実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

服織神社(浜松市東区豊町)

服織神社(はたおりじんじゃ)は 古くは 天竜川沿いのこの辺には織物に関係した職人が集団服部(はとりべ)住んでいたと伝わる 元明天皇の和銅元年(708)出雲国から 神様をお迎えして造られたのが創建伝わる 延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)とされます

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

服織神社(Hataori shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

静岡県浜松市東区豊町2501

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天穗日命(あめのほひのみこと)

別殿 諏訪神社
《合》建御名方命(たけみなかたのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

このお宮は、はたおり神社といい、式内社(しきないしゃ)です。
式内社とは、廷喜式(えんぎしき)(廷長年、九二七年)の神名帳にのせられている選ばれた神社のことです。
近隣には数少ない格式の高いお宮です。

現地立札より

Please do not reproduce without prior permission.

服織神社

羽鳥本田(はとりほんだ)、向かい組の鎮守(ちんじゅ)、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)として歴史がある神社である。織物をつかさどる神・天穂日命(あめのほひのみこと)と機械の神・建御名方命(たてみなかたのみこと)が祭ってある。
服織神社(旧郷社)の歴史について、氏子の鈴木道男・藤田真次郎・鈴木秀雄の三氏は、古希を記念して平成3年8月、由緒碑として社前に建碑された。
境内の招魂社は、明治11年建立されたもので、傍らの社碑には漢学者近藤準平の、三烈士の功をたたえる格調の高い詩文と、松島十湖の「在りし世の事や思ふて魂祭り」の句、また一面には戦死された鈴木石龍の遺詩が刻まれている。

浜松市役所HPより
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/e-shinko/ward/higashiku/chiikiryoku/history/jinjya/03hataori.html

【由  (History)】

服織神社由緒

 当社は 今からおよそ千二百八十年前 元明天皇の和銅元年(七〇八年)出雲国(いずものくに)から 神様をお迎えして造られたといわれている。

 祭神は「天穗日命(あめのほひのみこと)」 (織物・文学の神)と「建御名方命(たけみなかたのみこと)」(織物の機械の神)で その当時は 天竜川沿いのこの辺には 織物に関係した職人が集団で住んでいたらしい。
 当社は 延喜式内神名帳にのせられており 明治年(一八七六年)郷社に列せられ 八二十五日の例祭日には 幣帛使(へいはくし)と呼ばれる人が見えて 紅白の絹布を献上し 豊西村長をはじめ 小学校の児童達も参列した
昭和三十年(一九五五年)本殿が改築され
昭和五十二年(一九七七年)拝殿が改築された
昭和五十六年(一九八一年)静岡県神社庁より社格十等級に認証されている

平成月吉日 古希記念 鈴木道男 藤田真次郎 鈴木秀雄 建之

現地石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・招魂社《主》護国の英霊

・秋葉神社《主》火産霊大神

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)遠江国 62座(大2座・小60座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)長上郡 5座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 服織神社
[ふ り が な ]はとりかみのやしろ)
[Old Shrine name]Hatori no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

「服織(はとり)とは

服織(はとり)とは 機織(はたおり)の変化した語で 機(はた)を織ること および それを生業とする人を指します

又 服部(はとりべ)は 大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた品部です
機織部(はたおりべ)が転訛したもので のちに「部(べ)」の音がとれ「促音」が入「はっとり」とも発音されるようになりました

服部(はとりべ)について゛服部天神宮゛の記事を参照してください

・服部天神宮(豊中市服部元町)

一緒に読む
服部天神宮(豊中市服部元町)

服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です

続きを見る

 

『延喜式神名帳927 AD.』に所載の「服部神社(ハトリノカミノヤシロ)」について

『延喜式神名帳927 AD.』には 同名の神社が 3つあります

①大和國(ヤマトノクニ)城下郡(シキノシモノコオリ) 服部神社二座(ハトリノカミノヤシロ フタクラ) 鍬靫

・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉

一緒に読む
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)

服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります

続きを見る

➁加賀國(カガノクニ)江沼郡(エヌマノコオリ)  服部神社(ハトリノカミノヤシロ)

服部神社(山代温泉)の記事をご覧ください

因幡國(イナバノクニ)法美郡(ハフミノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)

服部神社(福部町)の記事をご覧ください

一緒に読む
服部神社(鳥取市福部町海士)〈三代實錄 服部神・延喜式内社 服部神社〉

服部神社(はっとりじんじゃ)は 『續日本紀』元明天皇 和銅五年(712)秋七月の条に因幡国にて綾錦を織られたと記載があり その頃の創立と思われ 又『三代實録』貞観十六年(874)五月の条に服織神 從五位上と神階の奉授が記される国史見在社であり 式内社 因幡國 法美郡 服部神社(はとりのかみのやしろ)でもあります

続きを見る

他に『延喜式神名帳927 AD.』に所載されている 音が同じ「ハトリノカミ」を含む神社としては

・攝津國(セッツノクニ) 嶋上郡(シマカミノコオリ) 神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)

一緒に読む
神服神社(高槻市宮之川原元町)

神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます 

続きを見る

伊勢國 多氣郡 服部伊刀麻神社(はとりの いとまの かみのやしろ)

・服部伊刀麻神社 舊地(松阪市出間町)
〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社の旧地

 

〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)

 

伊勢國 多氣郡 服部麻刀方神社二座(はとりのまとまの かみのやしろ ふたくら)

・須麻漏賣神社舊地 麻刀方神社舊地(松阪市垣内田町)
〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)の舊地〉

 

〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)

 

・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)

一緒に読む
八尋殿・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉

神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は 八尋殿(やひろでん)の守護神を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した和妙(にぎたえ)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます 起源は『倭姫命世記』垂仁天皇22年機屋を作り 25年磯宮に服織社を建て 五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋〈宇治の機殿〉を建て 清寧天皇3年(482)服織社の地に移ったとします

続きを見る

 

延喜式神名帳927 AD.所載社の内゛服織神(はとりのかみ)゛を祀る三ヶ所の神社について

延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社 三社について

『延喜式神名帳』奄芸郡「服織神社」の論社は 付近一帯が 古代には 服部(はとり)郷であったので 諸説が生れたと云われる

・服織神社(鈴鹿市御薗町)

一緒に読む
服織神社(鈴鹿市御薗町)

服織神社(はとりじんじゃ)は 江戸時代には 八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた 社伝には 延喜式内社で 元は神明の社と称し また服織神社と申し伝へて来たと伝わります 式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社となっています

続きを見る

 

・服織神社(河芸町久知野)

一緒に読む
服織神社(河芸町久知野)

服織神社(はとりじんじゃ)は 往古は当地の南西 社宮地というところにあり、当地方 服部郷の信奉の社であったと云い 式内社の当時は「羽織社」と称えていたことが石碑にみえ 付近に衣手谷(きぬてだに)服反田(はだんだ)社宮神(しゃぐじん)などの地名が残っており その信仰は今の社にも受け継がれ「扇神」「扇さん」「オオギリさん」と慕われています

続きを見る

 

・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
酒井神社に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり
江戸時代の諸書には 郡山村 酒井神社境内の服織神社を称えるものが多かった

一緒に読む
酒井神社(鈴鹿市郡山町)

酒井神社(さかいじんじゃ)は 社伝は天智天皇10年(671)の創祀という 又 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人に神託があり 郡山に稻生新宮を造立しました これが郡山大明神と伝わる 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です その他に 境内には゛服織神社御旧跡〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡とも〉゛があります

続きを見る

 

延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)

・服織神社(浜松市東区豊町)

一緒に読む
服織神社(浜松市東区豊町)

服織神社(はたおりじんじゃ)は 古くは 天竜川沿いのこの辺には〈織物に関係した職人が集団〉服部(はとりべ)が住んでいたと伝わる 元明天皇の和銅元年(708)出雲国から 神様をお迎えして造られたのが創建と伝わる 延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)とされます

続きを見る

延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)

・服織田神社(牧之原市静波)

一緒に読む
服織田神社(牧之原市静波)

服織田神社(はとりだじんじゃ)は 社伝には゛景行天皇の七年に勧請された゛とあり 鎮座地は 往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されています 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です

続きを見る

・白羽神社(御前崎市白羽)

一緒に読む
白羽神社(御前崎市白羽)

白羽神社(しろわじんじゃ)は 社伝によれば゛旧社地は 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月鎮座 仁明天皇 承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め 承和四年(837)2月現地に遷座した゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です

続きを見る

・駒形神社(御前崎市御前崎)

一緒に読む
駒形神社(御前崎市御前崎)

駒形神社(こまがたじんじゃ)は 延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 社伝には゛往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 白羽神社の元宮とされる゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です

続きを見る

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東名浜松ICから 県道65号経由で北上 約4.1km 車8分程度

服織神社(浜松市東区豊町)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

鳥居の扁額には゛服織神社゛と刻字
一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進みます

Please do not reproduce without prior permission.

右手に手水舎 左手に由緒石碑 正面に社殿〈南西向き〉

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の奥には 幣殿 本殿の覆屋が一体となっています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 参道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 服織神社について 所在は羽鳥村に在す服織神社(浜松市東区豊町)〉と記しています

【抜粋意訳】

服織神社

服織は 波登利と訓べし

○祭神詳ならず
○羽鳥村に在す、今若一王子権現と称す、今豊田郡に属す、式社考
例祭、月 日、
○式廿四、主計上 遠江國、呉服綾白廿匹、赤十五匹、

類社
大和國 城下郡 服部神社の條見合すべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 服織神社について 所在は羽鳥村にあり服織神社(浜松市東区豊町)〉と記しています

【抜粋意訳】

服織(ハトリノ)神社

今 豊田郡 羽鳥村にあり、神名帳考証、遠州一続志、式社摘考、巡拝舊祠記、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 服織神社について 所在は羽鳥村服織神社(浜松市東区豊町)〉と記しています

【抜粋意訳】

服織(ハトリ)神社  (明細帳になし)

祭神
 今按 社傳 祭神 天ノ穂日ノ命とあれども 服織は はたおりの義にて服部に同じ 大和城下郡 服部神社 祭神 天ノ御鉾命と云へば此社も同神なるべし

祭日 一月十一日
社格 郷社
所在 羽鳥村 豊田郡(濱名郡豊西村大字羽鳥 郷社 服織神社)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

服織神社(浜松市東区豊町)ついて 式内社 服織神社であると記しています

【抜粋意訳】

〇靜岡縣 遠江國 濱名郡西村大字羽鳥字大通

郷社 服織(ハトリノ)神社

祭神 天穂日(アアメノホヒノ)

別殿 諏訪神社 祭神 健御名方(タケミナカタノ)

と若一王子ともせり、創立年代詳ならずと雖も、古老相ふ、和銅年中、出雲より勧請云々、社は延喜の制小社に列せられ、神名帳に、遠江長上郡 服織神社と見えたり、社が式の服織なることは、學者の一致する所なれば、左に摘考を引いて他は一々や掲げず、
「服織神社、羽島村にある若一王子是なり、然るに、羽鳥村は豊田郡なり、豊田は新郡なれば、古昔は長上郡なること著し」
朱印高十一石、別殿諏訪神社除地高一石四斗、明治維新社号を復旧して、服織神社と称し、明治月郷社に列せらる。

社殿は本殿、別殿、及び拝殿を具へ、境内は689坪(官有地第一種)を有す、因みに云ふ、当社祭神に付き、特選神名牒に云く、
「今按、社傳、祭神天穂日命とあれども、服織ははたおりの義にて、服部に同じ、大和城下 服部神社 祭神 天御杵命と云へば、此社も同神なるべし」

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

服織神社(浜松市東区豊町) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

遠江国 式内社 62座(大2座・小60座)について に戻る 

一緒に読む
遠江國 式内社 62座(大2座・小60座)について

遠江国(とほとうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 遠江国には 62座(大2座・小60座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています