服部神社(はっとりじんじゃ)は 『續日本紀』元明天皇 和銅五年(712)秋七月の条に因幡国にて綾錦を織られたと記載があり その頃の創立と思われ 又『三代實録』貞観十六年(874)五月の条に服織神 從五位上と神階の奉授が記される国史見在社であり 式内社 因幡國 法美郡 服部神社(はとりのかみのやしろ)でもあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
服部神社(Hattori shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
鳥取県鳥取市福部町海士597
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天羽槌雄命(あめのはずちをのみこと)
天棚機姫命(あめのはたおりひめのみこと)
素戔嗚尊(すさのをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
鳥取市福部町 海士地区
延喜式内社
服部神社(はっとりじんじゃ)
祭神 天羽槌雄命(アメノハズチオノミコト)
天棚機姫命(アメノハタオリヒメノミコト)
素戔嗚尊(スサノオノミコト)祭祀 例祭日・・・四月二十二日(現四月二十二日に近い日曜日)
秋祭り・・・旧九月九日社 紋 丸に違い矢羽、丸に五三桐
主要建物 本殿、幣殿、拝殿、神輿庫、参籠所
宝物等 小泉友賢書の本簡由 緒 続日本紀に元明天皇 和銅五年(七一二年)秋七月の条に因幡国にて綾錦を織らされたということが記載されており、その頃の創立と思われる。
三代実録巻二十五貞観十六年(八七四年)五月の条に「授因幡國從五位下 服織神 從五位上」と記されており、「時範記」(一〇九九年)には国司巡拝の社として記される等、福部で最も歴史と格式を有する神社である。現地石碑文より
【由 緒 (History)】
『鳥取県神社誌(とっとりけんじんじゃし)』〈昭和10年(1935)〉に記される服部神社
【抜粋意訳】
村社 服部神社 岩美郡福部村大字海士字宮ノ前鎮座
祭神 天羽槌雄命、天棚機姫命、素戔嗚命
由緖 延喜式所載の小社なり、
績日本紀 和銅五年秋七月の條下に因幡國にて綾錦を織らしめられし由を記せり、共位置は即ち當社所在の服部の郷にして、當時この郷に機織の工匠の住せしを知るべし。此等工匠は総て共の祖神を祀りて當社を創立せしこと容易に推知し得べし、
然して 三代實錄 卷二十五貞観十六年五月の條に「十一日戊戌授ニ因幡國從五位下 中略 服織神 中略 並從五位上」と記載し 因幡誌に「二所八幡宮延喜式神名帳載る所の法美郡服部神社是也 荒坂神社の條下に註する如く 服部庄は舊法美郡に属する事これにて分明なり」と記せる如く頗る舊社なり。降りて明治元年十一月當村字縣邸鎭座牛頭天王 祭神 素戔嗚命 を本社に合祀す。同四十年十二月十九日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。例祭日 四月十五日
建造物 本殿、拜殿、幣殿、神樂殿、神饌所 神輿庫
境内坪数 五百五十一坪
氏子戸数 六十三戸
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
令によって 21ヵ国で初めて綾錦が織られたとし 因幡國においても 綾錦を織られたことが記されています
【抜粋意訳】
和銅五年(七一二)七月壬午(戊辰朔十五)
○秋七月壬午
伊賀国献玄狐。
令 伊勢。尾張。参河。駿河。伊豆。近江。越前。丹波。但馬。因幡。伯耆。出雲。播磨。備前。備中。備後。安芸。紀伊。阿波。伊予。讃岐
等廿一国 始織綾錦
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されてます
【抜粋意訳】
卷二十五 貞觀十六年(八七四)五月戊戌〈十一日〉
○戊戌十一日
授
因幡國 從五位下 賀露神 須賀神 鷲峯神 服織神 美嘆神 並從五位上
遠江國 正六位上 蒲太神 白伊大刀自神
常陸國 立野神 飛護念神 國都神
出羽國 矢向神 並從五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)因幡国 50座(大1座・小49座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)法美郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 服部神社
[ふ り が な ](はとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hatori no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「服織(はとり)」とは
服織(はとり)とは 機織(はたおり)の変化した語で 機(はた)を織ること および それを生業とする人を指します
又 服部(はとりべ)は 大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた品部です
機織部(はたおりべ)が転訛したもので のちに「部(べ)」の音がとれ「促音」が入り「はっとり」とも発音されるようになりました
服部(はとりべ)について゛服部天神宮゛の記事を参照してください
・服部天神宮(豊中市服部元町)
服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です
服部天神宮(豊中市服部元町)
『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載の「服部神社(ハトリノカミノヤシロ)」について
『延喜式神名帳(927 AD.)』には 同名の神社が 3つあります
①大和國(ヤマトノクニ)城下郡(シキノシモノコオリ) 服部神社二座(ハトリノカミノヤシロ フタクラ) 鍬靫
・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
➁加賀國(カガノクニ)江沼郡(エヌマノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)
服部神社(山代温泉)の記事をご覧ください
③因幡國(イナバノクニ)法美郡(ハフミノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)
服部神社(福部町)の記事をご覧ください
服部神社(はっとりじんじゃ)は 『續日本紀』元明天皇 和銅五年(712)秋七月の条に因幡国にて綾錦を織られたと記載があり その頃の創立と思われ 又『三代實録』貞観十六年(874)五月の条に服織神 從五位上と神階の奉授が記される国史見在社であり 式内社 因幡國 法美郡 服部神社(はとりのかみのやしろ)でもあります
服部神社(鳥取市福部町海士)〈三代實錄 服部神・延喜式内社 服部神社〉
他に『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載されている 音が同じ「ハトリノカミ」を含む神社としては
・攝津國(セッツノクニ) 嶋上郡(シマカミノコオリ) 神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)
神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます
神服神社(高槻市宮之川原元町)
伊勢國多氣郡 服部伊刀麻神社(はとりの いとまの かみのやしろ)
・服部伊刀麻神社 舊地(松阪市出間町)
〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社の旧地〉
・〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
伊勢國多氣郡 服部麻刀方神社二座(はとりのまとまの かみのやしろ ふたくら)
・須麻漏賣神社舊地 麻刀方神社舊地(松阪市垣内田町)
〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)の舊地〉
・〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)
神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は 八尋殿(やひろでん)の守護神を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した和妙(にぎたえ)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます 起源は『倭姫命世記』垂仁天皇22年機屋を作り 25年磯宮に服織社を建て 五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋〈宇治の機殿〉を建て 清寧天皇3年(482)服織社の地に移ったとします
八尋殿・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉
『延喜式神名帳(927 AD.)』所載社の内゛服織神(はとりのかみ)゛を祀る三ヶ所の神社について
①延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社 三社について
『延喜式神名帳』奄芸郡「服織神社」の論社は 付近一帯が 古代には 服部(はとり)郷であったので 諸説が生れたと云われる
・服織神社(鈴鹿市御薗町)
服織神社(はとりじんじゃ)は 江戸時代には 八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた 社伝には 延喜式内社で 元は神明の社と称し また服織神社と申し伝へて来たと伝わります 式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社となっています
服織神社(鈴鹿市御薗町)
・服織神社(河芸町久知野)
服織神社(はとりじんじゃ)は 往古は当地の南西 社宮地というところにあり、当地方 服部郷の信奉の社であったと云い 式内社の当時は「羽織社」と称えていたことが石碑にみえ 付近に衣手谷(きぬてだに)服反田(はだんだ)社宮神(しゃぐじん)などの地名が残っており その信仰は今の社にも受け継がれ「扇神」「扇さん」「オオギリさん」と慕われています
服織神社(河芸町久知野)
・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
〈酒井神社に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
※江戸時代の諸書には 郡山村 酒井神社境内の服織神社を称えるものが多かった
酒井神社(さかいじんじゃ)は 社伝は天智天皇10年(671)の創祀という 又 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人に神託があり 郡山に稻生新宮を造立しました これが郡山大明神と伝わる 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です その他に 境内には゛服織神社御旧跡〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡とも〉゛があります
酒井神社(鈴鹿市郡山町)
②延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)
・服織神社(浜松市東区豊町)
服織神社(はたおりじんじゃ)は 古くは 天竜川沿いのこの辺には〈織物に関係した職人が集団〉服部(はとりべ)が住んでいたと伝わる 元明天皇の和銅元年(708)出雲国から 神様をお迎えして造られたのが創建と伝わる 延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)とされます
服織神社(浜松市東区豊町)
③延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)
・服織田神社(牧之原市静波)
服織田神社(はとりだじんじゃ)は 社伝には゛景行天皇の七年に勧請された゛とあり 鎮座地は 往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されています 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
服織田神社(牧之原市静波)
・白羽神社(御前崎市白羽)
白羽神社(しろわじんじゃ)は 社伝によれば゛旧社地は 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月鎮座 仁明天皇 承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め 承和四年(837)2月現地に遷座した゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
白羽神社(御前崎市白羽)
・駒形神社(御前崎市御前崎)
駒形神社(こまがたじんじゃ)は 延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 社伝には゛往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 白羽神社の元宮とされる゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
駒形神社(御前崎市御前崎)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
山陰本線 福部駅から西へ約1.7km 車5分程度
海士地区 鳥取の砂丘の北面に 南を向いて境内があります
服部神社(鳥取市福部町海士)に参着
木製の鳥居があり 一礼をしてくぐり 石段を上がります
左手には手水舎があり 清めます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥の高い壇に本殿が祀られています
拝殿 幣殿 本殿の覆屋が一体となっています
社殿に一礼をして 参道石段を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 服部神社について 所在は服部庄海士村に在す〈現 服部神社(鳥取市福部町海士)〉と記しています
【抜粋意訳】
服部神社
服部は波止利と訓べし、和名鈔、郷名部 服部、假字上の如し
〇祭神詳ならず
〇服部庄海士村に在す、今 二所八幡宮と稱す、今巨濃郡に属す、因幡志
例祭 月 日類社
大和國 城下郡 服部神社の條見合すべし神位
三代實錄、貞観十六年五月十一日戊戌、授ニ因幡國 從五位下 服織神 從五位上、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 服部神社について 所在は海士(アマフ)村に在り〈現 服部神社(鳥取市福部町海士)〉と記しています
祭神については 神服連、海部直等の祖、建田背(タケタセノ)命を祀る とあります
【抜粋意訳】
服部(ハトリノ)神社
〇按 三代実録、服部を服織に作る
今 岩井郡、服部荘 海士(アマフ)村に在り、因幡民談、因幡志神名帳打聞、鳥取縣神社取調書、
蓋 神服連、海部直等の祖、建田背(タケタセノ)命を祀る、参酌新選姓氏録、舊事本紀、延喜式、清和天皇 貞観十六年五月戊戌、從五位下 服織神に從五位上を授く、三代実録
凡 毎年九月九日祭を行ふ、神社明細帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 服部神社について 所在は岩井郡海士村字宮前 比地に祭れる二所八幡宮〈現 服部神社(鳥取市福部町海士)〉と記しています
【抜粋意訳】
服部神社
祭神 天羽槌命
天棚機姫命
息長帶比賣命神位 清和天皇貞観十六年五月十一日戊戍 授因幡國 從五位下服織神從五位上
祭日 四月九日
社格 村社所在 岩井郡海士村字宮前 (岩美郡服部村大字海士)
今按 因播志 岩井郡海士村の條に 比地に祭れる二所八幡宮は延喜式神名帳載之 法美 服部神社是なり 和名抄所謂 服部郷は法美郡に属す 然れば此地古へ法美郡内なる事於此明かなりとあるが如く 後世郡名のかはれるものとみえたり
【原文参照】
服部神社(鳥取市福部町海士)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
因幡国 式内社 50座(大1座・小49座)について に戻る
因幡国(いなばのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 因幡国には 50座(大1座・小49座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
因幡國 式内社 50座(大1座・小49座)について