石神山精神社(いわかみやますみじんじゃ)は 七ツ森(ななつもり)山裾に鎮座します おそらくは 太古 蝦夷(えみし)が この大岩を石神として祀ったであろう聖地で その後に 蝦夷征伐 坂上田村麻呂将軍が植えた御手植え杉とともに 大和朝廷が崇める式内社 石神山精神社(いはかむやまつみの かみのやしろ)として この地を祀り治めてきたのでしょう
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
石神山精神社(Iwakamiyamasumi shrine)
[通称名(Common name)]
・岩上明神(いわがみみょうじん)
・岩上様(いわがみさま)
【鎮座地 (Location) 】
宮城県黒川郡大和町吉田字麓71
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山祇命(おほやまづみのみこと)
《配》大歳神 大国主神 事代主神 保食神 奥津彦神 奥津姫神
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当神社の創草については詳でないが続日本記に桓武天皇の延暦9年11丁亥25日(790、奈良)に官社に進められた。
又 仁明天皇の嘉祥3年12月(850、平安)即位の恩典により昇叙の事あり、続日本記、続いて醍醐天皇の「延喜式神名帳」に陸奥國黒川郡四座の一に登載された。
社名の示す如く社の傍に高十余丈の巨石の基に神社が祀られ古代の信仰の姿を示している。
又、本殿の前には坂上田村麿将軍が蝦夷平定の奉賽に植えたと伝へる囲5米余の老杉が空をついている。
江戸期岩上大明神と称されていたが明治5年1月村社に列すと、旧来の石神山精神社と名称を改めた。明治42年5月27日高田村字要害の運難神社、吉田村字山神に鎮座山神社の両社を合祀する宮城県神社庁HPより
大和町「まほろば百選」 石神山精神社
石神山精神社(いわがみやまずみじんじゃ)
延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
祭神 大山衹神(おおやまつみ) 大歳神(おおとしのかみ) 事代主神(ことしろぬしのかみ)
祭礼 旧3月15日、旧9月9日
当社の歴史は古く、続日本紀(しょくにほんぎ)によれば桓武天皇の延暦9年(790年)に陸奥国黒川郡石神山精神社を官社に勧められ、当時すでに大和朝廷の信仰厚く奉弊(ほうへい)が行われた。社名の示すとおり巨大な岩石に神霊の存在を認めて祀った古い信仰の姿を伝えた神社で、社殿前には坂上田村麻呂将軍の御手植えの杉と、古老の口碑に伝う周囲8メートル余の老杉がある。 (まほろば百選~未来への伝言~第1刊《史跡・名跡編》より)
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)延長5年(927年)に記載されている神社です。
参道を登り、拝殿の脇を通ると、本殿の前には、見上げる杉のご神木と巨大な岩に圧倒され、長い歴史の流れを感じることができる神々しい空間が広がっています。
大和町公式HPより
https://www.town.taiwa.miyagi.jp/soshiki/matisei/6722.html
【由 緒 (History)】
由緒
御祭神、大山祇神。
配 神・大国主神・事代主神・保食神・奥津彦神・奥津姫神。当社の創建は不詳であるが、その歴史は古い。続日本紀 第五十代 桓武天皇延暦9年11月丁亥 陸奥国 黒川郡 石神山精社 官社に進めたと記され、神徳の高く大和朝廷の信厚く、降って文徳実録に仁寿2年8月辛酉 神階従五位下を授かる。
続く第六十代 醍醐天皇5年丁亥に成る延喜式神名帳に、陸奥国100座黒川郡4座の一に見られる社である。
県内における唯一官社に列したことを記録から確認される神社であり、各時代の地頭の尊崇が厚く、社名の示すごとく巨大な岩石に神霊の存在を認め祀った古代祭祀、信仰の姿を伝えている。
社殿前の古杉は鎮守府将軍 坂上田村麻呂の御手植の杉と伝えられ、囲7米余り、御神木として信仰されている。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・蔵王権現社《合》天水分神
・山神社《主》山祇神
・運難神社《合》別雷神
・八坂神社《合》須佐之男命
※参道に祀られている4つの石祠・石神でしょうか?
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
後の式内社 石神山精神社について 官社となった旨が記されています
【抜粋意訳】
延暦九年(七九〇)十一月丁亥〈廿五日〉の条
○丁亥 陸奥国 黒川郡 石神山精社 並に為 官社
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)黒川郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 石神山精神社
[ふ り が な ](いはかむやまつみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iwakanuyamatsumi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 石神山精神社(いはかむやまつみの かみのやしろ)の二つの論社
・石神山精神社(大和町吉田麓)
石神山精神社(いわかみやますみじんじゃ)は 七ツ森(ななつもり)山裾に鎮座します おそらくは 太古 蝦夷(えみし)が この大岩を石神として祀ったであろう聖地で その後に 蝦夷征伐 坂上田村麻呂将軍が植えた御手植え杉とともに 大和朝廷が崇める式内社 石神山精神社(いはかむやまつみの かみのやしろ)として この地を祀り治めてきたのでしょう
石神山精神社(大和町吉田麓)
・鹿島天足別神社(富谷市大亀)
鹿島天足別神社(かしまあまたりわけじんじゃ)は 二つの式内社〈・鹿嶋天足別神社・石神山精神社〉の論社となっています これは 明治42年(1909)同じ敷地内に鎮座していた吹上社を合祀しましたが この吹上社が 式内社〈鹿島天足別神社〉であり 本社は式内社〈石神山精神社〉であるとする説がある為です
鹿島天足別神社(富谷市大亀)
七ツ森(ななつもり)について
宮城県黒川郡にある七ツ森とは その名の通り七つの山〈・笹倉山(506m)・松倉山(291m) ・撫倉山(359m)・大倉山(327m)・蜂倉山(289m)・鎌倉山(313m)・遂倉山(307m) 〉の総称です
かつては たがら山(232m)が入っていて「七ツ森」でしたが 現在は「大森山」〈笹倉山(506m)〉と入替っています
七つの山の各山頂には 薬師如来が祀られていましたが 各山の薬師如来は 最高峰の笹倉山頂上〈506m〉大森薬師堂に7体の薬師如来石仏が安置され 合祀されたとのこと 山開きの際には参拝できるそうです
※現在七ツ森に含まれない「たがら山(232m)」の山頂には 薬師如来石仏があるそうです
七ツ森(ななつもり)の伝説
七ツ森(ななつもり)は 巨人が一峰ずつ作ったという民話が伝えられています
七ツ森のできたわけ
昔、加美の都に朝比奈三郎という力持ちの大男が住んでいました。
あるとき、弓の稽古をするため、的にする山を作ることにしました。
そこで大きなタンガラ(土を運ぶための背負いかご)をつくり、黒川のほうまでやってきたそうな。そして、大谷の東の原っぱ(現在の鹿島台町あたり)からタンガラいっぱいに土をいれ、七回ほど土を運んで的山をつくりました。
途中、一回づつ休んだときにタンガラから土がこぼれ、その土が固まって七つの山ができました。それが今の「七ツ森」で、この時土を掘ったところが「品井沼」、三郎が歩いた足跡が「吉田川」になったんだと。
また、その時の的山が矢喰山(薬莱山)で、一番あとにタンガラの残りでできた山がたんがら森といわれるようになったんだとさ。
大和町公式HPより
https://www.town.taiwa.miyagi.jp/soshiki/soumu/7tsumori.html
実際の写真です
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東北自動車道 大和ICから 県道3号から県道147号を西へ約8km 車12分程度
鎮座地は 七ツ森(ななつもり)の一つ 遂倉山(とがくらやま)の山すそに沿って流れる吉田川の南岸流域にあります
写真の一番右の尖った山が「たがら山」その隣の山が「遂倉山」
大和町吉田辺りで 吉田川を渡り南へ麓城跡〈館山城跡〉付近です
湯殿山の石碑と麓城跡の標柱があります
朱色の鳥居が建ち 山神 太神宮の社号石があります
石神山精神社(大和町吉田麓)に参着
石の社号標 石神山精神社の横にある標柱には 次のように記されています
「続日本紀」によれば、延暦九年(七九〇)に官社になっている。後には「延喜式神名帳」に記載された いわゆる式内社であり、黒川郡四座の一つである。
まほろば百選 麓館跡公園
延喜式内社 石神山精神社
坂上田村麻呂 将軍手植の御神杉
との看板もあります
一礼をして 鳥居をくぐり参道を進むと 山へと細い石段が続いています
石段を上がって行くと 石段は折れて曲り 二の鳥居が建ちます
さらに杉木立の中を進むと 社殿が見えてきました
拝殿にすすみます 社殿の向かって左手奥には 巨大な岩があり この岩が石神山精神社そのものです 社殿の奥に聳えている巨木の杉が「坂上田村麻呂 将軍手植の御神杉」
拝殿の扁額には
延喜式内社 石神山精神社 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 巨大な岩に本殿が鎮座し 御神木「坂上田村麻呂 将軍手植の御神杉」が祀られています
おそらくは 太古には 蝦夷(えみし)の聖地 であったであろうこの大岩は 蝦夷征伐の将軍の御手植え杉とともに 大和朝廷が崇める式内社 石神山精神社(いはかむやまつみの かみのやしろ)として この地を祀り治めてきたのでしょう
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 石神山精神社について 續日本記の官社昇格の記載を記しています
【抜粋意訳】
石神(イハカミ)山精神社
續日本記 延暦九年(七九〇)十一月丁亥〈廿五日〉の条○丁亥 陸奥国 黒川郡 石神山精社 並為官社
文徳実録
卷四仁寿二年(八五二)八月辛丑〈七日〉の条
○辛丑 陸奧國伊豆佐神 登奈孝志神 志賀理和氣神 並加正五位下
衣多手神 石神 理訓許段神 配志和神 舞草神 並授從五位下・・・・
・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 石神山精神社について 所在は 大亀山に在〈現 鹿島天足別神社(富谷市大亀)と同じ敷地内に鎮座していた吹上社(大亀字和合田浣)大山祇神 明治42年(1909)合祀〉と記しています
【抜粋意訳】
石神山精神社
石神山精は 伊波賀美夜麻都美と読り
〇祭神 大山祇命
〇大亀山に在す官社
續日本紀 延暦九年(七九〇)十一月丁亥〈廿五日〉の条○丁亥 陸奥国 黒川郡 石神山精社 並為官社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 石神山精神社について 所在は 吉田村 岩上明神〈現 石神山精神社(大和町吉田麓)〉と記しています
【抜粋意訳】
石神山精神社 称 岩上明神
祭神 大山祇命
今按〈今考えるに〉神社覈録に祭神 大山祇命とあるは由あり 石神山精神社の義にて山精神社と式に記せるなるべし故 今之に従ふ社格 村社
所在 吉田村〇今陸前國(黒川郡吉田村大字吉田)
【原文参照】
石神山精神社(大和町吉田麓)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について