鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鹿島天足和気神社(Kashima Amatarashiwake shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島字宮前97
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
幸魂(さきみたま)
《配》稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)〈鹿島伊豆比氣神社〉
猿田彦命(さるたひこのこみこと)〈鹿島緒名太神社〉
誉田別尊(ほんだわけのみこと)〈八幡神社〉
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)〈倉庭嶺神社〉
拝殿の由緒貼紙より
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
鹿島(かしま)天足和氣(あまたらしわけ)神社
御祭神
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)
猿田彦命(さるたひこのこみこと)
鹿島の八幡神社・倉延嶺神社を合祀(明治四十一年)祭 日
歳旦祭 一月一日
祈年祭 二月十一日(紀元祭)
例 祭 四月八日(第三日曜日)
昭和祭 四月二十九日
夏越祭 七月三十一日(近い日曜日)
秋 祭 十月十九日
新嘗祭 十一月二十三日由 緒
景行四十一年(一一一)辛亥八月六日 三門山頂に日本武尊の勧請と伝える。
延暦元年(七八二)五月朔日 征夷に神験があったので勲五等二戸加封された。
貞観四年(八六二)六月十五日 官社「鹿島宮」となり、六月十八日従四位上を賜った。
天慶四年(九四一)北鹿島樫木山頂に再興した。天文年間(一五五二頃)十六代領主 亘理兵庫守元宗公より神領寄附あった。
古来、神領地は神宮寺村と鹿島村であったが、天正の乱で廃絶した。
貞亨三年(一六八六)四月六日 現在地に伊達実氏(さねうじ)〈亘理邑主五代〉再再興した。
寛政二年(一七九〇)三月二十四日伊達村氏(むらうじ)〈亘理邑主十四代〉神輿新造した。明治五年(一八七二)郷社に列した。
明治八年(一八七五)四月八日 北海道伊達に伊達邦成公鹿島国足神社を分祀した。
明治四十一年(一九〇八)現社殿建築する。
明治四十四年(一九一一)神饌幣帛供進社に指定された。
昭和六年(一九三一)伊勢の皇大神宮御神材の払い下げを受けた。現地案内板より
拝殿の由緒貼紙より
【由 緒 (History)】
延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)平安時代に編纂された『延喜式神名帳』に記載されている神社で、創建時は三門山山頂にあったが、天慶四年(九四一)に北鹿島に遷され、貞亨三年(一六八六)、亘理伊達家五代 伊達実氏によって現在地に遷された。寛政二年(一七九〇)に建立された拝殿が、現在の御輿殿である。
社頭の標柱より
由緒
景行41年(111)辛亥8月6日、神宮寺村の三門山頂に、日本武尊の創祀と伝えられます。
創祀は、武甕槌神だけであったが、稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に、猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称した。
神領地は、神宮寺村と鹿島村に2500束あったが、天正の乱で喪失したといわれる。
延暦元年(782)壬戌5月朔日、鹿島神を祈りて凶賊を討伐するに神験顕著なるもの有り、望むらくは位封を賽せんと勅して、勲五等封二戸を授けた。(続日本紀・社蔵文書)。これより、封戸65戸に加えて67戸となった。
貞観4年(862)壬午6月15日、官社に列し鹿島宮と称した。同月18日従四位上に陞叙した。
貞観8年(866)正月20日、常陸国鹿島大神の宮司、延暦以来封物を割いて奉幣していたが、弘仁後一時絶えた。嘉祥元年になり再び奉幣しようとしたが、聴許されなかったために、神の祟り止まなかったと言われる。
延長5年(927)延喜式の神名帳に載っている、亘理郡四座のうちの1つの式内社です。
天慶4年(941)に、北鹿島の樫木山に遷祀され、さらに貞享3年(1686)丙寅年4月6日、亘理舘主5代伊達実氏公北鹿島に鹿島御殿を建てることになり、現在地に遷し鹿嶋大明神と称した。
舘主伊達氏累代の崇敬篤く、寛政2年(1790)庚戌3月24日、舘主10代伊達村氏公が、南面であった社殿を、鳥の海を向く東面に建て替えた。祭事には、家来を遣わし祭の興隆に努めました。
明治5年(1872)郷社に列せられた。
明治41年に鹿島村の八幡社、高屋村の高屋神社、八幡神社の三社、明治42年に神宮寺村の春日神社、八雲神社の二社を合祀した。
明治41年(1908)現在のような社殿改築に当たり、今まで拝殿にしていた建物を切り離して、南向きに向きを変え神輿殿にしている。明治44年(1911)神饌幣帛料供進社に指定され、祈年祭や例祭に逢隈村長が幣帛を奉った。
明治時代までは、4月8日春の例祭典・御神幸祭には、鹿島吹田の下木戸になる御腰掛場で、田沢の安福河伯神社の御神輿と合流して、二基の御神輿が亘理の町並みを南に進み、山下の八手庭から東方太平洋の吉田浜海岸まで浜降りなされて、高屋の神休場で休んでから二基の神輿が、鹿島吹田の下木戸まで西進し、お腰掛場で盛大に分列式を挙げた後、それぞれの鎮座地である西の鹿島社と北の安福河伯神社にお還りになったと伝えられている。
平成11年11月、拝殿の前に小舞を付け現在の社殿になった。宮城県神社庁HPより
【境内社 (Other deities within the precincts)】
〈写真向かって左から〉
・鹿島緒名太神社・鹿島伊都乃比気神社の石祠
・要石(かなめいし)
・痘神社
拝殿の貼紙 参拝案内より
・境内に並ぶ 多くの石祠
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)は
式内社 陸奥国 曰理郡 4座(並小)の内 三つの論社になっています
①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曰理郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
①
[旧 神社 名称 ] 鹿嶋伊都乃比氣神社
[ふ り が な ](かしまいつのひけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kashima Itsunohike no kamino yashiro)
➁
[旧 神社 名称 ] 鹿嶋緒名太神社
[ふ り が な ](かしまをなたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kashima Wonata no kamino yashiro)
➂
[旧 神社 名称 ] 鹿嶋天足和氣神社
[ふ り が な ](かしまあまたりわけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kashima Amatariwake no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
香取・鹿島の御子神(みこがみ)〈苗裔神(びょうえいしん)〉について
古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました
このことから東北地方平定には「軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました
香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったものと考えられています
こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の支流域の各地に祀られていきました
平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』に記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社
大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い神威を誇りました
その御神威を背景として 奥州〈東北地方〉制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀〈苗裔神を祀るこれらの分社〉は 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています
『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈香取苗裔神〉式内社2社の論社
〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です
香取神宮(香取市)下總國一之宮
牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)
・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
香取伊豆乃御子神社(かとりいづのみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)とされます 御祭神は 香取神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈香取伊豆乃御子神(阿佐比古命)〉とされます
香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
・和渕神社(石巻市和渕町)
和渕神社(わぶちじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)の論社です 大古 香取神社の神船が 常陸より牡鹿郡 和渕山の西辺(船島)に着き その東方に船を留め(船澤)山頂に宮柱を立て神様を祭祀したとも 坂上田村麿将軍が 大同二年(806)遠田郡箆岳へ十一面観音を建立の節に和渕山本宮に「木船明神」を勧請したのがはじまりとも伝えられる
和渕神社(石巻市和渕町)
栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)
・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)
香取御児神社(かとりみこじんじゃ)〈旧鎮座地〉は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社地です 『観跡聞老志區別帳』『登米縣の注進』に「所在は築館村 二尺程の石をたてて 香取神社と彫付ありと云る」と記されています
香取御児神社(栗原市築館久伝)〈旧鎮座地〉
・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 東夷征伐後の入植者により 常陸国鹿島より黒瀬向山(三峯山)に勧請 江戸初期に現在地に遷座 この時 香取御兒社(かとりみこしゃ)を相殿に合祀 香取御兒社は『延喜式神名帳927 AD.』所載 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社で 勧請は 第12代景行天皇の時とも 神護景雲元年(767)城生野 伊治城の造営時とも伝わります
鹿島神社〈香取御兒社を合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈鹿島苗裔神〉式内社8社の論社
〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 名神大社 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)〈延喜式内社名神大社・常陸國一之宮〉
黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・・鹿島天足別神社(富谷市大亀)
鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社・石神山精神社〉の論社となっています これは 明治42年(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社〉であり 本社は式内社〈石神山精神社〉であるとする説がある為です
鹿島天足別神社(富谷市大亀)
曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉
月山神社(つきやまじんじゃ)は 以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺〈現 亘理町立吉田小学校の地〉に祀られていた 文久元年(1861)6月に現社内に移転し 明治2年(1869)月山神社と改称 明治43年2月 作田の民有地に祀られていた小祠の鹿島社〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉と八幡神社を合併奉祀し現在に至ります
月山神社(亘理町吉田作田)
曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初は三門山山頂に『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)➁鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)➂鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 曰理郡の三社〈①鹿嶋伊都乃比氣神社➁鹿嶋緒名太神社➂鹿嶋天足和氣神社〉の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉
信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社です 社伝には 天明元年(1781)4月火災により 同2年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し 同年7月光格天皇の御世 勅宣奉授し「正一位」を授けられたとあり この時古記録は焼失したとのこと
鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
・鹿島神社(福島市小田鹿島山)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に その昔篠生(信夫)郷が湖沼であった時わずかに水上に出ていた鹿島の丘上に常陸国の鹿島神宮より蝦夷地経営の為分祀勧請されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります
鹿島神社(福島市小田鹿島山)
・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に 第13代成務天皇の御代〈130~190〉 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請し 後年 社地を源氏山に遷したとあり『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります
鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)
鹿島神社(かしまじんじゃ)は 縁起に「常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地〈古鹿島〉に安置す」とあり 享保十年(1725)古鹿島の地から現境内に遷座と伝わり 医薬神社(いやくじんじゃ)は 明け薬師縁起に「天長の頃 空海上人巡礼のおり 眼病流行に苦しむ里人を救わんと 霊石に薬師如来を刻し 現在地に祀った」とあり 明治元年(1868)明け薬師の名称を医薬神社と改称 鹿島神社に合祀されました
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)
磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は 神護景雲二年(七六八年)創建と伝わり 古より鬼人が出没し 人畜に被害を及ぼし 庶民は大いに苦しんでいた時 武甕槌命が天より現れ 鏑矢で悪鬼を退治し 国家安泰となり 以来 鹿島明神として この山上に鎮座と伝わる 『延喜式神名帳927 AD.』所載 磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)とされます
鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
牡鹿郡 鹿嶋御兒神社(かしまのみこの かみのやしろ)
・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)は 太古 関東の鹿島 香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し その乗船がたまたま石巻の沿岸に到り 停泊して錨を操作した際 石を巻上げたことから 石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあり 石巻に上陸されたと伝わります
鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)
・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
鹿島御子神社(かしまみこじんじゃ)は 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)祭神 武甕槌命の御子神 天足別命(あめのたらしわけのみこと)を祀ります 奥州の地を統御する為 この地で〈鹿島の稚児沼に仮宮された時〉賊徒が ...
鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)
鹿島御子神社旧蹟(かしまみこじんじゃ きゅうせき)は 大同元年(西暦806)に現在の社地に社殿を造営し遷座するまでの旧鎮座地です 社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのはこの旧蹟地になります
鹿島御子神社旧蹟(南相馬市鹿島区鹿島町)
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について
悪路王(あくろおう)とは 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています
鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます
文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸神多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています
【抜粋意訳】
常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸神多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす)祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・
【原文参照】
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR常磐線 亘理駅から西へ約2.5km 車5分程度
佐藤製線スポーツパークわたり(亘理公園)の西です
現在は三門山の麓 亘理公園の傍に鎮座していますが 当初は三門山頂に坐していたと伝わります
社号標には 延喜式内 鹿島天足和氣神社 と刻されています
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 参道石段を上がります
石段を上がると 小さな狛犬が置かれていて 左手に手水舎 右手に御輿殿〈寛政二年(一七九〇)に建立された拝殿〉 正面には現在の拝殿
拝殿にすすみます
扁額には 郷社 鹿島神社と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 朱色の透塀が廻され 幣殿 本殿が鎮座します
本殿向かって 右側には 向かって左から〉
・鹿島緒名太神社・鹿島伊都乃比気神社の石祠
・要石(かなめいし)
・痘神社
本殿に配祀神とされているのに石祠があるのは〈・鹿島緒名太神社・鹿島伊都乃比気神社の石祠〉は 三門山頂に祀られていたものか?
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
式内社 鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
この三社の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています
【抜粋意訳】
鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
鹿島は 加志麻と訓べし 伊都乃比氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
鹿島は前に同じ 緒名太は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇在所前に同じ鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
鹿島は前に同じ 天足は阿麻多良志と訓べし、和氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記〇当国 黒川郡 鹿島天足別神社もあり
雑事
朝野群載云、康和五年(1103)六月十日、奏亀卜、御體御卜、中略 坐ニ陸奥國 島天足別神社、云々、社司等依過穢神事祟給、遣使料中祓 可令祓清奉仕事、下略 宮主従五位下 行少祐卜部宿祢兼良、中臣従五位上・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
この両社の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています
式内社 鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています
【抜粋意訳】
鹿島伊都乃比氣神社
祭神 建御雷神
祭日 三月二十八日
社格 村社
所在 小山村 〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山)鹿島緒名太神社
社格 村社
所在 小山村 鹿島伊都乃比氣神社同殿
〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山)鹿島天足和氣神社
祭日 四月六日至八日
社格 郷社
所在 鹿島村
〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字鹿島)
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています
式内社 鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています
ある説として「鹿島苗裔神、本郡に一社にして、延喜式四座を記し」と紹介していて 鹿島三社は 三座で一社である との説を取り上げています
【抜粋意訳】
鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
今、小山村鹿島山に在り、
伊都乃比氣神を祀る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
今、鹿島村にあり、鹿島大明神と云ふ、
緒名太神を祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
今、鹿島村にあり、
天足和氣神を祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録
〇按 本書載する所 鹿島苗裔神、本郡に一社にして、延喜式四座を記し、磐城郡十一座にして、式に鹿島神社一座を挙るかの如き、彼比異同あるものは、郡境の分合に古今の別あり、三十八社 苗裔の神にも、又 式内式外の差あるを以たり、姑附て後考を俟つ凡 毎年四月六日、鹿島祭、七日 禍神鎮、八日 鳥屋崎神幸の祭を行ふ
【原文参照】
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る
陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について
・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)は 香取大神・鹿島大神を奉じる大和朝廷の東夷征伐〈奥州開拓〉と深く関わりを持ちます その御子神(みこかみ)の鎮座地は 東北各地の太平洋沿岸・大河川を遡上した水上交通の要所に形成されています これは関東の水上交通の拠点「香取・鹿島の海」から 大神を奉じて 太平洋海上を遡って 大河を遡上して内陸地へと進行して行った軌跡と推測されています
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について