実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)

聖母宮(しょうもぐうは 神功皇后〈仲哀天皇9年(20010〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ12出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められた社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社論社となっています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

聖母宮(SYOMOGU)

 [通称名(Common name)]

[旧 称] 香椎宮・香椎聖母宮・聖母大明神・聖母大菩薩・聖母神社

【鎮座地 (Location) 

長崎県壱岐郡勝本町勝本浦554-2

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》息長足姫尊おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后

   足仲彦尊たらしなかつひこのみこと)〈仲哀天皇
   上筒男尊中筒男尊底筒男尊住吉大神

《配》天照大神・玉垂神・烏賊津連・真根子連

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

安産・子宝、海上安全、勝負の神様

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

【由緒】

 仲哀天皇九年(二〇〇年)十月、神功皇后は壱岐に着き、順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵されました。同十二月、三韓からの帰路再び立ち寄られ、出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたといいます。

当社は三韓出兵の帰路、異賊の首を海中三町余に沈め、その上に九町八反の築地を築き、神符を掛け五間四面の宝殿を造立、末世異賊の競望断絶を祈願された皇后一夜の霊地です。

 又、皇后は三韓出兵の往来の時にこの地に行宮を建てられましたが、そのまま放置されていました。
しかし、毎夜海中より光る物が昇り、燈火の如く静かに、しばらくして火燃えて、また海中に入るという出来事が続いたので、里人はその行宮に神鏡を納め神功皇后を奉ったといわれます。

 元正天皇、養老元年(七十七年)、国家鎮護を祈願され勅下りて神殿造立。 同、養老四年(七二○年)勅使を遣わされ三国の聖母廟に於いて異賊退散の祈願あり。同、養老五年(七二一年)、異敵襲来の時 奇端霊験あり依って勅下り神殿再興。聖武天皇、神亀元年(七二四年)、勅により神殿再興。

 淳仁天皇(七六一年)天平宝字五年、鎮西に五社の再興あり。当社はその一つなり。桓武天皇、延暦六年(七八七年)、異賊襲来の時、異賊降伏祈念の為、社檀を築き奉る。御霊形・金鏡三面、中は神功皇后 左右相殿に仲哀天皇、応神天皇を祀る。

 延宝四年、式内社査定の折、過ちありて式内としての社号をこの時より失う。しかし古来より国主の崇敬
  厚く、壱岐国七大社の一つとして、又壱岐国二の宮と称され国主直参の社である。
  
【附記】
 筑前香椎宮の編年記に香椎廟の四至のことが記されている。「詔テ神鏡ヲ附シ玉フ。東は鴨山、西ハ壱岐、南は住吉、北は尾呂。コレヲ四限トセリ。」
《西ハ壱岐》とは勝本の聖母宮のことで、脈絡相通う関係があったと思われる。聖母宮は古くは香椎宮を称し地名はその鎮座地にちなんで、香椎村と称していた。また、足利尊氏将軍家よりの感状、神領受領の判書、古書記録など、慶長十九年に平戸の松浦藩家臣佐川主馬来島の際、応命により差し出した所、返却のないままとなった。往昔より、度重なる異賊襲来の時、勅使が遣わされ国家擁護、敵国降伏を祈願された社である。
聖母宮公式HPより

【由  (History)】

聖母宮

旧 号 香椎大明神 聖母大菩薩

鎮座地 壱岐郡勝本町勝本浦 正村(しょうむら)

祭 神 息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
    足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)
    誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
    住吉大神(すみよしのおおかみ)
配 祀 天照大神

由緒
『壱岐名勝図誌』によると、仲哀天皇の九年神功皇后は肥前唐津の神集島で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎より壱岐に向けて三、二七〇艘の軍船を出発させた。
 この時、船が進むのにつごうの良い東風が吹きはじめた土器崎の地を風本と名づけ東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけた。

 壱岐すなわち風早の島についた皇后は風まちをして対馬の鰐津に向けて出帆した地を風本と名づけ、三韓からの帰りに再び立ち寄られ出兵の勝利を祝い勝本を改められたという。

 皇后は、出兵の往来にさいし行宮(あんぐう)を勝本に建てられたが、御殿はその後放置されてしまった。
 しかし毎夜海中から光る物があがってくるという出来事が続いたので里人は鏡を御殿に納めて 神功皇后を神としてまつったのがこの神社であると伝う。

 また、一説には異敵の首一〇一、五〇〇を持ち帰った皇后は、風本の浜に穴に掘って埋められ、九町八反の築地を一夜で築きその上に宝殿をつくり、聖母の社を建てられたとある。

 文化財 昭和四十七年に長崎県指定有形文化財とされた茶壺が有名 壺の銅部に『進入、日本いきしま、風本宮、聖母大菩薩、御神物ちやいれ、是ヲ心サス、喜斉、百良内村生、宗靏沙門(花押)天正廿年 敬白』の銘がある。
 その他に数多くの文化財が伝えられているが神社の西門と南門は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折りに、加藤清正と鍋島直茂によって造営寄進されたと伝えている。
 この西門(正門)の前方には、神功皇后の御乗馬の足跡がのこるという馬蹄石(ばていせき)がある。

現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

名神ノ祭 二百八十五座
・・・
・・・
中  津 (なかつの)神社 一座
天手長男 (あまのたなかをの)神社 一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐

・・・
・・・
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

聖母宮は 二つの式内社の論社です

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)

[名神大 大 小] 式内名神大

[旧 神社 名称 ] 中津神社(貞・名神大)
[ふ り が な ]なかつの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Nakatsu no kamino yashiro)

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 手長比賣神社
[ふ り が な ]てなかひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Tenakahime no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦は 二つの式内社の論社です

聖母宮社伝には「過ちありて式内社の資格を失った」と記し
現在の『式内社調査報告』は 聖母宮が式内中津神社とし〈 中津神社(壱岐市勝本町)はその分祀であろうと記しています

又 林 羅山(天正11年(1583)明暦3年1月23日(1657年3月7日))の著書『本朝神社考』では式内小社手長比売神社に比定しています

壹岐郡(いきの こおり)中津神社(貞・名神大)(なかつの かみのやしろ)

・聖母宮(壱岐市勝本町)

一緒に読む
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)

聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています

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・中津神社(壱岐市勝本町)

一緒に読む
中津神社(壱岐市勝本町北触)

中津神社(なかつじんじゃ)は 社記によれば 弘仁2年(811)10月1日に鎮座と伝え 延寶4年(1676)の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉によって 中津神社(なかつの かみのやしろ)(名神大)と査定とされ 明治41年(1908)に佐肆布智明神〈式内社 佐肆布都神社〉を合祀して 二つの式内社の論社となっています

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壹岐郡(いきの こおり)手長比賣神社(てなかひめの かみのやしろ)

・手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)

一緒に読む
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)

手長比賣神社(たながひめじんじゃ)は 鎮座地 棚河(たなごう)は呼称の通り 海に向かって棚田が続く絶景の地で 更にその砂浜の先に見える島は「手長島(たながしま)」と呼ばれ かつては棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と呼ばれていましたが 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 壹岐郡 手長比賣神社とされたものです

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・聖母宮(壱岐市勝本町)

一緒に読む
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)

聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています

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・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)

一緒に読む
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)

天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です

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・國片主神社(壱岐市芦辺町)

一緒に読む
國片主神社(壱岐市芦辺町)

國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました

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聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦は 壱岐七社のひとつ

現在の聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦は 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査は 当社と 勝本町北触の中津宮(現中津神社)を 式内社 中津神社(名神大)と比定しましたが 中津宮が中津神社に改称して 式内中津神社とみなされるようになっていきました
聖母宮社伝では「過ちありて式内社の資格を失った」としています
古来 聖母宮 壱岐七社・民間大七社の一社であり 古来より崇敬の大社であったことは確かで いずれかの式内社であったとしても不思議ではないとされます

゛神の坐ます島 壱岐゛で崇敬されている 壱岐七社について

壱岐の人々には お正月に初詣に豊作大漁家内安全健康長寿を祈願して七社巡りをする習慣があります
参拝の順番は 家に近い神社を起点に時計回りに回るのがいいとされているそうです

壱岐七社は いづれも 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 延喜式内社の大社と考えられていた由緒ある神社で 旧平戸藩の藩主が特別に崇敬をした七つの神社です

1.白沙八幡宮

 延喜式内社 海神社(大)論社

・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)

一緒に読む
白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)

白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向きに建立とあり 八幡勧請以前は ”管城社” と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際  ”八幡宮” の称号であった為 誤査定となった とあります

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2.興神社

〈延喜式内社 天手長男神社(名神大)論社

・興神社(壱岐市芦辺町)

一緒に読む
興神社(壱岐市芦辺町)

興神社(ko shrine)は 壱岐国が王制の時代であった頃の 一支国(壱岐国)の王都の跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座します 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所として「印鑰大明神」の社号で呼ばれ 格式高い由緒を伝えます 里人の通称名は「一の宮」です 現在では 本来の式内名神大社「天手長男神社」で「壱岐国一之宮」は当社「興神社」とする説が有力です

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3.住吉神社

〈延喜式内社 住吉神社(名神大)論社

・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

一緒に読む
住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれば 神功皇后が住吉神の護神により三韓を征伐し 凱旋の時〈郷ノ浦に上陸 足形を石面に残した時〉住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています

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4.本宮八幡宮

〈延喜式内社 兵主神社(名神大)論社

・本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)

一緒に読む
本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)

本宮八幡神社(ほんぐうはちまんじんじゃ)は 社縁起に兵主神社であり八幡宮と称すとあり 聖母縁起に 本宮八幡宮は 中住吉大明神 左誉田尊 右息長帯姫尊を祭る 神功皇后 三韓退治の時 住吉大明神の出現ありて神力を添へ給ふ故 当社住吉大明神を兵主神社と称す也とあり 式内社 兵主神社であると有力視されています

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5.箱崎八幡宮

〈延喜式内社 月讀神社(名神大)論社

・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

一緒に読む
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります

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6.國片主神社

〈延喜式内社 天手長比売神社(名神大)論社

・國片主神社(壱岐市芦辺町)

一緒に読む
國片主神社(壱岐市芦辺町)

國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました

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7.聖母宮

〈延喜式内社 中津神社(貞・名神大)論社

・聖母宮(壱岐市勝本町)

一緒に読む
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)

聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

壱岐島から対馬へと渡る最短距離の港〈壱岐島の最北部の港〉が 勝本港です

社伝には「仲哀天皇9年(200年)10 神功皇后は 壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵され 12 三韓からの帰路再び立ち寄られ 出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められた}と伝わります

神功皇后の足跡とその神馬の足跡といい伝わるのが 馬蹄石(竜石)

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参道の横には 天正二十年(1592)豊臣秀吉の朝鮮出兵令の時に 渡海の時 逆風の為 この地風待ちの為 加藤清正公が滞在の折り築いたとされる石築地造営寄進した表門があります

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その表門の浸せり手前には 金文字の社号標「聖母宮

聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦に参着

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一礼をして 表門くぐると きなシャコ貝手水舎があり 驚きながら 清めます

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石畳みの参道には  石燈籠 狛犬が座して その先に拝殿があります

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狛犬の奥〈北側〉に・恵比寿様・大黒が祀られる石積みは 社伝にある神功皇后の伝承の地とも云われています「当社は三韓出兵の帰路、異賊の首を海中三町余に沈め、その上に九町八反の築地を築き、神符を掛け五間四面の宝殿を造立、末世異賊の競望断絶を祈願された皇后一夜の霊地

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拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社務所にて ご神職にお逢いすると 丁寧に案内をして頂きました

拝殿内

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裏門は 肥前鍋島氏造営寄進

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手水舎の大シャコ貝は 南洋一パラオ島産

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加藤清正公が この地風待ちの為 滞在の折り築いた築地造営寄進した表門

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長崎県指定有形文化財

本殿・西門・南門(建造物 平成16年(2004年)2月25日)
茶壺(工芸品)昭和47年(1972年)2月4日)

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そして 表門の横にある石灯篭〈嘉永元年申冬吉祥〉と刻字

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この石燈籠には「七歳童書」と刻字があり 7歳の子供が書いた文字だとのこと

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御神職様には 色々丁寧に教えて頂き ありがとうございました

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 壹岐郡 手長比賣神社の所在について 本宮村〈現 手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)〉と記しています

式内社 壹岐郡 中津神社の論社の所在について 新城村〈現 中津神社(壱岐市勝本町)〉と記しています

【抜粋意訳】

壱岐 手長比神社

手長は多奈賀と訓べし、比賣は假字也
〇祭神明らかなり 考証 大食都姫 式内考 栲幡千千姫命といふ 共に今従わず

〇本宮村に在す
〇当国 石田郡 天手長比神社あり

怪異
扶桑略記、延喜十八年十月十五日.太宰府解、壹岐鳥言上、手長比賣明神社、住吉明神社如ニ太鼓 鳴動、御體美石出 宝殿 在ニ地上、高御祖神社内乱肇、炎光照耀、指レ東飛去、卜部等申云、彼島内疾兵革、寮云兵賊驚者、

中津神社(名神大)

中津は 奈加都と訓べし
〇祭神 中津島姫命 考証
〇新城村に在す
〇式三 臨時祭 名神祭 二百八十五座、中略 中津神社 一座
〇舊事紀 神祇本紀 一云 中津島姫命者、是所レ居ニ干中島者、此市杵島姫也、
今按るに、此中津宮の神に説々あり、尚 筑前國宗像郡 宗像神社の條見合うべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 壹岐郡 手長比賣神社の論社の所在について 三説を挙げています 

1.手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)は 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 手長と思い式内社とした「農人が 種子籾を流す河だったので 種子河(たながう)と云われていた 手長(たなか)社には由なし」
2.聖母宮(壱岐市勝本町)が論社として相応しいが 聖母宮は式内社の中津神社であり手長比賣神社ではないとの説もある
3.郡は違うが 物部邑〈天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)〉との説もある

式内社 壹岐郡 中津神社(名神大)の論社について
祭神について 旧説 中津島姫命としてします 所在は 本宮村〈現 中津神社(壱岐市勝本町)〉と記しています

【抜粋意訳】

壱岐 手長比神社

祭神 栲幡千千姫命
   天押穂耳命

祭日 九月二十九日
社格 (無社格)
所在 本宮村(壱岐郡鯨伏村本宮)
今按〈今考えるに〉
神社考に 本宮巴崩の山神の地名タナカウと云によりて

延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に手長と思ひて式内社としつれと 農人 種子籾なかす河なるより 種子河と云るなれば 手長社に由なし
手長比神社は 勝本浦 聖母大明神ならんと云り
然るに 式社沿革考に 勝本浦なるは中津神社にて手長社にあらず 手長比神社は 承應社記に中通とある如く 郡は異なれども物部邑中通の神社なるへしと云り 姑附て考に備ふ

中津神社(名神大)

祭神
今按〈今考えるに〉
延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉より 祭神 瓊瓊杵尊 天兒屋根命を祭るとせしより 明細帳 式内社記みな之に従へり
されと舊説 中津島姫命とある 中津島姫は宗像の中津島にます 湍津姫命を移し祭れるより かく云傳へたるなるべし 然るに沿革考に中津島姫と云より仲姫を祭れるならんと云も勝本浦 聖母大神宮歟と云るは信かたし 祭神 湍津姫命として可ならん姑附て考備ふ

祭日 九月十四日
社格 (無社格)(郷社)

所在
今按〈今考えるに〉
社記に嵯峨天皇 弘仁二年十月朔 壱岐郡新城村川須見の邊り 中津越の峰に鎮座奉るとあり 中津神社の称は この中津越の峰より起れるならん

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 壹岐郡 手長比賣神社の論社の所在について 石田郡物部村〈現 天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)〉と記しています

式内社 壹岐郡 中津神社の論社の所在について 新城村〈現 中津神社(壱岐市勝本町)〉と記しています

【抜粋意訳】

壱岐 手長比賣(タナガヒメノ)神社

今、石田郡 物部村中通に在り、
〇按 神名帳頭注、此神を以て 思兼神の子とす、何拠ある事を知らず、姑附て考に備ふ

中津(ナカツノ)神社

今、新城村に在り、
〇按 社記に弘仁二年十月朔、壱岐郡新城村川須見の邊、中津越の峯に鎮座とあり、中津の称 或いは此に起こる歟

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

式内社 壹岐郡 手長比賣神社について
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)は 棚川大明神社と云っていた

又「本宮邑 久榮山ノ神ノ所在ヲ「タナガウ」ト称シ」としていたものから 式内社とされているが まったく由縁はない論拠だと記しています
本来は 聖母宮(壱岐市勝本町)が論社として相応しい

式内社 壹岐郡 中津神社について
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦は 古くから 式内社 壱岐島の大7社の一つ〈中津神社(名神大)〉 民間信仰の壱岐七社の一つともされている と記しています

【抜粋意訳】

鯨伏村ノ部
無格社 手長姫神社

鎮座地 壱岐郡鯨伏村本宮
 神 拷幡千々姫命、天忍穂耳尊 
例祭日 十九
境内地 245坪

〔由緒沿革〕
一、神名記ニ曰、本宮手長比売神社小、改以前ハ手長男大明神ト云。
一、神社帳ニ曰、「クエ」手長比売神社小、二十四座ノ内、宝殿拝殿定祭九月二十九日
一、慶安二年再建棟札ニ曰、
奉造立本宮郷久栄村 棚川大明神社 壇一宇之事云々、当國所司代 西郷右京亮下略
一、延宝四年六月 国主鎮信公 木鏡一面及石額ヲ献ゼラレ 延喜式内社ト定メラル。
一、神社考ニ曰、本宮邑久榮山ノ神ノ所在ヲ「タナガウ」ト称シ 九月二十九日トセル小社ヲ以テ式ノ手長比売神社ト見做シ 祭神ヲ、拷幡千々姫尊ナリトス 「タナガウ」ハ籾種ヲ浸ス河ナリ、何ゾ手長姫ニ縁由アラムヤ 中略 式内ノ手長姫神社ハ勝本聖殿大明神ナラムカ(抄録)創立年月其ノ他不詳。

勝本町ノ部
村社 聖母神社 香椎大明神 或ハ 聖母大善薩)

鎭座地 勝本町大字可須勝本浦字正村
 神 息長足姫尊、足仲彦尊、誉田別尊、上筒男命、仲筒男命、底筒男命
 祀 天照皇大神(明治四十五四月神明神社合祀)
例祭日 自十月十 十四
境内地 五四二

〔由緒沿革〕
一、抑当社ハ 神功皇后 三韓征伐 御往来ノ時ノ御着津ニシテ 三韓ヨリ帰リマスノ時 此地ニ異賊ノ首ヲ埋メ 其上神符ヲ掛ケ 末世異賊ノ競望ヲ断絶ム事ヲ誓給フ、所謂 皇后一夜建立ノ霊地ナリ。因ツテ 皇后神退リシノ後 彼所ニ社壇ヲ設ケ 本朝平安異国降伏ノ守護神ト崇奉ル。然後 元正天皇 養老5辛酉年8月異敵襲來ノ時 奇瑞霊験有リシニ依リ 勅使ヲ使ツテ再興 同ジク勅願ニヨリ 淳仁天皇 天平宝字5年鎭西五社ノ再興アリ、当社其一ナリ。

一、玉殿ヲ乾ニ向クルハ異賊降伏ノ支証ナリ。泉后右足モテ賊骨ヲ踏ミ社前ノ石而ニ印シ給フ 其西ニ向ハ 是異國ガ未來ノ競望ヲ断テ 本朝ヲ鎮護スル也。皇后ノ龍馬ノ両蹄石ガ(鳥居左脇)東ニ向ヘルハ 即チ本邦ヲ擁護シ給フ也
一、香椎邑風本浦 香椎聖母宮ハ 神亀元年 甲子再興アリト 部高巣ガ齋キ奉レル所ナリ、此所ヲ 香椎宮卜称シ 聖母大明神ト申ス。
一、桓武天皇延暦6年8月3日異賊襲來ノ時 異賊降伏祈念ノ為 社壇ヲ築キ奉ル。
御霊形金鏡三画。中ハ神功皇后左右相殿ニハ 仲哀天皇 応神天皇ヲ祀ル。
一、養老4年8月14日異賊数萬艘本邦ニ襲來ス、時ニ大風俄ニ起リ異船ヲ即減セシム。茲ニ因テ異賊ノ魂魄ヲ救ハンガ爲ニ放生曾ヲ行ハル。諸社ノ放生曾此ノ時ヨリ始マル。毎年旧8月14日ヲ以テ聖母宮ノ祭日ト定ム。
此ノ日必北風強ク起ル俗ニ之ヲ聖母ノ北風ト称ス。
一、皇后10月朔日壱岐ニ到リ可須郷西北ノ海浦ニ著キ給フ時ニ連日西風頻ナリケレバ皇后風神ヲ祈リ給ヒシニ 東風起リテ 三韓ニ渡リ給フ。依ツテ其ノ地ヲ風本卜名ヅケ給フト。
一、社記曰 壱岐國壱岐郡 可須庄 香椎郷風本 勝本之聖母神社者 神日本磐余彦尊之十四世 足仲彦尊之皇后 氣長足姫尊也 足仲彦尊 誉田別尊 海神住吉武内玉垂命 奉合祭相殿 当社之地者 氣長足姫尊 征伐三韓時 御往来之御着津行宮其儘立置所 此地行宮 毎夜自海中昇光物如燈火静暫燃火 海中依之 氣長足姫尊三御治世之時 於其行宮 五間四面之御殿 奉納 神鏡奉祝祭 氣長足姫尊行宮為御宝殿奉 崇神明者世珍目出度御社也云々。
一、抑当社ハ式内ノ社ナリシモ 延宝年間 旧藩主ノ命ニテ 式内調ベノアリシ時 室町幕府末葉ヨリ別当ノ起ルアリテ 後年コレガ爲 幾多ノ交渉ヲ生ジ 聖母神社ノ社號ガ 式内社ニ恰当スルモノナキニヨリ過リテ 其撰ニ洩レタリ。然レドモ 古來民間慣行ノ崇敬 壱岐國大七社ノ一ニ算セラレ給フハ 即チ 延喜式大七社ノ一ナル事ヲ 有力ニ物語ルモノニ外ナラズ。況ンヤ 皇后ノ三韓征伐ノ時ノ遺跡ナル事ハ 地理上及航海上ノ推歩ニヨルモ 之ヲ否認スルコト能ハザルナリ、又 壱岐二ノ宮卜称シ 藩主ノ崇敬タル 七社ノ一ニシテ直参ノ社ナリ、式社沿革考ニ曰ク 聖母神社ハ 式内中津神社ナルベシト。
一、大永6年内秘殿浜床造替。波多壱岐守源朝臣盛公在判。
一、慶長17年拝殿造替。松浦式部卿法印宗静公源三郎源朝臣信公同豊後守信実公在判。
一、元和6年宝殿造替。松浦肥前守源朝臣隆信公同豊後守信実公(棟札現存)
一、明暦4年宝殿造替。松浦肥前守源朝臣鎭信公在判(棟札現存)。
一、宝永元年拝殿造替。從五位下松浦壱岐守源朝臣棟公在判(棟札現存)。
一、延宝4年木鏡御正躰御寄進。松浦肥前守源朝臣鎮信公在判。
一、宝暦2年宝殿造替。松浦肥前守源朝臣誠信公在判(棟札現存)。
一、明和3年拝殿造替。松浦肥前守源朝臣誠信公在判(棟札現存)。
一、弘安4年上略祈諸顧8月朔神風破賊船奉寄進壱岐譜社可須郷香椎宮領
一、永録10年社領貮反壱貫文
一、慶長13年神領二石七斗四升
一、旧藩主ヨリ寄進ノ社領二石及社殿再建ノ都度白銀七枚奉納

  刊物六通(現存)
  内一通 元和三年十二月廿八日降信公
  同一通 寛永二年十二月廿八日降信公
  同一通 寛永二十年正月十一日鎭信公
  同一通 元禄 九年正月廿六日任公
  同一通 享保 七年四月朔日篤信公
  同一通 寛延二年十一月十八日誠信公

一、奉献上
  御太刀 一腰 御馬 一
   松浦壱岐守成
一、松浦肥前守源朝臣鎭信公延宝4年丙辰4月21日石鳥居建立、享保11丙午歳9月23日修覆、天明7丁未7月10日再修覆。
一、文禄元年加藤主計頭朝鮮陣渡海ノ節逆風ノタメ逼留ノ間ニ社地ノ廻り海岸ニ石垣ヲ築造寄進
一、社伝ニ曰当社表門ハ文禄元年4月加藤肥後守ガ造営寄進スル所ニシテ門標ニ清正ノ家紋「蛇ノ目」ヲ彫刻ス、然ルニ明和5年勝本富豪土肥市兵衡ノ表門ヲ改築スルニ方リテ土肥ノ家紋「蔦ノ紋」ニ改メタリト、又裏門ハ肥前守鍋島氏ノ造営寄進スル所ニシデ「抱キ茗荷」ノ紋所ヲ刻セシガ之ノミハ改創ヲ菟レテ今日ニ及ブト。
一、国主松浦氏告文二通(現存)。
一、祭礼神輿奉担駕丁ニ関スル記録左ノ如シ。
右ノ故ニテ二ノ神輿ヲ国輿トモ郡輿トモ称ス。是少貮氏ノ幕下佐志壱岐守源義九十四町領ノ時ノ旧例也トゾ、毎年8月10日神輿ヲ本浦宮所ニ渡御ナシ奉リ13日夜離宮所ニテ大神楽ヲ奏シ14日還御、國主ノ名代参向奉幣及神幸船競争囃子ノ儀式アリ、浮殿ニ坐セ奉ル間勝本ノ浦人ノ手踊狂言ナドヲ執リ行ヒ國内貴賤参詣スルモノ多シ。(名勝図誌ヨリ)
一、祭米六升六合五毅成就米参斗
一、明治9年村社ニ列セラル。
一、明治45年4月無格社神明神社合紀。
一、大正5年10月13日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。
一、大正7年3月28日北白川宮成久王殿下御参拝アラセヲル。松一株御手植遊サル。

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦 (hai)」(90度のお辞儀)

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壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について

壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です

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