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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 武蔵国 44座(大2座・小42座)の神社です

武蔵国(むさしのくに)について

武蔵国(Musashinokuni)は  令制国の一つ東海道に属する
現在の東京都(島嶼部を除く)埼玉県神奈川県の一部

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もとは 2つの国造
无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)と知々夫国造(ちちふのくにのみやつこ)
あるいは 胸刺国造(むさしのくにのみやつこ含め 3つの国造が存在したと伝わる

6世紀 埼玉県行田市を本拠地とする笠原直が 武蔵国造の乱に勝利
その後 笠原直が 国造を世襲する
これらの国造の領域を合せ 7世紀に武蔵国が成立

大化改新の国郡制施行大化2年(646)
牟邪志(むさし)胸刺(むさし)知々夫(ちちふ)の三つの国造(くにのみやつこ)の領域を 武蔵国に統一とされる

国府 現 東京都府中市とされる

鎌倉時代
関東御分国の一つとな

南北朝時代は 足利(あしかが)氏の支配下
戦国時代は 後北条(ごほうじょう)氏が支配

天正18年(1590)北条氏滅亡 徳川家康の関東入国 全国の政治的中心となって行く

明治4年1871廃藩置県 東京府神奈川県埼玉県入間(いるま)県
明治6年(1873)入間県は 熊谷(くまがや)県を経て 明治9年(1876)埼玉県に編入
明治26年(1893)多摩三郡が東京都に移管 現在の神奈川県となる

武蔵国 44座(大2座・小42座)

大社2座は 2社〈大社2社は 名神大社
小社42座は 41社
 計44座は 43社

※座は神の柱数 社は神社数

郡として 15郡〈延喜式神名帳に載る〉
荏原(えはら)都筑(つつき)多摩(たま)足立(あだち)横見(よこみ)入間(いるま)埼玉(さきたま)男衾(おぶすま)幡羅(はら)賀美(かみ)秩父(ちちふ)児玉(こだま)大里(おおさと)比企(ひき)那珂(なか)

荏原郡(えはらの こおり) 2座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

薭田神社(ひえたの かみのやしろ)

・薭田神社(大田区蒲田)

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薭田神社(大田区蒲田)

薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています

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・三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
〈御田八幡神社の旧鎮座地〉

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三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)

三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社の旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地〈御田八幡神社(港区三田)〉に鎮座したとあります

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・御田八幡神社(港区三田)

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御田八幡神社(港区三田)

御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています

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・六郷神社(大田区東六郷)

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六郷神社(大田区東六郷)

六郷神社(ろくごうじんじゃ)は 源頼朝公・徳川家康公も崇敬した神社で 古くから 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とする説があります しかし社伝には 天喜五年(1057)源頼義・義家が武運長久を祈願し勝利を収めて創建したとあり 当社も式内社を主張していません

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・鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)

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鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)

鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)は 社伝に 延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子 五郎右衛門光虎が 下野国〈栃木県〉より当地に移った際に 一族の守護神として八幡大神をおまつりした とあるが 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社ともなっています

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・久が原東部八幡神社(大田区久が原)

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久が原東部 八幡神社(大田区久が原)

久が原東部八幡神社(くがはらとうぶ はちまんじんじゃ)は 社記に天平神護元年(765)豊前 宇佐八幡宮より御分霊を勧請し 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎と伝えられ 江戸時代に 久が原が二分される時 馬込領 久が原村の鎮守とされ崇敬を受けてきました 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

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・久が原西部八幡神社(大田区久が原)

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久が原西部八幡神社(大田区久が原)

久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんじんじゃ)は  社記には 天平神護元年(765)豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎されたと伝えられ 久が原が二分される時 六郷領 久が原村の鎮守とされた 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

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磐井神社(いはヰの かみのやしろ)

・磐井神社(大田区大森北)

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磐井神社(大田区大森北)

磐井神社(いわいじんじゃ)は 社伝には第30代 敏達天皇二年(573)八月鎮座とあり 六国史『三代実録』には 貞観元年(859)゛武蔵国 従五位 磐井神 官社に列す゛と記される由緒を持ちます 神宝゛鈴石゛があり鈴森八幡宮とも呼ばれる武蔵國の八幡総社でした 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 荏原郡 磐井神社(いはゐのかみのやしろ)とされています

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都筑郡(つつきの こおり) 1座(小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

杉山神社(すきやまの かみのやしろ)

杉山神社横浜市緑区西八朔町

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杉山神社(横浜市緑区西八朔町)

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は 武蔵国の総社 大国魂神社の六之宮とされ 式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の有力な論社とされます 但し 都筑郡(横浜市北部)と周辺には70社程の゛杉山神社(杉山社 椙山神社)゛があり その数多い式内社 論社の所在についても 諸説があり  しかも いずれも證(あかし)はなく 未だに比定がなされていません

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大棚・中川 杉山神社横浜市都筑区中川

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大棚・中川 杉山神社(横浜市都筑区中川)

大棚・中川 杉山神社(おおだな・なかがわ すぎやまじんじゃ)は 旧大棚村(おおだなむら)杉の森に鎮座していた 式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の論社です 明治六年(1873)郷社に列しましたが 都市開発の中 遷座を繰り返し 平成7年(1995)10月 現在地に遷座しました

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・杉山神社(横浜市港北区新吉田町

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杉山神社(横浜市港北区新吉田町)

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は 安房の忌部氏によって武蔵国南部 都筑郡に祭祀され 同郡の鶴見川とその支流の早淵川流域の開拓によって広く分祀されていったとされます 神社南側は旧字名を杉山と称した事 武蔵国総社 大國魂神社の社家 猿渡氏の出自がこの吉田村界隈と推測される事 地勢上などから 式内社の有力論社とされて明治六年(1873)に都筑郡の郷社に定められました

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・杉山神社(横浜市都筑区茅ケ崎中央

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杉山神社(横浜市都筑区茅ケ崎中央)

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は 社伝に 天武天皇の御代 白鳳三年(663)安房国 安房神社 社主 忌部勝麻呂が 神託に依り朝廷に奏上し 武藏国杉山の國に神籬を立て 大神を奉齋せしめた それ故杉山神社というとあり 式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の有力な論社とされます

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戸部杉山神社横浜市西区中央

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戸部 杉山神社(横浜市西区中央)

戸部 杉山神社(とべすぎやまじんじゃ)は 社伝では 白雉3年(652)当地を開拓した杉山氏族が 出雲大社 大己貴命の御分霊を「塩田の浜」に祀ったのが始まりと伝え 当社の創建後に 近隣に「杉山」の名が付く神社が多くなったとしている 式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の元宮であるとの伝になります

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星川杉山神社(横浜市保土ケ谷区星川

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星川 杉山神社(横浜市保土ケ谷区星川)

星川 杉山神社(ほしかわすぎやまじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 高台にあり 横浜港に灯台が設置される以前は港へ入る船の指標ともされ 地域の人々だけでなく海で働く人々の守り神としても尊ばれていた 『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉には゛延喜式内 都筑郡 杉山神社(すきやまのかみのやしろ)是(これ)なり゛と記され 式内社の論社とされています

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・杉山神社(横浜市港北区新羽町

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杉山神社(横浜市港北区新羽町)

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は 口碑に伝えるには゛その創立は上古根古屋の庄荷場の郷と唱う水郷一帯の時代 景行天皇の御代四十年東方十二国御平定の折 日本武尊 此の地方を御通過され 尊崩御の後 村民 其の御徳を慕い奉いて祠を造り奉斎したと云う゛と伝えています

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勝田杉山神社横浜市都筑区勝田町

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勝田杉山神社(横浜市都筑区勝田町)

勝田杉山神社(かちだ すぎやまじんじゃ)は 中原街道が早淵川南岸の台地に上がる地点に鎮座 この台地から考古学発掘調査で 奈良・平安時代の竪穴住居址 掘立柱建物址からなる集落址゛勝田原遺跡゛が発見されました 杉山神社の論社とされる茅ヶ崎社・西八朔社・吉田社にはこうした基礎となる集落が判明しておらず 勝田社を式内杉山社の有力候補と推定する説があります

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・鶴見神社杉山大明神横浜市鶴見区鶴見中央

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鶴見神社〈杉山大明神〉(横浜市鶴見区鶴見中央)

鶴見神社(つるみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は 第33代 推古天皇の御代〈593~628年〉と伝えられます 古くは゛杉山大明神゛と称されましたが 大正9年(1920)゛鶴見神社゛と改称しています 延喜式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の論社でもあります

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川島 杉山神社(横浜市保土ケ谷区川島町)

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川島杉山神社(横浜市保土ケ谷区川島町)

川島杉山神社(かわしますぎやまじんじゃ)は 旧 川島村の鎮守社 口碑によれば 天文年間(1532~1555年)当地で北条氏康が 上杉朝定と戦い一祠を建て武運長久を祈り 果して凱旋し 直に社殿を新築したのが創建と伝わるが 延喜式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の論社との説もあります

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 多磨郡(たまの こおり) 8座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

阿伎留神社(あきる かみのやしろ)

・阿伎留神社(あきる野市五日市)

小野神社(をの かみのやしろ)

・小野神社(府中市)

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小野神社(府中市住吉町)

小野神社(おのじんじゃ)は 社伝によれば 第3代天皇「安寧天皇」18年の創建とされていますので 2000余年の由緒を持つ古社となります 御祭神「天下春命(ameno shitaharu no mikoto)」は 思金神の御子神で武蔵秩父国造の先祖とされています 境内にある「小野宮廟碑」に詳しく語られています 古くは武蔵国一之宮とされています

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・小野神社(多摩市)

一緒に読む
小野神社(多摩市)

小野神社(おのじんじや)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 武蔵国一之宮ともされています ただし 多摩川を挟んで南北に各々 小野神社が鎮座しており 当神社は南岸で もう一方は 北岸の府中市に鎮座します これは多摩川が氾濫を繰り返し 都度 遷座も繰り返されて2社に別れたとも 北岸には旧址があり本社であるとも 南岸は分祠であるとも云われています

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布多天神社(ふたての かみのやしろ)

・布多天神社(調布市調布ケ丘)

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布多天神社(調布市調布ケ丘)

布多天神社(ふだてんじんしゃ)は 社伝によれば 創建は第11代 垂仁天皇の御代(BC29~AD70年頃)と伝わる古社 御祭神は天津神の 少名毘古那神(すくなひこなのかみ)を祀る゛延喜式内社゛です 文明九年(1477)多摩川の洪水をさけ 古天神という所から現在地へ遷座 その折 相殿に 菅原道真公を配祀され現在に至ります

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・古天神公園〈古天神遺跡〉(調布市布田)
布多天神社の旧鎮座地

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古天神遺跡〈古天神公園〉(調布市布田)

古天神遺跡(ふるてんじんいせき)は 文明九年(1477)多摩川の洪水を避けて この地から現在地〈布多天神社(調布市調布ケ丘)〉へ遷座した『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 多磨郡 布多天神社の旧鎮座地゛古天神の地゛です 遺跡の発掘調査では 1万年位前の旧石器・4、5千年前の縄文時代の人々の生活跡・5世紀頃の墓、7世紀の堅穴住居などが発見されています

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大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつの あつまかみのやしろ)

・大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)

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大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)

大麻止乃豆乃天神社(おおまとのずのてんじんじゃ/おおまとのつのあまつかみのやしろ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつの あまつかみのやしろ)の論社です 江戸時代には 丸宮明神(まるみやみょうじん)と称されていましたが これは 式内社の「麻止乃宮(まとのみや)」が訛り生じたという説になっています

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・武藏御嶽神社(青梅市御岳山)

一緒に読む
武藏御嶽神社(青梅市御岳山)

武藏御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は 崇神天皇7年(AD.91)創建と云う 又 日本武尊が東征の時 白狼の先導によって難を逃れたと伝わる古社 天平8年(736)行基〈奈良の大仏 造立の勧進僧〉が 蔵王権現の像を安置以来 東国の修験の聖地゛御嶽蔵王権現゛と称されました 明治の神仏分離時に式内社゛大麻止乃豆乃天神社゛と改称した後゛御嶽神社゛゛武藏御嶽神社゛と社号変更 現在に至ります

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武藏御嶽神社の摂社・末社について

一緒に読む
武藏御嶽神社(青梅市御岳山)摂社・末社について

武藏御嶽神社 摂社・末社について 詳細を記載しています

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・北野天満社(八王子市北野町)

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天満社(八王子市北野町)

天満社(てんまんしゃ)は 創建の年代は不祥ですが 『武蔵演路(むさしえんろ)』〈安永9(1780)年起稿〉には 延喜式内社(927年)武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)であるとも記載されています 鎮座地 北野の地名は 横山党の一族(平安時代後期~鎌倉時代)が京都北野天満宮をこの地に勧請したことによるとされています

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・大国魂神社(府中市宮町)

一緒に読む
大國魂神社(府中市宮町)〈武藏總社六所宮〉

大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 景行天皇41年(111)大神の託宣によって創立と伝わり 武蔵国の守神として大國魂神が祀られます 平安時代には各諸神を合祀゛総社゛となり 平安時代末期頃 武蔵国の著名な六所の神社を合祀゛武藏總社六所宮゛と称されます 社伝には 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)とも伝わります

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・天神社(府中市宮町)
〈大國魂神社の境外末社〉

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天神社(府中市宮町)〈大國魂神社 境外末社〉

天神社(あまつかみのやしろ)は 競馬場に面した小高い゛天神山゛に北向き〈本社 大國魂神社と同様〉に鎮座する珍しい社 かつて競馬場が移転以前は 東方まで延びていた天神山〈現在の倍以上の丘で〉は 一説には国造の墳墓跡とも云われ〈別名 国造山・丸山とも云う〉丸山とは 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)の鎮座する山の意です

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阿豆佐味天神社(あつさみの あまつかみのやしろ)

・阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)

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阿豆佐味天神社(瑞穂町殿ヶ谷宮前)

阿豆佐味天神社(あづさみてんじんしゃ)は 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 阿豆佐味天神社(あつさみの あまつかみのやしろ)とされます 創建は不詳ですが 口碑に 寛平4年(892)桓武平氏の祖・上総介高望王の造営と伝わり その子孫 村山党〈多磨郡村山郷に勢力のあった武士団〉の氏神であった〈殿ヶ谷の地名は 村山党の居館があったことに由来〉

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穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)

・穴澤天神社(稲城市矢野口)

一緒に読む
穴澤天神社(稲城市矢野口)

穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 社伝によれば 第6代 孝安天皇4年(紀元前389年頃)の創建 主祭神は少彦名命を御祀りした社と伝わり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社と比定されている大変由緒ある神社です

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・谷保天満宮(国立市谷保)

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谷保天満宮(国立市谷保)

谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は 社伝に 延喜三年(903)父君〈菅原道真公〉薨去の報に 道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りと伝わり 東日本における最も古い天満宮とされます 『巡礼旧神祠記』〈宝暦十四年(1764)〉には 府中領谷保村 別當 安楽寺の穴沢天満宮は 延喜式内社 武藏國 多磨郡 穴澤天神社(あなさは あまつかみのやしろ)と記されています

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・穴澤天神社〈将門神社境内社〉(奥多摩町棚澤)

・羽黒三田神社(奥多摩町氷川)

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羽黒三田神社(奥多摩町氷川)

羽黒三田神社(はぐろみたじんじゃ)は 社伝によると「貞観二年(860)出雲国の人 土師連行行基が東国に下向し 御嶽山に詣り神告を得て 当地に高皇産霊神 少彦名神の二神を祀り 穴澤天神と号した」と伝わり式内社の論社です その後 永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内に羽黒権現が合祀されましたが 今は 羽黒権現を本殿とし 穴澤天神が合殿となっています

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・穴澤天神社(あきる野市深沢)〈参考〉

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穴澤天神社(あきる野市深沢)

穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 式内社「武藏國 多磨郡 穴澤天神社」の論社「棚澤天神」ではないかとの誤説もあるようですが 棚澤天神は 奥多摩町棚澤に鎮座しています この神社は 深澤村の各神社を合祀した同名の参考神社として ご紹介します

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虎柏神社(とらかしはの かみのやしろ)

・虎狛神社(調布市佐須町)

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虎狛神社(調布市佐須町)

虎狛神社(こはくじんじゃ)は 今から1430年以上前の崇峻天皇2年(589年)8月に創建され 農業の神様である大歳御祖神(オオトシミオヤノカミ)がお祀りされ祭事が始まったと伝えられています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 虎柏神社(とらかしはの かみのやしろ)」の論社の一つです

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・虎柏神社(青梅市根ヶ布)

一緒に読む
虎柏神社(青梅市根ヶ布)

虎柏神社(とらかしわじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 虎柏神社」の論社です 社伝によれば 第10代 崇神天皇の御代に勅祭され これを創建とします 天慶3年(940)に平将門征伐の源経基が 相殿に諏訪神社を勧請し 天正18年(1590)木村常陸介 浅野弾正少弼が 当社の由来を記したとされます

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青渭神社(あをゐの かみのやしろ)

・青渭神社(調布市深大寺元町)

一緒に読む
青渭神社(調布市深大寺元町)

青渭神社(あおいじんじゃ)は 社前にケヤキの老樹がそびえます 往古は社前の湧き水が大池となり青波を湛えていたので 青波天神社と呼ばれたことから 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社ともされています

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・青渭神社(稲城市東長沼)

一緒に読む
青渭神社(稲城市東長沼)

青渭神社(あおいじんじゃ)は 昔 この付近に大きな青い沼があり その神霊を祀ったことが起源とされ・大沼明神・青沼大明神と称していました 弘仁年中(810~824)創建との伝承があり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社となっています

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・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)

・青渭神社 里宮(青梅市沢井)

一緒に読む
青渭神社 里宮(青梅市沢井)

青渭神社 里宮(あおいじんじゃ さとみや)は 社伝によれば創建は第10代 崇神天皇の御代とされ 又 天慶年間(938~947)平将門の乱の時 鎮守府将軍 源経基が青渭神社と社号を名付け社殿を建てたとします 『延喜式神名帳927 AD.』所載社 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをヰの かみのやしろ)の里宮とされます

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足立郡(あだちの こおり) 4座(大1座・小3座)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

足立神社(あたちの かみのやしろ)

植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)
植田谷本村 足立神社 旧社地〉

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植田谷本の楠(さいたま市西区植田谷本)〈植田谷本村 足立神社 旧社地辺り〉

植田谷本の楠(うえたやほんのくすのき)は 植田谷本村の足立神社は 植田谷本村 名主 勘太夫の屋舗の内あった足立神社の旧社地辺りだったとされます 明治39年(1906)政府の合祀政策により 飯田村の鎮守 氷川・八幡社に合祀されました

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足立神社(さいたま市西区飯田)
植田谷本村 足立神社水判土村 足立神社合祀先〉

一緒に読む
足立神社(さいたま市西区飯田)

足立神社(あだちじんじゃ)は 元々は飯田村の鎮守 氷川・八幡合社でしたが 政府の合祀政策により 明治39年(1906)植水村内にあった30社を当社に合祀しました その中に式内社 足立神社の二つの論社〈・植田谷本村の足立神社・水判土村の足立神社〉が含まれており この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改めたものです

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・加茂神社(さいたま市北区宮原町)

一緒に読む
加茂神社(さいたま市北区宮原町)

加茂神社(かもじんじゃ)は 江戸時代までは 加茂大明神と呼ばれていました 勧請の年代は不詳ですが その昔 京都の上賀茂神社を勧請したもの と伝えられます 一説に 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社ともされています

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・足立神社(さいたま市浦和区上木崎)

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足立神社(さいたま市浦和区上木崎)

足立神社(あだちじんじゃ)は 開化天皇の御代 創立 延喜式内 足立神社と口碑に伝称されています 高埇郷に鎮座したので 江戸期まで 高埇(たかはな)明神社と呼ばれていましたが 明治期になると 上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は 当社を延喜式内社の足立神社であると主張し 社名変更を行ったとされます

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・久伊豆社(鴻巣市笠原)

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久伊豆社(鴻巣市笠原)

久伊豆社(ひさいずのやしろ)は 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社とも云われ 鎮座地の゛笠原゛は 古墳時代後期 豪族〈笠原氏〉の本拠地で 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時 東国の蝦夷(えみし)への前線 武蔵國が朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます

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・氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)
〈・式社考・
神名帳考証土代・神社覈録 等に足立神社 論社として掲載

論社
氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)

氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町の大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川の中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一之宮と称されていたとも伝えられています

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氷川神社(名神大 月次 新嘗)(ひかは かみのやしろ)

・大宮氷川神社(さいたま市)

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大宮氷川神社

大宮氷川神社は 勝運に添える太古の社・およそ2400年前から遷座せずにこの地に鎮座しています 現在の「大宮」(埼玉県)の地名は 「大いなる宮居」と氷川神社を称えたことに由来していると云われます

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調神社(つきの かみのやしろ)

・調神社(さいたま市浦和区岸町)

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調神社(さいたま市浦和区岸町)

調神社(つきじんじゃ)は 社伝『調宮縁起』によれば 第九代 開花天皇乙酉三月 所祭奉幣の社として創建 第十代 崇神天皇の勅命により 神宮斎主 倭姫命が参向 此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられたと伝わります 延喜式内社 武蔵國 足立郡 調神社(つきの かみのやしろ)とされます

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多氣比賣神社(たけひめ かみのやしろ)

・多氣比売神社(桶川市篠津)

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多氣比賣神社(桶川市)

多氣比売神社(たけひめじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝によれば 第3代安寧天皇の御代の創建と伝えられます とすれば2500年程は前の鎮座となります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の武蔵国足立郡「多氣比賣神社」に比定される格式の高い古社です

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・氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)

論社
氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)

氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町の大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川の中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一之宮と称されていたとも伝えられています

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横見郡(よこみの こおり) 3座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

横見神社(よこみの かみのやしろ)

・横見神社(吉見町御所)

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横見神社(吉見町御所)

横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は和銅年間(708~715年)とされ 平安時代末~中世には 吉見氏の居館゛吉見の御所゛があり゛御所゛が地名となった 中世~有力農民層の管理に移ると 飯玉氷川明神社と社号を改称〈穀霊信仰により〉 更に その後 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社として 社号を戻したとされます

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・横見神社(吉見町久保田)
建長年間(1249~56大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)の御神体が窪田村(当時)に漂着し 現在まで祀られている神社

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横見神社(吉見町久保田)

横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と捉え 愛宕社の社地〈当地〉にお祀りしたものと伝えます 故に延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています

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・氷川神社(吉見町上細谷)

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氷川神社(吉見町上細谷)

氷川神社(ひかわじんじゃ)は 細谷郷〈細長い谷という意から名付けられた郷〉の惣鎮守 飯玉氷川神社〈式内社に比定される横見神社〉から分霊を受けたものと思われますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社とする説もあります

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・吉見神社(熊谷市相上)

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吉見神社(熊谷市相上)

吉見神社(よしみじんじゃ)は 景行天皇56年 東国統治を命じられて善政をしいたとされる御諸別王(みもろわけのみこ)が 天照大神を祀ったのが創基とされ 以来 御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しています 現在は大里郡に鎮座しますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています

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・野芽神社(吉見町和名)
〈郷土史研究家による推定 参考論社〉

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野芽神社(吉見町和名)

野芽神社(のげじんじゃ)は イネ科植物の穂先を芒(のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります 横見郷を見渡す吉見丘陵の上に鎮座し 郷土史研究家の説に 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)との推論もあります

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髙負比古神社たかおひ〈たけふ〉ひこの かみのやしろ)

・高負彦根神社(吉見町田甲)

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高負彦根神社(吉見町田甲)

高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は 吉見丘陵の東北端 ポンポン山〈玉鉾石〉に鎮座します 創建は和銅三年(710)と伝えられ 宝亀三年(772)の太政官符には 武蔵国の班幣対象社四社の内として「横見郡 高負比古乃社」と記される古社 延喜式内社 武蔵國 横見郡 高負比古神社(たけふひこの かみのやしろ)とされています

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伊波比神社(いはひの かみのやしろ)

・伊波比神社(吉見町黒岩)

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伊波比神社(吉見町黒岩)

伊波比神社(いわいじんじゃ)は 和銅年間(708~715)の創建と伝え『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)とされます 元々は 出雲系の神を祀っていましたが その後 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られ「岩井八幡宮」と呼ばれていました

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入間郡(いるまの こおり) 5座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)

・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西) 

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出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)

出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は 社伝「臥龍山宮伝記」に景行天皇53年 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際 凱旋し 天皇から賜った゛ヒイラギの鉾゛をおさめ神宝とし 出雲の大己貴命を祀った また 成務天皇の御代 武蔵国造 兄多毛比命(エタモヒノミコト)が 出雲の天穂日命を祀り 二柱を出雲伊波比神としたと伝わっています

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・出雲祝神社(入間市宮寺) 

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出雲祝神社(入間市宮寺)

出雲祝神社(いずもいわいじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の論社とされ 現存する棟札〈大宝二年(702)〉にも゛伊都毛伊波比再造゛と記されていています 社伝には 景行天皇の御代 日本武尊が 東夷征伐の時 小手指ヶ原で・天穂日命・天夷鳥命を祭祀創建された と伝わります

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・川越氷川神社(川越市宮下町) 

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川越氷川神社(川越市宮下町)

川越氷川神社(かわごえ ひかわじんじゃ)は 創建について 元禄九年棟札・正徳縁起に 欽明天皇 即位二年(521)辛酉九月十五日 武蔵国 足立郡 氷川神社を分祀奉斎したと伝える古社です 一説に゛氷川の神゛〈出雲神〉を祀る 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)とも伝わります

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・北野天神社(所沢市小手指元町) 

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北野天神社(所沢市小手指元町)

北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿(あいどの)に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しましたが 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 三座の内 物部天神社であるとされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀していると云われます

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中氷川神社(なかひかはの かみのやしろ)

・中氷川神社(所沢市山口)

・中氷川神社(所沢市三ケ島)

廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)

・廣瀬神社(狭山市広瀬)

物部天神社(もののへの あまつかみのやしろ)

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

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北野天神社(所沢市小手指元町)

北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿(あいどの)に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しましたが 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 三座の内 物部天神社であるとされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀していると云われます

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國渭地祇社(くにゐちきの かみのやしろ)

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

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北野天神社(所沢市小手指元町)

北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿(あいどの)に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しましたが 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 三座の内 物部天神社であるとされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀していると云われます

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・国渭地祇神社(坂戸市森戸) 

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国渭地祇神社(坂戸市森戸)

国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)は 社記には 延暦年中(782~806年) 坂上田村麻呂が東征の帰途 報賽のため社殿を再営し 下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている 社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していること等から 延喜式内社 入間郡 國渭地祇社(くにゐちきの かみのやしろ)の論社にもなっています

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埼玉郡(さいたま こおり) 4座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

前玉神社二座(さいたまの かみのやしろ ふたくら)

・前玉神社(行田市埼玉)

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前玉神社(行田市埼玉)

前玉神社(さきたまじんじゃ)は 一説には 雄略天皇の頃 古墳時代(400年代後半~500年代前半)の創建とも云われ 北武蔵国の地元豪族が眠ると思われる さきたま古墳群の真上に鎮座します 延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 前玉神社 二座(さいたまの かみのやしろ ふたくら)とされます

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前玉神社(加須市根古屋)
埼玉の神社』著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 に式内社論社とあり

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前玉神社(加須市根古屋)

前玉神社(さきたまじんじゃ)は 延喜式内社 前玉神社二座 と古くから云われ 又 延喜式内社 玉敷神社の旧鎮座地ともされます 玉敷神社は正能地区にあったが 上杉謙信の関東出兵の際焼失し その後 一時 根古屋(ねごや)の騎西城大手門付近〈現 前玉神社〉に移り 城内でたびたび出火するため 類焼をおそれ その後 今の地に遷座したと伝わっています

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玉敷神社(たましきの かみのやしろ)

龍花院(加須市正能)
〈玉敷神社 当初の鎮座地天正2年(1574)兵火に罹り焼失

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龍花院〈玉敷神社 旧鎮座地〉(加須市正能)

龍花院(りゅうかいん)は 日鑁上人(にちばんしょうにん)の開山 源頼朝公が寺の修造を命じ幕を寄進したという また後鳥羽天皇から「伊豆山 龍華院 法音寺」の号を賜ったとも伝えられ 古くから有力な寺院でした 当寺の西側は ”古宮跡(ふるみやあと)”と呼ばれています 天正2年(1574)上杉謙信の侵攻で 兵火に罹り焼失した 玉敷神社(たましきじんじゃ)の旧鎮座地です

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前玉神社(加須市根古屋)
〈江戸時代に遷座されていた玉敷神社の旧鎮座地〉

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前玉神社(加須市根古屋)

前玉神社(さきたまじんじゃ)は 延喜式内社 前玉神社二座 と古くから云われ 又 延喜式内社 玉敷神社の旧鎮座地ともされます 玉敷神社は正能地区にあったが 上杉謙信の関東出兵の際焼失し その後 一時 根古屋(ねごや)の騎西城大手門付近〈現 前玉神社〉に移り 城内でたびたび出火するため 類焼をおそれ その後 今の地に遷座したと伝わっています

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・玉敷神社(加須市騎西)
寛永4年(1627)頃~現在の鎮座地に遷座

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玉敷神社(加須市騎西)

玉敷神社(たましきじんじゃ)は かつては久伊豆大明神と呼ばれ元荒川流滅に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在で 埼玉郡〈現 南北両埼玉郡〉の総鎮守・騎西領四十八箇村の総氏神として尊崇されていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)とされます

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宮目神社(みやめの かみのやしろ)

・宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)

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宮目神社〈玉敷神社 境内摂社〉(加須市騎西)

宮目神社(みやめじんじゃ)は 現在は 玉敷神社の境内摂社ですが 玉敷神社がこの地に遷座(一六二〇年頃)する迄は この社地の地主神として鎮座していたとされます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社です

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・高城神社(熊谷市高本)

一緒に読む
髙城神社(熊谷市高本)

高城神社(たかぎじんじゃ)は 二つの式内社の論社となっています 一つは 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)とされ 又 別称を御霊の宮(ごれいのみや)と呼ばれ ここから武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされています 昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地〈最初の鎮座地〉に遷座しました

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・姫宮神社(宮代町姫宮)

一緒に読む
姫宮神社(宮代町姫宮)

姫宮神社(ひめみやじんじゃ)は 社伝では 桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際 突然の病で亡くなったことを 後に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)がこの話を聞き 姫の霊を祀ったのが始まりと伝わり 又 延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされます

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神明神社(久喜市菖蒲町上栢間)

一緒に読む
神明神社(久喜市菖蒲町上栢間)

神明神社(しんめいじんじゃ)は 社伝には 創建は第12代 景行天皇の御代〈71~130年頃〉と伝わり 江戸時代には栢間村を含めた5ヶ村(戸ヶ崎村・三箇村・新堀村・小林村)の総鎮守として厚い信仰を集めていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社でもあります

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男衾郡(をふすまの こおり) 3座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

小被神社(をふすまの かみのやしろ)

・小被神社(寄居町富田)

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小被神社(寄居町富田)

小被神社(おぶすまじんじゃ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 郡内鎮護のため創祀と伝承されます 当初の鎮座地は 現在の不動寺(寄居町富田)の境内地辺りでしたが 天正年間(1573~1591年)この地に遷座しました 延喜式内社 武蔵國 男衾郡 小被神社(をふすまの かみのやしろ)とされます

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・不動寺(寄居町富田)
〈小被神社 旧鎮座地〉

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不動寺(寄居町富田)〈小被神社 旧鎮座地〉

不動寺(ふどうじ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 富田村字塚越(現在の大聖山真言院不動寺境内)に祠を建て゛小被神゛を祀った〈式内社 小被神社の旧鎮座地〉とされ 平安時代末期には この地を領有した 武蔵七党のひとつ猪俣党一族の武将 不動寺太郎の居館跡であったとも 男衾氏・横瀬氏の館跡とも云われています

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出雲乃伊波比神社(いつものいはひの かみのやしろ)

・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

一緒に読む
出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称し 荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地に遷座します 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが 明治になって『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社として 現在の社号に変更しました

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・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)

一緒に読む
出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)

出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 江戸期までは 出雲ノ神を祀る氷川社と呼ばれていました 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社です しかし何故か 現在の祭神は 出雲の神ではなく 鹿島の神を祀っています

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白旗八幡社井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)
寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮

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白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)

白旗八幡社(しらはたはちまんしゃ)は 寄居町赤浜に遷座した出雲之伊波比神社〈白旗八幡社〉の元宮になります 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 白旗八幡社が 住民と共に赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りを続けたとされます その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白幡八幡社を井椋神社の境内に遷座し 現在に至ります

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八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)
井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地

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八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)

八幡塚旧跡は 井椋神社に合祀された 字栗坪にあった祠「白旗八幡社」の旧鎮座地の跡になります 従って『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社の跡地ですが 延喜式の時代(927年)には 当地に鎮座していたことになります

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稲乃賣神社(いなのひめの かみのやしろ)

・稲乃比売神社(寄居町鉢形)

一緒に読む
稲乃比売神社(寄居町鉢形)

稲乃比賣神社(いなのひめじんじゃ)は 天正18年(1590)鉢形城が落城した際 兵火により 社記録など焼失し 由緒不詳ですが 神職家の「相馬家」が「天長元年(824)6月28日相馬清太輔宗満祠官となる」以降も1200年相当に渡り 現在も代々継承されているようです『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 稲乃賣神社」の論社です 江戸時代には 氷川社と呼ばれていたと記されています

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・塚田三嶋神社(寄居町赤浜)

一緒に読む
塚田三嶋神社(寄居町赤浜)

塚田三嶋神社(つかだみしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 稲乃賣神社」の論社です 神社に伝わる鰐口は「武藏国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永2年(1395)乙亥3月27日」とあり 塚田は中世に鋳物業が盛んであったと伝えられ この鰐口も地元在住の鋳物師によって造られたものと考えられています

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播羅郡(はらの こおり) 4座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

白髪神社(しらかみの かみのやしろ)

・白髪神社(熊谷市妻沼)

一緒に読む
白髪神社(熊谷市妻沼)

白髪神社(しらかみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社です 社伝によれば「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあります 又 第22代 清寧天皇〈即位480~484年頃〉の白髪部との係わりがあるとされます

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・大我井神社(熊谷市妻沼)

一緒に読む
大我井神社(熊谷市妻沼)

大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています

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・妻沼聖天山歓喜院(熊谷市妻沼)
〈 ゛大我井の森゛に祀られていた鎮守 白髪神社〈現 大我井神社〉の旧鎮座地〉

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妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市妻沼)

妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました  その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています

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・熊野大神社(深谷市東方)

一緒に読む
熊野大神社(深谷市東方)

熊野大神社(くまのだいじんじゃ)は 深谷市東方(ヒガシガタ)に鎮座します この地域は7世紀後半から10世紀前半まで武蔵国(ムサシノクニ)幡羅郡(ハラノコオリ)の郡衙(郡役所)が存在した地域です さらに古代には その地名の由来として「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」とあります 延喜式内社「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社でもあります

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・東別府神社(熊谷市)

一緒に読む
東別府神社(熊谷市東別府)

東別府神社(ひがしべっぶじんじゃ) は 創建年代等は不詳です 鎮座地 別府の地名由来は 平安末期頃 国府の支庁である別府が置かれていた為 又は 別府小太郎清重の在名から名付けられた地名とも云われ 居城の東別府城には 別府氏(藤原氏)の氏神 奈良の春日大社から分祀し 天正18年(1590)の落城まで 城の鎮守であったと伝わります 跡地には 明治42年に埋鳥の村社 榛名神社を合祀して 東別府神社と改称しました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社とされています

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田中神社(たなかの かみのやしろ)

・田中神社(熊谷市三ケ尻)

一緒に読む
田中神社(熊谷市三ケ尻)

田中神社(たなかじんじゃ)は 『延喜式神名帳』所載「武蔵国 幡羅郡 田中神社(たなかのかみのやしろ)」の論社です 地名「三ヶ尻(みかじり)」は 古くは「甕尻(みかじり)」で 祭神は「甕尻」の祖神として 明治初期頃までは 建甕尻命(タケミカジリノミコト)〈別名 建甕槌命〉との説でした その後 当神社にある要石が 有名な鹿島神宮の要石との付会なのか 現在の祭神は 鹿島神「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」 天神である少彦名命と天穂日命の3柱となっています

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・三ヶ尻八幡神社(熊谷市三ケ尻)

一緒に読む
三ヶ尻八幡神社(熊谷市三ケ尻)

三ヶ尻八幡神社(みかじりはちまんじんじゃ)は 天喜4年(1056)に鎮守府将軍 源頼義と嫡男 八幡太郎義家が 奥州出陣〈前9年の役〉にあたり 戦勝祈願したとされる古社です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 田中神社」の論社とも云われています

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・知形大神社(深谷市田中)

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知形大神社(深谷市田中)

知形大神社(ちかたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「武蔵国 幡羅郡 田中神社」の3つの論社のひとつです 『大日本地名辞書』〈明治40年(1907)〉には 鎮座地の田中の地名について 知形明神が式内社の田中神社なので 田中という村名となっていると記しています

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楡山神社(にれやまの かみのやしろ)

・楡山神社(深谷市)

一緒に読む
楡山神社(深谷市原郷)

楡山神社(にれやまじんじゃ)は 創建年代等は不詳ですが 第5代 孝昭天皇の御代〈紀元前〉の御鎮座という言い伝えがあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 四座」のうちの一社「楡山神社」の論社です

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・久保島大神社(熊谷市)

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久保島大神社(熊谷市久保島)

久保島大神社(くぼじまだいじんじゃ)は 明治42年(1909)政令により『一村一社』とする為 久保島村にあった 二柱神社 及び 神明社をはじめとする無格社7社をそれらの境内社と共に 村で規模が最も大きい 山神社 に合祀して 山神社を村社に昇格の上 改称して 久保島大神社が誕生しました この山神社は 式内社の参考論社でもあります

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・大我井神社(妻沼)

一緒に読む
大我井神社(熊谷市妻沼)

大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています

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・妻沼聖天山歓喜院(妻沼)
〈 ゛大我井の森゛に祀られていた鎮守 白髪神社〈現 大我井神社〉の旧鎮座地〉

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妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市妻沼)

妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました  その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています

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奈良神社(なら かみのやしろ)

・奈良神社の旧蹟

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奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳(熊谷市)

奈良神社【旧跡】は 社伝にある「奈良神社の境内から忽然として水が湧き出し これにより600余町歩が水に恵まれた水田となった」と伝わる場所(本殿から東北500m程)に石碑「延喜式内 奈良神社 和銅四年 涌泉地 舊蹟」が残っています 又 社伝には 奈良別命の墓所であるという伝承が残る古墳(本殿から東北1km程)があります

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・奈良之神社

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奈良之神社(熊谷市中奈良)

奈良神社(ならじんじゃ)は 御祭神「奈良別命(ならわけのみこと)」の名残りから 鎮座地も中奈良(熊谷市)といいます 創建は 第16代 仁徳天皇の卸代〈1600年程前〉奈良別命は 下野国の国造の任の後 この地に その徳によって荒地を拓き美田を墾し 人々の発展と安住の地を造られた そのため郷民がその徳を偲んで建立したと伝わります その後中世に 熊野社に社名を変えて存続 江戸後期になり 王政復古の思想興隆により 社名を古代の奈良神社に復したとあります

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賀美郡(かみの こおり) 4座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

長幡部神社(なかはたへの かみのやしろ)

・長幡部神社(上里町長浜)

一緒に読む
長幡部神社(上里町長浜)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています

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今城青八坂稲實神社(いまき あを やさか いなみの かみのやしろ)

・天神社(上里町五明)

一緒に読む
天神社(上里町五明)

天神社(てんじんしゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 今城青八坂稲實神社(いまき あをやさか いなみの かみのやしろ)の論社です 創建年代は不詳ですが 社名の起源について゛今城(いまき)゛とは 此の地域に進出した渡来系氏族 長幡部氏〈高度な機織り技術を持った今来漢人(いまきかんじん)〉が 当初の居住地゛大和国 今来郡゛から移住したもので ゛稲實(いなみ)゛は 稲霊を祀ったことによるとされます

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・熊野神社(神川町八日市)

一緒に読む
熊野神社(神川町八日市)

熊野神社(くまのじんじゃ)は 延喜式内社 今城青八坂稲實神社(いまき あをやさか いなみの かみのやしろ)の論社の一つです 口碑によれば 当社は村内 字 今城(いまき)から今の森下の地に遷座されたと伝えられ かつては 今城の社名を号していたことを窺わせます 神社に奉納される゛八日市の獅子舞゛は 神川町指定民俗文化財となっています

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・阿保神社(神川町元阿保)

一緒に読む
阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・七本木神社(上里町七本木)
七本木神社に合祀 榛名大神社 

一緒に読む
七本木神社(上里町七本木)

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉の邸内社)でした 明治四十二年(1909)七本木村の村社(7社)とその境内社を合祀して 社名を七本木神社と改称したもので 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされています

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

一緒に読む
長幡部神社(上里町長浜)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

一緒に読む
皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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今木青坂稲實荒御魂神社(いまき あをさか いなみあらみたまの かみのやしろ)

・熊野神社(上里町堤)

一緒に読む
熊野神社(上里町堤)

熊野神社(くまのじんじゃ)は 式内社 武蔵國 賀美郡 今城青坂稲實荒御魂神社であると伝わっていますが 証はなく 町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰と関わりがあり付会ともされますが 本殿のすぐ後ろが 熊野神社古墳(東堤古墳群8号墳)となっていて この古墳を祀る故に熊野神社が勧進される以前に式内社があった可能性を示唆し 式内論社とされています

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・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉

一緒に読む
七本木神社(上里町七本木)

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉の邸内社)でした 明治四十二年(1909)七本木村の村社(7社)とその境内社を合祀して 社名を七本木神社と改称したもので 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされています

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・阿保神社(神川町元阿保)に合祀
〈今木青坂稲實荒御魂神社の論社 稲荷神社(
字稲荷宿)を明治43年(1910)阿保神社に合祀

一緒に読む
阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

一緒に読む
長幡部神社(上里町長浜)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

一緒に読む
皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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・稲荷神社(上里町八町河原)〈参考〉

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稲荷神社(上里町八町河原)

稲荷神社(いなりじんじゃ)は 中世後期の創建を伝え 宝徳年中(1449-1452)天文年中(1532-1555)天正年間(1573-1592)の勧請と諸説あります 延喜式内社ではないだろうか とも伝わっていますが これは式内社の゛稲実(いなみ)゛と゛稲荷(いなり)゛の音が通じているための誤りであろうとされています

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今城青坂稲實池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)

・今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

一緒に読む
今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

今城青坂稲実池上神社(いまき あおさか いなみいけがみ じんじゃ)は 社伝によれば 和銅四年(711)に勧請と伝わる 延喜式内社 今城青坂稲実池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社です 社名の「いまき」は今城すなわち新来の意で 渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し゛稲魂゛を祀ったものとされ 江戸時代には゛稲荷社゛と呼ばれていました

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・今城青坂稲実池上神社(神川町関口)
〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 六所社(現 阿保神社)の裏当たりに鎮座していた今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛を関口村字池上に遷座し 関口村の鎮守としたもの〉

一緒に読む
今城青坂稲實池上神社(神川町関口)

今城青坂稲実池上神社(いまきあおさかいなみいけがみ じんじゃ)は 天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として 現在地(関口字池上)に遷座しました もとは阿保神社の裏に鎮座していたと伝わる式内社 今城青坂稲實池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社゛丹生明神(にうみょうじん)゛でした

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・阿保神社(神川町元阿保)の境内
〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として遷座した
今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛の旧鎮座地に石祠を祀奉り 境内に再建(慶應三年)〉

一緒に読む
阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉

一緒に読む
七本木神社(上里町七本木)

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉の邸内社)でした 明治四十二年(1909)七本木村の村社(7社)とその境内社を合祀して 社名を七本木神社と改称したもので 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされています

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

一緒に読む
長幡部神社(上里町長浜)

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

一緒に読む
皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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秩父郡(ちちふの こおり) 2座(並小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

秩父神社(ちちふの かみのやしろ)

・秩父神社(秩父市)

一緒に読む
秩父神社(知知夫国新一之宮)

秩父神社(ちちぶじんじゃ)は 秩父の武甲山(ブコウサン)を神奈備の山として遥拝する聖地で 第10代 崇神(スジン)天皇〈在位BC97~BC30年頃〉の勅命で 初代 知知夫国造(ちちぶくにのみやつこ)に任命された 八意思兼命の十世の子孫「知知夫彦(チチブヒコ)命」が 大神をお祀りしたのが創建と伝わります 武蔵国(むさしのくに)成立以前から栄えていた 知知夫国(ちちぶのくに)の総鎮守として 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 関東でも屈指の古社に数えられています

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椋神社(むくの かみのやしろ)

・井椋塚(秩父市下吉田)
永禄十二年(1569椋神社の社殿が兵火焼失以前の旧社地

一緒に読む
井椋塚(秩父市下吉田)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉

井椋塚(いくらづか)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉は 永禄十二年(1569)の兵火〈武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ち〉で吉田 椋神社の社殿が消失する迄の旧社地とされます 天正三年(1575)に鉢形城主 北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建したと伝わります

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・吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)

一緒に読む
吉田椋神社奥宮(秩父市下吉田)

吉田椋神社 奥宮(よしだ むくじんじゃ おくみや)は 龍勢を打ち上げる龍勢櫓のある芦田山の中腹に鎮座します 御祭神は本社と同じですが 祭典は御犬様を祀る祭りとされて ゛延喜式内 椋神社 服従神犬 秩父吉田郷五峯山鎮゛と伝わります

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・吉田 椋神社(秩父市下吉田)

一緒に読む
吉田 椋神社(秩父市下吉田)

吉田 椋神社(よしだ むくじんじゃ)は 日本武尊が道に迷われ時 鉾の先から一条の光が走り大きな椋の木の根元近くに猿田彦大神が顕われ導かれた この鉾を神体として大神を祀ったのが創始とされ 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の有力論社とされます

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・上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

一緒に読む
上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

上蒔田 椋神社(かみまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 日本武尊が 当地の椋の大樹の根元に 大己貴命を奉祭し 椋大神と称したと伝わります

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・中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

一緒に読む
中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

中蒔田 椋神社(なかまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 祭神は秩父国造の祖である天下春命を主祭神として大己貴命・猿田彦命を祀ります

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・野巻 椋神社(皆野町野巻)

一緒に読む
野巻 椋神社(皆野町野巻)

野巻 椋神社(のまき むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました「野巻」という地名は「野牧」とも書かれ 昔 当地に牧〈大和朝廷の牧場〉があったとされます

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・皆野 椋神社(皆野町皆野)

一緒に読む
皆野 椋神社(皆野町皆野)

皆野 椋神社(みなのむくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 社記には 景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折 この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命を鎮祭したことを創祀としています

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・井椋神社(深谷市畠山)
〈参考 井椋五所宮 秩父市下吉田にある椋神社の分祀

一緒に読む
井椋神社(深谷市畠山)〈境内社の白旗八幡社は式内社〉

井椋神社(いぐらじんじゃ)は 男衾郡 畠山の地に進出した 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流の畠山氏が 守護神として祀っていた 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社(式内社)〉を 秩父権守 重綱公が 畠山の地に勧請(分祀)したのが始まりと伝えられています 又 境内社「白旗八幡社」は 式内社「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社にもなっています

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兒玉郡(こたまの こおり) 1座(大)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)

・金鑚神社(神川町)

一緒に読む
金鑽神社(神川町二ノ宮)〈武藏國二之宮〉

金鑽神社(かなさなじんじゃ)は 背後の山全体〈禁足地 御室ケ獄〉を御神体として とくに本殿はなく 自然の山を祀る太古の信仰形態を残しています 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とし 延喜式神名帳には武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)と所載の古社です

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・元森神社〈金鑚神社の旧鎮座地〉・八坂神社

一緒に読む
元森神社〈金鑚神社の旧鎮座地〉・八坂神社(神川町二ノ宮)

元森神社(もとのもりじんじゃ)は 本殿をもたず御室山(御室ヶ嶽)を遥拝した上古に於ける信仰形態と伝わる金鑚神社の社殿跡地です 社伝には景行天皇の御代 (西曆100年頃 )日本武尊(やまとたけるのみこと)が火打石・火鑽金を鎮め祀ったことを創始とする 延喜式内社 武蔵國 兒玉郡 金佐奈神社(名神大)(かなさなの かみのやしろ)の旧跡となります

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大里郡(をほさとの こおり) 1座(小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

髙城神社(たかきの かみのやしろ)

・高城神社(熊谷市宮町)

一緒に読む
髙城神社(熊谷市宮町)

高城神社(たかぎじんじゃ)は かつては社地の内 北の方 御蔵屋敷と云処にありました 天正18年(1590)石田三成の軍勢が忍城(現行田市)攻略の際 社殿が焼失 その後 寛文十一年(1671)忍城主 阿部豊後守忠秋公により現在地に遷座再建され 高城大明神と崇敬され現在に至ります 延喜式内社 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)の論社です

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・高城神社(熊谷市高本)

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髙城神社(熊谷市高本)

高城神社(たかぎじんじゃ)は 二つの式内社の論社となっています 一つは 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)とされ 又 別称を御霊の宮(ごれいのみや)と呼ばれ ここから武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされています 昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地〈最初の鎮座地〉に遷座しました

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・高城神社(熊谷市高本)
高城神社(熊谷市高本)の旧鎮座地跡地

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髙城神社 旧鎮座地跡(熊谷市高本)

高城神社 旧鎮座地跡(たかぎじんじゃ きゅうちんざちあと)は 当初 高本村の北方〈現 髙城神社(熊谷市高本)〉の鎮座地から南側に遷座した場所 あるいは 和田吉野川の流れが変わり 社が下流に流されて祀られていた場所とされます その後 昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地〈最初の鎮座地〉に再び遷座しました

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比企郡(ひきの こおり) 1座(小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

伊古乃速御玉比賣神社(いこの はやみたまひめの かみのやしろ)

伊古乃速御玉比売神社 奥宮(滑川町伊古 二ノ宮山上)
・伊古乃速御玉比売神社の旧鎮座地〉

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伊古乃速御玉比売神社 奥宮〈旧鎮座地〉(滑川町伊古)

伊古乃速御玉比売神社 奥宮(いこのはやみたまひめの じんじゃ おくのみや)は 第24代 仁賢天皇(即位488~退位498年)の御代に創祀された 延喜式内社 武蔵國 比企郡 伊古乃速御玉比賣神社(いこのはやみたまひめの かみのやしろ)の当初の鎮座地〈二ノ宮山上〉とされます 文明元年(1469)に現在地に遷座したと伝わります

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・伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)

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伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)

伊古乃速御玉比売神社(いこのはやみたまひめのじんじゃ)は 第24代 仁賢天皇(即位488~退位498年)の御代に創祀と伝わる 延喜式内社 武蔵國 比企郡 伊古乃速御玉比賣神社(いこのはやみたまひめの かみのやしろ)とされます 鎮座当初は 二ノ宮山上にあったが 文明元年(1469)当地に遷座したと伝わります 昔は 阿州大明神とよばれた大社で比企郡の総社でもありました

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那珂郡(なかの こおり) 1座(小)と論社について

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

神社(みかの かみのやしろ)(か)は 菱の右に玉

・瓺(みか)神社(美里町広木)

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瓺か神社〈みか神社〉(美里町広木)

瓺か神社〈みか神社〉(みかじんじゃ)は 創建は不祥ですが 延喜式内社 武蔵国 那珂郡 瓺神社(みかの かみのやしろ)であるとされています 江戸時代の享保八年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ 宝暦八年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とあります 古来 旧那珂郡の総社と称されています 

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東海道に鎮座する 731座『延喜式神名帳』の所載一覧 に戻る

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東海道に鎮座する 731座『延喜式神名帳』の所載一覧

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました
当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています

このページは
「東海道」に鎮座する(731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679)神社の一覧表です

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています