実践和學 Cultural Japan heritage

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小幡神社(東近江市五個荘中町)〈『延喜式』川桁神社〉

小幡神社(おばたじんじゃ)は 延喜式内社・近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です 明治に東殿(春日大明神)と西殿(小幡八幡宮)が合併した歴史を持ち、境内には珍しい尻上がりの狛犬や霊泉 祓戸四柱大神が鎮座します かつて中山道の旅人が穢れを祓った聖域であり 今も美しい祭礼の伝統が脈々と受け継がれています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

小幡神社(Obata shrine)

【通称名(Common name)】

【鎮座地 (Location) 】

滋賀県東近江市五個荘(ごかしょう)中町303

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神》
(東本殿)
 武甕槌命・伊波比主命・天兒屋根命・比賣神・瀬織津比咩神・速開都比咩神・息吹戸主神・速佐須良比咩神

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(西本殿)

 建甕槌神・伊波比主命・天児屋根命・比賣神・誉田別命・氣長足比賣尊・帯中日子命・大雀命・武内宿禰命

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《配祀神》
 武甕槌命,天御中主神,高御産霊神,神御産霊神,須佐之雄命,市杵島姫命,大国主命,猿田彦命,足仲彦命,息長足姫命,誉田別命,大鷦鷯命,宇多天皇,豊受姫命,大物主命,伊弉諾尊,伊弉冉尊,素戔之男尊,天手力男神,少名彦那命,猿田彦命

《合祀神》
 白山比咩命,日本武命

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社

【創 建 (Beginning of history)】

小幡(オバタ)神社

御祭神

(東本殿)武甕槌神 伊波比主命 天兒屋根命 比売神 瀬織津比咩神 速開都比咩神 気吹戸主神 速佐須良比咩神
(西本殿)建甕槌神 伊波比主命 天児屋根命 比売神 誉田別尊 氣長足比売尊 倭建命 帯中日子命 大雀命

〔配祀神〕
(東本殿)大山咋神 市杵島姫命 白山比咩神 金刀比良大神 大物主神 藤森大神
(西本殿)津島神 大山咋神

御由緒

4組の氏神と仰ぎ奉る大宮大明神小幡邑氏神に坐す、惣社大明神、山王大権現の3社を奉祀する東殿と、築瀬邑の氏神と崇め奉る若桜宮大神及び小幡八幡宮の2座を奉斎する西殿から成っている。東殿を春日大明神、西殿を小幡八幡宮と申したが、明治9年ひとしく小幡神社とされ、同43年官允を得て両者併合今日に至った。その昔2月の祭礼に当りては、初午2の午両度に神輿を奉じて9郷20余村を巡る渡御の神事いとも盛大に斎行され、その行粧の委細は記録に明らかである。社殿によれば天長年間に春日神社を勧請して大宮が創まり惣社は祓所4柱の大神を祭神とし、日吉大神は天福年中小幡位田の地が日吉の社領とされた神縁による御鎮座と云はれる。また西殿の若桜宮は大宮の御分霊を祀る若宮であり八幡大神をも奉鎮すると伝え創始の伝来は様々であるが、何れも似小戸と称える霊泉の4時滾々として絶えることのない聖域である。

境内社(摂社・末社)
 神明神社 粟島神社 八坂神社 迦具土神社 事代主神社 森光稲荷神社

滋賀県神社庁HPより
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=809

由緒

 小幡邑の氏神と仰ぎ奉る惣社大明神、山王大權現、四組の氏神にまします 大宮大明神の三座を奉祀する東殿と、築瀬邑の氏神と崇め奉る若桜宮大神および小幡八幡宮の二座を奉齋する西殿とから成っている。
東殿を春日大明神、西殿を小幡八幡宮と申し上げたが、明治9年二社ひとしく小幡神社とされ、同43年官允(かんいん)を得て両社併合御神威ますます輝き給うて今日にいたった。
 その昔 二月の祭礼に当りては、初午、二の午の両度に神輿を奉じて九郷20余村を巡る渡御の神事いとも盛大に齋行され、その行粧の委細は記録に明らかである。時代の推移に随い次第や巡幸路等に逐次変遷はありながらも、氏子を挙げての美しい伝統は今も4月8日の祭礼と、その宵宮をはじめ年中行事の数々に脉々と継承されている。

 社傅によれば推古天皇の11年の創始といわれ、惣社は祓所(はらへど)四柱の大神を祭神とし、日吉大神は天福年中、小幡位田(いんでん)の地が日吉大社の社領とされた神縁による御鎮座といわれる。また天長年間に春日神社を勧請して大宮が創まり、西殿若桜宮は大宮の御分霊をまつる若宮にましまし、八幡大神を奉鎮すると伝えるなど、創始の伝承はさまざまであるが、何れにしても似小戸とたたえる霊泉の四時滾滾と絶えることのない聖域に氏神の宮居を崇祀した父祖の深い祈りが偲ばれる。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由 緒 (History)】

現地石碑文より

【原文】

小幡神社御由緒

 当社は四組の氏神と仰ぎ奉る大宮大明神、小幡邑の氏神にまします惣社大明神 山王大権現の三座を奉祀する東殿と 簗瀬邑の氏神と崇め奉る若桜宮大神 および小幡八幡宮の二座を奉斎する西殿とから成っている。
東殿を小幡春日大明神、西殿を小幡八幡宮と申し上げたが 明治九年 二社ひとしく小幡神社とされ、同四十三年 官允を得て両社併合 御神威ますます輝き給うて今日にいたった

 その昔 二月の祭礼に当りては 初午二の午の両度に神輿を奉じて九郷二十余村を巡る渡御の神事いとも盛大に斎行され その行粧の委細は記録に明らかである 時代の推移に随い 次第に巡幸路等に逐次変遷はありながらも 氏子を挙げての美わし 奉仕の傳統は 今も四月八日の祭礼とその宵宮をはじめ 年中行事の数数に脉脉と継承されている

 社伝によれば 天長年間に春日神社を勧請して 大宮が創まり 惣社は祓所四柱の大神を祭神とし 日吉大神は天福年中 小幡佐田の地が日吉社の社領とされた神縁による御鎮座といわれる また西殿 若桜宮は 大宮の御分霊を祭る若宮にましまし 八幡大神をも奉鎮すると伝えられるなど 創始の伝承はさまざまであるが 何れにしても 以小戸をたたえる霊泉の四時滾々と絶えることのない聖域に氏神の宮居を崇祀した父祖の深い祈りが偲ばれる

 昭和五十四年四月吉辰 宮司 ・・・・

現地石碑文より

【現代語訳】

小幡神社は、もともと東殿と西殿から成っていました。

東殿には、四組の氏神として崇敬されていた大宮大明神、小幡村の氏神である惣社大明神、そして山王大権現の三座が祀られていました。一方、西殿には、簗瀬村の氏神として崇敬されていた若桜宮大神と、小幡八幡宮の二座が祀られていました。

東殿は「小幡春日大明神」、西殿は「小幡八幡宮」と称していましたが、明治9年(1876)、両社はいずれも「小幡神社」と称することになりました。その後、明治43年(1910)に官の許可を得て両社が合併し、神威はいよいよ輝きを増して今日に至ったとされています。

かつて二月の祭礼では、初午と二の午の二度にわたり、神輿を奉じて九郷二十余村を巡る渡御の神事が、たいへん盛大に行われていました。その行列の詳しい様子は記録にも残されています。

時代が移り変わるにつれて巡幸の道筋などには次第に変化が生じましたが、氏子が総出で奉仕する美しい伝統は、現在も四月八日の祭礼とその宵宮をはじめ、さまざまな年中行事に脈々と受け継がれています。

社伝によれば、天長年間(824~834)に春日神社を勧請したことによって大宮が創始されたとされています。

惣社は、祓所四柱の大神を祭神としています。また、日吉大神については、天福年間(1233~1234)に小幡佐田の地が日吉社の社領となった縁によって、この地に鎮座したと伝えられています。

西殿の若桜宮は、大宮の御分霊を祀る若宮であり、さらに八幡大神も併せて祀ったと伝えられています。このように、小幡神社の創始についてはいくつかの伝承があります。

しかし、いずれの伝承によるとしても、「以小戸(いおど)」をたたえる霊泉が四季を通じてこんこんと湧き続けるこの聖域に、祖先たちが氏神の御宮を祀り、崇敬してきた深い祈りを偲ぶことができます。

昭和54年(1979)4月吉日 宮司 ……

【原文参照】現地石碑文より

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小幡神社

 古より氏子や中仙道を旅する人々の知らず知らずの穢れを祓い落とし穏やかな日々を祈っておられます。

 愛知川を渡り伊勢の神宮参拝に向かわれる方々や他に旅する人々は轟橋を通り小幡神社にて「祓戸四柱大神」のお祓いを受け再び中仙道を旅されました。

尻上がりの狛犬は全国的にも珍しいです。

祓戸四柱大神

瀬織津比咩神(山に降り注いだ罪や穢れを海に流してくれる神様)
(せおりつひめのかみ)

速開津比咩神(海の底で待ち構え禍事穢れを呑み込んでくれる神様)
(はやあきつひめのかみ)

息吹戸主神(速開津比咩神が海に呑み込んだ罪穢れを吹き飛ばす神様)
(いぶきどぬしのかみ)

速佐須良比咩神(息吹戸主神が吹き放たれた罪穢れを浄化、消滅する神様)
(はやさすらひめのかみ)

【原文参照】現地案内板より

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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・小幡神社〔本殿〕

(東本殿)春日造唐破風付 間口三間 奥行二間

〈境内社〉粟島神社《主》少名彦那命
〈境内社〉八坂神社《主》建速須佐男命,稲田姫命

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(西本殿)三間社流造 間口三間 奥行三間

〈境内社〉加具土神社《主》迦具土命
〈境内社〉事代主神社《主》事代主命

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・小幡神社〔拝殿〕

(東拝殿)入母屋造 間口六間 奥行三間

※写真はありません

(西拝殿)入母屋造 間口四間 奥行三間

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・〈境内社〉森光稲荷神社《主》宇迦之御魂命

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森光稲荷神社 御由緒

祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

祭日  三月八日夜 お火焚祭
   十二月八日夜

全国いたる所に祭られているお稲荷さまの總本社 伏見稲荷大社は 和銅四年(七一一年)二月初午の日の創祀と伝えられる 秦伊呂具(はたのいろぐ)が的にして射た餅が白鳥となり留まった山の頂に、稲が生じたので「稲生(いねな)り」から その名がつけられたという はじめは五穀の守護神として のちには広く商工業そのほかの一切の産業繁栄の守り神として崇められてきた

 森光稲荷神社は天保十四年(一八四三年)小幡神社の境内社として建立された

 現存の古記録によれば 文政七年(一八二五年)信濃の国 芋川村住の徳武宗助なる者が伏見の御本社より勧請した御分霊を愛知川宿に預けたままにしていたので 小幡神社 神主 出雲守がとりあえず 本社にておまつりしていたが 天保十四年(一八四三年)霊験を知った有志が力を協せて一社を建立し 同年六月十七日盛大な遷座祭を執り行った 天下泰平・五穀豊穣 村内安全・子孫繁栄を祈願し 毎月八日を縁日と定めたとある

 稲荷の大神の偉大なる御神徳に対する根強い信仰は 稲荷講や氏子は元より広く氏子外にも及び 年二回除災諸願成就のお火焚祭を盛大に行っている

平成六年三月吉日

【原文参照】現地案内板より

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・〈境内社〉神明神社《主》天照皇大神,豊受姫大神

※写真はありません

・社頭・鳥居

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・〈社頭の向かい〉社務所・祖霊殿

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・小幡神社 御旅所〔三ヶ所あり〕

所在地

①小幡神社御旅所、〒529-1413 滋賀県東近江市五個荘簗瀬町
②小幡神社御旅所、〒529-1414 滋賀県東近江市五個荘中町
③小幡神社御旅所、〒529-1422 滋賀県東近江市五個荘小幡町

【この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)】

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)神崎郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川桁神社
[ふ り が な ](かはけたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kahaketa no kaminoyashiro)

【原文参照】

[件名・細目]「延喜式 巻10」(特026-0001-0005)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/item/4028148

【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『式内社調査報告 第十二巻』昭和59年に記される「式内社 川桁神社」内容

『式内社調査報告 第十二巻』には 延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社の論社としてA~Fの六社を挙げています

【原文抜粋】

【社名】

『延喜式神名考』は傍訓を「カハタナノ神社」とし、『神名帳考証』は傍訓を「カハラケタ神社」とする。
桁の字は音では「カウ」、訓では「ケタ」であるが、この訓みにしたずふと、『延喜式神名考』のカハタナとは訓みがたく、「カハケタジンジャ」と訓むべきだと考へられる。

【所在】

 川桁神社の所在は定かではなく、左記の六社が川桁神社であると傳稱されてゐる。この六社は、神崎、愛知、犬上の三郡にわたって散在してゐる。

Aの神社は、河桁御河邊神社と稱し、神崎郡八日市市神田町(舊神崎郡御園村大字神田三八五番地 )近江鐡道八日日市驛より東北へ約二キロメートル。

Bは、大瀧神社と稱され、大上郡多賀町大字宮ノ尾(舊神崎郡郡山上村大字萓尾 )近江鐵道多賀驛より南へ約四キロメートル。

Cは、河瀬神社と稱する。彦根市南川瀬町( 舊犬上郡川瀬村南川瀬)東海道線川瀬驛より南へ一キロメートル。

Dは、小幡神社と稱し、神崎郡五箇莊町大字中 (舊神崎郡五箇莊村大字中 )近江鐵道五箇莊驛より南へ約ー・五キロメートル。 

Eは、川桁神社と稱す。彦根市甲崎町(舊愛知郡稲枝村大字甲崎)東海道線稲枝驛より北へ約三キロメートル。

Fは、河脇神社と稱して、愛知郡愛知川町大字中宿(舊愛知川町大字中宿)近江鐡道愛知川驛より北へ〇・五キロメートル。

【原文】『式内社調査報告第 巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

延喜式内社 近江國神崎郡 川桁神社(かはけたの かみのやしろ)の論社

A・河桁御河辺神社(東近江市神田町)

一緒に読む
河桁御河辺神社(東近江市神田町)〈『延喜式』川桁神社〉

河桁御河辺神社(かわけたみかべじんじゃ)は 滋賀県東近江市神田町 愛知川のほとりに鎮座する古社です 社記によれば 宣化天皇4年(539)神崎郡司・玉祖宿禰磯戸彦連が神のお告げにより神崎川辺に社を建てて祀ったのが始まりと伝えられます 延喜式内社 近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です

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B・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)

一緒に読む
大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)〈『延喜式』川桁神社〉

大瀧神社(おおたきじんじゃ)は 高龗神・闇龗神・水分神を祀り 犬上川上流の滝のほとりに鎮座します 古来 多賀大社の末社・奥宮とも考えられ 多賀大社・胡宮神社とともに「多賀の三社参り」の一社としても知られ 境内の犬上神社には大蛇退治の伝承があります 延喜式内社・近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です

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C・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)

一緒に読む
河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)〈『延喜式』川桁神社〉

河瀬神社(かわせじんじゃ)は 大穴牟遅神・譽田別尊・大山咋神を祀ります 延喜式内社・近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です 『近江輿地志略』『神社覈録』は式内社 川桁神社を犬上郡川瀬村に鎮座すると伝え 江戸時代までは「川桁神社」「桁の宮」「気多大明神」とも称されていました

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D・小幡神社(東近江市五個荘中町)

一緒に読む
小幡神社(東近江市五個荘中町)〈『延喜式』川桁神社〉

小幡神社(おばたじんじゃ)は 延喜式内社・近江国神崎郡 川桁神社(かはけたのかみのやしろ)の論社です 明治に東殿(春日大明神)と西殿(小幡八幡宮)が合併した歴史を持ち、境内には珍しい尻上がりの狛犬や霊泉 祓戸四柱大神が鎮座します かつて中山道の旅人が穢れを祓った聖域であり 今も美しい祭礼の伝統が脈々と受け継がれています

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E・川桁神社(彦根市甲崎町)

F・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近江鉄道 五箇荘駅から北方向へ約1.1km 徒歩での所要時間16~18分程度

境内 社頭は南南西向きです

社頭の社号標には「式外舊社 小幡神社」とあり 式内社は名乗っておらず 式外旧社と自称しています

小幡神社(東近江市五個荘中町)に参着

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一礼をしてから鳥居をくぐり抜けて 境内参道に進むと 向かって右手に〈境内社〉森光稲荷神社《主》宇迦之御魂命が祀られています

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東本殿にすすみます
本殿前の境内社は
〈境内社〉粟島神社《主》少名彦那命
〈境内社〉八坂神社《主》建速須佐男命,稲田姫命

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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西本殿にすすみます
本殿前の境内社は
〈境内社〉加具土神社《主》迦具土命
〈境内社〉事代主神社《主》事代主命

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

※明治3年(1870年)成立のこの『神社覈録』は、式内社「川桁神社」について「祭神は不明」としたうえで、その所在地を犬上郡川瀬荘川瀬村(『輿地志略』による)としており、現・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)を論社としています。『明治神社誌料』(前掲)にも一説として『輿地志略』の説「輿地志略は犬上郡川瀬荘川瀬村に在りといふ」も紹介しています。式内社「川桁神社」については、江戸期以来の考証の時点ですでに神崎郡説と犬上郡説とが紹介されていました。

【抜粋意訳】(原文)

神埼郡二座 並小

乎加神社・・・〈中略〉

川桁神社

川桁は加波氣多と古點あり

〇祭神詳ならず

〇今 犬上郡川瀬荘川瀬村に在す〔輿地志〕

現代語訳(要旨)

神埼郡(神崎郡)には2座の式内小社が記載されており、そのうち一座は「乎加神社」・・・〈中略〉

もう一座が「川桁神社」で、

「川桁」には古くから「かわけた」と訓む点(古點)があるとしながらも、祭神については詳らかでない(不明である)とし、(当時)現に犬上郡川瀬荘川瀬村に鎮座するとしている(『輿地志略』による)。

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

※『神祇志料』は 式内社「川桁神社」について 萱尾村の鎮座「大瀧大明神」としており、これは論社のひとつ 現「大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)」です。
なお、当社の祭神のひとつ「天湯河桁神」は、まさにこの『神祇志料』が引く、鵠を追って天湯河桁命が近江・越国にまで至ったという『古事記』『日本書紀』の説話(前述「予備知識」参照)に由来するものです。

【抜粋意訳】(原文)

川桁神社

今 萱尾村にあり、大瀧大明神と云ふ、
〔山上縣伺書、〇按神前を流るる愛知川南淵 大岩聳立る上に、桁の如く横はれる石上を、水瀧なして落る故に、川桁の名あり、又 神崎愛知二郡田に灌く水を、湯川と云ふ、近隣 百五十餘村の田畝、皆其水利を被るを以て、民人豐熟を祈り、秋稻を神社に納むるを例とすと云り、姑附て考に備ふ、〕

盖 鳥取部連の祖 天湯河桁命を祀る、〔參取古事記、新撰姓氏錄、〕

垂仁天皇御世、皇子 譽津別命 八拳鬚胷前に至るまで、眞事とはす、高往鵠が音を聞して、始て阿藝登比し給ひき、故 湯河桁命をして、其鳥を捕しめき、故其鵠を追尋て東方に追廻りて、近淡海國に至り、遂に高志國に至て捕て献りき、即是也。〔古事記參取、日本書紀、〕

現代語訳(要旨)

川桁神社は、今は萱尾村にあり、大瀧大明神と呼ばれている。
〔『山上縣伺書』によれば、神前を流れる愛知川の南の淵に大岩がそびえ立ち、その上に桁(横木)のように横たわる石があって、水がそこを瀧のように落ちるために「川桁」の名があるという。また、神崎・愛知の二郡の田を灌漑する水を「湯川」と呼び、近隣百五十余村の田畑はみなこの水の恩恵を受けているため、村人は豊作を祈り、秋の稲を神社に納めるのを例としているという。ひとまず書き添えて考察の参考とする。〕

当社は、鳥取部連の祖である天湯河桁命を祀るものと思われる。〔『古事記』『新撰姓氏録』を参照〕垂仁天皇の御代、皇子の誉津別命は、あごひげが胸元に至る年齢(成人)になっても、まともに物を言うことができなかった。ところが空高く飛ぶ鵠(くぐい、白鳥)の鳴く声を聞いて、初めて片言を発せられた。そこで天皇は湯河桁命に命じてその鳥を捕えさせた。湯河桁命はその鵠を追いかけて東方をめぐり、近淡海国(近江国)に至り、ついに高志国(越国)にまで至ってこれを捕え、献上した。これがすなわち当社の祭神である。〔『古事記』『日本書紀』を参照〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

※『特選神名牒』は、神崎郡神田村の御河辺神社を式内社とする決め手がなく、犬上郡河瀬村説(『輿地志略』)も郡が異なるとして退け、独自に愛知郡出路村(愛知郡愛知川町大字金田)現・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)を式内社「川桁神社」の所在地に定めています。
これにより、式内社「川桁神社」の論社所在については、
・河桁御河辺神社(東近江市神田町)
・河瀬神社(彦根市川瀬馬場町)犬上郡川瀬荘川瀬村説(『輿地志略』『神社覈録』)
・大瀧神社(犬上郡多賀町富之尾)犬上郡萱尾村説(『神祇志料』)
・河脇神社(愛知郡愛荘町中宿)愛知郡出路村説(『特選神名牒』)

と、少なくとも四つの説が紹介されています。

ただし『特選神名牒』自身も、出路村説の根拠を「祭神の名にゆかりがあるように思われる」という状況証拠にとどめており、確たる決め手とまでは述べていません。

【抜粋意訳】(原文)

川桁(カハタナノ)神社

祭神 天ノ湯河板擧(アメノユカハタナノ)命
祭日 二月二酉日

社格 村社(明細帳になし)

所在 出路村〔今属 愛智郡〕(愛知郡愛知川町大字金田)

今按 縣の注進に神田村 出路村の二所に川桁ノ神社ある由を記して 何れが是なるを詳かにせずと云り
 されど輿地志略を考ふるに神田村御川邊明神 祭神 大己貴命 愛智川の水上にますに由て御川邊ノ神社と號すとありて 式社なる事を云はず 同社由緒書にも河桁御河邊大明神と云ひ 氏子十八村あり神宮寺古より別當にてありし趣を記せれば由ある古社なるべけれど 川桁神社なるべき證なし
又 輿地志略に川桁ノ神社 犬上ノ郡河瀬村にありと云へど 郡隔れば從がたし
 さて出路村由緒書に神社古より出路村 成亥の方 字神田代(ミトシロ)と云地に鎭座あり 毎年 神輿神幸の時の祭場を本庄村イワノキと云 其南方に河田湯河添湯と云湯水あり 近郷樞要の水道なりと云る 祭神の名にも由ありて聞ゆれば此地と定めて記せり

現代語訳(要旨)

川桁(かはたなの)神社。

祭神は天湯河桁命(原文は「天ノ湯河板挙命」、フリガナは「ユカハタナノ」)。

祭日は2月の二の酉の日(原文「二月二酉日」)。

社格は村社(ただし明細帳には記載がない)。

所在は出路村(現在は愛知郡に属し、愛知郡愛知川町大字金田にあたる)。

今考えるに、滋賀県からの注進(報告)には、神田村・出路村のいずれか2か所に川桁神社があるとしながら、どちらが正しいのか詳らかにしないとある。しかし『輿地志略』によれば、神田村の御川辺明神は祭神を大己貴命とし、愛智川の水上に鎮座することから「御川辺神社」というとあるが、これを式内社であるとは述べていない。同社の由緒書にも「河桁御河辺大明神」と称し、氏子十八村があり、神宮寺が古くから別当であった旨が記されているので、由緒ある古社ではあろうが、これが式内「川桁神社」であるという証拠はない。
また『輿地志略』には「川桁神社は犬上郡河瀬村にある」ともいうが、郡が隔たっているので従いがたい。 そこで出路村の由緒書によれば、当社は古くから出路村の亥(北西)の方角にあたる「神田代(ミトシロ)」という地に鎮座しており、毎年の神輿渡御の祭場を本庄村イワノキと称し、その南方には「河田湯・河添湯」という湯水があって近隣にとって重要な水源であるという。
祭神の名(天湯河桁命)にもゆかりがあると考えられるので、この地(出路村)をもって式内社の所在地と定めて記した。

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

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