鹿島神社(かしまじんじゃ)は 縁起に「常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地〈古鹿島〉に安置す」とあり 享保十年(1725)古鹿島の地から現境内に遷座と伝わり 医薬神社(いやくじんじゃ)は 明け薬師縁起に「天長の頃 空海上人巡礼のおり 眼病流行に苦しむ里人を救わんと 霊石に薬師如来を刻し 現在地に祀った」とあり 明治元年(1868)明け薬師の名称を医薬神社と改称 鹿島神社に合祀されました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鹿島神社(Kashima shrine) & 医薬神社(Iyaku shrine)
[通称名(Common name)]
・薬師様(やくしさま)
・藤田 鹿島神社(ふじた かしまじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
〒969-1761 福島県伊達郡国見町藤田町尻二38-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
〈鹿島神社〉
《主》武甕槌神(たけみかづちのかみ)
〈相殿 醫薬神社〉
《相》大名持神(おほあなもちのかみ)
少彦名命(すくなひこなのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・強い心の持ち主、強い身体の持ち主にならせ給えと祈ること〈鹿島神社〉
・眼病平癒〈医薬神社〉
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
鎮守 鹿島神社 医薬神社 由緒
鹿島神社 例大祭十月十九日二十日
祭神 武甕槌神
高皇霊神と皇祖天照大神の命を奉じ国土の建設と開国に力をつくし、国家統一の大功をたてられた神で、信仰の根源は、強い心の持ち主、強い身体の持ち主にならせ給えと祈ることにある。由緒
鹿島神社縁起によると、「奈良朝のころ按察使 兼 鎮守将軍 大野朝臣 東人蝦夷平定のため東征のおり、常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地に安置す」とある。この鹿島明神の位置は、現在の字古鹿島として地名が残っている所である。永録年間に社殿が焼失したが、次の慶長年間に社殿が再建され、降って享保十年、古鹿島の地から現境内に新築遷座された。現在の社殿は、明治十四年十二月に改築、その後、本殿、幣殿は、明治維新百年を記念し、昭和四十五年十月に 改築されたものである。医薬神社 例大祭八月七日日
祭神 大名持神 少彦名神
両神とも、日本国土を開拓し、人々に生業を与え、医薬を教え、病気より守り給う神である。由緒
明け薬師の略縁起によれば、「天長の頃、空海上人巡礼のおり、この地の眼病流行に苦しむ里人を救わんと、霊石に薬師如来を刻し、現在地に祀った。里人祈願するに夜の明くるが如く平癒するあり、ために明の薬師と称ひ、里人一宇を建て尊像を安置し奉る。のち、兵火により焼失し、度々修築せしも荒廃、尊像むなしく露されること久しく、故に、裸薬師と言い伝えられた」とある。明治元年、神社行政の改革により、明け薬師の名称を医薬神社と改称、鹿島神社殿内に合祀された。
主な 年中行事
元 旦 祭 一月一日
鹿島神社例大祭 十月十九日
厄 祓 祭 一月十五日
鹿島神社神幸祭 十月二十日
祈 年 祭 二月十一日
七 五 三 祭 十一月十五日
建 国 祭 二月十一日
新 嘗 祭 十一月二十三日
竹駒稲荷神社例大祭 四月二十三日
年 越 大 祓 十二月三十一日
夏 越 大 祓 七月三十一日
医薬神社例大祭 八月七日鹿島神社宮司識
神の恵みと祖先の恩とに感謝し 明き清きまことを以て祭祀にいそしむ
世のため人のために奉仕し 神のみこともちとして世をつくり固め成す
大御心をいただきてむつび和ぎ 国の隆昌と世界の共存共栄とを祈る
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
鹿島神社縁起によると、
「奈良朝(8世紀)のころ按察使兼鎮守将軍大野朝臣東人、蝦夷平定のため東征のおり、常陸国より守護神として鹿島明神を勧請して当地に安置した」とある。このとき祀った鹿島明神の位置は、現在も古鹿島として地名が残っている。
永録年間に社殿が焼失したが、慶長年間に再建された。下って享保10年9月7日(1725)、現在の地に遷座された。
延喜式内社ともいわれているが定かではない。相殿に医薬神社が祀られている。現在の社殿は明治14年12月に改築され、その後、本殿、拝殿は明治維新百年を記念し、昭和45年10月に改築された。社殿には、有晒川織仁親王御染筆の奉額「鹿島神社」・「医薬神社」(原本は2巻の掛物として保存)が掲げられている。このほか、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二将神木像(江戸初期の作)が安置されている。
境内には近世における南画の大家として知られた熊坂適山(寛政8年保原に生まれる)の画碑が建っている。
また、相殿の医薬神社は、明け薬師縁起によると、「天長(9世紀初期頃)空海上人巡礼のおり、この地の眼病流行によって苦しむ里人を救わんと、霊石に薬師如来を刻し現地に祀る。里人一宇を建て尊像を安置し奉った。のち兵火のため焼失し、尊像のみが雨露にさらされている期間が長かった。よって裸薬師と言い伝えられた。」とある。明治元年、医薬神社と改称し、鹿島神社内に相殿として合祀された。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・竹駒稲荷神社《主》倉稲魂命〈拝殿向かって左手前〉
・八幡神社〈本殿向かって右奥〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・旧鎮座地(藤田古鹿島)
〈藤田 古鹿島として地名が残っている〉現在地より東東北へ250m
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
第50代 桓武天皇 延暦元年 凶賊を征伐する事を鹿嶋神に祈り 神験があるため 勲五等及び本国の封に戸を授かったと 記されています
【抜粋意訳】
延暦元年(七八二)五月壬寅〈二十日〉の条
○壬寅 陸奥国言 祈祷鹿嶋神 討撥凶賊 神験非虚 望賽位封 勅奉 授勲五等 封二戸
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)信夫郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 鹿嶋神社
[ふ り が な ](かしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kashima no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
香取・鹿島の御子神(みこがみ)〈苗裔神(びょうえいしん)〉について
古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました
このことから東北地方平定には「軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました
香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったものと考えられています
こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の支流域の各地に祀られていきました
平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』に記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社
大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い神威を誇りました
その御神威を背景として 奥州〈東北地方〉制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀〈苗裔神を祀るこれらの分社〉は 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています
『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈香取苗裔神〉式内社2社の論社
〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です
香取神宮(香取市)下總國一之宮
牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)
・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
香取伊豆乃御子神社(かとりいづのみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)とされます 御祭神は 香取神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈香取伊豆乃御子神(阿佐比古命)〉とされます
香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
・和渕神社(石巻市和渕町)
和渕神社(わぶちじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)の論社です 大古 香取神社の神船が 常陸より牡鹿郡 和渕山の西辺(船島)に着き その東方に船を留め(船澤)山頂に宮柱を立て神様を祭祀したとも 坂上田村麿将軍が 大同二年(806)遠田郡箆岳へ十一面観音を建立の節に和渕山本宮に「木船明神」を勧請したのがはじまりとも伝えられる
和渕神社(石巻市和渕町)
栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)
・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)
香取御児神社(かとりみこじんじゃ)〈旧鎮座地〉は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社地です 『観跡聞老志區別帳』『登米縣の注進』に「所在は築館村 二尺程の石をたてて 香取神社と彫付ありと云る」と記されています
香取御児神社(栗原市築館久伝)〈旧鎮座地〉
・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 東夷征伐後の入植者により 常陸国鹿島より黒瀬向山(三峯山)に勧請 江戸初期に現在地に遷座 この時 香取御兒社(かとりみこしゃ)を相殿に合祀 香取御兒社は『延喜式神名帳927 AD.』所載 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社で 勧請は 第12代景行天皇の時とも 神護景雲元年(767)城生野 伊治城の造営時とも伝わります
鹿島神社〈香取御兒社を合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈鹿島苗裔神〉式内社8社の論社
〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 名神大社 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)〈延喜式内社名神大社・常陸國一之宮〉
黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足別神社(富谷市大亀)
鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社・石神山精神社〉の論社となっています これは 明治42年(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社〉であり 本社は式内社〈石神山精神社〉であるとする説がある為です
鹿島天足別神社(富谷市大亀)
曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉
月山神社(つきやまじんじゃ)は 以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺〈現 亘理町立吉田小学校の地〉に祀られていた 文久元年(1861)6月に現社内に移転し 明治2年(1869)月山神社と改称 明治43年2月 作田の民有地に祀られていた小祠の鹿島社〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉と八幡神社を合併奉祀し現在に至ります
月山神社(亘理町吉田作田)
曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉
信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社です 社伝には 天明元年(1781)4月火災により 同2年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し 同年7月光格天皇の御世 勅宣奉授し「正一位」を授けられたとあり この時古記録は焼失したとのこと
鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
・鹿島神社(福島市小田鹿島山)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に その昔篠生(信夫)郷が湖沼であった時わずかに水上に出ていた鹿島の丘上に常陸国の鹿島神宮より蝦夷地経営の為分祀勧請されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります
鹿島神社(福島市小田鹿島山)
・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に 第13代成務天皇の御代〈130~190〉 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請し 後年 社地を源氏山に遷したとあり『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります
鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 縁起に「常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地〈古鹿島〉に安置す」とあり 享保十年(1725)古鹿島の地から現境内に遷座と伝わり 医薬神社(いやくじんじゃ)は 明け薬師縁起に「天長の頃 空海上人巡礼のおり 眼病流行に苦しむ里人を救わんと 霊石に薬師如来を刻し 現在地に祀った」とあり 明治元年(1868)明け薬師の名称を医薬神社と改称 鹿島神社に合祀されました
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)
磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は 神護景雲二年(七六八年)創建と伝わり 古より鬼人が出没し 人畜に被害を及ぼし 庶民は大いに苦しんでいた時 武甕槌命が天より現れ 鏑矢で悪鬼を退治し 国家安泰となり 以来 鹿島明神として この山上に鎮座と伝わる 『延喜式神名帳927 AD.』所載 磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)とされます
鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
牡鹿郡 鹿嶋御兒神社(かしまのみこの かみのやしろ)
・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)は 太古 関東の鹿島 香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し その乗船がたまたま石巻の沿岸に到り 停泊して錨を操作した際 石を巻上げたことから 石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあり 石巻に上陸されたと伝わります
鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)
・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)は 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)祭神 武甕槌命の御子神 天足別命(あめのたらしわけのみこと)を祀ります 奥州の地を統御する為 この地で〈鹿島の稚児沼に仮宮された時〉賊徒が ...
鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)
鹿島御子神社旧蹟(かしまみこじんじゃ きゅうせき)は 大同元年(西暦806)に現在の社地に社殿を造営し遷座するまでの旧鎮座地です 社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのはこの旧蹟地になります
鹿島御子神社旧蹟(南相馬市鹿島区鹿島町)
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について
悪路王(あくろおう)とは 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています
鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます
文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸神多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています
【抜粋意訳】
常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸神多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす)祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・
【原文参照】
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR東北本線 藤田駅から東南へ約1km 車5分程度
道路際に石垣があり その上に鳥居が建っています
参道の階段を上がります
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)に参着
社号標には 鹿島神社と刻されています
一礼をして 鳥居をくぐります
参道を進むと正面には 扁額が二つ掲げられた拝殿が建ち
向かって左には 竹駒稲荷神社
拝殿にすすみます
二つの扁額は 向かって右から 鹿嶋神社 醫薬神社
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在は 小倉村〈現 鹿島神社(福島市小田鹿島山)〉と記しています
【抜粋意訳】
信夫郡五座 大一座小四座
信夫は 志乃不と訓べし 和名鈔 郡名部 信夫 假字上の如し
式二十二 民部上 拾芥抄 國郡部 信夫〇舊事紀 国造本紀 信夫國造 志賀高穴穂朝御世 阿波国造同祖 久志伊宇命孫 久麻直定賜国造
鹿島神社
鹿島は 加志麻と訓べし
〇祭神 武甕槌命
〇小倉村に在す 参拝記参考
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在は 小倉村〈現 鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)〉と記しています
【抜粋意訳】
鹿島神社
祭神 武甕槌命
祭日 九月九日
社格 村社
所在 鳥谷野村〇鹿島森 今 岩代國(信夫郡杉妻村大字鳥谷野)
【原文参照】
神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在を鳥谷野村鹿島森〈現 鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)〉と記しています
【抜粋意訳】
信夫五座(大1座・小4座)
鹿島(カシマノ)神社
今、鳥谷野村鹿島森にあり、陸奥國式社考 福島縣神社調 武御雷命を祀る、日本書紀、延喜式、本社伝説
桓武天皇延暦元年壬戌、勅して 勳五等 封二戸を充奉る 是よりさき凶賊を撥時、鹿島神に祈るに神験虚しからさりしを以てなり・・
【原文参照】
鹿島神社例大祭について
鹿島神社例大祭は、旧奥州街道藤田宿を中心に毎年10月の第4土曜日その前日の2日間にわたり行われる例大祭と前夜祭が執り行われる国見町の代表的な秋祭りです。例大祭のクライマックスを迎える最終日には、昼は神輿と山車4台がお囃子とともに町内を練り歩き、御旅所では稚児舞や剣の舞などの神事が行われます。夜は、昼の雰囲気とは一転、山車と山車が神輿を挟んでぶつかる「もみ合い」が還御まで繰り広げられ、沿道は多くの人々でにぎわいます。
国見町企画調整課HPより
https://www.town.kunimi.fukushima.jp/soshiki/2/359.html
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る
陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について
・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)は 香取大神・鹿島大神を奉じる大和朝廷の東夷征伐〈奥州開拓〉と深く関わりを持ちます その御子神(みこかみ)の鎮座地は 東北各地の太平洋沿岸・大河川を遡上した水上交通の要所に形成されています これは関東の水上交通の拠点「香取・鹿島の海」から 大神を奉じて 太平洋海上を遡って 大河を遡上して内陸地へと進行して行った軌跡と推測されています
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について