいました。地域の言い伝えにより、この岩は朝鮮半島からの航海中に失われた古代の鐘だと長い間考えられていました。織幡神社の階段の頂上からは、漁港と鐘崎の浜を一望することができます。神社の後ろには、大きなカシ、イヌマキ (学名:Podocarpus macrophyllus)、サンゴジュ、クスノキ、サカキ (学名:Cleyerajaponica) など、20 種を超える木から成る亜熱帯の森があります。サカキは、神道の儀式で伝統的に使われてきた植物です。
織幡神社の正面入口の左手には、恵比須を祀った小さな神社があります。恵比須は漁師の守り神です。
地域の漁師と海女・海士がこの神社にお参りします。海女・海士とは、素潜りで海底からウニ、アワビ、およびその他の貝や甲殻類を採る人々で、女性の海女が一般的です。鐘崎地域には海女・海士の長い伝統があり、付近にはその記念碑があります。国土交通省https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001556491.pdfより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・社殿〈本殿・幣殿・拝殿〉
・拝殿
・沓塚
〈武内宿禰は ある日 ひとそろいの靴を残し 天に昇ったと言われ その場所に 沓塚があります〉
〈社殿向かって右奥 境内社〉
・海原神社《主》和多津見神
・恵比須神社《主》事代主命
〈社殿向かって左 境内社〉
・三扉の合祀社〈8社〉
〈・稲葉神社《主》宇賀御魂神・御崎神社《主》埴安命・白峯神社《主》顕仁命・直日神社《主》大直日神・根岳神社《主》平家臣霊・葛原神社《主》武雄心命、顕姫命・山神社《主》大山祇命・大歳神社《主》保食神〉
・須賀神社《主》素盞嗚命
・県指定 天然記念物 イヌマキ天然林
〈参道石段登って中段右 境内社〉
・高殿神社《主》応神天皇
・社務所
織幡神社年中行事
一、元旦祭 一月一日 十一時三十分 祭典
一、四十四賀祝 四月上旬
ー、春季大祭 四月十六日十一時 祭典
ー、夏越祭 (於御旅所 ) 七月三十一日 十八時 祭典
ー、国土祭 (於御旅所 ) 十月九日 十七時三十分祭典
ー、新嘗祭 (新穀感謝祭 )十一月二十三日 十一時祭典現地案内板より
〈参道石段登って左 境内社〉
・今宮神社《主》武内大臣
・参道石段
・二の鳥居
・沈鐘と巨石
沈鐘と巨石
昔の人は 金崎は鐘崎でここには海の向うの国から来た釣鐘が沈んでいると語りつぎ信じてきた そして宗像興氏や黒田長政など その権力にまかせてこの釣鐘を引揚げようとしたが失敗に終った ところが大正八年に 山本菊次郎なる人が万金を投じてこれを引揚げることに成功した しかし姿を現わしたのは 釣鐘ではなくして このような巨石であった 人びとはがっかりしたが いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとの思いを捨てかねている このような話は 沈鐘伝説といって諸国に例があるが ここのは そのもっとも有名なものである 沈鐘と巨石 夢と現実 まことに面白い郷土鐘崎の物語である
昭和四十九年十月 碑文 福岡県文化財専門委員 筑紫豊
現地石碑文より
・筑前鐘崎海女の像
海女発祥の地 鐘崎
ここ鐘崎は、古来風光明媚、海路の要衝として万葉の古歌に詠われ沈鐘の伝説で名高い。
先祖は鐘崎海人と呼ばれ、 進取の気性に富み、 航海術に秀で各方面で大活躍をした。 特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は
「西日本の海女発祥の地」として有名である。海女の出稼ぎ地であった能登・長門・壱岐・対馬には、枝村(分村)ができた。海女の使用した道具は、県の文化財に指定され保存されている。
ここに石像を建立し功績をたたえ、航海の安全と豊漁を祈る。
平成七年四月吉日 筑前鐘崎海女保存会
現地石碑文より
・一の鳥居
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・沖ノ島遥拝所
・恵比須神社(千代川)《主》事代主命
・浜宮神社《主》平家臣之霊
・恵比須神社(北町)《主》事代主命
・恵比須神社(中町)《主》事代主命
・恵比須神社(西町)《主》事代主命
・石槌神社(中町)《主》山伏の霊
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷二 嘉祥三年(八五〇)七月甲辰〈廿九〉
○甲辰
授に 筑前國 織幡神に 從五位下を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
織幡神に神位の奉授か記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神に 進階(くらい)を 及ひ新に叙つ 惣二百六十七社なり
奉授に
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品
・・・
・・・
・・・筑前國
正三位勳八等田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並從二位
正五位下竈門神 從五位下筑紫神 並從四位下
從五位下織幡神 志賀海神 美奈宜神 並從五位上
无位住吉神從五位下・・・
・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷卅二 元慶元年(八七七)十二月十五日辛巳
○十五日辛巳
授に 筑前國從五位下織幡神に正五位下 正六位下天照神從五位下
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には国家的事変が起こりまたはその発生が予想される際にその解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
※織幡神社一座(名神大)は ゛名神祭゛の条には記載がありません
これは『延喜式』に記される名神大社の数は
゛名神祭゛の条には 203社285座が記載
゛神名帳゛の条には 226社313座が記載
神名帳には記載があっても 名神祭式に見えない名神が 23社28座あります
このずれについては諸説がありますが その解明は将来の課題として残されています
・両者の管轄が違ったためとする説・式の伝写の間の誤写、攙入であろうとする説・新たに列せられた名神大社が「名神祭式」には全て記載されていない遺漏であるとする説等があり、名神祭の儀式次第や、祈雨神祭との相異(特に畿内における両祭にともに預かる諸社について)なども相違します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)宗像郡 4座(並大)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 織幡神社一座(名神大)
[ふ り が な ](をりはたの かみのやしろ ひとくら)
[Old Shrine name](Worihata no kaminoyashiro hitikura)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『宗像大菩薩御縁起』〈『宗像郡誌』中編〈深田千太郎,昭和6〉〉に記される゛金崎織幡大明神゛について
『宗像大菩薩御縁起』の記載では
社号の「織幡」由来について 神功皇后の三韓出兵の時「赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)」を織り 武内宿禰命(たけしうちのすくねのみこと)が それを゛宗大臣〈宗像大神〉御手長(みてなが)の旗竿〈異國征伐御旗杆 宗像大社の神璽の旗竿〉゛に取り付けたことに起因するとし
織幡神社は この時の「赤白二流之旗」をお祀りする神社であり 海路守護の神 異国襲来守護の神として 鐘崎の海辺に鎮座すると記しています
【抜粋意訳】
宗像大菩薩御縁起 金崎織幡大明神
金崎(かねさき)の織幡大明神は
本地(ほんち)を 如意輪觀音(にょいりんかんのん)〔十一面観音〕
垂迹(すいじゃく)は 武内大臣の靈神(みたま)なり
神功皇后が 三韓征罰の時に 赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)を織り この神 宗大臣(むねのおほおみ)の御手長(みてなが)に被付(おひつ)けたまひき ゆゑに神明埀迹の時も 織幡(おりはた)の名字を得たりき
襲來の海路を爲(し)て守護(まも)り 海邊(うみべ)に居(ゐ)たまえり
【原文参照】
金崎織幡大明神者、本地如意輪觀音、垂迹者、武内大臣乃靈神也。神功皇后三韓征罰之時、織赤白二流之旗、被付當神宗大臣之御手長。故ニ神明埀迹之時モ得織幡之名字也。爲襲來之海路ヲ守護、海邊ニ居タマエリ。(宗像大菩薩御縁起)
八柱の御祭神の内 一柱゛壱岐眞根子臣(いきまねこのおみ)゛について
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛壱伎直祖眞根子(いきのあたいがおや まねこ)゛の伝承
応神天皇9年4月条に 壱伎直祖眞根子(いきのあたいがおや まねこ)と表記され 武内宿禰の身代わりとなって自刃したと記され
その後 武内宿禰は朝廷に至って天皇に弁明し 甘美内宿禰との探湯(くがたち)の対決を経て疑いを晴らした と記されます
【抜粋意訳】
『日本書紀』応神天皇九年夏四月条
天皇の命で武内宿禰が筑紫へ派遣された時 弟の甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)が 兄を廃そうと天皇に讒言(ざんげん)した「武内宿禰は常に天下を望む情(こころ)が有り 聞いたところによると 筑紫で密かに語るには『独り 筑紫を割いて 三韓国を招いて自分に従わせ ついに天下を得よう』」
天皇は使者を出し 武内宿禰を殺すように命じた
その時 武内宿禰は嘆いて云う
「わたしは 元より弐心(ふたこころ)はない 忠の心を持って君主に仕えてきた 今 どうしてこんな禍(わざわい)も罪も無いのに死んでしまうのか」それで 壱岐直(イキノアタイ)の祖先 眞根子(マネコ)という人がおり 武内宿禰と容姿がよく似ていた
「今 大臣は忠心を持ち君主にお仕えし 黒心(きたなきこころ)が無いことは天下に知られています 願わくは密かに去り 朝廷に行き 罪無きことを弁明して その後に死んでも遅くは無いでしょう また 時の人は常に『僕(やつかれ)の姿形は大臣に似ている』と言います 今 私は大臣の代わりに死んで、大臣の丹心(きよきこころ)を明らかにしましょう」そう言い 剣に当てて自ら死んだ
・・・
・・・
【原文参照】
織幡神社の社家゛壱岐氏゛の祖゛壱岐眞根子臣(いきまねこのおみ)゛
織幡神社の社家は 古くは゛壱岐氏゛が祭祀を担ったとされ 壱岐氏は 御祭神の壱岐眞根子臣の子孫と伝わります
伝承では
御手長(みてなが)に取り付けられた「赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)」は 壹岐眞根子臣(いきまねこのおみ)が 三韓へ向かう船の前陣で 振り上げ 振り下げして翻弄し その「御手長」を息御嶋(おきみしま)〈沖ノ島〉に立て置いたと云われ それ以来 壹岐國(いきのくに)の壹岐眞根子臣の子孫が 赤白二流之旗を祀り伝えていると云う
社家の壱岐氏は 平家没落の際に姓を「壱岐」から「入江」に変え 文久3年(1863)に「壱岐」に戻したと云う その後も壱岐家が社家を勤めたが 昭和18年(1943)限りで 織幡神社の宮司職からは身を引いています
゛御手長(みてなが)゛の名称を伝える 壱岐嶋の式内社について
因みに 壱岐の式内社には 手長(てなが)の社号を冠する式内社が三つあります
延喜式式内社
①壹岐嶋 壹岐郡 手長比賣神社
②壹岐嶋 石田郡 天手長男神社
③壹岐嶋 石田郡 天手長比賣神社
この社号は ゛御手長(みてなが)゛に由来していると云われます
①壹岐嶋 壹岐郡 手長比賣神社(てなかひめの かみのやしろ)の論社
・手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
手長比賣神社(たながひめじんじゃ)は 鎮座地 棚河(たなごう)は呼称の通り 海に向かって棚田が続く絶景の地で 更にその砂浜の先に見える島は「手長島(たながしま)」と呼ばれ かつては棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と呼ばれていましたが 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 壹岐郡 手長比賣神社とされたものです
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
・聖母宮(壱岐市勝本町)
聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)
・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
②壹岐嶋 石田郡 天手長男神社(名神大)(あめのたなかをの かみのやしろ)の論社
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・興神社(壱岐市芦辺町)
興神社(ko shrine)は 壱岐国が王制の時代であった頃の 一支国(壱岐国)の王都の跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座します 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所として「印鑰大明神」の社号で呼ばれ 格式高い由緒を伝えます 里人の通称名は「一の宮」です 現在では 本来の式内名神大社「天手長男神社」で「壱岐国一之宮」は当社「興神社」とする説が有力です
興神社(壱岐市芦辺町)〈壱岐国一之宮〉(元印鑰宮)
③壹岐嶋 石田郡 天手長比賣神社(名神大)(あめのたなかひめの かみのやしろ)の論社
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
゛御祭神 武内宿禰(たけしうちのすくね)の 御隠れ伝承゛について
『古風土記逸文』〈昭和2〉に記される゛武内宿禰の御隠れ伝承゛
【抜粋意訳】
風土記逸文 因幡國(いなばのくに)武内宿禰(たけしうちのすくね)
因幡國風土記に云はく
難波の高津宮の天皇の天下治めしし五十五年春三月
大臣武内宿禰 御歳三百六十餘歳にして 當國に下向りまし 龜金に雙履(くつ)を残されて 御陰所を知らず蓋し聞く 因幡國(いなばのくに)法美郡(はふみのこほり)宇倍山(うべやま)の麓に神社(かみまやしろ)と曰ふ これ武内宿禰の靈なり
昔 武内宿禰 東夷を平げ 還りて宇倍山に入りし後 終る所を知らずと
【原文参照】
因幡國 宇倍神社(鳥取市国府町宮下)には 「亀金の丘」に双履を残して昇天されたとする゛双履石(ソウリセキ)゛があります
延喜式内社 因幡國 法美郡
宇倍神社(貞・名神大)(うへの かみのやしろ)
・宇倍神社(鳥取市)
宇倍神社(うべじんじゃ)は 因幡国一之宮です 鎮座する稲葉山(イナバヤマ)の麓一帯は・奈良・平安・鎌倉時代を通し因幡国府があり 政治経済・文化の中心地であり 大和朝廷が『名神祭』〈国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀〉を司る名神大社です
宇倍神社(鳥取市国府町宮下)〈因幡国一之宮〉
高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられる゛高良大社奥宮(奥の院)゛
社伝には
高良大社奥宮(奥の院)は 古くは「高良廟」「御神廟」と称し 高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていた 高良山信仰の原点ともいうべき聖地 とある
延喜式内社 筑後國 三井郡
高良玉垂命神社(名神大)(たかんらのたまたれのみことの かみのやしろ)
・高良大社(久留米市)
高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます
高良大社(久留米市御井町)
・高良大社奥宮(高良山 山頂付近)
高良大社 奥宮〈奥の院〉(おくみや)は 白鳳七年(687)高良山に仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人が 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水に 毘沙門堂を建てた 高良山信仰の原点となる聖地です 江戸時代には 高良大明神の御廟所「高良廟」「御神廟」〈別墅(別所)〉と称されていました
高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)
武内大臣(たけしうちのおおおみ)昇天の沓塚(くつづか)がある織幡神社
〈武内宿禰は ある日 ひとそろいの沓(くつ)を残し 天に昇ったと言われ その場所に 沓塚があります〉
社説に
筑前國続風土記に「山の傍に神廟あり、相殿と云ふ、武内宿禰此山佳境なるをしたひ、われ死なば、神霊はかならす此地にやすんずべしとのたまふ、即ち異賊襲来の事を守り防がんためなりとぞ、これによりて後人此地に祠を立つ」と見え、又同書に「同社より登れば、右の方に武内大臣 沓塚とて石塔あり、里俗は大臣天に登り給ふ時、沓をここに脱ぎ置き給へりと云ふ」
延喜式内社 筑前國 宗像郡
織幡神社(名神大)(をりはたの かみのやしろ)
・織幡神社(宗像市鐘崎)
織幡神社(おりはたじんじゃ)は 海路守護の神 異国襲来守護の神として゛赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)゛をお祀りし 鐘崎の海辺に鎮座します 神功皇后の三韓出兵の時 赤白二流之旗を織り 武内宿禰命が それを゛宗大臣〈宗像大神〉御手長(みてなが)の旗竿゛に取り付け勝利した事に依ります
織幡神社(宗像市鐘崎)〈赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)をお祀りする神社〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR鹿児島本線 東郷駅から北上 約12.5km 車25分程度
宿泊先のホテルの部屋の窓からは 玄界灘に浮かぶ地島と鐘崎港 織幡神社の鎮座する鐘崎の佐屋形山がくっきりと見えています
海岸線を北へ上がりながら鐘崎港へ向かいます
織幡神社(宗像市鐘崎)に参着
社頭に手水鉢があり 清めてから 鳥居をくぐります
背後の山は゛佐屋形山゛
早朝の参拝を見守るように 鳶がとまっています
どうやら 鳶は他にも二羽いるようです
二の鳥居をくぐり 参道を進むと長い石段があり 段数は135段と云われるが数えてはいません
石段の途中左手に゛境内社 今宮社゛ 社務所を過ぎる
右手に゛境内社 高殿神社゛
城のような巨大な石垣の上に社殿があり 階段下に狛犬が座す 中央階段を上がります
石段を上がりきると すぐに社殿があり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の周りには境内社が祀られています
境内から東方向を眺める景色は 下関まで見渡せます
岬の先端なので 東西両側に海があり 西側は鐘崎港
社殿に一礼をして 空を見上げると 先程の三羽の鳶が舞っています
参道石段を下ります
鳥居まで戻ると 不思議なことに 先程 上空を舞っていた鳶三羽が 舞い降りました
何故か ふと想いつく様に
宗像大社発行紙に記載されていた 龍宮城の龍神を祀ると云う゛波津城神社(はつしろじんじゃ)゛に行ってみたくなりました
宗像大社 昭和56年8月15日発行『宗像』より
「鐘崎民俗誌 その三十四 楠本記」
海女(あま)漁(その十二)
・・・
・・・ハッシ口瀬のあたりを眺めようと夏の一日、岡垣町の波津浦を訪れた。鐘崎の背部をはしる道は響灘を眼下に見おろす丘の上で直角に曲り海ぞいに郡境に向っている遠賀郡に入りー粁ほど進むと波津浦の入口に小さい岬があり、岬の突端わきに「波津城神社」と額の掲げられた鳥居がある。鳥居の柱には、
明治二十年九月吉日建立 波津区漁方中
と彫りこまれている。鳥居の両側の玉垣には赤や青の船名を書いた旗がところせましと立てられ、奥の石祠が祭ってある壇には、野菜、果物か盛られていた、また面白いことに線香二束を石祠にたてかけその前に海藻 (ホンダワラ )が供えてあった。波津漁協の前で網の手いれをしてい老人にハツシ口瀬を聞くと
「ハツシロサマがあったろうが、あそこん前を一里ほど行ったとこがハツシロ瀬たい、波津もんは 昔から龍宮城ちゅうて言いよるばい、まわりが一里四方でようけ魚がとれるわ」という。波津城神社にはこの龍神を祀っている。また船を瀬につけ雨乞をすれば必ず験がある由である。この雨乞は仏式で行う。
織幡神社から海岸線を東へ約4km 車6分程度
岬の突端わきに「波津城神社」と額の掲げられた鳥居が建ちます
波津城神社(岡垣町波津)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります 扁額には゛波津城神社゛と刻字
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 振り返ると 玄界灘の魚の豊富な゛波津の龍宮城゛と呼ばれる海岸があります
早朝の織幡神社の参拝を終えて 8時頃だろうか 朝陽は昇って 雲間から日差しが降り注いでいます 龍神様に感謝
海の彼方に見えているのは 本州 下関辺りです
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 織幡神社一座(名神大)について 所在は゛鐘崎浦織幡山に在す゛〈現 織幡神社(宗像市鐘崎)〉とし 續風土記云う 武内大臣の伝えを記しています
【抜粋意訳】
織幡神社一座(名神大)
織幡は於利波多と訓べし
〇祭神 竹内大臣〔社傳〕
〇鐘崎浦織幡山に在す〔續風土記〕
續風土記云、武内大臣の神霊を祭るよし云傳へたり、中座武内大臣、西は住吉大神、東は志賀大神なり云々、社ある山は、鐘崎の民家を去る事五町計艮の方にあり、云々、山のかたはらに神廟あり、相傳て曰、武内宿禰此山佳境なるを志たひて、われ死なば神霊はかならず此地にやすんずべしとのたまふ、盖異賊襲來の災を守りふせがむためなりとぞ、これによりて後人比地に詞を立つといふと云へり、
神位
文徳實錄、嘉祥三年七月甲辰、授ニ筑前國織蟠神從五位下、
三代實錄、貞観元年五月廿七日甲申奉授ニ筑前國從五位下織幡神從五位上、元慶元年十二月十五日辛巳、授ニ筑前國從五位上織幡神正五位下、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 織幡神社一座(名神大)について 所在は゛鐘崎村゛〈現 織幡神社(宗像市鐘崎)〉とし 續風土記に記される 武内大臣の伝えを記しています
【抜粋意訳】
織幡神社(名神大)
祭神
今按 福岡縣神社考證書に 祭神武内大臣 相殿に住吉大神 志賀大神 宗像大神 八幡大神 壱岐直眞根子とみえ
筑前續風土記には武内大臣の神體を祭る由云傅へたり 中坐武内大臣 西は住吉大神 東は志賀大神なりとあり 又文永二年八月九日官符に織幡大明神在金崎 武内大臣之霊神也 宗像文安縁起曰 金崎織幡大明神者云々 武内大臣霊神也 神功皇后三韓征伐之時 織赤白二流之旗 被付當神宗像大神之御子長 故仁神明垂跡之時 毛得給倍利 織旗之名字也とあるによりて記せり神位
文徳天皇 嘉祥三年七月甲辰 授筑前國織幡神從五位下
清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申 奉授從五位下織幡神從五位上
陽成天皇 元慶元年十二月十五日辛巳 授筑前國從五位上織幡神正五位下祭日 三月十六日九月九日
社格 村社 (明細帳郷社とあり) (郷社)所在 鐘崎村 (宗像郡岬村大字鐘崎)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
織幡神社(宗像市鐘崎)について 式内社 織幡神社一座(名神大)であると記しています
【抜粋意訳】
〇福岡縣 筑前國 宗像郡岬村大字鐘崎
郷社 織幡(オリハタノ)神社
祭神
武内宿禰(タケシウチノスクネ)
志賀(シガノ)大神
住吉(スミノエノ)大神
天照大神(アマテラスオホミカミ)
宗像(ムナカタノ)大神
香椎(カシヒノ)大神
八幡(ヤハタノ)大神
壱岐眞根子臣(イキノマネコノオミ)御神体は木像の由、鎮座年月等詳かならねど、
文徳天皇嘉祥三年七月從五位下を授けられ、清和天皇貞観元年正月従五位上に進み、陽成天皇元慶元年十二月正五位下に叙せられ給ふ(文徳実録三代実録)、
醍醐天皇延喜の制に名神大社に列り、同郡宗橡神社に次げる名社なり、
往古は社領葛原谷八町余を有せしと伝ふ、〔社記に據る、〕明治二年五月藩主黒田家より 御供米拾俵御寄附の例となり、翌三年十二月福岡藩從前の寄附を廃し、更に三十五石を寄附せりといふ、明治五年十一月村社に定まり、同十年三月宗像神社摂社となり、同十五年八月郷社に昇格す、
祭神は、文永二年八月九日の官符に「織幡大明神在金崎、本地者如意輪観音垂跡、武内大臣之霊神也云々(宗像記近考)」とありて、文安年中の縁起にも武内宿禰なりとし、
口碑亦しか伝へたり、
而して筑前國続風土記に「山の傍に神廟あり、相殿と云ふ、武内宿禰此山佳境なるをしたひ、われ死なば、神霊はかならす此地にやすんずべしとのたまふ、即ち異賊襲来の事を守り防がんためなりとぞ、これによりて後人此地に祠を立つ」と見え、又同書に「同社より登れば、右の方に武内大臣 沓塚とて石塔あり、里俗は大臣天に登り給ふ時、沓をここに脱ぎ置き給へりと云ふ」と見ゆるは、総て當社の事なり、
社記に「當社の草創は履仲天皇の御代、武内大臣此岬に至り給ひて、全身上天ありし所を、和魂の表として是を沓塚と名づけ、やがて此の霊地に荒魂の表を立て、織幡神社と號して、壱岐真根子臣の子孫の人伝へて祭る」と云へり、
又一説には、當社は呉織女を祭れるにはあらざるかともあれど、素より根拠を有せる説にあらず、
次に志賀大神以下八幡大神は、筑紫の名社の神を合せ祭れるものと覚ゆれど、其年月未た考へず、
壱岐真根子臣は、社記に「神官一人入江氏、壱岐真根子の裔也」とあれば、かかる關係より、何れの頃にか祭り加へたるなるべし。社殿は本殿、渡殿、拝殿、参籠所、神輿蔵、神饌所、社務所等を備へ、境内四百五十六坪(官有地第一種)を有し、
地は玄界灘に突出せる鐘岬の頂端に位し、地を出崎といひ、老樹欝蒼頗る神々しく當地方に名高し、績風土記に、海上より見れは、其形屋形に似たるより、一に屋形山とも称する名所なりとの説ありといへり、
口碑に往古三韓より大梵鐘を舶蔵せしに、此処にて沈没せしより鍾崎といふ、晴天波穏なる時、海底に髣髴として梵鐘を認め得るに由にて、文明五年宗像大宮司興氏、士卒を役して船を從へ、帳櫨を以て引揚を試み、慶長九年黒田長政も亦、地島築工の折之を試みたることありしも、遂に果たさざりきといふ、古歌あり萬葉に「千早振かねのみさきを過れどもわれはわすれす志賀のひめ神」又「しら浪の岩うつ音やひびくらむ鐘の岬のあかつきの宮」衣笠内大臣、是等の外新古今、俊頼歌集等にも見ゆ、又神官小遊に「右鐘崎浦神 穹孤立、三面單飛枕海、自海上望之如厘屋故又名小屋形山自右大辮藤原道俊之録面矣」と見え、筑前名寄等にも委しく當地を紹介せり、
宝物として古鑑三面(嘉祥三年八月朝廷より献せらる勅使散位從五位下高原王)、旧志略にも「神宝に古鏡四面、三面は唐鏡、一面は観喜天の像あり、背面に須藤駿河守行重」とあり。境内神社
須賀神社 御崎神社 稻葉神社 白峯神社 海原神社
惠比須神社 今宮神社 高瀬神社 根岳神社 直日神社
【原文参照】
『福岡県神社誌』上巻〈大日本神祇会福岡県支部,昭和20〉に記される伝承
【抜粋意訳】
福岡県神社誌 宗像郡 縣社 織幡神社
宗像郡岬村大字鐘崎字鐘岬
祭神
武内大臣、志賀大神、住吉大神、天照大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、壱岐真根子臣
由緒
鎮座年月不詳、文徳実録曰嘉祥三年七月甲辰授筑前国織機神従五位下
〔此年八月散位従五位下高原王向豊前筑前実釼明鏡を諸社に奉らる、此時織機神に授位の官幣ありと云其明鏡三面千今存須す 又一説に云此の明鏡は神功皇后三韓征伐の時、韓王奉献したるを後に当社へ納め玉へりとなり。〕三代実録曰 貞観元年正月二十七日甲申 京畿七道諸神進階筑前国従五位下織幡神授従五位上二月丁亥野朔遣使五畿七道班班幣諸神告以即位之由。
同書曰 元慶元年十二月十五日辛巳 授筑前国従五位上織幡神正五位下延喜式神名帳曰 筑前国宗像郡織機神社一座(名神大)
文永二年八月九日官符曰 織機大明神在鐘崎云々武内大臣之霊神也云々。社記曰 当社草創云々 履中天皇年中 武内大臣此岬に至り給ひて全身上天ありし所を和魂の表として是を沓塚と名づけやりて其霊地に荒魂の表を立て 織機神社と号して 壱岐真根子臣の子孫の人つたへて是を祭る云々。
同書曰 代々之帝尊崇云々 毎歳仲春四日に幣帛の勅使を下し 其国司に詔して社氏神官共に此神を祭り奉る云々
同書曰 当社武内大臣の神変力にて異敵退散のめでたき旗を織給へばとて代々の帝も尊崇ありて 織機の神社と号し云々 毎年十一月中の卯の日には新嘗祭の手向ありて他に異なりし叡慮なりき。此併我朝守護の霊神と云異国征伐の神功あるに報じてなり云々壱岐の直真根子と云人云々神とあらわれて壱岐の明神と号し奉り云々神社の相殿に祭る云々。
宗像宮古縁起曰 金崎織幡云々 本地如意輪観音垂跡者武内大臣之霊神也云々。
同書曰 金崎織機大明神者武内大臣之霊神也 神功皇后三韓征伐之時 織赤白二旒之旗被付当神宗大臣之御手長故神明垂跡之時得織旗之名字也為異賊襲来海路於守護鎮居海浜云々。
往古の社領は 葛原谷八町なりし由云伝ふ 明治二年五月藩主黒田家より為御供米巳来年々米十俵宛寄附す。
明治三年十二月福岡藩廰より従前の寄附廃止更に永世三十五石寄附す(寄附内割十石は御供米とし二十五石は祠官壱岐貞蔵へ与ふ)
明治五年十一月三日村社に定めらる同十年三月国幣中社宗像神社摂社に列せられ同十五年八月二十四日郷社に列せらる昭和三年八月県社に列せらる。尚社説に述ぶる所を追記す。
同書三十二巻曰、元慶元年九月二十五日(癸亥)分遺中臣斎部両氏人於五畿七道諸国班幣境内天神地祇三千一百三十四神縁供奉大嘗会也織幡神亦在三千一百三十四神内
応安八年(附記、応安八年は所謂北朝の年代にて吉野朝の大授元年に当れり)宗像宮祭祀次第記曰二月十六日第一宮事先於織幡神云々。宗像宮に奉幣の事あれば必ず織幡社頭にも奉幣の事ありしとなり。応安八年宗像宮祭祀次第曰 正月十六日織幡踏歌の事社務御参の時於祓河有祓此河縁立榊二本(禰宜役也)大御供三前小神供三十六前云々。
正平二十三年宗像宮年中行事曰 織幡大明神正月十四日鈴合神事同十六日踏歌神事(吉田乙丸役)三月三日節句神事五月五日会御幸神事同日亥時還御事八月十四日放生会御幸神事同十五日寅時還御事九月九日節句神事同十一日御九日大神事(伝供御供)安延名役十二月十九日嶽祭神事(伝供御供)一年中毎月朔幣望祭神事二十四度永享九年宗像宮一年中毎月大小神事次第御供目録曰正月十六日織幡宮大御供三膳云々。
筑陽記云、織幡神社所出延喜式当国十九座の神延喜式神明帳宗像郡四座之内織幡神社一座と記せり所祭武内神也云々。
筑前早鑑云、織幡大明神是御神武内大臣なり云々延喜式神名帳所載なり、西海道神一百七座之内筑前十九座猶其内にも武内大臣は宗像四座の其一とし名神大とあり云々。
和漢三才図絵云、織幡神社 在宗像郡鐘崎浦 祭神一座 武内宿禰
筑前国続風土記云、延喜式神名帳筑前国宗像郡幡織神社一座名神大とあり、是筑前十九神の一也、武内大臣の神霊を祭る由云伝へり。中座武内大臣西は住吉大神東は志賀大神なり。文徳実録三代実録等の国史に此神に朝廷より位階を贈り給ひし事多し云々。
宗像著座次第記曰 織幡大明神云々関白豊臣秀吉公肥前名護屋下向の時大宮司居宅を御朱印地となし玉ふ事あり云々、秀吉公此時社頭来詣の事云伝ふ。
筑前早鑑云年代不詳領主小早川隆景公社領を寄附し給ふ。
享保二年九月対馬守御初穂金神納せらる。
織幡大明神日御供寄進帳 享保十二年福岡藩士一凡千人之寄附を定置年々其利米を以て日々の御供を備ふ云々×日御供料一人分米三升六合宛右帳簿現存
享保、宝暦、明和、安永、天明、享和、文政、天保、嘉永、安政、万延、慶応、以上年間国主参詣又は代拝御初穂金を献納せらるること屢なり。
幡織神社鎮座の鐘岬佐屋形山は 風景絶佳 古来其名顕はれ古歌多きも之を略す。
例祭日 四月十六日
神饌幣帛料供進指定 昭和三年八月二十三日主なる建造物 神殿、幣殿、拝殿、神饌所、神輿庫、参籠殿、社務所
主なる宝物 宝鏡三面、納蘇利の仮面一面、歓喜天鏡一面境内坪数 二万一千七百四十三坪
氏子区域及戸数 岬村の内大字鐘崎、大字上八 約四百二十戸境内神社
須賀神社(素盞嗚命)
稲葉神社(宇賀御魂神)
海原神社(和多津見神)
今宮神社(不詳)
御崎神社(埴安命)
白峯神社(顕仁命)
直日神社(大直日神)
高殿神社(応神天皇)
根岳神社(平家臣霊)摂社
葛原神社(武雄心命、顕姫命)
山神社(大山祇命)
大歳神社(保食神)
【原文参照】
織幡神社(宗像市鐘崎)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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筑前国(ちくぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 筑前国(ちくぜんのくに)には 19座(大16座・小3座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
筑前國 式内社 19座(大16座・小3座)について