実践和學 Cultural Japan heritage

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阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)〈延喜式内社〉

阿豆佐味天神社(あづさみてんじんしゃ)は 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 阿豆佐味天神社(あつさみの あまつかみのやしろ)とされます 創建は不詳ですが 口碑に 寛平4年(892)桓武平氏の祖・上総介高望王造営伝わり その子孫 村山党〈多磨郡村山郷に勢力のあった武士団〉の氏神であった〈殿ヶ谷の地名は 村山党の居館があったことに由来

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

阿豆佐味天神社(Azusami tenjinsha sheine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷宮前1008

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)
   素戔鳴命(すさののみこと)
   大己貴命(おなむちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由緒

延喜式内多摩八座の一つで、
寛平4年(892)従五位下上総介高望王の創建という。
その後 天正12年(1584)慶長3年(1598)の修復を経て、享保年間(1716年~1736)当地方の豪族、村山土佐守により社殿の修復が行われた。
また、北条・徳川氏の崇敬も篤く、多くの神領地を寄進。北条氏照より15貫文の地を、また徳川幕府は累代12石の朱印地を寄せた。
現社殿は明治27年に改修。
明治6年郷社に列格。
明治19年内務省より古社として、保存資金の下賜を受けた。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由  (History)】

御由緒

 延喜式内多摩八座に一つで、寛平四年(892)従五以下、上総介高望王の創建と伝う。その後、天正十二年、慶長三年の修復を経て、享保年間(1716-36)当地方の豪族村山土佐守により、社殿の修復が行われた。北条氏、徳川氏の崇敬も篤く多くの神領地が寄進された。現在の社殿は明治二十七年に改修。

東京都神社庁HPより
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/nishitama/mizuho/5503/

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

社殿向かって左側の境内社群

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〈社殿向かって左側 三社合殿・八幡社 熊野社 雷神社

八幡社《主》誉田別命
熊野社《主》泉津事解男命
雷神社《主》鳴雷神雨乞いの祈り捧げた

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〈社殿向かって左側 三社合殿の賽銭箱左と右側に 二つの祠あり〉

・祭神など不明

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〈社殿向かって左側 三社合殿の隣 朱色の鳥居 稲荷神社

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正一位稲荷神社《主》宇迦之魂神

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〈社殿向かって右手の境内社〉※以前は新青梅街道沿いにあった「お伊勢さん」

神明宮《主》天照皇大神

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〈境内の山裾 東の端辺りに 石祠1宇〉

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〈社殿向かって右横 2本の御神木の間に 石祠1宇〉

※以前(2015年)には 境内東側に神楽殿があった

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境内社として 他に3社の記録があるが どの祠なのか不明

厳島社《主》市杵島姫神
須賀神社《主》素盞嗚命
甲子社《主》大国主神

手水舎〈参道の両脇〉

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御神木

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お焚き上げ

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石のテーブル

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青梅街道沿い 社頭の社号碑〔文久3年(1863年)

碑文には〈延喜式内 阿豆佐味天神社 文久三年亥三月 神主 宮崎能登守 平朝臣盛豊〉

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宮司宅 兼〈社務所〉神社の西隣

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

奥宮《主》高皇産霊神

裏山の奥深くに鎮座伝わる

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 阿豆佐味天神社
[ふ り が な ](あつさみの あまつかみのやしろ)
[Old Shrine name]Atsusami no Amatsukamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

寛平4年(892)阿豆佐味天神社を造営した 桓武平氏の祖・高望(たいらのたかもち)について

桓武平氏の祖とされ人物
桓武天皇の皇子 葛原 (かつらら) 親王の孫
寛平元年(889)平朝臣 (たいらのあそん) の姓を受け 上総介 (かずさのすけ) 高望王となり 現地に土着して関東に勢力を築いた 生没年未詳

上総国平高望(上総国赴任は賜姓後)が赴任した常陸国・上野国三国は 天長年(826九月清原夏野の奏上に基づき制定された「親王任国(しんのうにんごく)でした

「親王任国(しんのうにんごく)三カ国の長官は 必ず親王が任命され 長官は守ではなく太守と称した つまり 国守はおかれずに親王が「太守」として国主とされた しかし親王太守親王自身が下向することはな現地へ赴任しない遙任〉のため 親王任国での実務上は 次官の国介(すけ)最高位でした

時代が下り 江戸時代になっても 将軍徳川家康の子息 松平忠輝「上総介(かずさのすけ)」に任官し また忠臣蔵で有名な゛吉良上野介(きらこうずのすけ)など 名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が時の最高指導者の子に許された慣例守られていました

 平高望(上総国赴任は賜姓後)が赴任した当時の上総国は たびたび「俘囚の乱(ふしゅうのらん)」が起っている治安の荒れた国で なかでも元慶七年883)には四十人ほどの集団が叛乱を起こし 国司の上総介藤原正範や大掾文屋善友が 諸郡の千人近い兵を派遣していた

上総介高望王 国司として下向した時は このような状況下上総国であったので 下向 京都近郊の 不善之輩を雇い 従類として下向したと説もあります(『将門の乱の評価をめぐって』高橋昌明:『論集平将門研究』より

上総介高望王も含め赴任した国司の最上職は 受領゛と呼ばれ 地方絶大な権力を持ち 人民から搾取により私腹を肥やし そのため人民の怨嗟の声は大きく 叛乱も こうした受領や国司らに対する反発あったと云われる

のような味を占め受領゛は 任期満了後も中央へ戻らずに留住する元受領続出した 朝廷は受領にも手を焼き その対処として 寛平七年895)「応禁断五位以上前司留住本任国并輙出畿外事」の太政官符を発布した

上総介高望王 おそらく任期後も上総国に留住して京都に戻ることはなかったとみられ

阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)は 高望王の子孫で秩父平氏の流れを汲む 村山党〈多磨郡村山郷に勢力のあった武士団〉の氏神であった〈殿ヶ谷の地名は 村山党の居館があったことに由来〉します

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR八高線 箱根ヶ崎駅から東へ約2.3km 車10分程度

旧青梅街道沿いに 社頭の社号標があります

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境内の入り口には 社号標に 郷社 阿豆佐味天神社と刻字され 石鳥居が建ちます

阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり参道を進みます

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参道には 多数の石碑が並びます

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社檀は一段高い所にあり 石段を上がります 石段の下には巨大な石燈籠があります

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境内に上がると正面に社殿が建ちます

拝殿にすすみます

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拝殿には 様々な奉納 記念額が掛けられています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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大きな拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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社殿の向かって左手には 境内社があり お参りをします

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社殿の向かって右手〈東側〉は広い境内があります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 阿豆佐味天神社の所在について 殿か谷 と云ふ里の辺り〈現 阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)〉と村上御岸村〈現 東京都武蔵村山市岸(瑞穂町殿ヶ谷宮前のすぐ東側)記しています

【抜粋意訳】

阿豆佐(アツサ)味天神社

地考 当郡山口領の内 殿か谷 と云ふ里の辺り之

式考 村上御岸村にあり 御朱印十五石 神主 宮崎氏

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)について 式内社 阿豆佐味天神社とされているが 証拠もなく 里人の口碑もなく 確かではないが 近村の奈良橋村に゛阿豆佐美の里と稱すが 当所に近いので云うとあり
文明十四年(1482)再修繕の記録があり 古社には間違いない と記しています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之百二十 多磨郡 巻之三十二 山口領 殿ヶ谷村

阿豆佐美天神社

村の中ほど狭山の麓にあり
神主 宮崎和泉と云 本社二間四方 拝殿二間に五間
祭神は 少彦名命にて 神體はなく 画像を掛く
御朱印 十二石を附せらる

抑當社は 式内の社 當郷八座その一にして 往古より此所に鎮座すと云
されど 舊記の徴とすべきこともみえず  正しく土人の口碑にのこりたることもあらざれば そのたしかなることをしらず
近村 奈良橋村など 阿豆佐美の里と稱す 當所に近き所なれば かく唱ふと云
 享保年中の棟札あり 其文の中に 文明十四年 村山土佐守 同雅楽助及一族等土木の費を供して 社檀を再修せしこと見ゆ
文明中の再修なれば 古社なることしるべし
此文外にとるべき説もなければ その全文を略すぬ
村山氏のこと 村の條下 及び 福正寺  箱根ヶ崎等所々にいたしたれば合せ見るべきなり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 阿豆佐味天神社の所在について 村山郷殿ヶ谷村〈現 阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)〉と記しています

【抜粋意訳】

阿豆佐味天神社

阿豆佐味は假字也
〇祭神 少彦名命、(地名記)
○村山郷殿ヶ谷村に在す、(同上)
例祭  日、

社領
当代御朱印高十二石

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 阿豆佐味天神社の所在について 村山郷殿ヶ谷村〈現 阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)〉と記しています

【抜粋意訳】

阿豆佐味天神社(アツサミノ アマツカミノヤシロ)

今 村山郷 殿か谷村にあり、武蔵地名考、巡拝舊祠記、新編武蔵風土記稿

〇按 風土記、本村にき 奈良橋村など 阿豆佐美里と云う云り、證とすべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 阿豆佐味天神社の所在について 殿ヶ谷〈現 阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)〉と記しています

【抜粋意訳】

阿豆佐味天神社

祭神

祭日 三月三日四日 八月朔日

社格 郷社

所在 殿ヶ谷(西多摩郡殿ヶ谷村大字殿ヶ谷)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)について 式内社 阿豆佐味天神社する説が散見している と記しています

【抜粋意訳】

東京府 武蔵國 西多摩郡殿ヶ谷大字阿須里

郷社 阿豆佐味天神(アヅサミノテンジンノ)

祭神 少彦名(スクナヒコナノ)命


相殿 素戔鳴(スサノヲノ)命
   大己貴(オホナムチノ)

創立年代詳ならずと雖、延喜式内社、当郡八座の一にして、往古より此の所に鎮座せる由 記録に散見す、
神祇志料 神社覈録等にも「村山郷殿ヶ谷村に在す」となし、
又 神名帳考証には豊宇氣姫命を以て祭神となす、近村 奈良橋村等 阿豆佐味の里と称する以て考ふれば、本社は古より此地方の産土神たりしこと知らるべく、寛平間 上総介(カズサノスケ)高望王(タカモチノオウ)の造営なる由 口碑に伝ふ、寶庫に納むる太刀井に二股の鞭竹は、鎮守府将軍(チンジュフショウグン)平良将(タイラノヨシマサ)、東蝦征伐の際、当社に祈て勝を得たるを以て、奉斎の為め奉納せしものなり、
又 享保年中の棟札の文に、文明十四年 当村の領主 村山土佐守、同雅楽助及一族等 土木の費を供して社檀を再修せし由 見え、後、瀧山氏輝 社領十五貫文の地を寄附せられ、以後 将軍徳川家光より、代々社領十二石を附せらる、

明治の初年 郷社に列せらる。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、玉垣、水舎等を具へ、境内三千三百十餘坪あり。

境内神社
奥宮 厳島神社 神明社 稲荷社 疱瘡社 八幡社 熊野社 雷社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)に (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

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