実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

服部天神宮(豊中市服部元町)

服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所医薬の神少彦名命を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です

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1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

服部天神宮Hattori tenjingu)
(はっとりてんじんぐう)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

大阪府豊中市服部元町1-2-17

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》少彦名命Sukunahikona no mikoto)
   菅原道真公Sugawara no michizane ko)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・健脚の祈願 A prayer to keep your legs healthy
・初宮詣 Pray to God for the birth and growth of the newborn
・厄除け  Prayer at an age considered a milestone in life
・交通安全 Pray for Traffic safety

【格  (Rules of dignity)

【創  (Beginning of history)】

社伝によれば

渡来人の集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬・病気平癒・健康の神様)を小さな祠にお祀りしたことが服部天神宮の始まりです。

公式HPより

【由  (history)】

その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、これらの子孫の多くがこの地に住まいました。
「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして「機織部」から成りたったものと思われますが、第十九代允恭天皇の御代に、織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した「服部連」の本拠地がこの服部であります。(新撰姓氏録、第十八巻摂津国神別)

外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していましたので、当神社はこの服部の地に古くから、おまつりしていたものと思われ、その創建は菅公御生前より遠く、相当古い年代であったと推定されています。

右大臣、菅原道眞公は、讒訴に遭い、太宰権師として左遷されることとなり、延喜元年、京都から遥か筑紫の太宰府へ赴く途次、このあたりで持病の脚気に悩まされ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
そこで村人のすすめで、医薬の祖神「少彦名命」をまつる服部の路傍の小祠に詣で、一心にその平癒を祈願されたところ、不思議に痛みや、むくみが治り、再び健康を取り戻して、無事太宰府におつきになったと伝えられています。

菅公没後、北野天満宮をはじめとして、天神信仰が全国各地に起こり、路傍の小祠であった当社に菅公の霊を合祀し「服部天満宮」として堂宇を建立し、「菅公、脚気平癒の霊験」が広まり、聞き伝えた人々の参拝で、次第に門前市をなす様になり、「脚気天神」「足の神様」として全国の崇敬をあつめる様になりました。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

豊中えびす社《主》蛭子大神(ヒルコノオオカミ)

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服部天神宮 境内鎮座
豊中えびす社由緒

当社は昭和25年秋、当時 当神社の加藤宮司が祭典を奉仕していた花屋敷『繁昌稲荷社』(サントリー創始者、鳥井信二郎氏の邸内社)の社殿御建替を機に旧社殿を譲り受け、『足の神様』として全国に広く信仰を有する当神社境内に移築し、「足の守護」は「おあし(お金)の守護」に通じるとして、昭和25年12月に西宮神社の御分霊を歓請して、この社殿に奉斎し、境内末社「服部えびす社」を創祀し、翌昭和26年1月初の「えびす祭」を斎行したのが当社のはじまりであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平成15年社名を「豊中えびす社」に改称 今日に至っています。

境内案内板より

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初酉稲荷大明神(ハツトリイナリダイミョウジン)
《主》宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)
配祀十二支稲荷大明神 《合祀》春日神社 《合祀》春日神社

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東側鳥居を入ってすぐ右側
祖霊社《主》氏子の祖霊
 招魂社《主》護国の英霊
藤原魚名公の墓

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草履

説明によれば

「菅公、脚気平癒の霊験」足の病気等が完治(治る)し御礼参りに来られた方々が 奉納した新しい草履(ゾウリ)をお祀りしているお堂

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・足踏み

説明によれば

「菅公、脚気平癒の霊験」お履き物を脱ぎ、足の神様が祀られるご本殿に向かい「二礼二拍手一礼」の作法にて拝礼してください。その後、祈願台座にお座りいただき、心を整えてお願い事をお祈りください。

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

江戸時代の 服部天神宮Hattori tenjingu)界隈賑わいについて

境内の入り口は かつての「能勢街道(ノセカイドウ)」沿いにあり
江戸時代には 大変な賑わいを見せていたようです

又 「明治43年(1910)箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)は 殷賑〈大変ににぎわって盛んであった〉をきわめた服部天神前まで 態々三国から電車を迂回して駅を設けた」と記されています

・この道路は、江戸時代「大坂」から「池田」「能勢」「亀岡」に通ずる主要幹線道路として、人、馬の往来繁かった「能勢街道」です。

・この街道に面して、その道程の中間に位置した「服部天神宮」は「足の神様」として崇敬を集め「全国から参詣の善男善女」と「能勢街道往来人の宿場との、二つを兼ね備えて、
境内外は非常な賑わいを呈し旅篭、料亭、茶店が軒を列ねて、江戸中期から末期にかけて、その最盛期であったことは、神社に現存する数多くの絵馬や、建造物や、道標がこれを物語っています。

・明治43年に小林十三によって開通した箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)は殷賑をきわめた服部天神前まで、態々三国から電車を迂回して駅を設けて駅名を「服部天神駅」と名付けました。

・落語で名高い「池田のシシ買い」にも能勢街道「服部の天神サン」が出て来ます。

境内入口案内板より

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境内にある「天神丸の碑」の由来からも 賑わいの様子が窺えます

天神丸の碑
服部天神宮は全国から脚気に患った人々が参詣し境内の旅籠に永く逗留し、全治の上帰参した。これを目当てに境内に店を出したのが森田神納堂(天神丸本舗)であったが、大層はやったと伝えられる。然し、主人が奢りたかぶって「服部天神さんは、画き絵の天神が脚気の王様となったまでで、脚気が治るのは、うちの天神丸があるからじゃ」・・と宣伝したので、神社側が怒って天神丸本舗を境外(今の服部南町三丁目阪急電車の踏み切り近く)に放逐した。それからさっぱりはやらなくなって店を閉じてしまったという。この碑は、元の本舗跡に建てられていた碑を宮司の手によって境内に移築したものである。
服部天神宮公式HPより

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承

服織連(ハトリノムラジ)については 神別(シンベツ)〈天津神・国津神の子孫〉の条に 大和国(ヤマトノクニ)と 摂津国(セッツノクニ)の 2流が それぞれが記されています

摂津国(セッツノクニ)の神別(シンベツ)〈天津神の子孫〉では
服織氏の祖神は 麻羅宿禰Mara no sukune)
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領したとあります

大和国(ヤマトノクニ)の神別(シンベツ)〈天津神の子孫〉では
服織氏の祖神は 天御鉾命(アメノミホコノミコト)とあります

意訳

摂津国(セツツノクニ)神別(シンベツ)の条

服部連(ハトリノムラジ)

熯之速日命(Hinohayahi no mikoto)12世孫 麻羅宿禰Mara no sukune)(ノ)(スエ)(ナリ)

允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代
織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ 諸国の織部(オリベ)を統領し司(ツカサド)る よって 服部連(ハトリノムラジ)と号す

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大和国(ヤマトノクニ)神別(シンベツ)の条

服部連(ハトリノムラジ)

天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)11世孫 天御鉾命(アメノミホコノミコト)(ノ)(スエ)(ナリ)

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【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用

摂津国で「服部連(ハトリノムラジ)」の本拠地を名乗る 2つの神社

『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』には 服織連(ハトリノムラジ)については 神別(シンベツ)〈天津神・国津神の子孫〉の条に 大和国(ヤマトノクニ)と 摂津国(セッツノクニ)の 2流が それぞれが記されています

摂津国〈大阪府北中部の大半と兵庫県南東部〉では
「允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の御代に摂津国に住む「麻羅宿禰(Mara no sukune)」〈服部連(ハトリノムラジ)〉が織部司(オリベノツカサ)に任じられた」とあります

摂津国の地に「服部連(ハトリノムラジ)」本拠地を名乗る 2つの神社神服神社(高槻市)服部天神宮(豊中市)があります

各々の神社について

神服神社(高槻市)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の古社として
摂津国の服部連(ハトリノムラジ)として麻羅宿禰Mara no sukune)」の伝承を持ちます
神服神社(高槻市)の記事をご覧ください

一緒に読む
神服神社(高槻市宮之川原元町)

神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます 

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服部天神宮(豊中市)〈当社〉

社伝 由緒によれば

渡来人の集団「秦氏」が 允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬・病気平癒・健康の神様)を小さな祠にお祀りしたことが服部天神宮の始まりです。

とあります

但し 服部天神宮(豊中市)には
秦氏(ハタウジ)の伝承はありますが 摂津国の服部連(ハトリノムラジ)として麻羅宿禰Mara no sukune)」の伝承はありません

『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』の大和国の服部連(ハトリノムラジ)を見てみると
祖神を秦氏(ハタウジ)に関係が深い 天御鉾命(アメノミホコノミコト)としています

「服部天神宮(Hattori tenjingu)」は 摂津国に鎮座しますが
後に 大和国から移住した服部連(ハトリノムラジ)が本拠として住んだ地とするならば 秦氏が 祖神(オヤガミ)の如く信仰する「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」を祭神としていて 社伝のように「服部連(ハトリノムラジ)の本拠」と言い伝える筋は通ることになります

服部天神宮(豊中市)の記事をご覧ください

一緒に読む
服部天神宮(豊中市服部元町)

服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です

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同じく秦氏にゆかりのある 摂津国の池田に鎮座 呉服神社(池田市)

第15代 応神天皇の御代に 呉の国中国(Chinaより渡来し 織物 染色の技術を我が国に伝えたとされている呉服(くれはとり)をお祀りします
呉服神社(池田市)の記事をご覧ください 

一緒に読む
呉服神社(池田市室町)

呉服(クレハ)神社は 「呉服(ゴフク)」〈絹布類〉の語源の地です『日本書紀(nihon shoki)』第15代応神天皇の条に記される「呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされています その由来から 機織・染色・裁縫の上達・衣服の神として 服飾関係者の信仰も集めています

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大和国の服部連(ハトリノムラジ)の祀る氏神としては
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の古社として
大和國城下郡 服部神社二座 鍬靫 があります

一緒に読む
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)

服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

阪急宝塚線 服部天神駅から 南東に約150m 徒歩2分程度
服部天神駅の宝塚方面ホーム改札を出て 天井にある案内板の通り右へ

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すぐに細い道があって この道が かつての「能勢街道(ノセカイドウ)」目の前に社号「服部天神宮」と書かれた白い看板が見えます

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社号標「服部天神宮」 石灯篭と鳥居が建ち
服部天神宮Hattori tenjingu)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります
参道の右手には 祭神由来の看板 左手には足踏み石があります
参道の正面は 本殿裏手の参拝所になっています

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本殿の脇を抜けて 正面に向かいます

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「足の神様 合格祈願 服部天神宮」と立札
少彦名命を祀る天神でもあり
道真公を祀る天満宮でもあるので 梅が咲きます

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正面から見ると
左手 大木の後ろに鎮座するのが
豊中えびす社《主》蛭子大神(ヒルコノオオカミ)
右手 梅の花の神紋がある赤い色のテントが拝殿の側になります

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右側には 手水舎があり 清めます

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その両横には境内社があり
初酉稲荷大明神(ハツトリイナリダイミョウジン)
祖霊社《主》氏子の祖霊
 招魂社《主》護国の英霊
藤原魚名公の墓

菅原道真公の像や 祭神不明の境内社もあり お詣りをします

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テントは参拝者の雨除けの屋根代わりにもなっている内陣のようです
江戸時代迄は 神仏習合していたとの事で 内陣は仏教的な色彩もあり
以前は 蝋燭 線香 護摩木 などを捧げるようになっていました

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内社にお詣りをします

豊中えびす社《主》蛭子大神(ヒルコノオオカミ)

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東側の鳥居の扁額には「服部天神宮」とあり 幼稚園園児のバスが駐車していました

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鳥居ををくぐり 境内から出て 一礼をします

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参道は表の国道179号迄続いていて こちらには朱色の門に白地くっきりとした黒文字で「足の神様 服部天神宮」と書かれています
改めて 一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

御祭神由緒について〈参道案内板による説明書きより〉

境内参道に6枚の案内板が設置されていて 服部天神宮(Hattori tenjingu)の御祭神について これを読むと 絵巻物のように良くわかりますのでご紹介します

足の守護・服部天神宮の由緒

昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。
当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。
秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。 

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秦氏の人々がこの地に移り住んでから数百年が過ぎ、時は延喜元年(西暦901年の春、右大臣、菅原道真公は、無実の罪をきせられて九州太宰府へ左遷される途中、このあたりまで来られて持病の脚気に悩まれ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある天神祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました。

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「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」
このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。

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菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。
そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣、藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。

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すると、不思議にも間もなく菅公の足の痛みやむくみは治まりました。こうして少彦名命と魚名公の霊の御加護によって足の病がいえた菅公は、ふたたび九州へと旅立たれ、無事に太宰府へ到着されました

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菅公が太宰府においてなくなられたあと、菅公を神として尊崇する天神信仰が全国にひろがりました。
当社も菅公の霊を合祀し、「服部天神宮」として社殿を造営し、「菅公脚気平癒の霊験」を伝え聞いた全国よりの参詣人と、また当地が能勢街道の要所であったこととで、次第に門前市をなすようになり、殊に江戸時代の中期から末期にかけては、その最盛期であり、境内外は非常な賑わいをみせたのでした。

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服部天神宮Hattori tenjingu) (hai)」(90度のお辞儀)

神服神社(高槻市)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の古社として
摂津国の服部連(ハトリノムラジ)として麻羅宿禰Mara no sukune)」の伝承を持ちます
神服神社(高槻市)の記事をご覧ください

一緒に読む
神服神社(高槻市宮之川原元町)

神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます 

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同じく秦氏にゆかりのある 摂津国の池田に鎮座 呉服神社(池田市)

第15代 応神天皇の御代に 呉の国中国(Chinaより渡来し 織物 染色の技術を我が国に伝えたとされている呉服(くれはとり)をお祀りします
呉服神社(池田市)の記事をご覧ください 

一緒に読む
呉服神社(池田市室町)

呉服(クレハ)神社は 「呉服(ゴフク)」〈絹布類〉の語源の地です『日本書紀(nihon shoki)』第15代応神天皇の条に記される「呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされています その由来から 機織・染色・裁縫の上達・衣服の神として 服飾関係者の信仰も集めています

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大和国の服部連(ハトリノムラジ)の祀る氏神としては
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の古社として
大和國城下郡 服部神社二座 鍬靫 があります

一緒に読む
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)

服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります

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