物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
物部神社(Mononobe Shrine)
(もののべじんじゃ)
[通称名(Common name)]
日吉社(ひよししゃ)
【鎮座地 (Location) 】
新潟県上越市清里区南田中103
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》宇摩志摩治命(Umashimaji no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『神社明細帳』によると、持統天皇10年(696六)創立と伝へる。
物部氏の頸城郡進出の一大拠点となったが、中世以降社運衰微し、史料・記録も逸亡し、文献にその名さへとどめなくなつてしまつた。
明治十六年の『神社明細帳』では、無格社であつた。神社の裏に経塚があり、その上に寶篋印塔が一基あった。今日、新社地に移してある。昭和四十六年四月、圃場整備事業のため、現在地に遷座する際、直刀、五輪塔が出土したといふ。五輪塔一基は現社地に移してある。『式内社調査報告』より
【由 緒 (History)】
昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地に遷座
その際 五輪塔一基は現社地に移す
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・本社の横に石祠一宇
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後国 56座(大1座・小55座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)頸城郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ](もののへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mononohe no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について
太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります
『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています
東海道
「伊勢國 飯高郡 物部神社」
・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉
「伊勢國 壹志郡 物部神社」
・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉
「尾張國 春日部郡 物部神社」
・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉
・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉
・諸大明神社(春日井市松本町)
・八所神社(豊山町豊場木戸)
「尾張國 愛智郡 物部神社」
・物部神社(名古屋市東区筒井)
・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)
「甲斐國 山梨郡 物部神社」
・物部神社(笛吹市石和町)
・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉
・大石神社(山梨市西)
・大石神社(甲州市塩山赤尾)
・白山建岡神社(山梨市上栗原)
「武蔵國 入間郡 物部天神社」
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
東山道
「美濃國 厚見郡 物部神社」
・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)
・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)
・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)
・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉
北陸道
「越中國 射水郡 物部神社」
・物部神社(高岡市東海老坂)
「越後國 頸城郡 物部神社」
・物部神社(上越市清里区)
物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました
物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉
「越後國 三嶋郡 物部神社」
・二田物部神社(柏崎市西山町)
物部神社(もののべじんじゃ)は 祭神 二田天物部命は 天香山命に奉仕て 高志国(越国)に天降りしたと云う 二田を献上する者がおり その地に居を定め その里を「二田」と称したと伝え 命は薨(こう)じて 二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたと云う 延喜式内社 越後國 三嶋郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
二田物部神社(柏崎市西山町二田)〈延喜式内社〉
「佐渡國 雑太郡 物部神社」
・物部神社(佐渡市小倉)
物部神社(もののべじんじゃ)は 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が養老二年(722)佐渡配流の謫居二十年の間 小祠に物部氏の祖神゛宇麻志麻治命゛を祀り 祈り続けたと云う 『續日本紀』〈延暦10年(791)物部天神 従五位下〉と神位の奉叙が記されている 延喜式内社 佐渡國 雑太郡 物部神社(もののべのかみのやしろ)です
物部神社(佐渡市小倉)〈『續日本紀』物部天神・延喜式内社〉
山陰道
「丹後國 與謝郡 物部神社」
・物部神社(与謝野町石川)
物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 『朝野群載』承暦四年(1080)に 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されており 神威ある神社でした 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
物部神社(与謝野町石川物部)〈延喜式内社 物部神社〉
「但馬國 城崎郡 物部神社」
・韓國神社(豊岡市城崎町)
「石見國 安濃郡 物部神社」
・物部神社(大田市)石見国一之宮
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります
物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉
山陽道
「播磨國 明石郡 物部神社」
・可美真手命神社(押部谷町細田)
・惣社(神戸市西区伊川谷町)
西海道
「壱岐島 石田郡 物部布都神社」
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
上越妙高駅から県道254号を東へ約8.1km 車15分程度
田園地帯の中に南田中の集落地区があります
朱色の鳥居が2連に建っていて扁額には「物部神社」とあります
物部神社(Mononobe Shrine)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進みます それにしても神社の背後が遠くの山並み迄 一面の田園で見晴らしがよく 且つ 5月初旬 山頂の残雪 萌えた山腹が余りにも美しくて 暫くは 息を飲むように佇みます
二の鳥居も朱色です 参道の正面には狛犬が座していて 本殿への正中を避けていることがわかります
社殿は石祠で 2基 背が高く中央が本社 向かって右は境内社 向かって左は遷座の記念碑と五輪塔一基
本社石祠にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
隣の石祠にもお詣りをします
参道を戻り 境内を振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
武士(もののふ)村に鎮座したが 「宮殿ありしに 非人・乞食等止宿し汚けるにつき 社地残らす田地に開発」今は田中村新田の産土神となっている経緯を詳細に記しています
【意訳】
物部(モノノヘノ)神社
和鈔 物部 〇今在るは 物部村 称するに物部明神
業内 武士々武士(もののふ)村 長峯より北2丁斗 当号 山王権現 社地1反斗にて 田の中にあり 老木倒れてるにや45尺 亦 89尺斗の杉木45本あり四方は田地に開発し 社は草地にて石の祠あり 東向き
当時 田中村の産土神となる 先年は宮殿ありしに非人乞食等 止り宿し汚しけるに付き 社地残らず田地に開発すべしと 武士村の産子とも申す その節 田中村新田にて産土神なし 百姓墾望し産土神となすとかや 今 田中村にて支配すとなり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
武士(もののふ)村にあり 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていると記されています
【意訳】
物部神社
物部は 毛乃々倍と訓ずべし 和名鈔 郷名部 物部
〇祭神 宇摩志摩治命 亦云う 田中神宮 風土記節解
〇武士郷武士(もののふ)村に在す 節解案内 今 山王権現と称す 案内
類社 伊勢国 飯高郡 物部神社の條見合うべし
雑事 朝野群載云 永暦4年(1650)6月10日 秦亀卜御體御卜 中略 坐に越後国の物部神云々 以下前に同じ
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
武士(もののふ)郷 田中村に鎮座すると記されています
【意訳】
物部神社(日吉社)
祭神 宇摩志麻治命
祭日 3月18日 9月20日
社格 (無社格)
所在 武士郷田中村(中頸城郡菅原村大字南田中)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
物部神社(Mononobe Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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越後国(えちごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越後国には 56座(大1座・小55座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
越後國(えちごのくに)の 式内社 56座(大1座・小55座)について