実践和學 Cultural Japan heritage

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三澤神社(奥出雲町三沢)

三澤神社(みさわじんじゃ)は 出雲風土記733 AD.所載の仁多郡 神祇官社「弎澤社(みさわ)のやしろ」とされます みさわのさとの条には 大穴持命願をかけ 言葉を発しなかった御子 阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみことが 口をきく夢をみます すると御子は 初めて「三澤」と口をきいた と記されています

ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます

①まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した出雲風土記733 AD.

➁次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)完成した『延喜式神名帳927 AD.

➂最後に出雲風土記733 AD.』と『延喜式神名帳927 AD.の論社(現在の神社)となっています

①【約1300年前】About 1300 years ago

出雲風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.

【國】 出雲(izumo no kuni)
【郡】 仁多郡(nita no kori)

   神祇官社(jingikan no yashiro )

【社名】弎澤社
読み(みさわ)のやしろ
How to read(misawa no) yashiro

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

➁【約1100年前】About 1100 years ago

延喜式神名帳engishiki jimmeicho所載社(Place of publication)
The shrine record was completed in December 927 AD.

【國】 出雲(izumo no kuni)
【郡】 仁多郡(nita no kori)

【社名】三澤神社
読みみさはの かみのやしろ
How to readMisaha no kami no yashiro

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用

➂【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine

【神社名】(shrine name) 

三澤神社(Misawa shrine)

【通称名】(Common name)

【鎮座地】(location)

島根県仁多郡奥出雲町三沢402

【地 図】(Google Map)

【御祭神】(God’s name to pray)

《主》阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみこと

〈相殿に合祀 意宇郡林村鎮座 風宮〉(明治七年 1874)
》大己貴命(おほなむちのみこと)
   素盞嗚命(すさのをのみこと)
   志那都比古命(しなつひこのみこと)
   志那都比売命(しなつひめのみこと)

〈相殿に合祀 末社〉(明治十三年 1880)
》気長足比売命(おきながたらしひめのみこと)

〈相殿に合祀 村社 高守神社〉(明治四十年 1907)
》少彦名命(すくなひこなのみこと)

〈相殿に合祀 川内神社〉(明治四十年 1907)
》五十猛命(いそたけるのみこと)

〈相殿に合祀 村社 加茂神社〉(明治四十年 1907)
》別雷命(わけいかずちのみこと)

【御神格】(God’s great power)

農鉱業発展・健康増進・武勇鼓舞・家内安全

【格式】(Rules of dignity)

・『出雲風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.所載社
・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創建】(Beginning of history)

三澤神社

仁多郡仁多町三沢四〇二

主祭神
阿遲須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみこと
御父 大穴持命(おおなもちのみこと)(大国主命)御母 多紀理毘売命(たきりびめのみこと)の御長子で、出雲風土記所載の三沢郷の伝承により当地に祀られたものである。

合祀神
大己貴命(おおなむちのみこと)・素盞嗚命(すさのおのみこと)
志那都比古命(しなつひこのみこと)・志那都比賣命(しなつひめのみこと)
氣長足比賣命(おきながたらひめのみこと)・分雷命(わけいかづちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)・五十猛命(いたけるのみこと)


社歴
当社の創立は往古に遡り、既に出雲風土記 (七三三)に三澤社として仁多郡の神祇官社二社中首位に記録され、次いで延喜式神名帳(九二七)には三澤神社とあるところから 古く天平(七二九)以前から広く崇敬されていたものある。
神社の敍位は 仁寿元年(八五一)初めて従五位下を授けられ 貞観十三年(八七一)正五位下を授けられている。中世は歴代三沢氏の庇護を受け社領八十石の寄進があり、徳川時代も歴代国主の崇敬をうけ松平治郷公(不昧公)外三国主の参詣が記録されている。
明治四年 社格郷社に列せられ 式内郷社 三澤神社となり、同四十一年 神饌幣帛料を供進される神社に指定される。
昭和二十年 宗教法人 三澤神社となり同五十六年 特別社の指定を受ける。

祭日
例大祭 十月二十九日
祈年祭 四月九日(三月十一日)
新嘗祭 十一月二十五日

現地案内板より

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【由緒】(history)

由緒
出雲国風土記に『(髭がのびる年になっても泣き喚き口をきかない)御子阿遲須枳高日子根命に手を焼いた大国主命は願をかけ、御子が口をきく夢をみる。夢からさめると御子は初めて口をきき「三澤」という。そして歩き出し坂の上で止まると、そこにはきれいな澤の水沼があり沐浴された
島根県神社庁HPより

【境内社】(Other deities within the precincts)

・原田八幡宮 《主》誉田別命
・事代主社 《主》事代主命
・蚕養神社 《主》蚕養国大神
・加茂神社 《主》分雷命
・狼神社 《主》祭神不詳
・社日社 《主》天照大神 大己貴命 少彦名命 宇賀魂命 埴安姫命

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

・相殿に合祀(明治四十年 1907)された
 村社 高守神社四日市「高森大明神」

三沢城跡麓 四日市地区に 石碑「高守大神」が祀られています

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

御祭神 阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみこと)について

『出雲国風土記』では 阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみこと表記  所造天下大神(あめのしたつらししおおかみ)〈大国主命〉の御子

『記紀神話葦原中国平定〉の表記
『古事記』 阿遅鋤高日子根神(アヂスキタカヒコネノカミ
日本書紀味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネノカミ

『古事記』に於いては 大国主神(オオクニヌシノカミ)と 宗像三女神の多紀理毘売命(タキリビメノミコト)の御子 同母の妹に 高比売命(タカヒメノミコト)〈下照比売(シタテルヒメ)が居ます

大和国 葛城の賀茂氏の祖神とれる尊い神「迦毛大御神(かものおおみかみ)」と称されています 『古事記』で「大御神(おおみかみ)」と称されたのは 天照(アマテラス)大御神と の神だけです

『出雲国風土記』四か所登場する 阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみこと)について

⑴ 意宇郡条 賀茂神戸(かもかんべ)

大和国の葛城(かつらぎ)の賀茂社(かものやしろ)に鎮座していらっしゃると記しています

【意訳】

郡家の東南三十四里
所造天下大神命の御子 阿遅須枳高日子命 葛城の賀茂の社に坐す

此の神の御子戸故に鴨と云う (神亀三年 字を賀茂と改む) 即ち正倉あり

・高鴨神社(御所市鴨神)

一緒に読む
高鴨神社(御所市鴨神)

高鴨神社(たかかもじんじゃ)は 阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)別名 迦毛之大御神〈かものおほみかみ〉を祀ります 記紀神話に 大御神と名のつく神は 天照大御神 伊邪那岐大御神と同神の三神のみ 死した神々をも甦えらせる御神力の強き神で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の大和國 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗とされます

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楯縫郡条 神名樋山(かんなびやま出雲市多久町の大船山

阿遲須枳高日子命の后 天御梶日女命(あめのみかじひめのみことの出産について記されます

【意訳】

郡家の東北六里一百六十歩 高さ一百二十丈五尺 周り二十一里一百八十歩

(やま)の西に石神あり 高さ一丈 周り一丈 往く側に小石神百餘許りあり

古老の伝に云 阿遲須枳高日子命の后 天御梶日女命(あめのみかじひめのみこと 多忠村に多伎都比古命(たきつひこのみこと)を産み給わんと来たります時に (さとし)て詔(のりたま) 汝命の御祖の向位御祖の居る場所に向かう場所に生まんと欲す 此處(このところ)(よろしき)なり

いわゆる石神 即ち 多伎都比古命御侘〈鎮まる魂〉畢巳〈日照り〉にあたり雨の時〈雨乞い〉必ず令零〈雫がお告げ〉なり

・多久神社
・〈多久神社の旧鎮座地〉烏帽子岩

一緒に読む
多久神社(出雲市多久町)&拝田神社〈多久神社に合祀〉

多久神社(たくじんじゃ)は 神名樋山「大船山」の南麓に鎮座 大船山嶺の西に 阿遅鉏高日子根命と天御梶姫命の御子神「多伎都彦命(たきつひこのみこと)の魂」と伝える「石神」が旧鎮座地 神名の通りタキ〈水の神〉で 雨乞いをすれば必ず雨を降らすと『出雲国風土記』楯縫郡に記される「多久社」で〈合祀〉拝田神社は「山口社」の論社です

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神門郡条 高岸郷(たかぎしのさと

御子 阿遲須枳高日子命あぢすきたかひこねのみこと)は 幼いころ昼夜 泣かれていたので 高い部屋を造り養われた と記しています

【意訳】

郡家の東北二里

所造天下大神の御子 阿遲須枳高日子命あぢすきたかひこねのみこと
甚しく昼夜 (な)き坐(ましま)しき
その所に 高屋(たかや)を造りてここに坐(ましま)すべきと
即ち 高椅〈高い梯子〉を建て登り降りして養い奉る
故にこれを高岸(たかぎし)と云う(神亀三年字を高峯と改む)

・〈阿利神社の跡地〉

一緒に読む
阿利神社跡(出雲市塩冶有原町)

阿利神社跡(ありじんじゃ あと)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 高岸の郷(たかぎしのさと)に記される 御祭神 阿遅須枳高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)の住居された高崖(たかぎし)の阿利原(ありはら)〈現 塩冶有原町〉の地にお祀りしたと伝わります 明治15年(1882)に故あって現在地 (出雲市塩冶町)に移遷されました

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仁多郡条 みさわのさと

大神 大穴持命御子 阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみことが 言葉を発しなかったが 言葉を発するようになった経緯と これにより 出雲国造が大和朝廷に神賀詞を奏上する時にこの地で潔斎をすると記されています

【意訳】

頁下記の【神社の伝承】に 詳しく記載しています

・三澤神社

一緒に読む
三澤神社(奥出雲町三沢)

三澤神社(みさわじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 神祇官社「弎澤社(みさわ)のやしろ」とされます 三津郷(みさわのさと)の条には 大穴持命が願をかけ 言葉を発しなかった御子 阿遅須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)が 口をきく夢をみます すると御子は 初めて「三澤」と口をきいた と記されています

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

JR木次線 出雲三成駅から R314号を西へ4.2km 車8分程度

斐伊川の流れに沿って進むと 三澤入口石柱を〈南〉へると 三沢になります
三沢の西にある山に鎮座しています

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三沢郵便局横に社頭があります

社号標には「三澤神社」と刻字され 参道の左手には地域で恵比寿さんと呼ばれている 事代主社《主》事代主命 天明7年(1787)の棟札り 少なくとも230年以前創建ですが 創建当初は他の場所にあり 明治40年に現在地に移転されたと伝えられ三沢町の市神として祀られています

三澤神社(奥出雲町三沢)に参着

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参道をすすむと石段があり その上に鳥居が建てられています 鳥居の扁額には「三澤神社」とあります

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一礼をして鳥居をくぐると 平らな参道があり その先に 又 石段が見えています

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伊能忠敬測量」の碑があり 参道石段脇には大杉があり歴史を感じます

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石段を上がると隋神門があり そのすぐ先に拝殿が建ちます
賽銭をおさめ お祈りです 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

それぞれの文献では 次のように伝承しています

出雲風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』にある伝承

三沢郷について「」と記していて 大神 大穴持命御子 阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみことが 言葉を発しなかったが 言葉を発するようになった経緯と これにより 出雲国造が大和朝廷に神賀詞を奏上する時にこの地で潔斎をすると記されています

【意訳】

みさわのさと

郡家の西南二十五里

大神 大穴持命の御子 阿遲須伎高日子命 御郷髮(みずら)八握(やつか ※握りこぶし8つ分に生も 昼夜(ひるよる)(なき)ましし (ことば)じす
その時 祖命(みおやのみこと) 御子を船に乗せて八十嶋(やそしま)の宇良加志に巡り給えども〈浦々の河岸に巡りませども〉 なお哭(なき)やまず

大神 夢に願い給う 御子の哭く由を夢に告げ願いし時に 即ち 夜の夢に坐(ましま)す御子の辞(ことば)通じるを見る

則ち寤(さ)めて問い給う時に 御津(みつ)と申す
大穴持命が夢から覚め 阿遲須枳高日子命に問うと「御津」と云った

時に何處(いずこ)に然ると云ひて問給う
その時 大穴持命は 御子 それはどこにあるのかとお聞きになった

即ち御祖の前を立去りまして 各川を渡り坂の上に至り留まりて申す 是処也
〈そして 御子は大穴持命の前を立去り 各川を渡り 坂の上に到って留まり「ここです」と云った〉

時に その津水治めて御身 沐浴しませり
(そして その津水を整えて ご自身を清め水浴びをされた)

故に国造朝廷に神吉事奏するに參り向う時 その水を活土に用いて初むるなり
〈故に 国造が大和朝廷に神賀詞を奏するに際し 最初にこの水を用いる〉

(※ 国造は この水の神助により もの云わぬ阿遲須伎高日子命が声を発したように神賀詞を奏する声助けとして この地で潔斎をする

此に依りて  産婦 彼の村の稻を食さず もし食す者有れば 生れます所の子 云うを已(忌)むなり 故に三津と云う 即ち正倉有り

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

神階の奉授が記されています

【意訳】

清和天皇 貞観十三年冬十一月十日 壬午(みずのえうま)の条

授(さずく)に

武蔵國 正五位上勲七等 秩父(ちちぶの)神に従四位下
    従五位下 椋(むくの)神に従五位上

飛騨國 正五位下 水無(みつなしの)神に正五位上

出雲國 正五位上 湯(ゆの)神 佐陀(さだの)神に並びに従四位下
    従五位上 能美(のうみの)神 佐草(さくさの)神 揖屋(いふやの)神 女月(めつきの)神 御澤(みさはの)神 河式神に並びに正五位下
    従五位下 斐伊(ひいの)神 智伊(ちいの)神 温沼神
越中國 従五位下 縦鉾(たてほこの)神に並びに従五位上を

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『雲陽志(unyo shi)1835AD.』仁多郡 四日市と原田 にある伝承

風土記 延喜式の三澤社は 四日市の「高森大明神」〈現 三澤神社の相殿に合祀 村社 高守神社と記しています

阿遅須枳高日子命が 沐浴をされたと伝わる湧き出る清水には 二つの説があり 一つは 三津田「三津池」説奥出雲町三沢(原田)〉 もう一つは 三沢城の「三沢池」説奥出雲町河内四日市〉

同じように 「高森大明神」も四日市と原田〈現 三澤神社〉に在りと記しています

『雲陽志(unyo shi)では

四日市「高森大明神」と記され〈現 三澤神社の相殿に合祀 村社 高守神社〉

阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみこと)をまつる 
風土記 延喜式に三澤社とあり 本社 四尺四方
慶安年中建立の棟札あり 祭日 十月五日」 と記しています

原田「高森大明神」と記され〈現 三澤神社〉

伊弉諾尊 伊弉冉尊 素戔嗚尊 瓊瓊杵尊を祀る
本社 二間に二間半 拝殿 二間に四間
天文十年造立の棟札あり 祭日 九月九日 御幸の神事祓神楽祝詞 祠官 社に籠して旧例の祭禮品々あり

【原文参照】

※『雲陽志(unyo shi)』[黒沢長尚著]天保6 [1835]国立公文書館デジタルアーカイブ『雲陽志』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002424&ID=&TYPE=&NO=画像利用

※『雲陽志(unyo shi)』[黒沢長尚著]天保6 [1835]国立公文書館デジタルアーカイブ『雲陽志』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002424&ID=&TYPE=&NO=画像利用

出雲国式社考(izumo no kuni shiki no yashiro ko)1906AD. にある伝承

風土記 延喜式の三澤社は 原田村〈現 三沢〉の大森大明神〈現 三澤神社〉であると 記しています

【意訳】

三澤神社

風土記、弎澤社(みさわ)のやしろ となり 三澤郷原田村に在り

祭神 阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみこと)なり

今 大森大明神といへり 風土記鈔に 或書に四日市村の高森大明神なりといへり されど大森の方なるへし 一説 大森大明神は伊弉諾尊 伊弉冉尊 素戔嗚尊 瓊瓊杵尊を合祀るといへり

さらに この神の坐ます故は 風土記に「みさわのさと大神 大穴持命の御子 阿遲須伎高日子命 御郷髮(みずら)八握(やつか ※握りこぶし8つ分に生も 昼夜(ひるよる)(なき)ましし (ことば)じす
その時 祖命(みおやのみこと) 御子を船に乗せて八十嶋(やそしま)の宇良加志に巡り給えども〈浦々の河岸に巡りませども〉 なお哭(なき)やまず・・・以下略・・・」かかるゆえよしにいつきまつられるなり

〇祭日 九月九日

【原文参照】

※『出雲国式社考((izumo no kuni shiki no yashiro ko))』[選者:千家梅舎/校訂者:岩政信比古]写本 ,明治02年(1906)国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国式社考』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000040615&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

風土記 延喜式の三澤社は 現 三澤神社であるとしながら 諸説を紹介しています

【意訳】

〇島根縣 出雲國 仁多郡 三澤村 大字三澤

郷社 三澤(みさわの)神社

祭神 阿遅須枳高日子根命あぢすきたかひこねのみこと

合祭 大己貴命(おほなむちのみこと)
   素盞嗚命(すさのをのみこと)

相殿 志那都比古命(しなつひこのみこと)
   志那都比売命(しなつひめのみこと)
   気長足比売命(おきながたらしひめのみこと)
   別雷命(わけいかずちのみこと)
   少彦名命(すくなひこなのみこと)
   五十猛命(いそたけるのみこと)
   金山彦命(かなやまひこのみこと)
   事解男命(ことさかをのみこと)

本社の この所に在す故は、
出雲風土記にみさわのさと大神 大穴持命の御子 阿遲須伎高日子命 御郷髮(みずら)八握(やつか ※握りこぶし8つ分に生も 昼夜(ひるよる)(なき)ましし (ことば)じす
その時 祖命(みおやのみこと) 御子を船に乗せて八十嶋(やそしま)の宇良加志に巡り給えども〈浦々の河岸に巡りませども〉 なお哭(なき)やまず・・・以下略・・・」とあるに基づきて、ここに古より この地に祭れるなり、

式社考に今 大森大明神といへり 風土記鈔に 或書に四日市村の高森大明神なりといへり されど大森の方なるへし 一説 大森大明神は伊弉諾尊 伊弉冉尊 素戔嗚尊 瓊瓊杵尊を合祀るといへり

雲陽志に、三澤郷下鞍掛村三津町に在すとあり、或人曰く、横山永福が風土記考 三津郷の條を見るに、鞍掛と原田とは別林なり、

又 この郷を今は三澤といふ故は、
土俗伝に、この郷内に三の大澤あるより三澤といふといへり、その澤は、下三成澤、大吉村澤、古市村澤なり、これによりて、後の人 神亀三年改字 三澤と書入せしものなるべし、今は惣べて三澤といへりとありて、
本社は 下鞍掛村三澤町の左にあり、高守大明神といふ、即ち 高日子根命を祭れりといへり云々、


又 曰く
旧松江藩取調に、社伝云、三津の池は、今 原田村の近隣、上鴨倉村なる、古城山の半腹に乾向の池あり、即ち三津池にて、神水とす、この山の後 即ち風土記に載れる石川なりとあり、云々、

三大実録に、清和天皇 貞観十三年冬十一月十日、出雲國 従五位上 御澤神に、正五位下を授くとあり、

明治四年十二月郷社に列す、合祭 大己貴命 外三柱命は嘉永六年六月朔日、意宇郡林村 風宮より、三澤字役所の土といふ所へ勧請せしに、御達に由り明治七年六月合祭することとなれり、気長足比売命(おきながたらしひめのみこと)は、三澤神社の末社なりしが、明治十三年九月十三日、許可を得て本社に合祭せらる、(社記)明治四十年十月二十八日、同大字の村社 加茂神社、大字河内の村社 高守(たかもり)神社、川内神社を合併す、

社殿は本殿、拝殿、通殿等を具備し、境内の坪数七百六十四つぼを有せり。

境内神社 社日神社 随神社 事代主神社 八幡宮

例祭日  十月二十九日

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

『出雲国風土記考証(Izumonokuni fudoki koshiyo)〈大正15年(1926)〉』に記される伝承

【意訳】

弎澤社(みさわ)のやしろ

三澤町にある高守大明神(たかもりだいみょうじん)である。味鉏高日子根命あぢすきたかひこねのみこと)を祀る。

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『出雲国風土記考証』大正15年(1926)後藤蔵四郎 著 出版者 大岡山書店https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020570映像利用

三澤神社(奥出雲町三沢)に (hai)」(90度のお辞儀)

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『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』に戻る

一緒に読む
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳』399社

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

続きを見る

『出雲国 式内社 187座(大2座・小185座)について』に戻る 

一緒に読む
出雲國 式内社 187座(大2座・小185座)について

出雲國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている当時の官社です 出雲國には 187座(大2座・小185座)の神々が坐します 現在の論社についても掲載しています

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています