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上野国 式内社 12座(大3座・小9座)について

上野国かみつけのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 上野国 12座(大3座・小9座)の神社です

上野国(かみつけのくに)について

上野国Kamitsukenokuniは  令制国の一つ〈東山に属する
現在の群馬県

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上野国かみつけのくに)の名称(こうずけのくにかみつけぬのくにかみつけののくに)とも呼ばれます
古代関東には「毛野(けの/けぬ)」呼ばれた一大勢力があり
この毛野が「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」二分され云われます

『日本書紀』には 上毛野国造(かみつけのくにのみやつこ)の上毛野君の祖は 第10崇神天皇長子 豊城入彦命東国の統治を任じられたされています

国造本紀』には 第16代 仁徳天皇御代〈古墳時代〉下毛野国造が分置されたと記されています

東国における古代律令体制への反抗は強く
天長3年(826)上総国・常陸国・上野国の3国は 国守に必ず親王が補任される親王任国(しんのうにんごく)となる

上野国(かみつけのくに) 12座(大3座・小9座)

大社3は3〈すべて名神大社
小社9は9
12は12

※座は神の柱数 社は神社数

〈延喜式神名帳に記載〉
片岡郡(かたをかの こおり) 1座(小)
甘樂郡(かんらの こおり) 2座(大1座・小1座)
群馬郡(くるま こおり) 3座(大1座・小2座)
勢多郡(せたの こおり) 1座(大)
山田郡(やまだの こおり) 2座(並小)
那波郡(なばの こおり) 2座(並小)
佐位郡(さゐの こおり) 1座(小)

片岡郡(かたをかの こおり) 1座(小)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

小祝神社(をはふりの かみのやしろ)

・小祝神社(高崎市石原町)

一緒に読む
小祝神社(高崎市石原町)

小祝神社(おぼりじんじゃ)は 創建は不詳ですが 大和朝廷の六国史『日本三代實録』元慶四年(880)の条に゛小祝神 正五位上゛と見え 『延喜式神名帳927 AD.』所載 上野國 片岡郡 小祝神社(をはふりの かみのやしろ)〈 上野國の式内社 上野十二社の第七社〉に比定さる古社です ご祭神は 医薬及び穀霊神 少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ります

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〈参考〉・小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)

一緒に読む
小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)

小祝様の旧跡(おぼりさまのきゅうせき)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)秋 管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この小祝池の辺に祀られる石祠が 冷水 小祝神社です

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〈参考〉・妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉

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妙見社・妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉

妙見社(みょうけんしゃ)・妙見寺(みょうけんじ)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この花園里に祀られた妙見神が〈息災寺小祝明神〉です

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甘樂郡(かんらの こおり) 2座(大1座・小1座)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

貫前神社(名神大)(ぬきのさきの かみのやしろ)

咲前神社(安中市)
貫前神社の旧鎮座地

前宮
咲前神社(安中市鷺宮)

咲前神社(さきさきじんじゃ)は 一の宮貫前神社(抜鉾神社)の旧鎮座地(前宮)です その由緒はとても古く 遠く神代に 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が 健御名方神(たけみなかたのかみ)を追って 上野国と信濃国の国境にある荒船山に御出陣をされた時の行在地であると伝わっています

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・貫前神社(富岡市)

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一之宮 貫前神社(富岡市一ノ宮)

一之宮 貫前神社(いちのみや ぬきさきじんじゃ)は 菖蒲(綾女・あやめ)谷といわれる渓間に南面して鎮座しますが ご参拝には 一度 南の参道をのぼって大鳥居をくぐります 平坦な参道が弧を描くように総門に至ります するとそこからは 急な下りの石段となっていて 真下に社殿が建っています  上って 平らになって 今度は下りになる 全国でも珍しい「下り参道」でお詣りする神社です 古くからの由緒格式を持つ 上野国一之宮として崇敬を集めています

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宇藝神社(うけの かみのやしろ)

・宇藝神社(富岡市神成)

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宇藝神社(富岡市神成)

宇藝神社(うげじんじゃ)は ここより西方500m程に 神成山中腹 峻立した岩壁があり゛宇賀神様(ウガジンサマ)゛と呼ばれる磐座信仰の古社地があります 社殿創建は 天武天皇の御代(672~686年)とされ 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)が祀られる古社です 延喜式内社 上野國 甘楽郡 宇藝神社(うけの かみのやしろ)とされる由緒を持ちます

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・ウガジンサマ(富岡市神成)
〈宇藝神社の旧鎮座地 磐座〉

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宇賀神さま(富岡市神成)〈宇藝神社旧鎮座地 磐境〉

宇賀神さま(うがじんさま)は 宇賀神〈宇迦之御魂神の別称〉を祀る磐座で 宇藝神社の旧鎮座地とされ 現在の宇藝神社(富岡市神成)より西方500m程 神成山中腹 峻立した岩壁の割れ目に小祠が祀られ その横に゛延喜式内社 宇藝神社磐境゛と刻字された石碑が建立されています

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群馬郡(くるま こおり) 3座(大1座・小2座)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

伊加保神社(名神大)(いかほの かみのやしろ)

・伊香保神社(渋川市伊香保町)

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伊香保神社(渋川市伊香保町)

伊香保神社(いかほじんじゃ)は 元来は゛いかつほの神゛〈榛名山と地域の活火山の山々〉を信仰する山岳信仰であったとされます 社伝によれば 天長2年(825)創建され 平安期以降に伊香保温泉街へ遷座し 温泉の守護神となったと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の名神大社 伊加保神社(いかほの かみのやしろ)です

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三宮神社(吉岡町大久保)
〈伊賀保大明神 里宮(旧本社)〉

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三宮神社(吉岡町大久保)〈伊賀保大明神 里宮〉

三宮神社(さんのみやじんじゃ)は 怒ツ穂(イカホ)と呼ばれた゛榛名山゛〈古墳時代後期の6世紀代に2回の大きな噴火〉を恐ろしい怒りの山 ゛いかつほの神゛として恐れあがめ信仰し 天平勝宝2年(750)伊賀保大明神 里宮として勧請したと社伝にあります ゛伊香保神社゛は 現在の伊香保温泉の地に遷座する以前は 里宮の三宮神社が祭祀中心地であったとされます

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・若伊香保神社(渋川市有馬)
伊賀保大明神 当初の鎮座地〈豪族・有馬氏が里宮・三宮神社勧請した際に旧地に存続した社〉

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若伊香保神社(渋川市有馬)

若伊香保神社(わかいかほじんじゃ)は 渋川市有馬に鎮座する 豪族 有馬氏(阿利真公)によって奉斎された゛いかつほの神゛式内社 伊香保神社(いかほの かみのやしろ)が 三宮神社に遷座する以前に鎮座していた所とされ その社地跡に祀られたのが 国史見在社〈式外社〉゛若伊賀保神社゛だとされています

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榛名神社(はるなの かみのやしろ)〈椿名神社(つばきなの かみのやしろ)〉

・榛名神社(高崎市榛名山町)

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榛名神社(高崎市榛名山町)

榛名神社(はるなじんじゃ)は 第2代 綏靖天皇〈即位 BC584~582年頃〉の御代 饒速日命の御子 可美真手命 父子が山中に神籬を立て天神地祇を祀ったのが始まりと云う 第31代 用明天皇 元年(586)に祭祀の場が創建と伝わります 式内社 椿名神社(はるなの かみのやしろ)〈つばきなのかみのやしろ〉であるとされ 社号の゛榛名゛と゛椿名゛の文字の違いについても諸説があります

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・榛名社(高崎市箕郷町西明屋)跡地
〈旧登山道 南東口の里宮 or 旧鎭座地 跡地

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榛名社 跡地(箕郷町西明屋)〈旧登山道東口の里宮 or 旧鎭座地 跡地〉

榛名社 跡地(はるなしゃ あとち)は 箕輪城の南東部に出城〈砦〉があった場所 ゛椿山(つばきやま)゛に榛名社or椿名社が祀られていました 箕輪城の南東に突き出た尾根上の前方後円墳(椿山古墳)を利用した椿山の砦の跡地です ここは 古は榛名山への旧登山道東口にあたり 榛名神社の里宮とも式内社 椿名神社(つばきなのかみのやしろ)の旧鎭座地 跡地とも伝わっています

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・諏訪神社(高崎市箕郷町東明屋)
〈榛名社(高崎市箕郷町西明屋)跡地の合祀先〉

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諏訪神社(高崎市箕郷町東明屋)

諏訪神社(すわじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 永禄9年(1566)武田信玄が箕輪城を落城させ その後 戦難を免れるために 武田氏の守護神 諏訪神社が勧請されたと伝わります 太平洋戦争後には〈貞観16年(874)創建〉石上神社(村内北に鎮座)と 式内社 椿名神社の里宮とも元宮とも云われる榛名社〈満行宮〉(椿山鎮座)を合祀しています

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・椿名神社(高崎市倉渕町権田)
〈旧登山道 南西口の里宮〉

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椿名神社(高崎市倉渕町権田)

椿名神社(つばきなじんじゃ)は 口碑には 第2代 綏靖天皇 御宇(BC581~549)宇摩志摩遅命の御子 元湯彦命が 東国平定の時 行前(ゆくまえ)に社を建て 所持していた石剣・石玉を神体として祀ったことが創建 天正の頃(1573~1592)兵火により焼失 文禄年間 (1593〜96)当地に遷座しました 延喜式内社 椿名神社〈つばきなの かみのやしろ〉であると伝わります

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甲波宿禰神社(かはすくねの かみのやしろ)

・甲波宿彌神社(渋川市川島)

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甲波宿彌神社(渋川市川島)

甲波宿彌神社(かわすくねじんじゃ)は 六国史〈『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』〉に所載のある古社で 口傅に゛創立は不詳なれども宝亀二年(771)九月二十九日なり゛と云ひ傅へられ 延喜式内社 上野国 群馬郡 甲波宿禰神社(かはすくねの かみのやしろ)の論社です 天明3年(1783)浅間山噴火による泥流により被災 字舞台から現在地へ遷座再建されました

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・甲波宿禰神社 古社地(渋川市川島)
〈甲波宿彌神社(渋川市川島)の古社地〉
〈甲波宿禰神社(東吾妻町箱島)と武内神社(渋川市祖母島)の元宮〉

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甲波宿禰神社 古社地(渋川市川島)

甲波宿禰神社 古社地(かわすくねじんじゃ こしゃち)は 口傅に゛創立は不詳なれども宝亀二年(771)九月二十九日なり゛と云ひ傅へられます 天明3年(1783)浅間山噴火による泥流に社殿が流出し 同5年9月現社地 渋川市川島再建された延喜式内社 上野国 群馬郡 甲波宿禰神社(かはすくねの かみのやしろ)の旧鎮座地です

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・甲波宿禰神社(東吾妻町箱島)

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甲波宿禰神社(東吾妻町箱島)

甲波宿禰神社(かわすくねじんじゃ)は 宝亀二年(七七一年)延喜式上野十二社の一つ川島の甲波宿祢神社(かはすくねの かみのやしろ)が創建されましたが 本社はそれより後 延暦四年(七八五年)早良親王の謀反に組したためこの地に流されたという小野金善が川島鎮座の甲波宿祢神社から勧請したといわれます

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・武内神社(渋川市祖母島)

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武内神社(渋川市祖母島)

武内神社(たけうちじんじゃ)は 式内社 甲波宿禰神社(かはすくねの かみのやしろ)の論社です 吾妻川沿いには 北面を吾妻川・南面を険しい山・東西の集落間を分断する「峡谷」を境界とした「島」状の3つの「島」と名が付く集落〈・箱島・祖母島・川島〉があり それぞれに論社が鎮座〈海神や川神を祀る神社は 三社構成が多いとする説〉その中央が祖母島(うばじま)です

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・甲波宿禰神社(渋川市行幸田)

一緒に読む
甲波宿禰神社(渋川市行幸田)

甲波宿禰神社(かわすくねじんじゃ)は 神社所有の古書写に元和8年(1622)「川島村 甲波宿禰神社を湯上村に神定仕候  村中氏神や」の文章があり この時の分社ともされ 一方で 山吹日記〈天明6年(1786)〉には゛湯の上(行幸田)の左の方いと蔭高く古にし森あるは甲波宿禰の社と開ゆ云々式外のふるき社にやおはすらん゛とあり 平安時代からの式外社とも記されています

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勢多郡(せたの こおり) 1座(大)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)

・赤城神社〈三夜沢赤城神社〉(前橋市三夜沢町)

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赤城神社〈三夜沢赤城神社〉(前橋市三夜沢町)

三夜沢赤城神社(みよさわ あかぎじんじゃ)は 関東平野を見渡す赤城山の南面の中腹に鎮座します 古代の毛野国を支配し 東國経営にあたった上毛野君の創祀とされ 本来は上野國の一之宮であったとする伝承があり 古くから朝廷から祭祀を受けていました 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の論社です

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宇通遺跡(前橋市粕川町中之沢)
〈三夜沢赤城神社の元宮地〉

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宇通遺跡(前橋市粕川町中之沢)〈三夜沢赤城神社の元宮地〉

宇通遺跡(うつういせき)は 昭和40年の山火事によって偶然発見され 群馬大学史学研究室が発掘調査を担当「この寺院遺跡は火災〈『吾妻鑑』建長3年(1251)「上野国赤木嶽焼」〉によって終焉した 三夜沢赤城神社に伝承として残る゛西宮の元宮地゛」と推定した しかし 200mほど下った湯之口地区にも礎石建物の存在があり そこは元三夜沢と通称されており こちらが西宮の故地であるとも云われます

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・二宮赤城神社(前橋市二之宮町)

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二宮赤城神社(前橋市二之宮町)

二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)は 第十一代垂仁天皇 第十二代景行天皇の御代に創建と伝へられる古社 貫前神社に一宮を譲った伝承を持つ 二宮の地名を冠する鎮座地は 赤城山の真南に位置し 古代 豊城入彦命を祖とする上毛野氏の本拠地゛古代上毛野゛と推定され 赤城本宮とされる三夜沢赤城神社の元宮であったとも 里宮でもあったともされ 今でも御神幸があります

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・赤城神社〈大洞赤城神社〉(前橋市富士見町赤城山)

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大洞 赤城神社(前橋市富士見町赤城山)

大洞 赤城神社(だいどう あかぎじんじゃ)は 昭和45年(1970)社殿荒廃につき 大洞から現在地に遷座しました 小沼端の豊受神社 小鳥ヶ島の厳島神社 黒檜山山頂の高於神神社をはじめ 赤城山内の各峰神社を合祀して 現在に至っています 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の奥宮であろうとされています

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赤城神社元宮跡地(前橋市富士見町赤城山)
〈大洞赤城神社 旧鎮座地〉

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大洞赤城神社 元宮跡地(前橋市富士見町赤城山)

大洞赤城神社 元宮跡地(おおほらあかぎじんじゃ もとみやあとち)は 社伝には 当初は神庫山(ほくらやま)〈現 地蔵岳〉に鎮座 大同元年(806)〈大沼の南畔〉この地に遷座 約1200年間鎮座した〈神社周辺は 遷座の年号に合わせ「大洞」と呼ばれ 当社も大洞赤城神社と称されたと云う〉 昭和45年(1970)現在の小鳥ヶ島(ことりがしま)に遷座 跡地となりました

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・赤城神社(前橋市富士見町横室)

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赤城神社(前橋市富士見町横室)

赤城神社(あかぎじんじゃ)は 標高三百メートルの十二山(じゅうにやま)の頂上に鎮座します 南面には三百三十三段の石段を登る表参道があります 社伝によれば゛当社は延喜式内 名神大社なり゛とあり 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の論社とされます

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山田郡(やまだの こおり) 2座(並小)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

賀茂神社(かもの かみのやしろ)

・賀茂神社(桐生市広沢町)

一緒に読む
賀茂神社(桐生市広沢町)

賀茂神社(かもじんじゃ)は 第10代 崇神天皇の朝 豊城入彦命が 東国鎮護のため山科国の賀茂神を勧請したと伝えられ 桓武天皇 延暦十五年(796)官社に列せられ その後 陽成天皇 元慶四年(881)正五位下勲十二等を授る由緒ある古社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 上野國 山田郡 賀茂神社(かもの かみのやしろ)です

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美和神社(みわの かみのやしろ)

・美和神社(桐生市宮本町)

一緒に読む
美和神社(桐生市宮本町)

美和神社(みわじんじゃ)は 社伝に第10代 崇神天皇の御代に大和國 大神神社を勧請して創建と伝え 六国史に 延暦十五年(796)官社に預かり 天慶四年(941)正五位下に叙せられたと記される由緒ある古社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 上野國 山田郡 美和神社(みわの かみのやしろ)とされます

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那波郡(なばの こおり) 2座(並小)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)

・火雷神社(玉村町下之宮)〈上野國八之宮〉

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火雷神社(玉村町下之宮)〈上野國八之宮〉

火雷神社(からいじんじゃ)は 社伝によると 崇神天皇元年の鎮座 火雷宮と号したと伝え 桓武天皇 延暦十五年(796)には官社に預った 延喜式内社 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)です 上野国八之宮とされ 利根川南岸に鎮座し 北岸に鎮座する倭文神社(上野国九之宮 上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称されます

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倭文神社(しとりの かみのやしろ)

倭文神社(群馬県伊勢崎市)

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倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉

倭文神社(しとりじんじゃ)は  第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます

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佐位郡(さゐの こおり) 1座(小)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

大國神社(おほくに かみのやしろ)

・大國神社(伊勢崎市境下渕名)

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大國神社(伊勢崎市境下渕名)

大國神社(おおくにじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御宇 朝廷から派遣された百済車臨が 御手洗池で手を洗う大国主命の化身である白頭翁と出会い大干魃(かんばつ)から救われた伝説により創建された その後 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷合祀して五護宮・五后宮・第五姫大明神とも称した 延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくにかみのやしろ)とされます

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東山道に鎮座する 382座『延喜式神名帳』の所載一覧 に戻る   

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東山道に鎮座する 382座『延喜式神名帳』の所載一覧

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました
当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています

このページは
「東山道」に鎮座する(382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340)神社の一覧表です

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています