鹿島神社(かしまじんじゃ)は 東夷征伐後の入植者により 常陸国鹿島より黒瀬向山(三峯山)に勧請 江戸初期に現在地に遷座 この時 香取御兒社(かとりみこしゃ)を相殿に合祀 香取御兒社は『延喜式神名帳927 AD.』所載 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社で 勧請は 第12代景行天皇の時とも 神護景雲元年(767)城生野 伊治城の造営時とも伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鹿島神社(Kashima shrine)
〈香取御兒社を合祀〉
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
宮城県栗原市築館字黒瀬後畑64
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》鹿島社
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
《相殿神》鹿島御兒社〈式内社〉
経津主命(ふつぬしのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
《相殿神》鹿島御兒神社
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
(※文字は 大部分が読み取れず)理解できる箇所からポイントを記します
鹿島社については 常陸国鹿島より黒瀬向山に御勧請したと伝えられ 江戸初期に現在地に祭祀する
香取御兒神社については 第12代景行天皇の時 勧請され 式内社の香取社としては 最北端であった
現地案内板より
〈現在の案内板には次のように記されています〉
鹿島神社の由来
鹿島社(かしましゃ)
香取御兒社(かとりみこしゃ)勧請
鹿島明神は東夷征伐の後に、此の地に入植した人々が常陸国鹿島より黒瀬向山(三峯山)に御勧請したと伝えられる。
江戸初期に現在地に遷座され、香取御子社と合祀する。
合祀後火災により社蔵文書、宝物等焼失、元文二年鹿島神社別当、白鹿山神宮寺、千手院が社殿を再建する。
現在旧黒瀬沼から出土した船の「艪(かい)」が神社に保存されている。
鹿島社は武の神で、祭神の建御雷神は建部(たけるべ)の長、すなわち軍事集団の長官である。
鶯沢の白鶯山文書によると、応永二五年(一四一八)の文書に羽黒山先達職 黒瀬鹿島の大夫六郎なる人物に、黒瀬等四郷の「先達職成敗権が与えられていた」と記している。香取御兒社は、延喜式神名帳に記された式内社、栗原郡七社のうちの一社、香取御兒神社と記載されている古社である。
御勧請については、年代不明であるが、神護景雲元年(七六七年)城生野に伊治城が造営された際に勧請されたものと推測される。
延喜式神名帳は延喜五年(九〇五年)に制定されており、香取社としては当時最北端の地にある式内社であった。
香取社は剣の神であり、祭神である経津主命のフツとは剣のことで、剣に宿る神霊が人格化されたものである。
安永風土記(一七七八年)に、村鎮守 鹿島神社、別当は本山派観音院源求と記している。令和三年九月 鹿島神社宮司 鹿島神社氏子会
【由 緒 (History)】
由緒
安永風土記(1778年)に、第12代景行天皇(71~130年)の時、奥州夷賊御退治の為、常州鹿嶋より勧請と伝えられる。と記載され、香取御子御児神社は、延喜式内社(905年神名帳)であり、相殿に奉祭されていると記載されている。
別当寺である白鹿山神宮寺は、元和5年(1619年)本山派観音院により、開院され、神社に仕えることになる。
本山派三世千手院源光は、享保8年(1723年)境内に石碑建立し、享保年間(1730年代)に祝融の災の社殿を、元文2年(1737年)再建する。その棟札も現存する。文久4年(1864年)、村中安全を祈った白鹿山の御札が現存する。氏子古老の言い伝えに、神社は向い山(茶臼館-館主黒瀬帯刀氏)より現鎮座地に遷座されたと言う。又、向い山から旧栗駒町上黒瀬の地に遷座後、現鎮座地に遷座されたとも伝えられている。年代は、伝わっていない。
現在の鎮座地境内からは、凡そ西暦200年~600年位の古墳時代に作成されたとみられる祭祀用土器台脚の破片や灯明皿土器が発掘されている。黒瀬の昔話に語り継がれている「笠松と南部の殿様」の話の中の「長者原」は、現在の鎮座地より西側一帯であるが、平安時代(西暦1000年位)の外貨が多数発掘されている。
宮城県神社庁HPより
鹿島神社
祭神 鹿島神社 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
祭神 鹿島御兒神社 経津主命(ふつぬしのみこと)
祭日 旧三月十日、九月十九日(近年は九月第三日曜日)
江戸期には、右祭日は旧暦の三月十日と九月三十日で、九月三十日の祭日に岩ヶ崎城主中村日向様から武頭一人、足軽が十人が来村し例年警固に当ったという。社殿 元文二年十一月建立(一七三七年)
本殿 切妻形流造 二間×二間 幣殿 一.五間×二間
拝殿 入母屋型式 四間×二間 面積 二七五〇坪鳥居 文化十三年三月建立(一八一六年)
鳥居の石柱は村の人達が岩ヶ崎石で、転(ころ)を使い、搬送して来たとのことです。御神木 杉一本 初代は枯死 切株の跡がある
現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・〈本殿向かって左横〉境内社
・〈参道向かって左手の池〉池の中島に祀られる石祠
・〈参道向かって右手の池〉池の中島に祀られる石碑
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)栗原郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 香取御兒神社
[ふ り が な ](かとりみこかみのやしろ)
[Old Shrine name](Katori mikokami no yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
香取・鹿島の御子神(みこがみ)〈苗裔神(びょうえいしん)〉について
古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました
このことから東北地方平定には「軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました
香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったものと考えられています
こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の支流域の各地に祀られていきました
平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』に記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社
大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い神威を誇りました
その御神威を背景として 奥州〈東北地方〉制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀〈苗裔神を祀るこれらの分社〉は 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています
『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈香取苗裔神〉式内社2社の論社
〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です
香取神宮(香取市)下總國一之宮
牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)
・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
香取伊豆乃御子神社(かとりいづのみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)とされます 御祭神は 香取神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈香取伊豆乃御子神(阿佐比古命)〉とされます
香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
・和渕神社(石巻市和渕町)
和渕神社(わぶちじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)の論社です 大古 香取神社の神船が 常陸より牡鹿郡 和渕山の西辺(船島)に着き その東方に船を留め(船澤)山頂に宮柱を立て神様を祭祀したとも 坂上田村麿将軍が 大同二年(806)遠田郡箆岳へ十一面観音を建立の節に和渕山本宮に「木船明神」を勧請したのがはじまりとも伝えられる
和渕神社(石巻市和渕町)
栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)
・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)
香取御児神社(かとりみこじんじゃ)〈旧鎮座地〉は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社地です 『観跡聞老志區別帳』『登米縣の注進』に「所在は築館村 二尺程の石をたてて 香取神社と彫付ありと云る」と記されています
香取御児神社(栗原市築館久伝)〈旧鎮座地〉
・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 東夷征伐後の入植者により 常陸国鹿島より黒瀬向山(三峯山)に勧請 江戸初期に現在地に遷座 この時 香取御兒社(かとりみこしゃ)を相殿に合祀 香取御兒社は『延喜式神名帳927 AD.』所載 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社で 勧請は 第12代景行天皇の時とも 神護景雲元年(767)城生野 伊治城の造営時とも伝わります
鹿島神社〈香取御兒社を合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈鹿島苗裔神〉式内社8社の論社
〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 名神大社 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)〈延喜式内社名神大社・常陸國一之宮〉
黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足別神社(富谷市大亀)
鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社・石神山精神社〉の論社となっています これは 明治42年(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社〉であり 本社は式内社〈石神山精神社〉であるとする説がある為です
鹿島天足別神社(富谷市大亀)
曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉
月山神社(つきやまじんじゃ)は 以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺〈現 亘理町立吉田小学校の地〉に祀られていた 文久元年(1861)6月に現社内に移転し 明治2年(1869)月山神社と改称 明治43年2月 作田の民有地に祀られていた小祠の鹿島社〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉と八幡神社を合併奉祀し現在に至ります
月山神社(亘理町吉田作田)
曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉
信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社です 社伝には 天明元年(1781)4月火災により 同2年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し 同年7月光格天皇の御世 勅宣奉授し「正一位」を授けられたとあり この時古記録は焼失したとのこと
鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
・鹿島神社(福島市小田鹿島山)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に その昔篠生(信夫)郷が湖沼であった時わずかに水上に出ていた鹿島の丘上に常陸国の鹿島神宮より蝦夷地経営の為分祀勧請されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります
鹿島神社(福島市小田鹿島山)
・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に 第13代成務天皇の御代〈130~190〉 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請し 後年 社地を源氏山に遷したとあり『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります
鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 縁起に「常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地〈古鹿島〉に安置す」とあり 享保十年(1725)古鹿島の地から現境内に遷座と伝わり 医薬神社(いやくじんじゃ)は 明け薬師縁起に「天長の頃 空海上人巡礼のおり 眼病流行に苦しむ里人を救わんと 霊石に薬師如来を刻し 現在地に祀った」とあり 明治元年(1868)明け薬師の名称を医薬神社と改称 鹿島神社に合祀されました
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)
磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は 神護景雲二年(七六八年)創建と伝わり 古より鬼人が出没し 人畜に被害を及ぼし 庶民は大いに苦しんでいた時 武甕槌命が天より現れ 鏑矢で悪鬼を退治し 国家安泰となり 以来 鹿島明神として この山上に鎮座と伝わる 『延喜式神名帳927 AD.』所載 磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)とされます
鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
牡鹿郡 鹿嶋御兒神社(かしまのみこの かみのやしろ)
・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)は 太古 関東の鹿島 香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し その乗船がたまたま石巻の沿岸に到り 停泊して錨を操作した際 石を巻上げたことから 石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあり 石巻に上陸されたと伝わります
鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)
・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)は 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)祭神 武甕槌命の御子神 天足別命(あめのたらしわけのみこと)を祀ります 奥州の地を統御する為 この地で〈鹿島の稚児沼に仮宮された時〉賊徒が ...
鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)
鹿島御子神社旧蹟(かしまみこじんじゃ きゅうせき)は 大同元年(西暦806)に現在の社地に社殿を造営し遷座するまでの旧鎮座地です 社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのはこの旧蹟地になります
鹿島御子神社旧蹟(南相馬市鹿島区鹿島町)
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について
悪路王(あくろおう)とは 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています
鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます
文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸神多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています
【抜粋意訳】
常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸神多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす)祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・
【原文参照】
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR東北新幹線 くりこま高原駅から 北西方向 8.4km程度 車15分程度
旧北上川の支流 迫川が 一迫川と二迫川に分流してから 二迫川を数百メートル遡った辺りの築館黒瀬です
二迫川の南岸 芋埣川の北岸でデルタ地帯です
水田越しに社殿が見えてきました
道路に面して 鳥居が建ち 社号標には「鹿嶋神社」
鹿島神社〈香取御児神社を合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります
参道の入口には 龍のようにうねる背中を持つ 狛犬が構えています
参道を進むと 左右に池があります
この左右の池から 本殿の後ろまで 堀割のように水路〈池〉があって かつてこの地が黒瀬沼と呼ばれた湿地であった名残りだろうか?
拝殿にすすみます
やはり 水神として 龍が描かれています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 香取御兒神社について 社名のみが記され その他は不詳となっています
【抜粋意訳】
香取御兒神(カトリミコカミノ)社
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の香取御兒神社について 二迫黒瀬村 鹿島社 相殿〈現 鹿島神社(栗原市築館黒瀬後畑)の相殿〉 と記しています
【抜粋意訳】
香取御兒神社
香取は 加登利と訓べし 御兒は假字なり
〇祭神詳ならず 香取の斎神なるべし
〇二迫黒瀬村 鹿島社 相殿に在す 参拝録 参考〇当國 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社もあり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社の香取御兒神社について 所在は富村 字裏畑〈現 鹿島神社(栗原市築館黒瀬後畑)の相殿〉
又は 今 陸前國(栗原郡築館町大字築館)〈現 香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)〉と記しています
※黒瀬村は 富(トミ)村に属していたとされます
黒瀬村には 二迫黒瀬村 鹿島社 相殿〈現 鹿島神社(栗原市築館黒瀬後畑)の相殿〉があります
【抜粋意訳】
香取御児神社
祭神 経津主神
今按 社伝 祭神 経津主神とあれど 香取の御兒の神なれば経津主神と云ては 父子の違ひあり 尚 香取御兒神と云はん方まさるべし祭日 九月十九日
社格 (無格社)
所在 富村 字裏畑 〇今 陸前國(栗原郡築館町大字築館)今按 観跡聞老志區別帳に築館村と記し 登米縣の注進も之に同じく 二尺程の石をたてて 香取神社と彫付ありと云るを 富村と注進せるは疑はし尚よく考べし
【原文参照】
鹿島神社〈香取御児神社を合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る
陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について
・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)は 香取大神・鹿島大神を奉じる大和朝廷の東夷征伐〈奥州開拓〉と深く関わりを持ちます その御子神(みこかみ)の鎮座地は 東北各地の太平洋沿岸・大河川を遡上した水上交通の要所に形成されています これは関東の水上交通の拠点「香取・鹿島の海」から 大神を奉じて 太平洋海上を遡って 大河を遡上して内陸地へと進行して行った軌跡と推測されています
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について