実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)〈日本武尊ゆかりの延喜式内社〉

成海神社(なるみじんじゃ) 日本武尊が 東征からの帰還の際 鳴海潟(現 鳴海駅北)から対岸の宮簀媛命の居住する火高丘陵〈建稲種命の館〉(現 氷上姉子神社)まで船で渡ったと伝わる地に 天武天皇の朱鳥元年(686)草薙神剣が熱田に還座鎮座しました 延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

成海神社Narumi shrine

通称名(Common name)

・東宮大明神

【鎮座地 (Location) 

愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山85

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)

《配》宮簀媛命(みやすひめのみこと)    建稲種命(たけいなだねのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

成海(なるみ)神社

 平安時代初期の宮中の年中行事や制度などを記した『延喜式(えんぎしき)』に載る「愛智郡成海神社」にあたるとされる格式の高い神社である。

朱鳥(しゅちょう)元年(六八六)の創建といわれ、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たていなだねのみこと)を祭神とする。初め天神山(根古屋 ねごや)に在ったが、応永(一三九四一四二八)のころ安原宗範(やすはらむねのり)が鳴海城(根古屋城ともいう)を築くにあたり、この地に移された。

現本殿は棟札(むなふだ)にあるように延宝年(一六七七)の建立と見られる。

名古屋市教育委員会

現地立札より

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【由  (History)】

由緒

 天武天皇の朱鳥元年(689)熱田神宮 神劍飛鳥の都より御遷座の時の創祀と伝えられています。  是は社伝「成海神社古実聞書」(元禄14年~延享4)神主 牧野播磨守英治筆録のみでなく、奈良朝末期 天応元年(781)に書かれた「熱田大神宮御鎮座次第本記」に成海神社は天武の朝、日本武尊御東征の縁に依る祭神と見えることでも肯けます。

 ナルミの地は日本武尊の御縁故地として特筆すべき所で その東征のとき尾張国の長官であった、建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えてここにお迎えし、妹の宮簀媛命は尊の妃に成られました 寛平2年(890)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊の御歌が四首ありますが、その一に「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」と武尊が古の鳴海潟の岸辺で詠まれたもので 成海神社は 是を縁起としてその故地に創祀された。

 その場所は 現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で、太古は波打ち際で鳴海潟が干拓と成って室町初期、応永の時代(約596年前)今川義元の家臣で安原備中守が築城に当って、今の乙子山の地にご遷座したもので 現在では当社の御旅所として、礼祭日には神輿渡御で巡幸し その折り尊の御東征の縁に依る扇川の畔にて御船流・御井の神事を齋行する。

 当社は古来、東宮大明神・東宮様と俗称するは蓋し、熱田の東宮の意として別称に依る縁由で 旧社格に於いては、延喜式内小社に列せられ尾張国の神名帳に所載せられ、国幣の供進に與かる神社として、登録せられたのである。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・境内案内図

成海神社公式HPを参照してください

https://narumi-jinja.or.jp/keidai_map/

・社殿

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・直会殿〈社殿向かって右側〉

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・参集殿〈社殿向かって左側〉

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〈社殿向かって左手前 境内社 3殿〉

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・〈向かって右側〉8つの末社の合殿

〈・神明社熊野天白社宝田社白山社山神社道祖袚島社御井社日割金刀比羅社

・神明社《主》天照大御神・國常立尊
・熊野日白社《主》伊邪那美命•大山咋神・瀨織津比賣神外二柱
・實田社《主》宇迦之御魂神・御年神•保食神
・白山神社《主》菊理姫神
山神社《主》大山積神
・道祖神社《主》不詳の祭神外、八衡比古神・八衡比女神・久那斗神
・御井神《主》御井神
・日割金刀比羅社《主》不詳の祭神外、大物主神•金山彦神•崇德天皇

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・〈中央〉9つの末社の合殿

〈・氷上源太夫社八幡社八劔社住吉社今宮社愛宕社風神社北野社子安社

氷上源太夫社《主》
・八幡社《主》應神天皇外二柱
・八劍社《主》五男三女神・天照大御神・須佐之男命
住吉社《主》住吉三神
・今宮社《主》須佐之男命・天照大御神
・愛宕社《主》迦具土神
・風神社《主》志那都比古神・志那都比賣神
・北野社《主》菅原道眞命
・子安社《主》伊邪那美命

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・〈向かって右側〉一宇祠〈秋葉社〉と社跡

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東宮稲荷社《主》宇迦之御魂神

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・社務所

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・手水舎

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・中鳥居

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・東大鳥居

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・丹下坂鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

天神社については 別記事を参照してください

・天神社(名古屋市緑区鳴海町字城二八番地
〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』 奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて) 2.産物 3.土地の肥沃の状態 4.地名の起源 5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本 『出雲国風土記』がほぼ完本 『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂 その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861 ・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛智郡 17座(大4座・小13座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 成海神社
[ふ り が な ]なるみの かみのやしろ
[Old Shrine name]Narumi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

「尾張氏の祖神」とされる 御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)について

御祭神について 少し詳しく

別名を 建稲種公(たけいなたねのきみ)とも称します

建稲種命は (1900年程昔)2代の天皇(朝廷)〈第12代景行天皇(keiko tenno)と 第13代成務天皇(seimu tenno)に仕えたとされ

日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征の際は 副将軍として軍を従え 軍功を挙げた神とされます

尾張国内では 熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社などの古社に祀られています

古代豪族の尾張氏について

古代豪族の尾張氏(owari uji)は 『記紀神話』では(天火明命(ameno hoakari no mikoto)の後裔とされ 名門氏族の「天孫族(tenson zoku)」とも呼ばれています

『姓氏録』や系図史料では 綿津見神(watatsumi no kami)の後裔とされて 皇統譜の古い時期には・第5代孝昭天皇の皇后・第6代孝安天皇の母・第10代崇神天皇の妃など 尾張氏からしばしば后妃を輩出しています

建稲種命(take inatane no mikoto)は 初代の尾張国造(owari kuni no miyatsuko)となった乎止与命(otoyo no mikoto)の御子です 建稲種命より以降は 尾張氏一族が さらに朝廷への影響力を強めて発展していきます 御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が この礎を築いたとされ 「尾張氏の祖神」と呼ばれていくことになります

御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」を「尾張氏」の家系を順に説明

父は 「初代 尾張国造 乎止与命(otoyo no mikoto)」 (天火明命(ameno hoakari no mikoto)の子孫)

母は「眞敷刀婢命(mashikitobe no mikoto)」 (尾張大印岐(owari no oimiki)の娘)

妹は「宮簀媛(miyazu hime)」 (日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)草薙剣を熱田神宮に奉斎しました)

妃は「玉姫(tama hime) (丹羽氏の祖 大荒田命(oarata no mikoto)の娘)

※ 玉姫妃(tama hime hi)と 建稲種命の間には 二男四女があったとされ

息子は 尻綱根命(shiritsunane no mikoto) (第15代 応神天皇の大臣)

下娘は「志理都紀斗売(shiritsuki tome)」 (五百城入彦皇子(iokiiribiko no miko=第12代景行天皇 皇子)の妃     (品陀真若王(honda no mawaka no miko)=第12代景行天皇 孫)の母 

下娘は「金田屋野姫命(kanetayane no hime no mikoto)」 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)〈景行天皇の孫 五百城入彦皇子の子〉の妃     第15代応神天皇(ojin tenno)の皇后(kogo)と妃(hi)となる 3人の娘を産む)

建稲種命の 孫娘は  

応神天皇 皇后(kogo)「仲姫命(nakatsuhime no mikoto)」 (第16代仁徳天皇(nintoku tenno)の母)

応神天皇 妃(hi)  「高城入姫命(takaki no irihime no mikoto)」

応神天皇 妃(hi)  「弟姫命(otohime no mikoto)」

尾張氏の影響力は 大和朝廷の中枢に位置するようになっていきます

「名古屋市博物館 企画展 尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」より http://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji120428.htmlより画像

御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)は 「尾張水軍」の大将軍です

日本武尊の東征では 副将軍であった〈建稲種命〉

第12代景行天皇(keiko tenno)が 皇子の日本武尊(yamatotakeru no mikoto)に東国平定を命じました時 尾張国造(owari kuni no miyatsuko)の子である建稲種命(take inatane no mikoto)は 副将軍として東征に向かって 武功を挙げた神です

尾張氏(owari uji)の御曹司 (onzoshi)が なぜ副将軍なのかと言えば 尾張氏(owari uji)は 強大な尾張水軍を有して 伊勢湾一帯の中部日本地域を支配していたからです

羽豆神社が鎮座する 知多半島の先端 羽豆岬(hazu misaki)は 古代より 水軍の見張所が築かれるなど 伊勢湾の海上交通路の要衝であり 東征の折には 水軍の出発地点にもなったのであろうと推測されています

中世になっても ここは城が築かれていました 14世紀初 元亨年間の南北朝時代 熱田神宮の大宮司「千秋昌能(senshu masayoshi)」は 後醍醐(godaigo)天皇の建武(kemmu)の新政で側近であり 武者所(mushadokoro)結番(kechiban)となって 知多半島の波豆(hazu)城をおさえて再築したとあります  ここを確保することは 吉野(yoshino)・伊勢(ise)と 東国をむすぶ海上交通路の要衝を抑えることとなり 重要な戦略拠点と伝わる「羽豆(hazu)城跡の石碑」もあります この海上の要衝を基地として 強大な尾張水軍を 統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の率いる 皇軍を勝利に導いたのが「建稲種命(take inatane no mikoto)」です

妹の「宮簀媛」は 草薙剣を熱田神宮に奉斎した 日本武尊の妃 

妹の「宮簀媛(miyazu hime)」は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)となり 草薙剣を熱田神宮に奉斎しました

建稲種命の訃報

しかし 建稲種命の尾張水軍が東海道沿いに 東征の帰途についた折 駿河の海にさしかかり めずらしい海鳥を見つけたので 日本武尊(yamato takeru no mikoto)に献上しようと思われて 捕まえようとされて 駿河の海で命を落とされた 或いは 駿河の海で 船が難破されて 命を落とされた と伝わります

この時 日本武尊は 中山道経由で 東征の帰路 尾張にはいり篠城に到着し て内津の坂をくだられる頃 副将軍 建稲種命の従者 久米八腹が 建稲種命が駿河の海に落ち水死された と早馬をもって報告した

この知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われ その霊をまつられたのが内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという 現在の「内々神社(うつつじんじゃ)」になります

・内々神社(春日井市内津町字上町)

一緒に読む
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉

内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う

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伝承により 2つの「はずじんじゃ」があります 「羽豆神社(hazu shrine)」「幡頭神社(hazu shrine)」

駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」ですが

その遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られたのが 「幡頭神社(hazu shrine)」(吉良町) 延喜式内社(参河國 播豆郡 羽豆神社)

・幡頭神社(西尾市吉良町)

一緒に読む
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〈延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社〉

幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です

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その衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされたのが 「羽豆神社(hazu shrine)」(師崎)当社 延喜式内社(尾張國 知多郡 羽豆神社)

・羽豆神社(知多郡南知多町)

一緒に読む
羽豆神社(南知多町師崎明神山)〈日本武尊の東征の副将軍 尾張水軍の大将軍を祀る〉

羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です

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にそれぞれ祀られています

御祭神が 成海から強大な尾張水軍を統率し 勝利に導いた将軍ですので 「幡頭 はたがしら(hata gashira)の神」とされて「羽豆(幡頭hazu)」と呼ばれると言われています

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御祭神 建稻種命とかかわる式内社について

御祭神 建稲種命は「尾張氏の祖神」とされ 古代豪族の尾張氏と関係ある古社に祀られています

延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子神社(ほのかみあねこの かみのやしろ)

尾張国造城館の所在地とされる「火高(現在の大高)」の地

日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地

・氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山) 〈熱田神宮の境外別宮〉

一緒に読む
氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山)〈熱田神宮の元宮〉

氷上姉子神社(ひかみあねごじんしゃ)は 『寛平熱田縁起』によれば 日本武尊を 建稲種(たけいなだね)命が火上(ほかみ)(現大高町)にお迎えした時 妹の宮簀媛を妃とされ 東征の帰途にも立寄られ 草薙劔を留められたと云う 仲哀天皇四年 館跡に社殿を設けて媛を祀ったのが起源で 持統天皇四年(690)に現在地に移ったと云う

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・氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山) 〈氷上姉子神社の元宮〉

一緒に読む
氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山)〈尾張国造 乎止與命の館跡〉

氷上姉子神社 元宮(ひかみあねごじんしゃ もとみや)は 御祭神 宮簀媛命の父で尾張国造 乎止與命(おとよのみこと)の館跡に 元宮(もとみや)として仲哀天皇四年(195)に創建されたと云う その後 持統天皇四年(690)に現在地に遷座されたと伝わる 延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子(ほのかみあねこ)神社の元宮です

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延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)

東征から帰還の日本武尊は 鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったと伝わります

「火高(現在の大高)」とは 尾張国造城館の所在地 日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地

・成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)

一緒に読む
成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)〈日本武尊ゆかりの延喜式内社〉

成海神社(なるみじんじゃ)は 日本武尊が 東征からの帰還の際 鳴海潟(現 鳴海駅北)から対岸の宮簀媛命の居住する火高丘陵〈建稲種命の館〉(現 氷上姉子神社)まで船で渡ったと伝わる地に 天武天皇の朱鳥元年(686)草薙神剣が熱田に還座の時に鎮座しました 延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)です

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・天神社(名古屋市緑区鳴海町) 〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉

延喜式内社 尾張國 知多郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)

駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされた

・羽豆神社(知多郡南知多町)

一緒に読む
羽豆神社(南知多町師崎明神山)〈日本武尊の東征の副将軍 尾張水軍の大将軍を祀る〉

羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です

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延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)

駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られた

・幡頭神社(西尾市吉良町)

一緒に読む
幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〈延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社〉

幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です

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延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)

建稲種命が 駿河の海に落ち水死された との知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われる地

その霊をまつられたのが 内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという

・内々神社(春日井市内津町字上町)

一緒に読む
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉

内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う

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・旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町) 〈内々神社 当初の鎮座地〉

一緒に読む
旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町)〈内々神社 当初の鎮座地〉

旧妙見宮奥之院(きゅう みょうけんぐう おくのいん)は 内々神社(うつつじんじゃ)〈延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)〉の当初の鎮座地とされ 内々神社から山道を登り 断崖岩の絶壁の割れ目にお堂〈巌屋神社〉があり 今は鉄の階段ですが かつては梯子や鎖で登ったと云う゛奥の院゛です

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延喜式内社 尾張國 愛智郡 熱田神社(名神大)(あつたの かみのやしろ)

日本武尊に従い 副将軍として 東国の平定に赴きその帰途亡くなられた 尾張地方繁栄の礎を築いた神とされて 祀られています

・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社 名神大社〉

延喜式内社 尾張國 山田郡 尾張戸神社(をはりへの かみのやしろ)

宮簀媛命の勧請と伝える古社

・尾張戸神社(瀬戸市十軒町)

・八幡社(小牧市大字上末字新田)

延喜式内社 尾張國 丹羽郡 針綱神社(はりつなの かみのやしろ)

尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)を主祭神として 建稲種命玉姫命大荒田命尻調根命(尾綱根命)健多乎利(たけだおり)命建稲種命の祖父 他を祀っています

・犬山城天守台付近(犬山市大字犬山字北古券) 〈針綱神社の旧鎮座地〉

・針綱神社(犬山市大字犬山字北古券) 〈天文6年(1537)犬山城の築城により遷座〉

・立野神社(犬山市大字上野字郷)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

名鉄名古屋本線 鳴海駅から鳴海街道を北へ1.2km 車4分程度

丹下坂鳥居からの参拝となりました

成海神社名古屋市緑区鳴海町乙子山に参着

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一礼をして鳥居をくぐり抜けて 参道を進みます

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中鳥居と遥か奥に社殿が見えています

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中鳥居をくぐり抜けると 整然とした境内に出ます 左手は社務所です

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境内の右手には 東宮稲荷社が祀られていて 稲荷の朱鳥居が立ち並んでいます

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社殿の建つ境内地は 一段高い壇となっていて 石段を上がり進みます

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拝殿にすすみます 中央が拝殿 〈社殿向かって右側〉直会殿 〈社殿向かって左側〉参集殿

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賽銭をおさめ お祈りをします ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿の屋根と千木が見えています

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 成海神社について 所在は゛鳴海庄鳴海に在す、俗東宮大明神と称す、゛〈現 成海神社名古屋市緑区鳴海町乙子山〉〈現 天神社(名古屋市緑区鳴海町)〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉〉と記しています

【抜粋意訳】

成海神社

成海は奈留美と訓べし、和名鈔、郷名部成海、〔假字上の如し

○祭神 日本武尊、〔社傳〕

○鳴海庄鳴海に在す、俗東宮大明神と称す、集説、府志

 社記云、日本武尊 東征之日留止之地也、仍祭日本武尊也、

神位
 國内神名帳云、從三位成海天神、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 成海神社について 所在は゛鳴海驛 乙子山にあり、東宮明神と云ふ、゛〈現 成海神社名古屋市緑区鳴海町乙子山〉と記しています

【抜粋意訳】

成海神社

今 鳴海驛 乙子山にあり、東宮明神と云ふ、〔国内帳集説、神名帳考証、張州府志、愛智縣神社調、〕

蓋 日本武尊を祭る、昔 日本武尊 東征の時、過させ給ふ所なるを以て也、〔参取熱田縁起、本社社記、〕

凡 六月二十一日祭を行ふ、〔愛智縣神社調、

【原文参照】

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『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 成海神社について 所在は゛成海庄鳴海村字乙子山゛〈現 成海神社名古屋市緑区鳴海町乙子山 旧鎮座地を゛もと今御旅所なる天神山と云地にあり゛〈現 天神社(名古屋市緑区鳴海町)〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉〉と記しています

【抜粋意訳】

成海(ナルミノ)神社

 東宮明神

祭神
 日本武尊(やまとたけるのみこと)
 宮簀媛命(みやすひめのみこと)
 建稲種命(たけいなだねのみこと)

祭日 六月二十一日 社格 郷社

所在 成海庄鳴海村字乙子山(愛知郡鳴海町)

 今按 尾張國式社考に 當社もと今御旅所なる天神山と云地にありしを 應永の頃 今の地にうつせり 昔は社人も三十餘家あり社領も若干ありしを 長祿の頃收公せられしと云り

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇愛知縣 尾張國 愛知郡鳴海町字鳴海

郷社 成海(ナルミノ)神社

祭神 日本武尊 宮簀媛命 建稻種命

天武天皇朱鳥元年月の創祀にかゝる(社記、府志、尾張名所圖繪)、 此地が日本武尊東征の時 須臾止りたまひし所なるを以てなり(神名帳、集説)、 当時 天神山に在り(社記、名勝地志参取)、 醍醐天皇 延喜の制小社に列り(延喜式)、 一に東宮と称するは 熱田神宮の東に在るを以てなり(府志、社記)、 尾張名勝志には 正一位東宮大明神とあり、  本国帳には正二位鳴海神社とあり、

後小松天皇 応永年中 安原備中守源宗範 此地に城を築くに当り 今の地に遷す(社記、名勝地志)、 後奈良天皇 弘冶 織田信長 社領若干を寄せ、又正親町天皇 天正十七 山口長次郎の寄せし文書今も存せり(名所圖繪、府志)、

例祭の当日には神輿を社地 天神社に遷し、井上に安んる式あり、  木板一片を以て名けて御舟といひ 之を扇川に流す、是れ日本武尊東征の日の龍に橡るといふ(府志、社記参取)、 中御門天皇 享保元年十一 正一位に進められ、 明治元年 官幣使の参向あり、同月郷社に列し。

社殿は本殿、拝殿、渡殿、籠所、神輿所、社務所、假殿、神札所、祭車蔵等を具備し、境内地壱萬三千二百二十一坪(官有地第一種)あり、 鳴海の真北に位せり、当社の西方二鉾の木といふ所に矛掛松といふがあり、昔 日本武尊東征の日 矛を掛けて憩ひたまひし所と云ひ傳ふ、又昔 御手洗の御井とてありしといふ。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

成海神社名古屋市緑区鳴海町乙子山 (hai)」(90度のお辞儀)

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尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について

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